「おおきな木」

4月に行われた講師会にて紹介させてもらった「おおきな木」。1964年に出版され、世界38か国、900万人の人々に読まれてきた絵本です。2010年に作家の村上春樹さんが新しく翻訳を手がけられたことで話題にもなりました。私も小さい頃に読んだ(読んでもらった)記憶がありますし、妻の実家の本棚にも残されていました。おおきな木とひとりの少年のかかわりについて描かれたお話ですが、絵本という枠を超えて、私たちの人生にも何かを問いかけてくる素敵な物語です。もし読んだことがない方がいらっしゃったら、ぜひ読んでみてください。


この物語を読んで、おおきな木が母親であり、ひとりの少年は子であるという解釈は、その通りだと思いますし、著者のシルヴァスタインさんもそのつもりで描いたと思います。母から子に対する無償の愛という素直な解釈が最もしっくりきますね。親としての自分をおおきな木に重ねる人もいるかもしれませんし、子どもとしての自分の姿を少年に見るかもしれません。そのどちらも分かるからこそ、より深く心に突き刺さるという人も。どちらにしても、私たちは分け与えるということの意味を考えさせられるのです。

 

何もかも分け与えてしまって、最後は切り株になってしまったおおきな木。最後の一文はこう締めくくられています。「それで木はしあわせでした」。ここを「それでも」とせず、「それで」とした村上春樹さんはさすがだと思います。全てを分け与えてしまったけれど、それでも幸せだったということではなく、全てを分け与えたことで幸せになったという意味ですね。分け与えること、分かち合うことで幸せになる。そこには見返りを求める気持ちや自己犠牲の精神などはなく、ただ単純に分け与えることが幸せにつながるということです。

 

ひとつ間違うと、きれいごとのように聞こえてしまうかもしれません。母と子、親と子といった血のつながっている者同士でしかあり得ないと思われてしまうかもしれません。ほとんどの人は、自分がひとりの少年であることを恥じつつも、おおきな木にはなりたくないと思うかもしれません。それはそれで素直な感情ですが、そこには実はおおきな木こそが幸せや愛を最も感じているということが抜けてしまっています。そう、この物語で最も幸せで愛に満ちているのはおおきな木なのです。

 

現代の社会に生きる私たちには、どうもこのあたりの感情が理解しにくくなってしまっています。人やものをどのように利用しようかと互いに考え合っている社会では、分け与えることが自分の幸せであり愛情につながることが感じにくい。お金のために、家や車のために、社会的な地位のために、生活のためになどなど、相手を利用することに頭が行ってしまい、まずは自分を差し出す余裕が失われてしまっているのかもしれません。本来は与えたものしか返ってこない、差しだすことで初めて受け取ることができるのです。佐々木先生が睡眠の授業で紹介する、「分かち合えば、幸せは2倍に、悲しみは半分に」という言葉ともつながってくるのではないでしょうか。