許し合う社会を

ピアスなどの服装や校則違反をした生徒を注意したところ、生徒から暴言を吐かれ、カッとなった先生が生徒を殴ったという、町田総合高校のニュースが世間をにぎわせました。長い間、教育業界で育ててもらった私にとっては、どちらか一方を断罪するのではなく、なぜあのような事件が起こったのか、そこまでの経緯が知りたいと思ってしまいます。ピアスのようなどうでも良いことのために、先生や生徒たちの未来が閉ざされてしまったことの背景には、お互いのことを認め合えず、許し合えない学校や社会の空気があったのではないかと想像するのです。

 

私が大手の介護スクールにいた30歳ぐらいまでの頃は、他人に対しても厳しい人間だったと思います。ここで言う厳しいとは、伝えるべきことを伝えるという意味ではなく、相手の事情を考慮することなく、自分の基準を押し付けるということです。上司や部下や受講生(大手の介護スクールではそう呼びます)に対しても厳しい見方をしていました。今思い返すと、顔から火が出るぐらい恥ずかしく、それは昭和という時代の中で学校教育や部活動、受験勉強などによって培われた思想でした。厳しさを求められた周りの人たちは、さぞかし息苦しかったことでしょう。

 

ひとつの考え方の転機となったのは、大手の介護スクールから転職した塾で一人ひとりの生徒さんたちと正面から向き合った5年間でした。私が担当していた個別指導塾は、どちらかというと勉強が嫌いな、やんちゃな生徒が多い塾でした。現場は行儀や素行の悪さが満載で、日々、どこまで厳しく叱るべきかどこまで許すべきかの判断の連続でした。

 

そのような一つひとつの経験や判断を通し、厳しくするよりも、厳しくしなかったケースの方が、結果的に上手く行くことが多いということを生徒さんたちから教えてもらいました。別の言い方をすると、許さなかったときよりも許した方が成果は出やすい、見逃さなかったよりも見逃してあげた方が長い目で見るとプラスに働きやすいということです。

 

たとえば、子どもが遅刻をしたり、宿題を忘れたとき、問い詰めたり、取りに帰らせたり、叱ったりすることにほとんど効果はありませんでした。その場では先生の体面も保たれますし、子どもたちも表面上は従うのですが、子どもたちの心に禍根を残してしまいます。その禍根を取り除くのは容易ではなく、閉ざされてしまった心の扉を開けることはなかなか難しかったりします。私は厳しくしてしまったことで、何度も失敗をしました。失敗した子どもたちのことは今でも覚えています。

 

その逆に、許して良かった、見逃しておいて正解だったと思うことは多々ありました。甘やかしてしまったかなとその場では反省したこともありますが、長い時間を経てみると、あのとき許しておいて良かったと胸をなで下ろすことがほとんどでした。

 

なぜかというと、 私たちが(相手のためにも)厳しくしようと感じたとき、ほとんどの場合においては、自分のこうあるべきという枠の中で考えているからです。良かれと思っていても、あとから振り返ってみると、自分のべきの範囲が小さかったことに気づくのです(このべきの範囲についてはケアカレナイトのアンガーマネジメント講座にて藤田先生がお話ししてくれます)。厳しく叱るのは、誰かを傷つけてしまうことや命や身体に危険が及ぶときだけで良いのです。

 

マイナス視点で見られたことで、生徒さんも先生をマイナスの目で見るようになります。許してもらえなかったことで、自分も相手を許せなくなるのが人間です。これは子どもたちだけではなく、他人と接するときにも当てはまるのではと思いました。人間はミスをしますし、忘れるし、遅れるし、間違うこともある。ひとつの現象や状況だけで、相手の非を責めるのは恐ろしいことです。許さない社会は許されない社会と同じですね。

 

 

先生という職業をしていると、どうしてもその場で厳しくしなくては(その方が相手のためになるなど)と勘違いしてしまうのですが、そうすることで結局のところ上手く行かなくなってしまうことの方が多かったのです。それならば、生徒さんを褒めたり、認めたりした方が、長い目で見ると効果的なのです。生徒さんに何かを教える立場にある私たちは率先して、自分のべきを拡げ、微力ながらも湘南ケアカレッジを通して、認め合える、許し合える社会をつくっていかなければならないのだと思います。