「ミッドナイトスワン」

15分におよぶ予告編を見て、大きな期待をして観に行った「ミッドナイトスワン」は、高かったハードルをさらに超えていく傑作でした。今年の日本映画ベストワンは間違いなく、私が観た日本映画の中でも10指に入る素晴らしい映画でした。トランスジェンダーの凪沙(なぎさ)を演じた草彅剛さんの心の叫びが伝わってきて、バレエダンサーを夢見る無口な中学生、桜田一果役の服部樹咲さんの透明感と存在は圧倒的でした。痛々しいまでの苦しさや哀しさが全編を覆っていますが、バレエの華麗な動きや背景に流れる音楽があまりにも美しく、そのコントラスト(対比)が実に見事です。無償の愛、偏見・差別、生まれ出ずる悩み、審美、自分らしくあることなど、この映画を観た人たちは、それぞれが異なったメッセージを受け取るのではないでしょうか。絶対にという言葉はあまり使いたくありませんが、絶対に観るべき映画です。

 

ネタバレをしてもつまらないし、予告編を見てもらえればあらすじは掴んでもらえるはずなので、ストーリーや登場人物を紹介することはせず、私の受け取ったメッセージを書きたいと思います。それは、人と違っていることは美しいということです。これは言葉遊びではなく、いわゆる美人の顔というのは人々の平均のパーツを集めたものに過ぎないという研究があるように、整っているにすぎません。美という観点から言うと、整っているものはつまらないのです。平均的な人間が平均的な絵を描いて、それはたぶん美しくはないはずです。

平均から外れているところに本物の美は存在し、愛されるのです。

 

しかし、私たちは周りの価値観や環境に大きく影響を受けてしまっていて、平均から大きく外れてしまうと、気持ち悪いとか怖いと思われ、その視線を受けることで自分も自分のことをそう思い込んでしまい、劣等感を抱くようになってしまいます。凪沙が一果に「私って気持ち悪い?」と聞いて泣き崩れる場面がありますが、恐ろしいのは周りの視線が本人の認識まで変えてしまうことです。

 

この映画は「みにくいあひるの子」をモチーフにしているのではと勝手に解釈しています。あひるの中では見た目も違って醜いと言われて、最後は親にも酷い扱いを受けて追い出された子が実は白鳥の子どもで、大きくなるにつれて美しくなり、空に羽ばたくようになったのです。周りの視線に怯えながらも白鳥であることをやめず、バレエに救われて外の世界に羽ばたいていく成長を一果は表現していますし、最初は違和感のあった凪沙の姿も次第に自然になってきて、美しいとすら思えるようになります。ふたりは本当は白鳥なのに、あひるの世界で孤独に強く生きなければならないという点で共通していて、そこに親子でもない恋人でも友人でもない、しかし無償の愛と強い絆が生まれるのです。

 

 

私はこの映画を観ながら、「一つ目国」の悲劇という話をふと思い出しました。

「一つ目国」の悲劇

ある旅人が、旅の途中で道を見失い、
不思議な国に迷い込んでしまいました。

その国は、一つ目人間の国だったのです。

その国の住人は、誰もが、目が一つしかない人々であり、
旅人のように目が二つある人間は、
一人もいなかったのです。

その国に迷い込んだ当初、
旅人は、変わった風貌の住人を見て驚き、
そして、しばらくは、
彼らを不思議に思って眺めていました。

しかし、その国で過ごすうちに、
旅人は、だんだん孤独になってきました。

自分だけが二つの目を持つことが
異常なことのように思われてきたのです。

そして、その孤独のあまり、
ついに、その旅人は、
自ら、片方の目をつぶし、一つ目になったのです。

この旅人の悲劇は、決して、
遠い彼方の国の物語ではありません。

なぜなら、
我々も、しばしば、
この旅人のように、
自ら、片方の目をつぶそうと考えてしまうからです。

自分自身であることの孤独。

そのことに、耐えられず、
自分自身であることを
やめようと考えてしまうのです。

 

(田坂広志「風の便り」より)

 

女性の心を持った凪沙が、一果にバレエを続けさせるために、男性の姿に戻って生きていこうとしたとき、一果は感謝するどころか「頼んでない!」と怒ったのは、幼心ながらも自分自身であることを失ってはいけないことを知っていたからだと思います。あなたはそのままが美しいのに、人と違うことがより美しいのに、孤独に耐えきれず、差別や偏見、同調圧力に自ら負けてはいけないと、口下手な中学生ながらに伝えたかったのです。真の美しさや愛は、本当はふたりの側にあるのですから。