「わたしを離さないで」

テレビドラマがきっかけでと書くとミーハーだと思われるのがしゃくですが、本当のことをいうと、カズオ・イシグロの書いた本も映画化された映画の存在も知っていて、レンタルビデオ店で手に取るところまではいったのですが観ずにいたところ、テレビドラマが始まり、映画の方を観てみたいと思って借りたのですから、結局のところはテレビドラマがきっかけですね(笑)。臓器提供者を育てるための学校という物語の設定自体は、ありえそうでありえない、ありえなさそうでありえるもので、私は何の違和感もなく没頭してしまいました。私たちの命の意味は?私たちはそれでも生きるに値するのか?を痛切に問うてくる、心に突き刺さる映画です。

 

「私の名前はキャッシ―H、28歳、介護人になって9年。よい介護人だ」というセリフで始まる冒頭から引き込まれてしまいます。ここでいう介護人とは、私たちの思う介護職員という意味ではなく、もっと恐ろしい臓器提供者が「終了」するまでの生活を介護する人ということです。志願すればなることができますが、介護人もいつかは自分が臓器提供者とならなければなりません。とても残酷なようですが、それは彼ら彼女らにとって定められた運命なのです。冒頭のセリフはこう続きます。

 

「自慢ではないが、私はこの仕事に誇りを持っている。介護人と提供者の功績は大きい。だが私たちは機械ではない。ひずみはたまっていく。だから最近の私は、先を見るよりも、過去を見るようにしている」

 

物語のラストで、キャッシーと幼さな馴染みのトミーは長い年月を経て再会します。ほんとうはお互いに愛し合っていたにもかかわらず、ふたりが結ばれたのは、トミーが2度の臓器提供を終えたのちのこと。もし二人が本気で愛し合っているのならば、3年間の臓器提供の猶予が認められるという噂を知り、それに賭けることにするのですがしかし、やはり猶予などはなく、トミーは3度目の臓器提供に臨み、他の提供者と同じく、静かに「終了」します。それを介護人として傍らで見守ったキャッシ―にも、しばらくして臓器提供への案内が届きます。

 

彼ら彼女らの人生は短い分、儚く、美しく映るから不思議です。太く短く生きることも、細く長く生きることも、もちろん太く長く生きることが理想的なのかさえ分からなくなりますね。十分な人生の長さというものはなく、たぶんどういう生き方であったとしてもそれは素晴らしいものであり、美しく、儚いものなのでしょう。最後の場面におけるキャッシ―のセリフは、私たちに多くのことを問いかけるのです。

 

 

「臓器を提供された人と、提供した私たちの人生の間に何か違いはあるのだろうか。どちらにしても、私たちは十分に生きたと思わずに死んでいくのだろう」