「他者と生きる」

コロナ騒動が始まった当初、感情的になることなく至って冷静に、まともな言論を貫いた学者は数少なかったのですが、著者の磯野真穂さんはその一人でした。本のタイトルにもあるように、リスクや病い、そして死を深く見つめつつ、他者と生きることはどういうことなのかを発信した記事は今でも記憶に残っています。命を守ることだけに社会が傾倒していったあの時期に、あの内容を書くにはとても勇気が要ったはずです。その勇気とあまりの正論にハッと気づかされた方は僕を含めて多かったはずで、彼女の学者としての株は一気に上がったと思います。今回この本の中では、コロナ騒動のおかしさを、真正面からではなくかなり回りくどく、しかし人類学者として鋭く斬ってくれています。

 

論点は多岐にわたるのですが、私にとって興味深かったものを2つほど挙げさせてください。ひとつは、「直接体験」と「情報体験」についてです。子どもからお年寄りまで、ひとり1台のスマートフォンを手にした私たちの社会には、ひと昔前と比べても圧倒的な情報が溢れています。かつては直接見たり聞いたりして体験しなければ知り得なかったことを、今は簡単に「情報体験」という形で知ることができるようになりました。

 

そういう時代には、「直接体験」と「情報体験」の区別がつかなくなっていきます。たとえば、極端な例ですが、外国に行ったこともないのに行ったことがあるような体験ができますし、北極で氷が解けていると聞けば、実際には見たことも体験したこともないのに事実だと思い込むようになります。人間の考え方やその人らしさは「直接体験」で形づくられていたものが、気づかないうちに「情報体験」に浸食されてしまっているのです。特に男性はその傾向が強く、対して女性は現実社会や自然に対する肌感覚を残している気がします。

 

量的にも質的にも「情報体験」が「直接体験」を凌駕してしまった時代が不気味なのは、情報を歪めたり操作することで、私たちの体験にも影響を与えることができるからです。「直接体験」は個別のものであり、大量生産ができないため、社会全体に影響を及ぼすことは難しかったのですが、情報は複製可能であり、私たち全員に対して一気に拡散することができるのです。単刀直入に言うと、テレビやヤフーニュースなどのマスメディアに乗せることで、私たちの「情報体験」をコントロールすることがどの時代よりも容易になったということです。ピンと来た方もいるかもしれませんが、そうです、「情報体験」ばかりして、現実社会との接点が少ない男性ほど騙されやすいということです(笑)。

 

もうひとつの論点は、時間をめぐる価値の問題です。人生は長さではなく、どう生きたかである。長く細くではなく、太く短く生きたいというセリフは良く聞きます。磯野さんはそこにもこんな問いを投げかけます。

 

「不慮の事故や病気で若くして亡くなった人の人生と100歳まで生きた人の人生を比べるとき、前者の方が短かったとは必ずしも言えないのではないか。35歳までしか生きられなかった人の生と85歳まで生きた人の生の長さがほとんど同じであること、場合によっては前者の方が長い場合もあるのではないか」

 

何を言っているのか分からないという方もいるでしょうから説明すると、磯野さんがここで指している長さとは、物理的な時間の長さではなく、関係論的人間観における時間の長さです。もっと分かりやすく言うと、人間は他者と関わりを持ったときに初めて存在が現れるのであって、どれだけの時間を他者と直接に関わったかが本当の意味でのその人の生きた時間なのではないかという話です。つまり、ネットフリックスを観て楽しんだ時間はあくまでも情報体験としての物理的時間であって、それは生きた時間ではなく、たとえ誰かといがみ合ったり喧嘩したとしても、その時間は人間として直接生きた時間ということです。

 

 

私たちはこの難しい時代をどのように生きるのか、考えなければならない段階に来ているのだと思います。他者と生きることは直接かかわることであり、そこにはリスクも存在しますが、それ以外に本当に生きる方法はないのではないでしょうか。ありもしないリスクをことさら誇張して私たちをコントロールしようとするなんて論外ですから、そうした情報体験の罠から抜け出すためにも、私たちは他者と直接交わり、喜怒哀楽を直接体験することで本当の生を取り戻す必要があるのです。