私はあの人であったかもしれない

世界報道写真展に行ってきました。昨年は仕事で大阪にいた時にたまたま開催されており、ふらっと気軽に足を運んでみたのですが、あまりの迫力に圧倒され、衝撃を受けて帰ってきました。今年は2年目でもあり、意を決し、世界の現実から目を背けないつもりで恵比寿を訪れました。そのとき何が起こったのか、そして今、何が起こっているのか、どれだけ言葉を尽くしても説明することのできない真実を、一枚の写真が一瞬のうちに語るのです。

今回の写真展で最も印象に残ったのは、ポスターとしても使われている一枚の写真。幼い兄弟、ムハマンド(3歳)とスハイブ・ヒジャジ(2歳)の遺体を抱きかかえ、葬儀のためガザ地区のモスクに向かう親族たちを撮った写真です。この写真は、世界報道写真大賞2012を獲得したように、戦争や紛争の悲しさを、有無を言わせない迫力で突きつけてきます。まだ小さい子どもたちの体を抱きかかえている父親の心の叫びが、写真の中からこちらまで届いてくるようです。

 

そして、原因不明の疾患で、後頭部や喉や額に大きな瘤(こぶ)がある女性や体中に小さなしこりのような凸凹が無数にできてしまった男性たちの肖像写真も忘れられません。「私は教師だから、こんな顔で生徒の前に立つのはつらい」「妻も子どもも私に近寄ろうとしなくなって悲しい」と本人の言葉も添えられています。思わず目を背けたくなりますが、それでも見つづけていると、最初に感じた奇異に対する怖れの塊が次第に溶けてゆきました。そもそも人間の姿形なんて、決まっているものではありませんし、私たちが日常で感じている他者との小さな違いの中でのコンプレックスが実に些細なことにも思えます。

 

世界で起こっている現実を写真という形で見せられたとき、いつも私が感じるのは、もし私がこの人だったらどうだろう?、この場所にいたらどうだろう?ということです。もっと言うと、私はたまたまこの人ではなかったし、この場所にはいなかったけれど、もしかしたら私はこの人であったかもしれないし、この場所にいたかもしれない。可能性の問題としては、私がこの写真の中の人であった確率は十分にあります。それはもう他人事ではないのです。

 

介護の世界には共感や傾聴といった言葉があります。共感とは、他者と喜怒哀楽の感情を共有すること。他者が悲しいと感じているとき、悲しいと感じていると分かるだけではなく、自分も他者と同じ感情を持つことです。また傾聴とは、人の話をただ聞くのではなく、注意深く、丁寧に耳を傾けること。自分が聞きたいことを聞き出すのではなく、相手が伝えたいことを聞こうとする態度のことです。

 

どちらも素晴らしい言葉であり姿勢ですが、これらのさらに上に、私がもしあの人であったら、私はあの人であったかもしれない、という考え方があると思います。そう考えることで、世の中の偏見や差別は少なくなり、自分という枠から解放される方法にもなり得ます。そしてそれは、自分を介護するように他者を介護するということにもつながってゆくのです。

 

■「世界報道写真展2013」 

*8月4日(日)まで恵比寿で開催中です。

詳しくはこちら→ http://www.asahi.com/event/wpph/