「こんな夜更けにバナナかよ」

今から10年ほど前の発売当時に読み、そして昨年文庫化されたということで、改めて読んでみました。これだけの長い年月を経ても内容が色あせていないのは、この本自体が大きな問題提起になっているからだと思います。筋ジストロフィーという難病を抱えた鹿野氏とボランティアたちとの交流ややり取りを通じて、決して何らかの結論を提示するではなく、障害とは?介助するとは?そして生きるとは?といったことについて考えさせられます。いや考えざるを得ないほど、鹿野氏や介助に携わる人々の生活や心情が克明に描かれているのです。

 

ある日の深夜、病室の簡易ベッドで眠っていた国吉は、鹿野の振る鈴の音で起こされた。

「なに?」と聞くと、「腹が減ったからバナナ食う」と鹿野がいう。

「こんな真夜中にバナナかよ」と国吉は内心ひどく腹を立てた。しかし、口には出さない。バナナの皮をむき、無言で鹿野の口に押し込んだ。2人の間には、言いしれぬ緊張感が漂っていた。もういいだろう。寝かせてくれ。そんな態度をみなぎらせてベッドにもぐり込もうとする国吉に向かって、鹿野が言った。

「国ちゃん、もう1本」

なにィー!という驚きとともに、そこで鹿野に対する怒りは急速に冷えていったという。


 

本のタイトルにもなったこのエピソードが、すべてを物語っているのではないでしょうか。「申し訳ないんだけど…」とか「お願いします」とか、そういった次元を飛び越えた、鹿野氏の生きるためのむき出しの感情や言動にさらされて、たじろいでしまうボランティア。怒りにも似た心情の葛藤。しかし、ある瞬間を超えたとき、鹿野氏の生きるという魂の発現に共鳴し、自分の中にも眠っている生命力に火がつき、その熱さと反比例するように、鹿野氏の行動に対する怒りや無理解は収まっていきます。生きる、生きたい、生きていくとは、つまりこういうことなのだと。

 

なぜ24時間体制で介護が必要な鹿野氏の周りに、それだけのボランティアスタッフが集まるのか(最低でも1日3~4名)というと、そうした生のやり取りに、たとえそれぞれが違った形であれ、感化された人たちが多いということです。いかに人の手を借りず、人様に迷惑をかけることなく生きることが美徳とされている私たちは、本当に生きるとはどういうことなのかを突き付けられる。そこには人間の尊厳という概念を超えた、生きる力がみなぎっていて、その力に触れた私たちも再び生きることができるのです。

 

2002年8月、この本が完成して発売される前に、鹿野氏は息を引き取りました。著者もそのような幕引きは考えていなかったでしょう。まさにこの本自体が鹿野氏の自伝になってしまったのです。決して素晴らしいことばかりではなかったでしょうし、どちらかというと大変なことの方が多かったはずですが、彼と関わった人々の心にはしっかりと足跡が残ったはずです。それが他者と関わりながら共に生きること、介助すること、という鹿野氏からのメッセージなのかもしれません。