「死とどう向き合うか」

著者であるアルフォンスス・デーケン先生は、ドイツ生まれでカトリック司祭、アメリカのニューヨークの大学院で博士号を取得し、上智大学で30年にわたって「死の哲学」を教えているという異色の中の異色という方です。「死生学」という新しい概念を提唱した人物としても知られています。ちょうどデーケン先生の講演にこれから行くという人に勧められ、私もこの本を手に取ってみました。デーケン先生の本はたくさんありますが、よくまとまっていて、とても読みやすい内容でした。死を見つめることは、生き方を問うこと、という死生観(考え方)には私も心から共感しました。

 

その中でも、死へのプロセスに光を当てた箇所には頷かされました。通常は、死に向かうプロセスとして、「否認」→「怒り」→「取り引き」→「抑うつ」→「受容」という5段階があるとされます。死生学の大家であるキューブラー・ロス氏が、著書「死の瞬間」に記した5つのプロセスが原型となっています。この5つのプロセスの最後に、デーケン先生は「期待と希望」という第6段階を付け加えます。

 

デーケン先生がドイツやアメリカの病院やホスピスにて、死後の生命を信じる人たちが、最期まで希望に満ちた明るい態度をとる姿をしばしば目にしたそうです。こうした人たちは、「受容」の段階にとどまらず、永遠の未来や愛する人との再会への期待と希望が大きい。キューブラー・ロス氏も著書の中で、「誰もが最期まで希望を持ち続けている」と書いているように、実際には死を受け入れてお終いということではなく、その先には、それでも希望や期待を人間は抱いて生きていく(死んでゆく)という境地に至るということですね。

 

それ以外にも、多岐にわたって、どう生きるかが述べられており、私の心に残った部分を引用させていただきます。

 

すべての人間は、大きな潜在能力を秘めた存在です。多くの人は、まだ時間がいくらでもあるように考えて、自分の潜在能力を開発しようとせず、漫然と過ごしてしまうことが多いのですが、死への恐怖が、限られた時間の中で、持てる能力を発揮させるきっかけとなることもあります。


 

死と直面することで、人間の有限性を自覚することになり、自分の潜在能力を発揮し、より良く生きることを問われるということです。面白いなと思ったのは、スイスの心理学者ユングは「普通の人は、だいたい自分の中の能力の50%くらいを開発しているだけだ。あとの半分は置きっぱなしにしている」と話したということ。また別の心理学者は、「私は今まで自分の潜在能力の10%以上を使っている人間には会ったことがない」と言います。5%や6%しか自分の能力を発揮していないという厳しい意見もあるそうです。たしかに、自分を考えてみても、もっとできるかもしれない、できたかもしれないと思うと心が痛いです。

 

最後に、問題と神秘に関する考察を引用して締めくくりたいと思います。

 

私たちが受けてきた教育は、技術を用いての「問題」解決という側面に重点を置きすぎているきらいがあるように思われます。終末期医療においても、患者の生と死を単なる技術的な「問題」として捉えようとする考えは、大きな過ちを犯すことになるのではないでしょうか。

(中略)

技術によってすべてを解決しうると考えるべきではないと思います。人が「神秘」という局面に対して盲目となって、あらゆる「神秘」を単なる「問題」解決の次元まで引きずり下してしまうことは、近代の教育がもたらした最大の欠陥のひとつに思えてならないのです。生と死の場面において重要なのは、人間の全体性、総体としての人間そのものなのだと考えます。死にゆく患者の生と死は、単なる「問題」の次元を超えて、私たちが大いなる「神秘」の前に立たされていることを悟る必要がありましょう。