コントロール願望を手放す

皆さんは、自分の中にあるコントロール願望に気づくことがあるでしょうか。コントロール願望とは、誰かを上手に動かしたい、操りたいという願望、つまり自分の思い通りに相手に行動してもらいたいという気持ちのこと。人間である以上、多かれ少なかれ、コントロール願望はあるのですが、自分でもコントロールが効かなくなるほどに無意識のうちに行ってしまっていると問題です。あなたのためと言いながら、自分の都合の良いように相手を誘導してしまう癖がついた人たちが増えると、お互いの選択の自由が少ない窮屈な社会が生まれてしまうからです。

 

私がこのコントロール願望に気づいたのは、子どもの教育にたずさわっていた頃です。その当時は、コントロールという言葉で考えていたわけではありませんが、子どもを上手いこと言いくるめる先生が仕事のできる先生という風潮に、何となく違和感を覚えていました。生徒の利を説きつつ、こうしてもらいたいという気持ちを伝えるのは先生の重要な役割のひとつではありますが、どうも単一の目的が最初にあって、そこに向けて生徒を巧妙に誘導しているだけにしか見えない現象があちらこちらに見られたのです。

 

なぜ違和感を覚えたかというと、先生は生徒を上手に導いたつもりでも、実は生徒さんは仕方なしに従っていることが多かったからです。生徒さんからすると、下手に逆らっても仕方ないし面倒くさいから、誘導させてあげているという気持ちなのに先生の方は気づいていないということです。私はこのような光景を見ると胸が痛みました。先生と生徒という力関係の中では、表面だけを見ると上手く行っているのですが、自分の意思に反して誘導された生徒さんの心にはしこりが残るのです。

 

「利他性」についての研究をしている伊藤亜紗さん(ケアカレナイトにも招こうと考えていた素晴らしい方です)が、視覚障害者の例を挙げて、私たちが誰かのためと思ってやっていることは意外にも利他的ではないと述べていました。中途で視覚障害になった方が、「毎日がはとバスツアーになった。ガイドヘルパーさんに一から全てを案内されるのは便利ではあるけれど、外の世界を自分で感じたり、考えたりもしたい」と話されたそうです。自分はガイドヘルパーという役割を演じ、相手を視覚障害者という役割に固定してしまうと、相手はとても窮屈に感じるということもあるということ。私を含めたほとんどの人たちは、利他の名目の下、実は利己的な行動をしてしまっているのではないでしょうか。自分は利他的だと信じているのに、相手は利己的だと感じているのが皮肉ですね。

 

 

それは介護の現場でも、親子の関係においても、同じように起こっています。特に、相手と力関係に差がある場合に顕著に見られる現象です。相手のためと言いつつも、自分のそうあってもらいたいという状態に相手をコントロールしていませんか?コントロール願望を克服し、本当の意味で、相手に自立支援や選択の自由を提供するためには、まずは自分の内にあるコントロール願望に気づくことです。コントロール願望を意識することができたら一歩前進。その先は自分のこうしてもらいたいという願望を疑い、手放すことです。前述の伊藤亜紗さんは、「スペースをつくる」と表現されていました。相手との間に、時間的、空間的、精神的なスペースをつくることです。そして最も大切なのは「待つこと」。相手をコントロールしたり、一方的に自分のべき論を押し付けないようにするためには、どうしても待つ時間が必要になってきます。スペースをつくり、待つことを意識できると、今まで自分が相手に対して抱いていたコントロール願望が幻想であったことに気づくはずです。