命の仕舞いかた

医師である長尾和宏さんと看護師の髙口光子さんの講演「命の仕舞い方」を聞きに、静岡の富士市まで出かけてきました。この講演については、お付き合いのある特別養護老人ホーム「マナーハウス麻溝台」(髙口さんが手掛けている神奈川の施設)を通じて知りました。生の高口さんを拝見したいという気持ちと、以前に当校のブログでも紹介させていただいた「ばあちゃん、介護施設を間違えたらもっとボケるで」の著者の話を聞きたいという、ひと粒で2度の美味しさを求めて新幹線に飛び乗りました。講演のテーマは、ターミナルケアであり、しかも病院ではなく、在宅や介護施設で死ぬことについて。つい先日、小林麻央さんが在宅で亡くなったこともあり、講演を聞きに多くの方々が足を運ばれていたように、これからの(高齢)社会を生きる私たちにとって切実な問題になっているのだと実感しました。

 

長尾和宏医師の講演は実に見事でした。今の時代を生きる私たちにとっての死に方は、大きく分けて3つのコースあるそうです。Aコースはガンによって。私たちの2人に1人はガンという病気になり、3人に1人はガンで死にます。ガンによる死は、健康状態や身体状況があっと言う間に悪くなり、死に至る。「今この会場にいる皆さまの3人に1人はガンで亡くなります。分けてみましょうか(笑)」というブラックジョークはブラックではないのです。Bコースは、心不全など臓器が完全に働かなくなることによる死です。ガンに比べると比較的なだらかに死に至ります。Cコースは認知症。こちらは実になだらかに死に向かっていきます。「さあ皆さん、AコースとBコース、Cコースのどれが良いですか?」という問いはブラックジョークを通り越し、たとえ今まだ若くても人間は誰もが死から逃れられない存在であり、死に方さえも実は選ぶことが難しいのだと教えてくれます。

 

しかし、どこで死ぬか、つまり死に場所は選ぶことができるのです。病院なのか、介護施設なのか、それとも在宅か。私たちにはせめても死に場所を選ぶ権利があり、そのためには、それぞれの場所における死がどのようなものであるかを知っておく必要があります。長尾さんは在宅における死を「枯れる」と表現します。食事の量や摂取する水分の量が少しずつ減ってゆき、まるで花が枯れるように亡くなってゆくことができる。そして、最後の最後まで家族や大切な人たちと一緒に過ごし、話をすることができるのです。この「枯れる」という言葉を聞いたとき、生徒さんたちがくださった花が綺麗に枯れて、最後は美しいドライフラワーになったことを思い出しました。

 

 

髙口さんはイメージどおりの人でした。生で会ってみると印象が変わったりする方もいますが、明るさ、快活さ、芯の強さや温かさを感じさせる女性でした。髙口さんはALS(筋萎縮性側索硬化症)を患って施設に入ってきたKさんという方を取り上げつつ、介護施設での死を語りました。介護施設での死はあまり知られておらず、誤解されているかもしれませんが、病名で死ぬ病院とは違い、その人として亡くなることができると主張されていました。具体的なことは、著書「介護施設で死ぬということ」を買ってきましたので、そちらで紹介させていただきますね。

 

髙口さんが最後におっしゃっていた、「非日常的な1日というのは、日常的な毎日を長い間にわたって積み重ねて来た者たちだけの間に訪れる」という言葉が印象的でした。介護の仕事というのはそういうものですし、またターミナルケアに光が見えるとすれば、それは日常的な暮らしの中における美しい一瞬なのだろうと思うのです。それは経験した者にのみ分かることなのかもしれません。

 

長尾さんは小林麻央さんの死を取り上げ、海老蔵さんの会見には在宅における死の大切さが詰まっているとおっしゃっていました。