身体をアップデートする

「身体をアップデートする」というテーマについて、乙武洋匡さんの話を聞きにWeekly Ochiai(落合陽一さんの番組)の収録に参加してきました。この番組は、NewsPicksの会員限定のため視聴できない方々もいると思いますので、私が重要だと思ったポイントだけ共有させていただければと思います。身体をアップデートするというテーマは、分身ロボットカフェに参加してからずっと考えていたことだったので、実にタイムリーでした。人間の身体とは何なのか、そしてどこまで拡張することが可能なのか。分身ロボットカフェの話も登場し、パラリンピックやこれからの超高齢社会に向けて、本当に密度の濃い1時間でした。

 

どこまでが身体なのかと疑問に思ったのは、分身ロボットカフェで島根在住の脊髄損傷で両手足が動かない方に接客してもらってからです。そこに彼の肉体はなかったけれど、話をすることができたり、コーヒーを注文して持ってきてもらうと、まるで彼がそこにいるかのような感覚がありました。ロボットと話している違和感はなく、彼という人間と話しているようでした。そのとき、このロボットは彼の身体の拡張なのか、それともそもそも彼の肉体さえもが乗り物のひとつであって、彼のこころだけが人間の確たるものなのかという哲学的な問いが浮かんだのです。

 

同じような話はWeekly Ochiaiでも提起され、乙武さんは国会議員がロボットなどを使って海外などの遠隔地から国会に出席すること(テレプレゼンス)は参加にあたらないのか?と投げかけます。それでは逆に、脳梗塞などの病気によって身体を動かすことも意志を伝えることもできない状態にある議員が国会に運び込まれた場合、それは参加になるのかと。どちらが議員としての役割を果たすかというと、前者の方が参加にあたるのではという問題提起です。肉体だけでは意味がない、そこに意識やこころが宿っていて初めて人間という存在になる、というひとつの考え方です。

 

もう少し話を進めると、たとえば植物人間状態の人がいて、その人がただ肉体としてそこに存在するだけで、家族や近しき人たちにとっては意味や価値がある場合もあるはずです。意思の疎通はできないとしても、肉体が生きていることで心もそこにあるとこちらが感じるということです。これは肉体至上主義なのかもしれませんが、そこにロボットがあって、遠隔でコミュニケーションができるよりも、コミュニケーションは一切図れないけれどそこに肉体がある方が良い場合もあるのではないでしょうか。

 

また、昨日、私は収録の現場に肉体を運んで参加したからこそ、得られた体験もあるはずです。自宅にいてパソコンやスマホの画面で番組を視聴することもできましたが、それとはまた別の5感を刺激するものがあったと思います(そう信じているだけかもしれません)。ところが、この先5Gの普及によってVR(バーチャルリアリティー)で視覚や聴覚、もしかすると嗅覚や触覚、味覚までも、そこにいるのとほぼ同じ体感ができる時代がくるはずです。そうなったとき、まずます身体の境界線は曖昧になっていくのでしょう。

 

 

そうすることで、私たちはテクノロジー等によって、失われた機能を回復するというよりも、新しい身体機能を拡張していくという方向性を持つようになるはずです。そして、乙武さんのいう「意志を最大化する」ことができるようになり、落合さんのいう「身体の形、機能に縛られない(とらわれない)」考え方が当たり前になるのではないでしょうか。そんな新しい未来が、まるで目の前にあると錯覚してしまいそうになる、刺激的な内容の収録でした。