「このあとどうしちゃおう」

先日、妻の母が長年の闘病生活の末に亡くなりました。看取りに入り、実際に終末期を迎えてみると、身内の中でも最後の医療的処置(ex.点滴を続けるかどうか、呼吸器を付けるかどうか等)に対する意見は分かれ、そこに施設のスタッフや担当医らの気持ちも加わり、竹を割ったようにスパッと判断することは難しいものです。たとえ本人は尊厳死を望んでいたとしても、かなり細かく状況を設定してその意思を残しておかないと、最後の最後まで家族は思い悩むことになります。私たちは何らかの形で介護に携わり、妻の姉もお寺に嫁いでいるように、死は決して他人事ではありませんでしたが、やはり自分たちのことを決めるときには悩みに悩むものですね。

 

延命処置を望むかどうか、自然死を希望するかどうか、自分が死んだあとにどうしてほしいか、財産はどうするかなど、残された家族のことを考えて、具体的な希望を残しておくエンディングノートのようなものが、ここ十年間で高齢者を中心に広まってきました。前述したように、エンディングノートが具体的であればあるほど、家族は思い煩わされることなく救われます。これから先、多死の時代を迎えるにあたって、エンディングノートを記したり、死んだ後のことについて家族と話しておくことは、さらに重要になってくると思います。

 

 

しかし、それだけでは十分ではない気が最近してきました。エンディングノートなどを用いて、自分が死んだあとに家族に迷惑をかけない取り組みは進んできましたが、逆に死生観のようなものは語られることが少なくなっている気がします。今は死後の世界を想像することすらバカらしいと考えている人も多いのではないでしょうか。人間は死んだらただの物体になる、遺体を焼けば灰になって何も残らないという科学的な正しさばかりに捉われてしまいがちです。死んでも人の心の中で生き続けることができると信じている私でさえ、死後の世界について想像することはほとんどなくなってしまいました。

ヨシタケシンスケさんの絵本「このあとどうしちゃおう」は、亡くなったおじいちゃんが残したノートに記されていた死後の世界を、孫の男の子が読んで想像するという内容です。「このあとのよてい」では、しんだらまずゆうれいセンターに行き、きがすんだらてんごくへ、てんごくにあきたら、うまれかわりセンターに行き、またべつのものにうまれかわってこのようにもどってくると書かれています。さらに、「てんごくにいくときのかっこう」、「こんなかみさまにいてほしい」、「てんごくってこういうところ」、「こんなおはかをつくってほしい」、「みんなをみまもっていくほうほう」など、じぶんがしんだらどうなりたいか、どうしてほしいかが書きためてあるのです。

ときとして、私たちは死後の世界についてもっと考えて良いのではないかと思います。誰もサンタクロースなど信じなくなった世の中ですが、せめて来世のことぐらいは想像して、勝手に信じてみても良いのではないでしょうか。そのことが現世を生きる救いになる人もいるかもしれませんし、介護者として持っておくべき死生観にもなるでしょうし、またこの絵本の主人公のように、今生きているうちにやりたいことにつながっていくかもしれませんね。