「どんぐりの家」

「家に眠っていたので持ってきました」と卒業生さんから手渡されたマンガです。表紙は見事に焼けており、いつ発行されたものだろうと裏を見てみると、今から21年前でした。半信半疑で読んでみると、これが四半世紀近く昔に書かれたとは思えない、知的障害のある子どもとその家族や社会を見事に描いた、素晴らしい作品でした。当時、障害という重いテーマを扱い、ここまで描き切ったマンガは少なかったはず。というのも、今よりも障害者に対する差別や偏見は大きく、しかも娯楽であるマンガにおいて障害について触れることはタブーでもあったはずだからです。そういった背景を想像するだけで、この作品に賭ける著者の想いがひしひしと伝わってきます。

 

主人公の圭子は生まれつき耳が聞こえず、知的障害があります。そのことに両親が気づくまでには、2年と3ヶ月の時間が必要でした。奇声を上げる、障子を破く、裸のまま隣家に上がり込む、モノを倒し、投げ、母親の髪の毛を引っ張る。タンスに自分の頭をぶつける、ティッシュペーパーをまき散らす。母親は圭子に昼夜問わず付きっきりになり、心身共に疲労困憊してしまいます。父親は仕事ばかりで圭子を避けるようになり、夫婦の間の会話もなくなってゆく。

 

 

なぜ私にだけこんな子が生まれたんだろう、できることならこの子の母親であることから逃げたいと圭子の母は思うようになっていました。そんなとき、圭子は発作を起こして高熱を出し、生死の境をさまよいます。それでも生きようとする圭子の姿を見て、両親ははじめて、生きてほしい、この子と一緒に生きたいと願ったのでした。

4歳になった圭子はろう学校に通うようになりました。そこで出会った清くんは、自閉傾向が強く、体調が悪いと、自分の髪の毛を抜く自傷行為をします。石ころを壁の上に並べる姿は周りの人たちには奇妙に映ります。そのような周りの目に清くんの家族は疲れ果て、「清くんを放さないで。遠くへやらないで!」という圭子の母の想いも届くことなく、清くんを施設に入れることを決意します。

 

 

帰り道、夕焼けの中、歩道橋の手すりの上にまたしても石ころを並べる清くんに、一緒に死のうかと語りかけようとしたそのとき、清くんは夕陽があまりにも美しいので、道端の石ころにもそれを見せようとしていたことを母親は理解するのでした。実は清くんは言葉には出せなくても、母親にも石にも、風にも、木にも、空にも話しかけていたのでした。

一つひとつのシーンが美しく、心を打つのは、障害者とその家族が主人公だからではありません。困難を乗り越えて少しずつ成長していく子どもたち、その子どもたちの成長を願いつつ、彼ら彼女らを映し鏡にして自らも成長を遂げる母や父、偏見を乗り越えて、障害を理解しながらも見守り続ける周りの人々。そのような人生の縮図が、圭子を通して描かれているのです。著者の山本おさむ氏は、あとがきにこう綴りました。

 

私には障害者の問題を世に訴えるという意識はない。逆にマンガを読んでいる間は、圭子ちゃんが障害を持っているということを忘れて欲しいと思っている。「オギャア」と、この世に生まれてきたひとりの人間としての圭子ちゃんを基本に置きたい。このことを前提にしないと、障害者問題も空回りしてしまうような気がする。

 

 

私たち健常者は、たまたまそうでなかっただけで、誰しもが障害を持って生まれたかもしれず、これから先の人生で障害を持つかもしれません。障害や病気の問題は、いつも他人ごとではなく自分ごとなのです。もし障害があっても自分らしく生きていける、つまり障害を持っていることを忘れることのできる社会であってほしいと願います。