映画「マチネの終わり」

湘南ケアカレッジを開校してから、いや、社会人になって仕事を始めてから、ほとんど小説を読まなくなってしまいました。忙しくて時間がないと言えば言い訳になってしまいますが、すき間時間までを仕事やスマホに取られ、ずいぶん長い間、小説の世界に没頭することができなくなっていました。そんな私が、ほんとうに久しぶりに、カフェが閉店時間になるまで、時間も忘れるほどに読みふけってしまった小説が「マチネの終わり」。遂に映画化されましたので、公開初日に観に行ってきました。原作を下回ることのない、むしろ音楽や映像の力が原作を補完するような、また小説を読んでみたいと思わせる作品でした。そして小説を読むと、また映画が観たくなるかもしれません。

 

主人公の蒔野は世界を股にかけて活躍するギタリスト、洋子はパリ在住のジャーナリスト。ふたりは物語が進む6年の間に、わずか3回しか会うことはないのですが、深いところで互いに惹かれていきます。蒔田はアーティストとしての苦悩があり、洋子はフランスのパリにおけるテロに遭遇し、困難な道を歩んでいる者同士からこそ求め合う。ところが、そんなに簡単にものごとは落ち着かないもので、ふたりはすれ違い(第三者にとよってすれ違わされ)、心の底に大切な感情をしまったまま年月は流れ、それぞれが家庭を持つに至ります。しかし物語のラストでは、すれ違いの理由が明らかになり、ふたりは再会するところで幕を閉じるのです。

 

 

個人的に、この原作が秀逸だと思ったのは、ふたりが深いところで惹かれ合う理由がきちんと描かれていることです。出会い系アプリでパートナーを探すのが普通になってきている時代において、なぜその人でなければならないのかが明確なのです。それは蒔野と洋子が特別な生き方をしているからかもしれませんが、もしかすると、誰にとっても、あなたでなければならない人はどこかに存在するのかもしれません。または時間をかけて、その人でなければならない存在になっていくのかもしれません。いずれにしても、その人と決めるためには自分自身の存在がはっきりしていることが大切なのだと思います。

 

 

原作者の平野啓一郎さんは、「愛とは、誰かのおかげで自分を愛せるようになること」だと語りました。誰かを愛することだけが愛ではなく、誰かと共に時間を過ごすことで、自分を愛せるようになることも愛だと定義したのです。なるほど、その人といるときの自分が好きである状態。私たちは誰かを愛することで、これまでの自分も愛することができるようになるのです。「マチネの終わり」の映画のテーマでもある、常に未来が過去を変えていくことにもつながります。愛するというのは恋愛だけに限ったことではなく、家族であったり、仕事仲間であったり、介護の仕事でいうと利用者さんであったりしても良いはずです。他者がいてくれるおかげで、自分の過去は意味あるものに変わり、自分を愛せるようになるのだと思うのです。