自然に生きよう

ありとあらゆる人工的なものに囲まれて私たちは生きています。スマートフォンやパソコンなどの文明の利器はもちろん、ガス(火)も水道も電気も当たり前のように手に入り、少し暑くなれば冷房を入れて、寒くなれば暖房のスイッチを押します。私たちは人工物と切っては切り離せない関係にあるのです。100年前と比べて、現代人は実に快適で安楽な生活を送れるようになったのは人類の進歩だとたしかに思うのですが、時として私たちは行き過ぎてしまっているのではないかと感じることがあります。人間が本来生まれ持っている自然な感覚が失われつつあるのではないでしょうか。

 

たとえば、夏に冷房を入れるのは良しとしても、寒くしすぎなのです。夏は暑いのが自然なのですが、できるだけそれに沿うようにするのではなく、逆に行きすぎなのです。電車の中は涼しいを通りこして寒さすら感じることがありますし、冷蔵庫のようにキンキンに冷えた商業施設ばかりです。最も暑いと感じる人たちに合わせてしまうからでしょうか。夏なのですから、うっすら汗をかくぐらいで良いと私は思うのですが、なぜか寒いぐらい冷房を入れてしまうのです。ちょうど良いという感覚や自然に沿うという思考が失われて、全てが行き過ぎなのです。そもそも夏になると毎年、鼻から喉の風邪を引く人が増えるのは冷房をつけすぎて身体を冷やしすぎるからです。冬も同じで、すぐに暖房をつけるから空気が乾燥して、粘膜のバリア機能が低下したり、ウイルスが空気中に増殖したりするのです。

 

哲学者の森岡正博氏は「無痛化」という言葉を使って、このことを説明します。私たちはテクノロジーを用いることによって、痛みや苦しみから逃れる続けることができます。先回りして、予防的に痛みや苦しみから逃れることもできるようにもなりました。その結果、私たちは喜びも奪われてしまったのです。痛みや苦しみを体験することで、新しい喜びを発見する、新しい世界に至るという可能性を失ってしまったというのです。森岡氏はそれを自己家畜化ともいいます。家畜工場の中にいる鶏は、人工的に快適な環境にいて、外敵からも守られていますが、果たしてそこに喜びや幸せはあるのでしょうか。つまり、文明の無痛化は、家畜に対して行ってきたことを人間自身に対してもするようになった、ということなのですね。

 

 

無痛化や自己家畜化の流れは誰にも止められません。森岡氏も指摘しているように、私たちは無自覚的に本能的に痛みや苦しみを回避し、快楽や快適を求めているからです。子どもたちは特にそうであり、ゲームとYouTubeとスマホがあれば、快適な自宅から一歩も外に出ることなく楽しく過ごせます。簡単には逃れられないのです。そのような流れの中でも、私たちにできることは、それは本当に必要なのか?と問うことではないでしょうか。もしくは、行き過ぎているのではないかと考え、調整し、バランスを取ることではないでしょうか。ちょっと寒くなってきたからと言ってすぐに暖房をつける必要はありますか?家に帰ってすぐにテレビのリモコンを探していませんか?自分の身体や心と向き合ってみませんか。自分を感じるということです。私たちは自然の中に生きているちっぽけな存在であることを知ることです。その先に本当の喜びや幸せは待っているはずです。