「誤作動する脳」

ケアカレナイトでも講演をしてくださった樋口直美さんの新著です。前作「私の脳で起こったこと」も稀有な体験記でしたが、こちらは文学作品としても読めるような最高傑作に仕上がっています。レビー小体型認知症を広く知らしめることよりも、彼女の脳に起こった究極的な体験を通し、私たちはどう生きるべきかを示してくれている―たとえば「夜と霧」のような―哲学書のようだと感じました。脳が誤作動を起こすことで、私たちの人生はどう変わってしまうのか、またそのような脳とどう付き合って共に生きていくのか。脳が健康な私たちから見れば苦境にしか見えませんが、本書の中にはかえって生きる勇気や希望、喜びがあふれているのですから不思議です。

「幻視」、「幻聴」、「嗅覚の喪失」、「方向感覚の欠如」など、脳が誤作動を起こすことによって、5感に異常が現れます。人間はたった一つの感覚に異常をきたす、もしくは失ってしまうことにより、人生の質が大きく変わってしまいます。樋口さんの体験を読むだけで、自分に置き換えてみると、その壮絶さが伝わってきます。それでも、今まで出来ていたことが出来なくなることの物理的な恐怖と精神的な不安は想像を絶するでしょう。当初はうつ病だと診断されて、向精神薬を処方されたことにより症状が激化してしまった(樋口さんは今も生傷とおっしゃる)数年間の実体験は正視するのが難しく、よくぞ生き延びてくれたとしか言いようがありません。

 

いつもと同じ道を歩いていたにもかかわらず、ある日突然、気がつくと同じ場所に戻ってきてしまい、堂々巡りをしてしまう混乱と恐怖を描いたシーンは、昨年10月、私がフランスに行って感じたものとそっくりでした。

 

夜、現地で友人とレストランの前で待ち合わせをして、知らない土地なので30分ぐらいは早めにホテルを出ました。大体の方向とお店の住所は分かっていたので、道にある地図を見ながら歩いていました。次第に暗くなっていきます。そろそろ近くまで来たかなと思い、あたりを見回してみると、何やら違う建物や標識が出ていることに気づきました。

 

おかしいなと思い、スマホを取り出して確認してみると、ずいぶんと離れた場所にいることは分かりました。実は私は位置情報をオンにしたくないということと道に迷って困ったことがないので、それまでグーグルマップを利用していませんでした。こういうときこそと思い、利用しようとしましたが、なぜかスマホの文字が読めません。以前にも夜になるとスマホの文字が読みにくいという傾向はあったのですが(年齢的なものでしょうか)、ここまで暗い中でスマホの細かい文字(しかもフランス語)を読むことができないことにそのとき初めて気づきました。

 

大げさだと思われるかもしれませんが、文字や道の輪郭がぼやけて見えないのです。かなり拡大すれば見えるのですが、地図の全体像が完全に失われてしまいます。頼りにしていたスマホが使えないことが分かり、私はとにかく前に歩くことにしました。歩きながら、周りの建物や標識を見て軌道修正していこうと考えたのです。

 

友人には道に迷ってしまったので、待ち合わせ時間には間に合わなそうと連絡を入れました。さすがに日本であれば、同じような状況に陥っても何の心配もしなかったと思います。しかしそこは初めて訪れた国の知らない土地です。友人を待たせているという焦燥とこのまま道に迷いホテルにも戻れないのではないかという不安は募っていきました。不安によって混乱してしまうと、人間は冷静さを失ってしまうようで、私はいつもよりももっと速い速度で歩き回りました。

 

ところが、私の目の前にはさっき見たことのあるパン屋が現れたのです。どう見ても同じパン屋と店員さんでした。あれだけ歩いたにもかかわらず、私はぐるりと回って同じ場所に戻ってきてしまったようです。あのときの絶望は忘れられません。大人になって久しぶりに味わった方向喪失感でした。樹海などで道に迷う人がぐるりと回って同じ場所に戻ってきてしまうのは良くある話だそうです。また、あとから知ったのですが、パリの街は道が放射線状に伸びているため、わずかな方向の違いが最終的には大きな違いとなってしまうとのこと。

 

1時間以上歩き続けた私は心身ともに疲れ果て、恐る恐る道端に立っていた女性2人組に尋ねることにしました。もちろんフランス語は話せないので、稚拙な英語で聞いてみると、「私たちもパリの住民じゃないから良く分からないけど、ホテルは大体あっちの方だと思うよ」と教えてくれました。レストランに行くことをあきらめて、私は自分のホテルにそこから30分近く歩いて戻ったのです。

 

今となっては良い思い出ですが、あのときの自分を見失ってしまった恐怖は、まさに認知症の方が日々体験していることなのではと想像することができます。道に迷うことに関しては、グーグルマップを入れたり、周りの人たちに助けを求めるという解決法がありますが、常に新しい障害が現れてその都度、恐怖と不安に襲われ、何とか生き延びようともがき、解決策を見つけ、少しずつ希望や喜びを見つけていくのだと思うのです。

 

 

だからこそ、樋口さんの言葉には重みがあって、希望も解決策もあるのです。それは新型コロナウイルスという目に見えない病の影響によって、私たちの脳も誤作動を起こしつつある状況の中、救いになる言葉なのではないかとさえ思えます。私が線を引いた箇所の一部を引用し、希望を持って終わりにします。

 

「幻視が怖かったのではありません。私は、私が恐ろしかったのです。でもその恐怖こそは、新しい情報と知識を得ることで消える幻にすぎませんでした」

 

 

「私たちを社会から切り離すのは、単純な無知や根拠のない偏見ではなく、専門家の冷酷な解説だと私は感じていました。それは病気そのものよりもずっと重いものでした。これは人災だと私は思いました。そして人災であれば、変えることができると」

 

 

「精神は脳の主かもしれません。実際、体調が悪いときでも、人前ではシャキッとしていられます。やりがいのある大切な仕事に向かうときは、脳が最速で働き始めます。親しい人と楽しく過ごしているときは、症状も出にくくなり、体調も良くなります。生きがいのある生活の中で、仲間と四六時中、楽しく大笑いしていれば、症状など出る間もなく、絶好調の毎日が続くのではないかと真面目に夢想しています」

 

 

「雨が降ったら傘をさせばいい」

 

 

「患者の大きすぎる期待は、失望と的外れな恨みを簡単に生みます。それでは医師も患者もお互いに不幸です。不毛です。この不幸は、どうすれば減らすことができるんだろうかと考えてきました。

 

認知症や認知症医療について学ぶほどに知ったのは、『脳のことでわかっていることは本当に少ない』ということです。医療に担えることは限られているということです。いまだに原因もわからず、治す薬もなく、確実な予防法もない病気なのです。加えて個人差が大きく、診断名が同じでも人によって症状が大きく違い、薬の効き方も副作用の出方も進行の仕方もひとり一人違います。人間関係など環境の影響が非常に大きく、環境だけで症状が大きく改善したり悪化したりします。これからどんな症状がどう出て、どう進行していくのかなど、誰にも分からないのです。しかし患者側からはそうは見えません。認知症が病気なら、問題を解決する責任者は医師だと思ってしまいます。

(中略)

 

治療とは、視界のきかないジャングルを踏み分けて進む冒険のようだと今は思います。医師にだって、先は見えないのです。そんなジャングルを、目をつぶって医師の後ろにくっついていくのは危険すぎます。それでは崖から落ちても文句は言えない。医療の限界を知るにつれて、そう考えるようになりました。」