今見えているのは真実ではない

先日の実務者研修の導入部分にて、望月先生が新卒で入った施設の話をしてくれました。当時はまだ措置の時代で、高齢者や障害者に対して、お世話をしてあげていると考えるのが普通の介護観でした。介護の学校でもそのように習いますし、先輩方もそのように教えてくれて、そのように現場も回っていました。しかし、施設長は少し変わった人だったそうです。

 

(当時はボケとか痴呆と呼ばれていた)認知症の利用者さんが施設の外に出ようとするので、新人の望月先生が施設のあらゆる扉に鍵をかけて回っていたところ、「何しているの?」とその施設長に聞かれたので、「外に出てしまうと危ないので鍵を掛けています」と答えたところ、「もしあなたが何らかの理由で家から外に出るなと言われて、鍵をかけられたらどう思う?何としてでも出たいと思うだろうし、鍵をかける人たちに対して不信感を抱くよね」と言われたそうです。

 

 

「でも、外に出たら車にはねられたり、何が起こるか分からないので…。私たちは利用者さんたちの安全を守らなければいけませんよね」と望月先生も返すと、「じゃあもう一度聞くけど、…」と先ほどと同じやり取りに。最終的には、「やってみなよ」ということで、他の業務を改善したりして、徘徊する利用者について行く職員をつけ、外に出たい人は出て行ってもらい、しばらく歩いて、話したりしてから施設にまた戻っていただくということになりました。今となっては普通に考えれば分かる当たり前のことですが、その当時は誰も賛成しない、むしろあり得ないと思われていた介護観に、キャリアの最初から触れることができてラッキーだったと望月先生は言います。

 

これは決して大げさな話ではなく、実はさらにその20年前ぐらいまでは、認知症は未知の病気であり、認知症の方は何も分からなくなった廃人として部屋に鍵をかけられたり、座敷牢のような場所に閉じ込められたり、また精神病者として精神病院に強制入院させられた時代があります。手足を縛られ、拘束衣を着させられたり、強い薬を飲まされたりして身動きが取れないようにされました。おかしいなと思いながらケアをしていた人もいたかもしれませんが、当時はそれが当たり前とされていたのです。今思えばおかしいと分かるけれど、当時は分からなかった、分かろうとすらしていなかったことなど、特に病気に関してのそういった歴史は(何ひとつ反省されることなく)繰り返されてきたのです。

私は仕事の関係で、広島に2年間、住んでいたことがあります。とても住みやすい街でした。自宅から会社まで、原爆ドームを横目に見ながら自転車で通っていました。いつの間にか日常の風景になってしまうものですが、最初の頃は、あの原爆ドームを間近にして畏怖の念を覚えていたものです。というのも小学生の私は、「はだしのゲン」という漫画を図書館で借りてきて、読みふけっていた時期があったからです。想像力豊かな子どもにとっては衝撃的な内容で、原爆の恐ろしさや戦争によってあぶりだされた人間の心の闇の深さを、子ども心に切実に感じていた時期があったのです。今でも鮮明に覚えているシーンがあります。

この兵隊さんは死んでしまうのですが、無事に助かったと思えた人たちでさえも、このような症状を呈してバタバタと亡くなっていきました。短期間で亡くなる方もいれば、しばらくして死亡する方もいたり、長期間にわたる後遺症に悩まされたりする方もいたそうです。人間の身体を外部からも内部からも破壊する原子爆弾とは、何と恐ろしい兵器なのだろう。それが小学生の私の素直な感想でした。8月6日の原爆の日になると、毎年、「はだしのゲン」の数々の名シーンや登場人物が私の中に蘇ってきて、心の中でそっと手を合わせます。

 

今年もそうこうしていると、たまたま詩人であり絵本作家であるアーサー・ビナードさんの講演会の動画をふと見る機会がありました。彼はアメリカ人なのですが、原爆を落とされた広島に移り住み、被爆者から直接話を聞いて、それを本や物語にしてきました。彼ら彼女らから話を聞く中で、上の漫画で紹介したような症状についても知らされたそうです。当時は、赤痢という感染症だと思われていて、症状の出ている人は隔離されました。原爆投下直後ですから、隔離はされてもそこで適切な診療や治療など施されるべくもなく、ほとんどの患者さんたちは隔離されたまま亡くなって行きました。

 

なぜ赤痢だと考えられたかというと、下痢や嘔吐などの症状が似ていたからです。次から次へとこうした症状が出る人が現れるため、医療の現場はパニックになり、当時の医師も看護師も感染症だと思い込んでしまったのです。赤痢としては考えられない症状を呈する人も中にはいたのですが、これは原爆の中に仕込まれた新型の赤痢だとされたのです。

 

アーサーさんが話を聞いたひとりの女性は、赤痢だと診断されて隔離された病院から脱走し、実家に逃げ帰りました。このまま隔離されていたら死んでしまうと考えたからです。実家の親や親せきは、彼女の症状を見て、「毒吸うたね」と言い、解毒を促すどくだみ茶などを飲ませたりして、看病をしてくれたことで一命をとどめたそうです。

 

これは後から分かったことですが、原爆によるあの症状は赤痢ではありませんでした。たくさんの人々が次々に罹(かか)っていたので、あたかも人から人へ感染しているように見えたのですが、実は放射線による内部被ばくでした。爆心地から近いところにいた人から早く症状が現れ、離れて行くほど順番に遅く症状が出たのです。これによって広島の人たち(特に市街地で被爆した人たち)は酷い差別を受けました。「ピカが染(うつ)る」と言われて家に入れてもらえなかったり、県外の実家に帰ろうものなら、広島県人というだけで白い目で見られ、その家族も一緒に迫害されたのです。

 

この病気が内部被ばくによるもので、赤痢菌による感染症ではないことが分かったのは、6年ほど後になってからでした。もちろんそれで全てが終わったわけではなく、それ以降も間違った認識ゆえの差別や偏見によって、被爆者の人たちは数十年にわたって二次的な被害を受け続けたのでした。

 

 

なぜこのような過ちが起こってしまったかというと、最初の段階での専門家の見立てが間違っていたからです。当時の広島通信病院の院長であった蜂谷道彦氏が赤痢だと決め、その権威の元、医療関係者は感染症対策を進め、そして恐ろしい感染症である新型赤痢だと行政が民衆に広めたのです。被爆者たちが声を上げたり、その後の症状の経過から、人には感染しない単なる内部被ばくであると気づいたときには、もう差別と偏見は広がってしまい、手遅れになってしまっていました。かといって、今だに真実はほとんど公(おおやけ)にされておらず、専門家や行政からは被爆者に対しての謝罪もなく、全てはあやふやなままです。

56分あたりからご覧ください。日本語めちゃくちゃ上手ですよ!

この話を聞いたとき、ハンセン病のことが思い浮かびました。「あん」という素晴らしい映画を観て、東村山市にある全生園という施設に足を運んでみたことがあります。ハンセン病は太古の昔から存在する感染症(とされている)ですが、日本では1931年以降、らい予防法によって患者を療養所に強制入院させました。入院といっても、いつか退院できるわけではなく、死ぬまで隔離されるということです。当時らい病と呼ばれていたハンセン病は、国にとっては撲滅すべき病気であり、スペイン風邪やペストと同様に恐ろしい病気であると広く民衆に知らされました。ハンセン病であることが分かると、自宅に防護服を着た職員がやって来て、家中を真っ白になるまで消毒し、その後、患者を療養所まで連れていきます。わざと民衆の前を歩かせて衆知にさらし、患者が歩いた後ろの土を消毒したというから残酷です。患者本人は一生涯にわたって、社会とは隔絶した人生を送ることになり、またその家族も遺伝的な病気であると疑われて村八分にされたり、兄弟は結婚できなかったりなど、言葉では表せないほどのすさまじい差別と偏見にさらされたのです。

1947年に治療薬が開発され、ハンセン病は治る病気になりました。それでもなお1996年のらい予防法の廃止に至るまで隔離は続きました。介護福祉士の国家試験にもハンセン病の問題は出ましたよね。実は、ふたを開けてみると、ハンセン病は極めて感染力の低い感染症でした。現在では、人から人へ感染する可能性はほぼないと言われています。感染する可能性は極めて低いことが分かっても、一度振り上げた拳は簡単には降ろせないというか、あれだけの差別や偏見を助長しておいて、今さら感染力はほとんどありませんとは言えなかったのでしょう。また、当時の医師たちはゼロリスクを求めたのか、ウイルスを撲滅しようと使命感にかられた面もあったのかもしれません。そのことで多くの患者さんたちの人権が踏みにじられ、人生が犠牲になってしまいました。

 

 

私たちはたまたま今の時代に生まれ、今の自分を生きていますが、もしかすると70年前であればハンセン病になって隔離されたかもしれないのです。ハンセン病患者の方々の人生を想うと、感染力を見誤ってしまい、それを広く知らしめてしまいましたでは済まないのです。恐怖に駆られたり、パニックになると、判断を誤ってしまうこともあると思いますし、その時には真実が分からなかったかもしれませんが、もし間違っていたとしたらすぐに正せばよいのです。いや、正さなければならないのです。

そのためには、今起こっていることや考えていることを常に疑ってみることが必要です。特に専門家と呼ばれている人であればあるほど、知識がある分、思い込みも激しくなってしまいます。違った面から物ごとを見ることができないのです。そして、世の中の皆が同じ方向に考えているときほど危険です。自分たちは間違っているかもしれないと考えてみることで、真実は見えてくることがあるのです。それは数々の歴史が教えてくれています。アーサーさんは講演会の締めの部分で、「今皆さんに見えているのが真実だと思ったら大間違い」と語りました。

 

感染症ではないものを感染症として、差別や偏見を助長してしまったり、感染力の極めて低い、人から人へと感染する可能性などゼロに近い感染症を、稀に見る恐ろしい感染症だとして90年近くにわたって患者を隔離してしまったのです。また脳に器質的な障害が生じた人を精神病者として閉じ込め、拘束し、自由を奪ったのです。そのことで生じた、星の数ほどの偏見や差別、失われた人々や家族のきずな、台無しにされた人生はどうなるのでしょうか。歴史(といってもそれほど昔ではありません)を振り返ってみれば、私たちは同じような過ちを何度も繰り返し犯してきたのです。

 

 

もし私たちがタイムマシーンを使って、原爆が投下された1945年やハンセン病が流行した1930年代に戻っても、同じように騙されてしまうと思います。その当時は、一般市民が情報を得る手段はほとんどなかったのですから、間違って当然です。しかし、今はどうでしょうか。テレビや新聞、ヤフーニュースに代表されるネットニュースのようなマスメディアからの偏った情報をうのみにするのではなく、自ら検索したり、ソーシャルネットワーキングサービスなどを使えば、多面的な情報や事実をある程度は手に入れることが可能です。知らなかったでは済まされない時代に生きている私たちは、二度と同じ過ちを繰り返してはならないのです。