ベクトルを自分に

忘れた頃に思い出して見に行くと、刺激を与えてもらったり、気づきがあったりする、「面白法人カヤック」のブログがあります。今回は「他責思考にまつわる今だからいえる6年前のエピソード」というエントリーを、興味深く読みました。思いどおりに物事が運ばなかったり、状況が悪くなってしまったときに、私たちはどうしても誰かや周りの環境のせいにしてしまいがちですが、それだけで終わってしまうと、自分に見える世界は変わらないし、道は拓けないという内容でした。つまり、まずは意識的に自分にベクトルを向けて考えてみることで、新しい解決方法が見つかったり、事態が好転するということです。

 

私はかつて勤めていた塾にはいくつかの儀式がありました。儀式というと大げさに聞こえるかもしれませんが、新人の先生は必ずや通過するやり取りのことです。そのひとつとして、自分にベクトルを向けるための儀式がありました。新しく入ってきた先生は、最初はどちらかというと勉強が苦手なクラスを任せられます。その方が、教える内容が基礎的であり、予習が簡単だからです。しかし、クラス全体の理解度は低いため、教えたことが伝わっている感触がありません。テストをしてみても、さっき教えたはずのところを間違っています。それもクラスのほとんど全員が分かっていないという最悪の状況です。

 

授業が終わったあとのミーティングにて、その新人先生はこう言います。

 

「全然ダメでした。きちんと教えたはずなのに、全く分かっていないですね。●●●って言ったんですけど。あれじゃあ、彼らはやっぱり勉強できないですね」

 

それを聞いたベテランの先生方は、来たよ来たよと内心では思いつつ、極めて冷静な表情でこう返します。

 

「君の教え方が悪いんじゃない?」

 

こう返されて、新人の先生は押し黙ってしまったり、何とか反論をしようとしたりしますが、他のベテランの先生方から「こういう風に教えるといいよ」、「もう少し生徒と距離を縮めた方がいいな」といった建設的なアドバイスをもらっているうちに、先生である自分の教え方が悪いということに気づき始めます。生徒ができないのは、先生のせいなのです。もちろん、そうではないケースもたくさんあるのですが、先生はそう考えなければ進歩が止まってしまいます。この儀式は、最初は生徒さんたちや周りの環境に向かっていたベクトルを、まずは自分に向けてみることが先生として大切であることに気づいてもらうことが目的です。

 

 

これは先生だけではなく、どんな仕事をする人にも大切な考え方かもしれません。他の誰かや周りの環境のせいにしてしまう他責思考の悪いところは、自分は一ミリも成長しないことですね。他に原因を求めることで、自分を見つめなおしたり、行動してみたりすることをしないでいられることです。何から何まで自分の責任と考えてしまうと苦しくなってしまうと思う人もいるかもしれませんが、逆にコントロールできない他者のせいにすると帰って苦しくないですかね。まあ人はどうしても他のせいにしてしまう傾向があるので、意識して自分にベクトルを向けてみると、自分に足りないものを知ることができ、自分が何をするべきか分かり、案外気持ちが楽になるものです。