「もうろうを生きる」

光と音のない世界を生きている盲ろうの人たち。盲ろうとは、目が見えなくて、耳も聞こえないことを言います。この映画には、8名の盲ろうの人たちが登場し、それぞれにとっての障害や生き辛さ、もちろんそれだけではなく楽しさや喜びもあることを示し、自らの人生や世界を精一杯に生きていることを表現してくれます。手話や指で触れあう指点字等により、周りの人たちとの間に生まれている濃密なコミュニケーションを見て、私たちまでもがもっとお互いに分かり合いたいと思ってしまうような、コミュニケーションの素晴らしさが伝わってくる映画でした。私たちの世界は、言葉があるからこそ存在するのです。

 

最も印象に残ったのは、弱視で先天ろうの川口智子さんが「本音を言うと、聞こえる人に生まれたかった」と言ったのを受け、通訳者の梶さん(健常者)が涙で言葉を詰まらせてしまったシーンです。ろうの人たちは、私たちはろう者として生まれてきて良かったと言うことが多いにもかかわらず、川口さんは生まれ変わったら聞こえる人になりたいとはっきりと口にしたのを聞いて、梶さんは衝撃を受けたのでした。

 

おそらく梶さんは、ろうの人たちと深く関わる中で、人々の暖かさやその世界の優しさに包まれながらも、心の奥深いどこかでそれでも彼ら彼女らには言葉に尽くせない苦しみや辛さがあるはずと感じていたはずです。これは健常な人たちにとっても同じですが、私たちは世間に対しての強がりもあって、殻をかぶって本音を隠して生きています。その世界で生きていく上では、自分たちの人生や生き方を全肯定しなければならない(1ミリでも否定してしまうと崩れてしまう)という息の詰まるような感覚の中で川口さんの本音を聞いて、梶さんはある意味、開放されたというか、一筋の光が見えたのではないでしょうか。

 

パンフレットに福島智さんが書いているレビューを読むと、映画の理解がさらに深まりました。その中で私たち人間にとっての、いかにコミュニケーションが大切か、実に明快に語られています。

 

たとえば空気中の酸素の勝ちを感じるのは、海に潜ったときとかです。そのときに初めて酸素のありがたさを感じるわけですけれども、普通は感じていない。食べ物については、食べ物がなくなったときに、死ぬほど腹が減ったときに、初めて分かる。それと同じで、コミュニケーションがなくなったとき、きわめて取りにくくなったとき、いかにコミュニケーションが大事かと分かったんです。

(中略)

単に光がなくなる音がなくなることが本質ではないんです。光や音がなくてもコミュニケーションがあればどんな人間でも生きられる。だけどおそらく光や音があっても、コミュニケーションが断絶されていたら非常に生きるのが苦しいですよ。

 

 

実は私は、同行援護研修の参考にしたいと思って観に行ったのですが、それ以上のことをこの映画を通して学びました。盲ろう者または視覚に障害のある方は、私たちがこれまで介護職員初任者研修や実務者研修、全身性障害者ガイドヘルパー養成研修で対象としていた利用者さんとは大きく違ったケアが求められているということです。最も大切なことは、コミュニケーションを取る技術や方法を学ぶことであり、まずはお互いの世界や文化のことを知ろうとすることなのではないでしょうか。

 

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