「そして父になる」、「海街diary」と紹介してきたからには、内容はほとんど介護や福祉とは関係なくとも、観て感想を書かざるをえない是枝裕和監督の作品です。今作「海よりもまだ深く」は、東京郊外の団地で生まれ育ち、こんなはずじゃなかったと思いながら人生を過ごす普通の大人たちを描写しています。実に淡々としたストーリーであり、主人公たちの感情の起伏も少ないのですが、そこは主演の阿部寛さんと樹木希林さんの存在感が圧倒的で、スクリーンに引きつけられてしまいました。「男って、取り返せない過去にこだわったり、あり得もしない未来を夢見たりばかりで、今を生きられないのねえ」という樹木希林さんのセリフには、耳が痛くて張り裂けそうです(笑)是枝さんの作品に一貫して流れるメッセージは、今を生きろということだと思います。
表面的な切り口こそ違え、「そして父になる」、「海街diary」、そして今回の「海よりもまだ深く」も、扱っているテーマは家族です。登場するのは普通の人たちなのですが、どこか壊れた家族。「海よりもまだ深く」の主人公・良多は作家崩れの探偵であり、元妻との間にひとり息子がいます。養育費がなかなか払えない中で、野球をやっている息子にはなんとしてもグローブやスパイクを買ってやりたいと思っていながらも、浮気調査で得たあぶく銭を競輪に突っ込んでみたり、母にお小遣いをあげてみたり、亡き父が大事にしていた掛け軸を質に入れようとしたりと支離滅裂です。
この映画を観終って、ふと思い出した小説があります。それは沢木耕太郎さんの書いた「無名」というノンフィクション。脳出血で倒れた父の病床に沿い、最期を看取った体験を通し、無名であった父の人生を知るという私小説です。
父は自分が何者かであることを人に示したいというところがまったくなかった。何者でもない自分を静かに受け入れ、その状態に満足していた。
私は句集を出すことで父の供養をしたいと思っていた。だが、それは私の思い込みにすぎなかったのではないか。父は最後まで無名であることを望んでいたのではないか。
死の直前、父が発した、自分は何もしなかった、というひとことは、悔恨の言葉ではなく、ただ事実を述べただけだったのかもしれない。いや、むしろ、何もしなかった自分をそのまま受け入れての言葉だったのかもしれない。(「無名」沢木耕太郎より)
映画の中ではついに良多の父は姿を現しませんが、良多は父に似ており、同じような行動をとっていることが示唆されています。沢木耕太郎と父の関係性とは全く異なりますが、父から息子への愛情、そして息子から父への愛着は、無名であれ有名であれ、いろいろな形でそこに存在するものなのです。父の使っていた硯(すずり)を質屋に持っていったとき、父が自分の書いた小説を誇らしそうに知人に配っていたことを聞かされ、その硯で墨をすってサインをするとき、良多が父の姿を思い出して背筋を伸ばすシーンがそのことを物語っています。世の中のほとんどの人々にとっては無名であったとしても、周りの人たちにとって、特に血のつながった家族にとっては無名ではないのです。
私たちのほとんどは無名であり、かつ誰かにとっては無名ではない、そんな主人公を含めた登場人物たちがとても人間臭いと思わせられるのは、彼ら彼女らの奥底には愛情があるからでしょう。海よりもまだ深い愛情があってもなお、私たちはなりたかった大人になることができないのですね。最後のエンドロールでハナレグミの歌が流れてくると、これが普通の人生なのだと、肯定も否定もなく、しみじみと感じられるから不思議です