
誰にだって、未来が見えなくなるときがあるはずです。この先どうすれば良いのか、どうやって生きてゆけば良いのか、何が正しいのかさえ分からなくなってしまうこともあるかもしれません。目の前の光を失い、暗闇の中を歩かなければならないような時期が、人生に一度や2度は訪れます。この本の著者は、東日本大震災の際に福島に入り、未来が見えなくなった状況から人々と共に考えてきたことを本にまとめています。震災という究極のケースがモデルではありますが、だからこそ、未来が見えなくなったとき、私たちがどう立ち直っていくべきなのか、より分かりやすく示唆されていると思います。その考え方や思想は、介護や福祉でいうところのICFモデルに近く、私たちも学ぶべき内容だと思い、ここに紹介させていただきます。
本の内容については、私がとやかく語るよりも、書かれていることをそのまま受け止めていただきたく、私が線を引きながら読んだ箇所を引用させていただきます。今いろいろなことに行き詰りを感じている方にとっては、何らかのヒントが隠されているかもしれません。興味を持たれた方は、ぜひ原書を買って読んでみてください。
このような状況で人はよく、「あなたには何が必要ですか?」と聞く。打ちのめされるような質問ではないか。聞くべきは「あなたは何を持っていますか?」だろう。我々は、今「持っているもの」から始めることで、しばしば「必要なもの」に結果的に導かれる。持っているものから生じる必要(ニーズ)は、必要なものを根こそぎ失った人に「何が必要か?」と聞くことの、息の詰まるような重さとは、まったく異なるものがある。
道を進むにつれ、「諦める」ことと、「明け渡す」ことの違いを学んだ。明け渡すこと、それは実は自分が顕現することだ。諦めるのではない。本当に在るところのものに自分を顕現させることだ。我々がそうであるだろうと思うもの、あるいはそうあってほしいものにではなく。
「混乱の真ん中」という観念が僕の中でますます重要になっている。混乱に心がかき乱されたり、片付けようとしたりしないことが重要だ、と気がつき始めていた。そうではなく、それと共存することを学んだのだ。清澄と混乱の往復を重ねてきたことで、混乱の鬱に落ちる前に気がつき、休むことが必要だと気づけるようになった。していることから離れて、瞑想、祈り、深い会話をすることが必要だと。
未来は相互に耳を傾けることで創られていく。そう僕は思っている。対話から始まるのだ。対話のセッションでは、集まった人々は、それぞれの物語(ストーリー)に耳を傾け合い、学んだことを分かち合う。そして、僕たちが夢や悲しみを共にし、心を合わせるとき、より多くのことができる。そう僕は確信している。考えが深まり、さらなる情報が集まり、可能性が生まれていく。こうして、エレガントかつ最小限のステップで、次に協働する仲間が引き寄せられるのだ。こう書くと、まるで事が直線的に順番に進行するかのように思われそうだ。しかし繰り返すが、そうではない。そんなふうに始まるものでもない。
「誰かの許可を求めず、自分の心に従おう。各々すぐに始めよう」「一人で行く」ことが、その中心にある。簡単なこと、都合の良いことだと思われるだろうか。そうではない。するべきことを見定める。その道の同志となる友を探す。そして動く。誰かの許可を求めることはない。迅速に行動するのだ。
未来に何があるのかと対話を重ねてきた―未来の一隅には、悲嘆がある。それは常に僕たちの一部だろう。そうしてそれは、違う未来のための燃料でもある。もしその悲嘆を隠してしまおうとするなら、人は心を病んでしまう。
しかし、悲しみはそれを受容するとき、力を与えてくれる。感情を良いとか悪いとか決めることなく、ありのままをただ受け入れるとき、人は気づく。僕たちには、あるべき互いの関係に立ち戻れる力があることに。悲しみはいつも曖昧さや不確実さと共に在る。それらを自ら受容することで、次のステップに進むことができる。
口にされない悲しみは毒となる。あまりに過ぎると、それは人に緩慢な死をもたらす。圧倒されて、不安定となり、道を見失う。だがそれを口にしていくとき、悲しみは変化への燃料となる。可能性と同じなのである。隠してしまうと可能性はしおれる。語られることで成長する。悲しみと可能性は共に、積極的な希望の炎の燃料となることができる。良い対話は、悲しみと可能性の両方を明るみに出すのだ。