「ご飯が食べられなくなったらどうしますか?」

「ご飯が食べられなくなったらどうしますか?」という問いかけから本書は始まります。それに対する答えはひとつしかなく、最期までいつもと同じように、自分らしく死を迎えたいと私たちの誰もが思うはずです。にもかかわらず、そのことを口に出せなかったり、またそうしたくてもできない社会の仕組みがあったりと、最後までその人らしく生きることは、実際には簡単なことではありません。滋賀県と三重県の県境に位置する山間農村地域にある診療所の医師であり、著者でもある花戸貴司さんはそのことをよく分かっていて、だからこそ、永源寺で今行われている地域まるごとケアの中に大きなヒントがあると説くのです。


この本を通じて、著者の考え方に共感するところは多く、その中でも特に、高齢者が最期まで家族とともに過ごすことの意味については、まさにその通りだと思います。現代に生きる私たちは、老いや死を日常生活から遠ざけ、まるでないものかのように扱います。核家族化が進み、おじいちゃんやおばあちゃんと一緒に暮すことも少なくなり、子どもを連れて実家に帰ることも少ないという家族も増えてきました。子どもたちと老いを迎えた人たちのつながりが失われ、老いや死がない代わりに生の輝きもない、コントラストのない社会になってしまっているということです。


たとえば、おじいちゃんがご飯を食べられなくなると、家を離れて入院し、退院した後は施設に入る。寿命が訪れて息をひきとられた後は葬儀場へ直行…なんてことはごく普通にある光景だ。しかし、このように老いて息をひきとることが、日常生活から離れたところで行われる場合、残された人、とくに幼い子どもたちは、おじいちゃんやおばあちゃんが生きていた頃の思い出を心の中に刻むことができるだろうか。なにより、それは本人が望んだ人生の最期だったと言えるだろうか。


(中略)

 

在宅医療というのは、「老い」や「死」に対して目を背けることができない場面が多々ある。しかし、それは決して辛いこと、悲しいことばかりではない。裏を返せば高齢者が「生きる」ということを若い世代に伝えていく機会でもあると私は思っている。高齢者が家族とともに過ごした思い出だけではなく、命の大切さや親子の思いやりを伝える場となり、それが次の世代への教育となっていくと信じている。



高齢者が最期まで家族とともに過ごすためには、どうしても地域まるごとケアが必要です。それは地域包括ケアといった堅苦しさではなく、職種の垣根を超えた周りの人々のつながりによるケアということ。花戸貴司さんは医者にできることはほとんどないと悟り、白衣を脱ぎ捨て、ヘルパーやケアマネージャー、看護師や薬剤師たちと力を合わせて、その人が最期までいつもと同じように、自分らしく死を迎えることをサポートすることに徹します。


その真摯な姿と地域の人々の笑顔が写真として切り取られているのも本書の素晴らしいところ。写真が文章のイメージを見事に再現し、文章が写真に深みをもたらしています。文章と写真が一体となって語りかけてくるような1冊です。私はこの本を読んだとき、なぜか「風に立つライオン」という、さだまさしさんの歌を思い出してしまいました。