全生園に行ってきました。

映画「あん」を観て、ハンセン病患者の方々の歴史を知り、東村山市にある全生園というかつての療養所に行ってきました。町田から電車で片道1時間半ほどの新秋津駅から、左右に小さな畑を見ながら15分ほど歩くと、全生園の入り口がありました。塀や壁で厳重に隔てられている先入観を抱いていたので、どこにでもあるような公園の入口に拍子抜けしたというか、半信半疑で入っていきました。すぐ右手には野球場とテニスコートが広がっていますが、人の気配はありません。テニスコートに野球のボールが1個転がっている様子からは、利用する人が久しくいないものと思われます。さらに歩みを進め、いよいよ居住区に入ると、そこで私が感じたのは驚くような静けさでした。


建物には「32寮」のような番号が刻まれていて、一戸一戸には名前が記されています。軒先の小さな庭にはお花が植えられていたり、自転車が置いてあったり、洗濯物が干してあったりもします。入所者がいなくて廃墟のようになっているのではなく、たしかに人の生活している感じはあるのですが、人の気配が全く感じられないのです。人の話声も、テレビの音も、そういった生活音がどこからも聞こえません。まるで無人島に踏み入れてしまった気分で、まさに固唾を飲みながら歩いていると、突然建物の曲がり角から車いすに乗った男性が突然現れました。虚を突かれた私の一瞬の感情を見透かしたように、彼は「こんにちは」と声を掛けてくれました。おかげで私も「こんにちは」と返すことができました。彼はまさしく全生園で生活をしている方でした。


掲げられている全体マップを見てみると、今、歩いてきたところは男性寮になっています。右手に見えていた棟は重傷者のための病院か施設とのこと。さらに先へ進むと、病院の職員らしき白衣を着た女性や男性の姿がちらほら見えました。全生園の中には、すべてがこの中で完結する(まかなえる)ように、郵便局やショッピングセンターなどがあります。私が目にしたのは、そういった施設やお店で働く職員かスタッフばかりで、入所者として会ったのはあとにも先にもさきほどの車いすの彼だけでした。全生園には現在約200名の人々が生活しているにもかかわらず、私が園全体を見渡すように歩いてみても、たった1名しか姿が見えないのです。まるで神隠しにあったような不思議な静けさが漂っているのでした。


居住スペースを抜けると、森が見えてきました。一歩踏み入れると、先ほどまでの蒸し暑さがすっと消えて、この時期にもかかわらずひんやりとした冷気を感じます。この森の木々は、入所者たちが1人一木運動として、「将来、自分たちがいなくなった時も、自分たちを受け入れてくれたこの緑の地を東村山の市民に残そう」という想いで植えたものだそうです。全生園の100年にわたる歴史の中で、ここまで大きな森へと育ったのです。森の中に立つと、ハンセン病を患い、社会から隔絶されてしまった人々の静けさと暗さ、冷やかさに包まれた心境が感じられるようです。それでも遠くにわずかに見える光は希望だったのではないでしょうか。この森を「人権の森」として残そうという構想が始まっています。

納骨堂で手を合わせ、その奥に位置する国立ハンセン病資料館を見学しました。ハンセン病について分かりやすく展示、説明してありました。原爆ドームや資料館のように情緒に訴えるようなものではありませんが、理知的である分、差別や偏見や無知について考えさせられます。全生園の入所者の平均年齢が83歳であること(これが人の気配がしなかった最大の理由かもしれません)、昔は外部への逃走を防ぐために3メートルの高さの木の塀があったこと、雑居部屋といって12畳に8人が押し込められていたこと(定員をオーバーすることもあったそう)、入所者は子どもをつくることが禁止され中絶や断種をされていたこと、などなど。


わずか60年ほど前のことにもかかわらず、なぜそのようなことが公然と行われていたのか理解に苦しみますが、もしかしたら私たちの今の社会も、未来から見ると考えられないような差別や偏見に満ちているのかもしれません。誰も知らない、気づいても知らないふりをせずにはいられない、正しいと思っても行動に移せないではなく、過去を知り、今をよく考えることで、私たちは同じ過ちを繰り返してはならないと肝に銘じるべきです。そのためには、全生園はこの地に残し、ダークツーリズムや社会科見学として、福祉を学ぶ私たちだけではなく、これからの日本を担う子どもたちにも知ってもらうべきです。