優しさは選ぶもの

子どもが生まれてもうすぐ10年になりますが、これまで子どもの教育について考えることはほとんどありませんでした。どのように育ってもらいたいのか、親としては何ができるのか、自分には分からないというのが正直なところです。さすがに教育者のはしくれとして、少しは子育て観のようなものを持つべきだとは思うのですが、恥ずかしながら、これといった教育方針もないまま、うちの子は育ってきたことになります(笑)。それでも最近は、ようやくひとつだけ、我が子にはこうあってもらいたいと考えることが出てきました。それは優しさです。誰に対しても、どんな状況でも、人に優しくあることを選択できる人間に育ってもらいたいと願うようになりました。

 

私は学生の頃から30代まで、途中にブランクはありましたが、子どもの教育にたずさわってきました。特に長かったのが個別指導の教育であり、おそらく私が教えてきた子どもたちは1000人を超えているかもしれません。それぐらいの人数の子どもたちをマンツーマンで向き合って教えていると、あらゆることが見えてきます。子どもの学力や性格はもちろん、これまでの成長過程から家庭環境まで。彼ら彼女らの言葉や発するメッセージの断片を拾い集め、コミュニケーションを通して総合していくと、子どもたちを通して社会が見えるというか、子どもたちは大人の鏡であるのです。

 

お母さま(ときにはお父さま)と面談することも多く、つまり1000人近いお母さまやお父さまと子育てや教育について話してきたということになりますね。1000人いれば1000通りの教育観があって、子どもにはこうなってもらいたいから今はこうしていますと明確に答える方もいれば、「たくましく生きてもらいたい」とか「とにかく元気に育ってもらえればいいです」と漠然とした言い方をする方もいました。どのお母さまもお父さまも、我が子に幸せになってもらいたいという想いは共通しているのですが、ときとしてそれが行きすぎてしまうと、我が子さえ良ければそれでよい、多少のズルや過ちをしたとしても、人を出し抜いてでも、効率よく生きてもらいたいと感じられる節もありました。

 

その結果として、子どもたちは物心つく前から英語などの早期教育が施され、少し大きくなると習いごとで忙しくなり、さらにそこに公文や塾の宿題が詰め込まれます。私は子供の教育をやっていたので(今はやっていないので)はっきり言いますが、早期教育はほとんど意味がないばかりか弊害の方が大きいです。子どもの心を壊してしまうだけではなく、子どもの将来を潰してしまうことさえあります。それでも早期教育がもてはやされるのは、教育コンテンツ提供側のビジネスの都合であり、それに合わせてたとえば小学校3年生から塾に通わせるなんてことは避けるべきだと思います。それではいつから通わせるべきかというと、遅ければ遅いほどいいです。もし中学受験をするとしても、小学校6年生になってからでいい。合格には至らないかもしれませんが、勉強にはなりますし、子どもの未来につながっていきます。高校受験も塾に通わせるのは中3から、大学受験も高3からです。本人が通いたい(勉強したい)と言うなら話は別ですが、それまでは好きなことを好きなようにさせる。すべては子どもの心を壊さない、将来を潰さないために、親は何もしないのがベストです。そうすれば、子どもは大人になってからも学び続けることができ、自分の頭で考えることができるようになります。

 

 

勉強に関しては、親は何もしないほど良いのですが、それでは親は子どもに何を伝えるべきかというと、人に優しくあるべきということです。アマゾンの創業者であるジェフ・ベソスが「賢くあるよりも、優しくある方が難しい」とスピーチしたように、賢さというものは生まれつきであって、悲しいかな、努力しても自分の持っている資質を超えることはありません。それに対して、優しさというのは選択できるのです。人に優しくあれるか、そうでないかは、その都度、自分自身で選び取ることができるものであり、つまり教えることもできるものです。もし親として子どもに何が教えられるかというと、人に優しくできたことは褒め、そうでないことを叱ることぐらいでしょうか。しかし、そうして培われた本物の優しさは、これから先の子どもの長い人生において、成功や繁栄だけではなく、幸せももたらすのではないかと私は思うのです。