過去も未来もない

先日、妹の子どもたち2人を連れて、町田リス園に行きました。暖かくなってきたこともあり、リスよりも人間の方が多いのではないかと思うぐらい、たくさんの家族が訪れていました。朝からエサをもらいすぎて、リスたちはお腹一杯。お昼過ぎに行った私たちが好物のひまわりの種を差し出しても、リスたちは食べてくれないどころか、こちらにも寄ってきてくれなくなっていました(笑)。1日中、子どもたちと遊んで帰る際、町田駅にてお見送りをしました。子どもたちは「ばいばーい!」と手を振りながら、何度も叫びます。私もそれに応えるように、「バイバーイ!」と手を振り返しました。彼女たちは涙ぐんでいました。顔は真剣で、別れを心から惜しんでいるのが伝わってきました。

 

この別れを惜しんでもらえる感覚を、久しぶりに味わいました。懐かしく思うと共に、彼女たちにとっては今が全てなのだという想いを強くしました。これまでに何度も会って、遊んでいるから、今回はその延長線上にあるという、慣れのような気持ちもなく、全力で今日私と遊ぶことを楽しんでくれました。

 

さらにこれから先もまた会えるであろう、遊べるに違いないという予測もなく、もしかするとこれが最後になってしまうかもしれないと感じてくれているようでした。今を生きるということは、楽しさだけではなく、寂しさや悲しさも同時にきちんと噛みしめることなのだと教えてもらいました。

 

別れを惜しまれる感覚は、私の祖母や曾祖母から教えてもらったものでした。かつて私が小さかった頃、お盆や正月には実家の岡山に帰省していました。1週間ほど滞在し、こちらに帰る日を伝えると、数日前から祖母や曾祖母は寂しさを表現してくれました。そして、いざ帰ろうというその日は、私の手を握って、涙を流して「また来てな」と何度も何度も言ってくれました。

 

当時の私には、また次のお盆や正月には来るのに、なぜこんなにも悲しく、寂しがるのか全く分かりませんでした。今では分かります。孫と別れる辛い気持ち。もしかすると、もう顔を見ることができないかもしれない。未来があるかどうか分からないからこそ、祖母や曾祖母はあんなにも今を一緒に生きることができたのですね。

 

 

妹の子どもたちとの1日を通して、祖母や曾祖母たちの気持ちを思い出し、果たして私は今を生きることができているのだろうかと疑問を持ちました。たぶん、今を生きられていないのだと思います。どうでもよい過去にとらわれ過ぎてしまい、起こりもしない未来を憂いてしまうことで、肝心の今がいつも見過ごされてしまっているのではないでしょうか。

 

私たちが生きることができるのは、本当は今しかないのに、過去と未来を行ったり来たりしているばかりで、今を失ってしまっているのですね。彼女たちのように今を生きるのには私は大人になりすぎたのかもしれませんし、祖母や曾祖母のように今を生きるのには私はまだ若すぎるのかもしれません。それでもやはり今を生きたいなと憧れる気持ちは、最近ますます強くなってきました。