「あさがくるまえに」

私が好きな歌手の秦基博さんの作品の中でも、1、2を争うほどに好きな曲のタイトルがつけられていて、また臓器提供やドナー、人間の死の境界線をテーマにしていることもあり、映画館まで足を運びました。全編にわたって美しい情景や音楽、心理描写が静かに流れてゆき、しかし中盤からラストにかけての胸を締めつけるような緊張感と高揚感は観る者を離しません。ひとつの命が終わるとき、もうひとつの人生が再生される。自分はなぜ今、こうして生かされているのだろう。そんな不思議な思いにとらわれる映画でした。

 

この映画の主人公は、開演から10分後に交通事故で亡くなってしまいます。脳死の状態で機器につながれており、息子の死を受け入れることができずにいる家族に追い打ちをかけるように、臓器提供の話が持ちかけられます。苦渋の決断を迫られるのは、本人ではなく両親なのです。息子の身体を手放す選択をした夜、両親が息子をはさんで寝るシーンは今でも私の脳裏に焼きついています。

湘南ケアカレッジの介護職員初任者研修においてターミナルケアについて学んでいただく中で、臓器提供をするかどうかという質問が出てきます。皆さんの健康保険証の裏にもチェックをつける欄がありますよね。あなたはどうしますか?という問いです。これまで私は臓器提供についてあまり深く考えることなく、もし自分が死んでしまったのならば、誰かが生きるために提供するのは当たり前だと答えていました。しかし、この映画を観て臓器提供がどういうものか考えさせられ、簡単に「はい(提供する)」を選んでいた浅はかさを恥じました。

 

命は誰のものでしょうか?自分の命は自分だけのものではなく、家族のものでもあり、周りの人たちのものでもあるかもしれません。臓器移植をされた心臓は誰のものでしょうか?死んでしまった元々の人間のものでしょうか、それとも移植されて生きている人間のものでしょうか。そして、生きている(または死んでいる)とはどういうことでしょうか?脳が死んでしまえば、生きていないのでしょうか。それとも心臓が止まっていなければ、生きているのでしょうか。

 

命は誰のものでもなく、生と死の境界線もあいまいなのです。今こうしてたまたま脳が活動して、心臓が鼓動しているから生きていると実感し、あたかも自分の命のように勘違いしてしまいますが、そうではないはずです。命は授かりものであり、移り変わってゆくものである以上、所有者はいないのです。肉体が生きていても人間として死んでいることもあれば、肉体が死んでいても人の心に生きていることもあるでしょう。そんなことをつらつらと考えれば考えるほど、私は臓器移植を選ぶかどうか分からなくなるのです。

 

「あさがくるまえに」の紹介動画です。

秦基博さんの曲の中でも、「朝が来る前に」と並んで好きな曲です。