コミュニケーションについて

良い映画を観るとまた次も観たくなるように、良い本を読むとまた次も読みたくなり、そのような良い連鎖が続くことがあります。今年に入ってから、たまたま手に取って読んだ3冊がまさにそうでした。ご覧のとおり、まったく異なるジャンルやテーマの3冊ですが、どれも新たな気づきが多く、なるほどと頷きながら、食い入るように読みました。これら3冊を読み終わってみてふと気づいたのは、どれも他者とのコミュニケーションが中心にあったことです。自分とは違う他者をどう理解し、分かり合えるかというテーマでした。私は無意識のうちにコミュニケーションに興味を持っていたのか、それともコミュニケーションが求められる時代の流れなのか分かりませんが、改めて他者とのコミュニケーションを問うきっかけになりました。

それぞれの本の中身は別の機会に紹介しますが(興味のある先生はケアカレ図書館に置いておくので読んでみてください)、3冊に共通している主張があります。というか、馬と話す本も、今流行りのオープンダイアローグ本も、利他という新しいジャンルの本も、全て同じことを言っているのです。他者を「コントロールしようとしない」、「変えようとしない」、「誘導しようとしない」、「余白をつくる」、「待つ」、「自分を知る」などです。他者を変えようと(コントロールしようと、誘導しようと)しないからこそ、相手が(勝手に)変わるということであり、そのためには他者との間に余白やスペースをつくって、待つ必要があるということです。

裏を返せば、他者を変えようと(コントロールしようと、誘導しようと)すると、相手は変わらないし、コントロールが難しくなり、抵抗されてしまうということです。私が実体験としてこのことを学んだのは、30歳を超えて森塾という個別指導塾で子どもたちを相手に教えた頃です。集団授業の塾に比べ、個別指導の塾にはあまり勉強が好きではない、いわゆるやんちゃな(可愛いものですが)子どもたちが集まる傾向があります。勉強に対してはモチベーションが低く、大人に対しても従順ではないということです。集団授業の塾で教鞭をとっていた先生が個別指導では上手くいかないのは、ここに理由があります。上手くいかないというか、これまでのコミュニケーションが間違っていたことを知らされるのです。

 

それは私も同じでした。湘南ゼミナールという集団授業の塾でも、三幸福祉カレッジで働いていたときも、僕はこうあるべきという像を押し付けすぎていたのです。こうあるべきという、小さな輪の中に他者を押し込めようとして、コントロールしたり、誘導したり、相手を変えようとしたりしていたと思います。相手が大人や従順な子どもであれば、表面的には自分の意志が通った気になりますが、実は何も変わっていなかったのです。森塾で教えることがなければ、もしかすると私は永遠に気づかないまま一生を終えていたかもしれません。それほどに、森塾で今までのコミュニケーションのスタイルが通用しなかったことは私にとって貴重な経験でした。まずは褒める・認めることから入る、相手を尊重する(選択してもらう)、無理に教えようとしない(教えすぎない)、誘導しようとしている自分に意識的になる、などは森塾の子どもたちから教えてもらいました。

 

卑近な例になりますが、うちの子どもが中学生になった頃から、村山家の朝は「早く起きなさい!」というキッチンからの怒号でスタートします。子どもは目が覚めているのに、妻の声を聞こえないふりをします。いつまでも起きてこないので、「もう7時40分よ!」「〇〇くんをまた待たせるつもり!?」「朝ごはんちゃんと食べてよ!」「今日の持ち物の準備はできているの?!」と妻の怒りは最高潮に達します。私は目覚まし時計ではなく、このやりとりで目覚めます(笑)。朝からギャーギャー言われるから余計に起きたくないという息子の心理は良く分かります。コントロールに対する反抗ですし、両者の間には余白がない状態です。

 

ある日、妻が泊まりの研修で不在にしていました。朝ちゃんと起こしてと私は言われていたのですが、せっかくなので実験をしてみました。前日の夜、「明日はお母さんが朝いないから誰も起こしてくれないけど、何時に起きれば間に合うの?」と子どもに聞くと、「友だちが7時40分ぐらいに迎えに来るから、朝ごはんを食べる時間を考えると、7時20分に起きていると良いかな」と答えてくれました。「そっか。じゃあ、目覚まし時計をかけて自分で起きてね」とだけ返し、私たちは寝ました。もし子どもが寝過ごしたり、起きられなかったりしても、私は起こすつもりはありませんでした。いや、起こさないと決めて寝ました。万が一、学校に遅刻してしまっても大したことではありませんし、失敗から学ぶこともあるはずですし、そもそも普通に起きるだろうと考えていました。

 

 

子どもは早めに目覚ましをかけていたらしく、7時前から目覚ましは鳴り始めました。いつもは愚図っていつまでも布団から出ようとしない息子が、7時20分になると、誰に何も言われることなく自分でスッと起きたのです。朝ごはんを食べ、その日の持ち物を準備して(前日にやっておけよとは思いますが笑)、迎えにくる友だちを待つ余裕があったほど。たまたまこの日だけ上手く起きられたのかもしれませんし、緊張感がなくなってくると寝坊する日も出てくるかもしれませんが、とにかくこの日の朝は平和だったのです。毎朝、大声を張り上げて起こす方も大変ですし、嫌な気持ちで起こされる方も苦痛ですし、それを周りで聞いている方も心苦しい。コントロールを手放し、相手にゆだねることで、誰も声を荒げることなく、子どもは自分の意志で起きて学校に行ったのです。ただ、僕はこのやり方を妻に押し付ける気はありませんし、何かを変える気もありません。ご想像のとおり、翌日からはいつもの騒がしい朝が戻ってきました。まあそれはそれで良いのかもしれません。