「さよならの代わりに」

ALS(筋萎縮性側索硬化症)を発症した女性と介助者との交流を描いた映画です。恵まれた人物が障害や病気を抱えてしまい、まったく生まれも育ちも違う介助者といつの間にか心が通じ、最後にはお互いを信頼し合える良きパートナーになる、という設定は、かつて大ヒットしたフランス映画「最強のふたり」に似ており、二番煎じの感は否めません。このようなテーマを商業的に描くとき、どうしても大衆受けするドラマ仕立ての構図やお涙頂戴のシーン、見せ場を無理やりにつくらざるをえず、そのため浅さが散見してしまうのです。それは「最強のふたり」も同じでした。楽しみながら観られるのはいいのですが、病気や障害についての理解が深まるかというと疑問ですし、私には病気や障害を単なる材料(ツール)にして映画をつくっているような気さえします。と厳しいことを書きましたが、介護を受ける者と介護をする者との関係という点においては共感できました。

 

主人公のケイトはALS(筋萎縮性側索硬化症)を発症し、介護が必要になり、夫の反対を押し切って大学生のベックを介助者として採用します。他にも介護経験があり、専門性が高く、料理もきちんとできる候補者がいたにもかかわらず、遅刻はするは、家事はまったくダメ、私生活も乱れまくっているベックを選んだのです。

 

その理由として、「話を聞いてくれそうだから」とケイトは夫に伝えました。それは感覚的な理由であり、相性の問題でもあるのですが、つまり先回りの配慮をされたくないということなのだと思います。言ってはいけないようなことを平気で言うベックですが、だからこそ、ケイトもベックに対して言いたいことが言えて、介護を受ける者と介護をする者との関係ではなく、お互いがひとりの人間同士して接することができるのです。

 

この映画を観て思い出したのは、Wくんという後輩のことです。私がかつて勤めていた企業で一緒に働いていた仲間のひとりです。ある日、私たちの支社に、障害者雇用の一環としてKくんが入社してきました。Kくんは筋ジストロフィーという病を患っており、歩くのに困難を伴い、急に大きな音を出して倒れてしまうこともありました。その支社にいるスタッフの誰もがKくんのことを気遣い、優しく見守っていましたが、その中でもWくんは(介護に関しては全くの素人でしたが)Kくんの介護を率先して行いました。

 

ふたりは仲良くなり、Kくんに教えてもらいながら、Wくんは体を張って介助したのです。それは介護というよりは、友だちだったらそうするよねという形のサポートでした。腫れ物に触るという感じは全くなく、その場その場で、相手の困難を自分のことのように全力で向き合って助けるという感じでした。私はその姿を今でも覚えていますし、Wくんのことを尊敬するようになりました。そして、もし私に介護が必要になったときには、Wくんのような人に介護をしてもらいたいと思うのだろうなと考えたのです。

 

 

プロとして介護をすることの難しさは、このあたりにあると思います。私たちが介護をすることに慣れれば慣れるほど、いつの間にか、介護をするべき対象としてしか相手を見られなくなります。知識が増えれば増えるほど、様々な方をケアした経験があればあるほど、手際が良くなり、先回りの配慮もできるようになり、上手に介護ができるようになるかもしれません。しかし、WくんがKくんに向き合って介護をしたときのような真剣さやひたむきさは失われてしまうのです。臨場感がなくなってしまうと言ってもよいかもしれません。そのとき介護を受ける人は、まるで何かの一部になってしまったような、自分が人ではなく物になってしまったような虚しさを味わうのではないでしょうか。介護がサービスとして提供されるようになったとき、そこにどのようにして人間としてのぶつかり合いや認め合いを残していくのか、私たちは考えていかなければならないのだと思います。