自分たちの分身

先日、卒業生さんが友人を連れて教室まで来てくれました。友人は今月からスタートした介護職員初任者研修の日曜日クラスにすでに申し込みをされていて、事前視察も含めて、卒業生さんが連れてきてくれたのでした。ご友人には4階の教室を見てもらい、その後、事務所で立ち話をしていると、卒業生さんが自分のクラスでつくった色紙を見つけ、「あった、これだ!私のメッセージも左上にある!」と指差しました。よく見ると、平成29年の4月日曜日クラスと記されていたので、今から4年前(ほぼ5年前)のクラスでした。「懐かしいですね」と言いながら、メッセージの名前を見ると、それぞれの顔が浮かんできて、思い出ばなしに花が咲きました。

卒業生さんが湘南ケアカレッジに戻ってきてくれたとき、自分のクラスでつくった色紙やメッセージボードを探して、見つけて嬉しそうにしている光景をよく見てきました。たとえ何年ぶりであっても、湘南ケアカレッジに戻ってくると、ほとんど変わっていない教室の風景を見て、懐かしの先生方と再会し、卒業生さんたちは安心します。流れてしまった歳月の長さを感じつつ、自分のクラスのことが思い出されてきて、懐かしいなあと感傷に浸っていると、ふと色紙(メッセージボード)のことが思い出されるのでしょう。そういえば、あのときつくった色紙(メッセージボード)はどこにあるかな?と見渡してみると、飾られているのです。自分たちが、あのとき、ここにいたことを記す証拠としての色紙(メッセージボード)が!

 

美学者の伊藤亜紗さんが著書の中で、人間の身体性にまつわるこんな面白い話をされていました。伊藤さんの友人がモンゴルに行き、結婚式を挙げたときの話です。式が終わり、父親役を務めてくれたモンゴルの親戚の方が、「君にこの馬を1頭プレゼントする」と言い出したそうです。友人は「急に言われても、持って帰れない」と断ろうとしましたが、「この馬を持って帰れという意味ではなく、自分たちがこの馬をモンゴルでずっと飼っているから、君が来たときにいつ乗ってもいい。君の馬なんだから」と言われたそうです。

 

この話の意味としては、人間はその場にいられなくても、何かを分身として残すことでその場にいられるということです。その馬がモンゴルにいることによって、友人は東京にいてもモンゴルの草原を感じたり、モンゴルで出会った人たちを思い出したりすることができるわけです。残された人たちも、その何かによってその人の存在を感じることができる。分身が存在することによって、物理的な距離を超えて一緒にいると感じられる。そこにいるということは、身体性が必ずしも問われるわけではないのです。

 

 

卒業生さんたちは、先生方や学校に対する感謝の気持ちを表現するために色紙(メッセージボード)を贈ってくれるのだと思っていましたが、それだけではないのかもしれません。色紙(メッセージボード)を残すことで、自分たちがそこにいたことを記し、自分たちは去ったとしても自分たちの気持ちは少なからず湘南ケアカレッジに存在し、また私たちもその色紙(メッセージボード)をふと見ることでそのクラスの生徒さんたちの存在を感じることができる。色紙(メッセージボード)はモンゴルの馬と同じなのですね。だからこそ、教室に戻ってきたときには、自分たちの分身としての色紙(メッセージボード)の存在を探すのだと思います。そして自分たちがそこにいたこと、そして今もいることを確認し、過去と今がつながり、また安心して教室を去って未来へと旅立つことができるのです。