安心と信頼の関係

「(コロナ禍の中でも)普通な感じで受講できて良かったです」、「ツイッター見ています。私も今の社会はおかしいと思っているので共感します」という嬉しい声を掛けてもらうこともあれば、「もう少し感染症対策をしてほしかった」、「一人ひとり検温をするべきだ」というご意見をいただくこともあります。

 

これ以上、何をどう対策するの?机の横にアクリル板を置く?全員にフェイスシールドを着けさせる?非接触の検温なんて不正確だし、人の体温を半強制的に測ること自体が本来は人権やプライバシーの問題になりませんか、などと心の中では思いつつも、目に見えないウイルスが相手だからこそ、それぞれにいろいろな感じ方があるのだと強く実感します。

 

 

あくまでもその人がどう感じるかである以上、科学的な議論は意味がありませんし、何が正しくて何がそうではないという話でもなさそうです。そう考えたとき、これは安心と信頼の問題なのではないかと気づいたのです。

安心と信頼の問題は、「目の見えない人は世界をどう見ているのか」の著者・伊藤亜紗さんが「ポストコロナの生命哲学」の中で語っていたことでもあります。伊藤亜紗さんは、ケアカレナイトにもお呼びしようとして、アメリカに研究に旅立つという理由で実現しなかった方なのですが、障害のある人たちから多くの学びを得ている素晴らしい美学者です。

 

「信頼」と似ていると思われている言葉に「安心」があります。けれども、実は「信頼」と「安心」の意味するところは逆だと言われています。「安心」が、相手がどういう行動を取るか分からないので、その不確定要素を限りなく減らしていくものだとすると、相手がどういう行動を取るか分からないけれど大丈夫だろうという方に賭けるのが「信頼」です。

 

伊藤亜紗さんは大学の先生をしていますので、学生さんとも接する機会があり、ある女子学生さんのスマートフォンに、今いる場所を把握できるようなGPS機能が付けられていることを例に挙げます。親からしてみれば、自分の子どもがどこにいるのか常に把握できるのだから「安心」ですが、それは相手をコントロールすることにつながり、その結果として「信頼」は失われていくということです。「信頼」と引き換えに「安心」を得ることは、子どものスマホだけではなく、今の社会のあらゆるところに見られる現象ですし、「安心」を求めれば求めるほど「信頼」のない社会になっていくという悪循環です。

 

昔は良かったなんて言うつもりはありませんが、僕が学生で配達のアルバイトをしていた頃、Aさんが不在の際はAさん宛ての荷物を両隣の家または部屋のBさんかCさんに預けていました。不在のときはお互いさまでしたし、不在票を片手に再配達をお願いすることもなく、隣のピンポンを鳴らせばよいだけでした。隣近所とは多少の付き合いがあったり、荷物のやり取りの中で互いの存在を知っていた側面もあると思います。それがこの20年ぐらいの間に、いつの間にか、隣の人に荷物を預けるなんてとんでもないという社会になりました。人付き合いの面倒くささはなくなったかもしれませんが、単純にとても不便ですし、何よりも大切な他者への「信頼」を失ってしまったのです。

 

他者を信頼しないことは、すなわち他者からも信頼されないことにつながります。たとえば、相手への思いやりと言いつつ、マスクやソーシャルディスタンスなどによって他者を感染源と見なすことは、他者から見ると自分も感染の脅威と見なされていることと同じです。そのようにして、他者への不信は連鎖していくのです。私たちはまだしも、今の状況で生まれ育った子どもたちが、本当の意味での他者への信頼を築くことができるのか心配です。

 

「安心」を極限まで求めることの行き着く先は、相互監視と同町圧力に支配された息苦しい社会です。今回のコロナ騒動で、「安心」だけを求めて、「信頼」を失ってしまった私たちは、お互いに首を絞め合っているようにも映ります。介護の現場でも「安心」と「信頼」の関係は同じですね。「安心」を追い求めることはオムツの着用や身体拘束につながり、自由や人権をいとも簡単に奪っていきます。今は相手をコントロールして奪っている側かもしれませんが、いつか自分が支配されて奪われる側になることに私たちは気付くべきです。

 

伊藤亜紗さんは、他者を信頼することの喜びについても語っています。パラリンピックで視覚障害者のマラソンや陸上競技を見た方はイメージできると思いますが、視覚障害者の横には伴走者がつきます。伊藤亜紗さんはアイマスクをして、伴走者と初めて共に走った体験をこう表現しています。

 

アイマスクをつけたとき、最初は見えないということが怖くて足がすくみ、実際にはない段差や障害物の幻覚が見えたりするほどでした。けれども、「視覚障害者の方はこの方法で長い距離を走っているのだから、自分も伴走者を信頼してやってみよう」と、自分の中の恐怖を吹っ切ったところ、経験したことのない快感を味わいました。それは、ひと言でいえば、人を信頼することから生まれた快感なのだと思います。私は、今まで家族や同僚を信頼していたつもりでしたが、実は、信頼にはもっとすごい深みがあったのです。そこに行くことができたという感覚は本当に新鮮で、素晴らしいものでした。

 

他者に身を任せて信頼することから、今までに経験したことのない快感が生まれたという考察は、私にとっても実に新鮮です。仕事をする上においても、日常生活を営む中でも、誰かを100%信頼することはとても難しいからこそ、それができた先には心地よい感情が待っているということなのですね。そして、さらにその信頼の輪を広げるためには、身内だけではなく、(完全なる)他者を信頼することが大切だと思います。身内はある程度信頼しているけれど、それ以外の他者に線を引いているようでは、本当の意味での信頼の輪は社会に広まっていかないからです。

 

 

本当のことを言うと、「安心」と「信頼」の線引きをするためには、科学的な知識や実践を踏まえた上での常識的な判断が必要なのですが、それは別の機会に書きます。安心だけを追い求めて、お互いに信頼を失ってしまった社会は生き地獄です。不信ではなく、信頼の輪が広がっていく社会を望みます。社会の中で生きている以上、他者を信頼したことで自分が脅かされることになっても仕方ないと私は思います。割り切るしかないというか、あきらめるしかありません。それが生きるということなのではないでしょうか。