乙武洋匡さんの新刊が出るとつい買ってしまうのは、彼の人となりや考え方が好きということだけではなく、福祉や教育、スポーツといった世界への興味が一致するからなのだと思います。なぜ福祉や教育やスポーツなのか。それらは本当の意味で、私たちの生活や人生の質(QOL)につながってくるからです。この本もタイトルのとおり、子どもたちの未来について、教育や福祉、スポーツといった視点から語られています。
教育に望むことのひとつとして、教師は完璧な存在でなくたっていい、と乙武さんは述べます。ここでいう完璧な存在でないというのは、決してダメな教師ということではなく、教師にもできないことがあって良いという意味です。乙武さん自身は、小学校の先生をしていたとき、体育の授業は実際にお手本を見せてあげることはできなかったし、何よりも悔しかったのは、避難訓練の際、先頭に立って生徒たちを導いてあげることが困難であった、という体験を綴っています。
同じことは生徒たちにも当てはまります。先生も完璧でなくて良いのだとしたら、もちろん生徒たちも完璧でなくたっていい。それぞれにできること、できないことがあって、全く異なる存在であっていいというメッセージにもなると思います。
私が小学生の頃は、同じクラスに障害のある子がいて、それに対して様々な対応や反応をする子どもたちがいましたが、それなりに上手く共生していたと思います。自分には簡単にできることができない人もいる、その逆もまた然り、ということに気づき、お互いに助け合うことを自然に学ぶのです。もちろん、できない子にはそれなりのサポートが必要ですが、何ごとにも同質、均質を求める社会では、誰もが生きづらくなってしまいますね。
福祉については、「福祉ってなんだろう?」という問いかけから始まります。さらに具体的に、「メガネをかけている人と障害者は何が違う?」、「障害=不幸なのか?」、「障害ネタはNGで、デブ・ハゲネタはOK?」と問いかけは進みます。正解を探すのではなく、こうして問いかけ、考えてもらうことで思考や知識が深まることこそが、教育であり教養だと私も思います。
こうした問いに向き合っていると、実は「障害」という概念は、ほとんど私たちの意識がつくり上げているものであることが分かります。たとえば、乙武さんも指摘するように、「障害者」を「障がい者」と書くことで、表面的な配慮をしたようにみえても、実は本当の意味での意識下においては、障害を差別化してしまっているというパラドックスがあります。未来の子どもたちのためにも、障害者を特別視しない社会、障害を笑い飛ばせる社会が理想であると彼は願っているのです。