かけがえのない時間

私が社会人として最初に就いた仕事は、塾の先生でした。先生と言っても、ただ教えるだけではなく、生徒の募集から教室の掃除まで、塾の運営に関わる全てを任せてもらいました。当時の直属の上司の中土井さんはとても変わった人で(今は業界ではかなり有名なコンサルタントになっていますが)、本を毎日1時間読んでノートに要点を書くことや使い捨てられない人材になることなど、世の中のことが何も分かっていなかった私に対して、社会人としてどうあるべきかを直球で教えてくれました。その当時は意味が分からなかったけれど、あとになってようやく、「なるほど、そういうことね」と理解したことがたくさんあります。

 

ある時、塾に通ってくれていた男子生徒が教室に入ってくるなり、「自転車が壊れたので、ペンチみたいなの貸して!」と言ったのです。それを聞いた私は、工具箱からペンチを取り出して、その男子生徒に手渡しました。彼は「ありがとう!」と言って教室を出て行き、駐輪場に向かいました。その様子を見ていた中土井さんが僕の傍にやってきて、「なぜ一緒に行かないの?一緒に修理してあげなよ!」と言い放ちました。いきなりそう言われてムッとしましたし、それぐらい自分で直せるだろと心の中では思いながらも、仕方なく私は駐輪場まで行きました。タイヤを保護しているカバーが曲がっていて、車輪が回らなくなっているのを、2人でああでもないこうでもないと話しながら、なんとか元どおりに直すことができたのです。その一件以来、彼とは勉強の話だけでなく、部活のことや好きなスポーツチームやアニメのこと、友だちや親、将来のことまで話すようになりました。

 

私はそれまで、先生は勉強を教えるために存在すると思っていました。どうすれば分かりやすい授業ができるのか、どうすれば生徒さんたちは成績が上がるのかばかりを考えていました。でも、中土井さんの忠告をきっかけとして生徒と関わってみたことで、今までは見えていなかった生徒の一面を見ることができただけではなく、私と彼の関係性は変わり、私の見えている世界も大きく変わったのです。彼の成績も劇的に変わったとは言えないのが残念ですが(笑)、もっと大切なことを見つけた気がしました。

 

それは過ごした時間が大切だということです。自転車が直るかどうかはどうでも良くて、その作業を通じて彼と一緒に時間を過ごしたことに意味があるのです。結果は二の次で、その目的のために共に過ごした時間にしか価値はない。時が経てば経つほど、そう思うようになりました。何をどう教えるか、何を学んだかはあとからついてくるものであって、その行為を通じて過ごした時間の記憶だけが(私がそうであるように)永遠に残るのです。

 

結果が、最初の思惑通りにならなくても、そこで過ごした時間は確実に存在する。そして最後に意味を持つのは、結果ではなく、過ごしてしまった、かけがえのないその時間である。

星野道夫)

 

 

それは教育だけではなく、介護や他の仕事でも同じだと思います。いかにして(個別に)過ごす時間をつくることができるか。そのチャンスがあったなら、逃してはならないのです。ただ単に授業をする、ただ単に介護をするだけではなく、その仕事を通じて、共に過ごすかけがえのないその時間こそが大切なのだと意識しながら仕事をすることで、結果として良い教育や介護が提供できるのではないかと思います。