新・幸せの木

新しい幸せの木が教室にやってきました。湘南ケアカレッジの開校祝いとして贈ってもらった幸せの木が、(私の管理不足もあって)やや枯れ気味であることを母親に話したところ、あっと言う間に父親にも伝わり、3本目の幸せの木が届いたのです。さすがに葉と茎に光沢とみずみずしさがあって、開校時の初心を私に思い出させてくれるようです。


教室に3本もあっても仕方がないので、1本は事務所に持ち帰り、手元に置いて回復させたいと思います。そして、遠く離れても、こうして気遣い、支えてくれている父と母の存在に感謝です。


こんなことを書くと、まだまだ子どもだなあと思われるかもしれませんが、たしかにそうなのかもしれません。もういい歳をした大人なんだけど子ども。それは私だけではなく、全ての人に当てはまることではないでしょうか。誰もが誰かの子どもであり、たとえ親が生きていようといまいと、親という大きな存在に支えられて生きている。私は自分ひとりで生きていると自負する方もいるかもしれませんが、そういう自立の仕方はやや弱い気がします。私の知る限り、力強く立派に生きている方々は、皆、見えない力に支えられているからです。その最たる力は親からのそれだと思うのです。誤解を恐れずに言うと、親に支えられていない人はどこか弱いということです。

 

支えられるといっても、そこにはたくさんの意味があります。心理的に支えられることもあれば、経済的に支えられることもある。社会的に支えられることや、人間的に支えられることも。人間が赤ん坊として生まれてきたとき、私たちは身の周りの全てのことを支えてもらえなければ生きていけませんが、次第に支えられ方が変わってきます。そうやって時間をかけて親離れが進んでいきながら大人になるのですが、かといって全く親からの支えがなくなるわけではありません。最後に残るのは、人間的な支えであったり、精神的な支えであったりするかもしれません。私たちは死ぬまで、親が生きていようがいまいが、心の中で親に支えられて生きていくのです。

 

だからこそ、私たちは人を見るとき、その背景にある親の存在を意識することが大切です。かつて学習塾で働いていたとき、その子どもの親を知ることはとても重要でした。具体的に書くのは難しいのですが、親を知ることで、その子どもが立体的に見えてくるのです。それは子どもだけに限ったことではなく、私たちよりもだいぶ年が離れた高齢者でも同じ。その方の親を知ることで、もしくは知り得なかったとしても想像し、意識することで、その方が立体的に見えてくるのではないでしょうか。私たちは誰かの子どもであり、その絶対的な存在の大きさこそが、私たちの人生の幸せを支えているのです。