「グレートデイズ」-夢に挑んだ父と子-

「ドラえもん3D」の映画に息子を誘ったら見事に断られたので、ひとりで「グレートデイズ」を観に行ってきました(笑)。「グレートデイズ」は生まれつき障害のある車いすの青年とその父がトライアスロンの最後方のレース「アイアンマンレース」に出場するというストーリーです。父は障害を抱えて生まれてきた息子とうまく接することができず、仕事の忙しさにかまけて、2人の心の距離は次第に離れてしまっていました。そんな折、父が失業して久しぶりに自宅で過ごすことになります。過去の栄光を知った息子の「父さんと、アイアンマンレースに出たい!」というひと言をきっかけとして、自らの肉体や気持ちと葛藤しながらも、障害のある息子と向き合うことになるのです。


全編を通して観て、良くも悪くもシンプルな映画だと感じました。余計な装飾がほとんどなく、お涙ちょうだいでもなく、障害のある息子と父が苛酷なトライアスロンに出場し、完走するまでを追う展開で、テーマがすっきりとして分かりやすい。反面、ストーリーや登場人物のセリフに伏線があるわけでもなく、ラストシーン以外は全体としての盛り上がりは少ない。映画の魅力としては、絶対に負けないと歯を食いしばる父の強い気持ちが伝わってくることと、主人公に実際に障害のある青年を起用していて、彼がとても生き生きとしていることです。この映画の底知れぬ明るさは、彼の笑顔のそれに象徴されていると思います。

 

この映画を観て思うことは、自分だったらこんな風にできるのかということ。それはトライアスロンに出場するということではなく、障害のある子どもを受け入れ、一緒に夢を目指して生きることができるのかどうかということです。私自身、こういう仕事をしていますので、障害や難病等に対する多少なりの知識や理解はあると思っていますし、受け入れもできるとは頭の中では分かっています。昔は障害を抱えて生まれて来た子は宝児だと言われていたように、障害のある人が家族にいると、その家族はひとつになって、お互いが思いやりを持って共生することができると思っています。

 

とはいえ、実際に自分がその立場になってみて、本当にそう思えるのか、受け入れることができるのかと問われると、正直分かりません。もしかしたら揺らいでしまうこともあるかもしれません。たとえば出生前の検査を受けて、重い障害を抱えて生まれてくると知ったら、果たしてそれでもその生を望むことができるのかどうか。それは自分だけの問題ではなく、その子の人生を含めて、全てを肯定してゆくことができるかどうか。もし自分だったらと考えれば考えるほど難しく、実際にそうした状況になってみなければ、答えのない問いであることは確かです。

 

でも、希望はあります。作家である髙橋源一郎さんが「101年目の孤独」に書いた、自身の次男の話に私は光を見るのです。そういえば、同じようなことを稲川淳二さんもおっしゃっていました。少し長くなりますが、髙橋源一郎さんの体験を引用して終わらせてください。


次男が、急性脳炎で国立成育医療センターに運ばれたのは、2009年の正月だった。その時、次男は2歳の終わりを迎えていた。体調を崩し、大晦日に近くの病院に連れていった。診断は「風邪」であった。急変したのは帰宅し、寝てからだった。明け方には、麻痺が広がり、意識が朦朧とした。1日、慌てて、前日の病院に行くと、同じ医師が「急性脳炎だと思うが、ここでは治療できない」として、救急車を呼んだのである。

成育医療センターに運ばれた次男はただちに脳の検査を受けた。医師は、わたしと妻を別室に呼び、こう告げた。

「お子さんは、たいへん重篤な状態です。急性の小脳炎だと思います。これから、治療を開始しますが、このまま亡くなる可能性が3分の1、助かったとして重度の障害が残る可能性が3分の1だと考えてください」

わたしには、医師がしゃべっていることばの意味がよくわからなかった。作家であるにもかかわらず、自分が誰かの作品の登場人物になって、他の登場人物の台詞を聞かされているような気がした。

医師との面談が終わるとNICU(小児用集中治療室)にいる次男のところに行った。次男はオムツだけにされ、四肢をなにかで固定されていた。意識はほとんどなく、獣のようなうめき声だけが聞えた。

そして、わたしと妻は、一度、帰宅した。用意すべきことがいくつもあったからだ。わたしは一晩、考えた。そのいくつかは、愚かなことだった。自分の思考を愚かだ、と思いながら考えた経験は、ほとんどなかった。たとえば、次男がこれからずっと寝たままで生涯を過ごすとして、いくら経費がかかるか、わたしが死んでからなおどれほどの年月、彼は生きねばならぬかを考えた。わたしに財産はないに等しい。わたしは、半ば本気で銀行強盗でもするしかないのか、と思った。要するに、わたしはパニックに陥っていた。

それからまた別のことを考えた。重度な障害の遺った次男は、どんな生活をおくることになるのか。教育はどうなるのか。「ふつうの」教育を受けさせることしか頭になかったわたしには、その方面の知識が完全に欠けていた。いや、おそらく、こんな状況に陥らなければ、誰でも、その知識が欠けていることさえ知らないのである。

翌朝、わたしは、それがどのようなものであろうと、事実を受け入れるべきだと考えるに至った。そして、その瞬間、不思議なことに、いままで考えたことのないような深い喜びを感じた。

いま思えば、その夜、わたしはキューブラー・ロスが言った「死を受け入れる5つの段階」を経験したのだ。否認(なぜ、彼が死んだり、障害者にならなければならないのか)→怒り(彼にはなんの咎もないのに)→取引(わたしはどうなってもいいから、彼を元に戻してほしい)→抑鬱(もう耐えられない)→受け入れ(この事実を認め、どうやって彼と共に生きてゆくかを考えよう)である。

子どもの死は、わたしにとって、自身の死に匹敵するものだったのだろうか。あるいは、解決できない難問を前にすると、わたしたちはいつも「死を受け入れる5つの段階」と同じステップを踏んで考えるしかないのだろうか。

わたしは、次男が死ぬまで身動きできず、ことばも話せないという状態になったとして、最後まで支えることを決めた。「決めた」というのは、おかしな表現かもしれない。それは、「責務」だろうか? 違う、とわたしは感じた。

わたしたちにとって義務や仕事の多くは「わたしではなく、他の誰か」でも代替可能なものだ。だが、その次男を支えて生きることは「他の誰かではなく、わたしたち親」に対して、捧げられた仕事なのだ、と感じた。わたし(たち)にしかできない仕事、あるいは義務、それは喜ばしいものではないだろうか。

わたしは、一日かかって、その結論に達し、そのことを妻に告げた。すると、妻は呆れたように「そんなことを一日考えてたの?」といった。わたしが一日かかってたどり着いた結論に、妻は、医師の宣告から数分でたどり着いていたのである。

その後の、次男の入院生活についてはここでは書かない。彼は、医者も驚くほど急激に、かつ奇跡的に回復した。小脳炎の後遺症と思われるものは残っているが、日常生活に支障をきたすことはない。そういう意味では、わたしの心配は杞憂に終わったのである。

だが、この経験はわたしを変えたように思う。2カ月の間、わたしは、次男が入院している成育医療センターに通った。たくさんの難病の、あるいは、重い病にかかった子どもたちが次から次にやって来た。そして、何人もの子どもたちが亡くなっていった。

ある日、わたしは不思議なことに気づいた。わたしと同じように、その病院に通う母親たちの表情がとても明るいことに、である(父親の数は、母親に比べてずっと少なかったし、表情も暗いように思えた)。

なぜ、そんなことが可能なのか。病気の子どもの傍にいることは苦痛ではないのか。わたしは、病院の最上階にあった食堂で、ひとりの母親に訊ねた。その母親には、3つの難病を抱えた6歳の子どもがいて、その子どもは、数カ月置きに3つの病院に順番に入院していった。もう何年も自宅に戻っていないのだ、とその母親はいった。そういいながら、表情は明るかった。

わたしの質問に、その母親は、こう答えた。

「だって、可愛いんですもの」

それは意外な答のようにも、当然の答のようにも思えた。わたしもまた、意識がなく、時折痙攣をしている、医師から「回復しないかもしれない」といわれていた次男を見ながら、「これほど可愛いものがあるだろうか」と見ほれていたのだ。

(「101年目の孤独」より)