「生きる」

佐々木先生に紹介されて、認知症の問題を取り扱った演劇「生きる」を観に行ってきました。そのような劇があることを知りませんでしたし、正直に言うと、それほど期待はしていませんでしたが、とても素晴らしい内容でした。まずは役者さんたちのレベルが総じて高く、ひとつの演劇としての完成度が高くて驚きました。原案がブッチ―武者さんという、「オレたちひょうきん族」の人気コーナーである懺悔室の懺悔の神様をやっていた方であり、全体を通してユーモアに溢れ、重苦しいテーマを扱っているにもかかわらず、とにかく笑いが随所に満ちていました。介護・福祉関係者だけが観る演劇では決してなく、むしろ子どもたちや若い方々にこそ観て、笑って、何かを感じてもらいたい舞台だと思います。

 

主人公の茂は、父から「人様に迷惑を掛けるな」と言われて育てられてきました。その父が他界し、母のサエとふたり暮らしが始まった頃から、母に認知症の兆候が現れ始めます。預けていたお金を忘れていたり、お弁当におかずが入っていなかったり、裸足で外を歩いてみたり、夜に突然起き出してみたり。茂は働きながら母をひとりで介護することが次第に困難になり、会社を辞め、訪問介護サービスを利用しながら24時間体制で母を介護し始めました。わずかな蓄えを切り崩しながら、生活を切り詰めながらの介護でしたが、最終的には経済的に疲弊してしまい、生活保護の扉を叩くのですが、断られてしまうのです。人様に迷惑をかけてはいけないという父の教えを忠実に守ってきた茂が、最後に取った行動とは…?

 

この演劇は実際に起こった事件をもとに脚本が書かれており、最後の裁判のシーンにおける裁判官とのやりとりには、京都伏見介護殺人事件の陳述ならびに供述書が引用されています。その圧倒的なリアリティの前に私たちは立ち尽くしてしまうのです。この舞台は問題提起であり、これといった主張や提案があるわけではありません。将来的にさらに顕在化するであろう認知症にまつわる問題(在宅介護や社会保障制度、地域のつながり)には答えがなく、誰もが直面せざるをえない問題であるにもかかわらず、そうなるまで見て見ぬふりをしてしまいがちな問題です。そんな問題を突き付けられて、それじゃああなたはどうすべきか?と問われると、私たちは口をつぐんでしまうのです。

 

私にも答えはありませんし、アイデアも浮かびません。いずれ社会保障制度には限界が来ることや介護職員の不足の問題も取返しのつかないところまで来ていることは分かりますが、具体的な解決策がないのです。人工知能を持ったロボットが全てをうまくやってくれるような、飛躍的な何かがなければ、このままだと行き詰ってしまうということです。飛躍的な何かに期待するのは良いのですが、それは現実に起こるかどうかは分かりませんので、現実と地つながりで考えるとすれば、以前に紹介した「へろへろ」における介護施設「よりあい」の考え方が参考になるのではないかと思います。

 

「よりあい」は介護を地域に返そうとしている。老いても住み慣れた町で暮らすには、もうそれしかないと考えている。人と人とを自然な形でつなげ、顔見知りの人を増やしていくことで、そこに「困ったときはお互いさま」というセイフティネットを作ろうとしている。

 

けれどそれは口で言うほど簡単なことではない。一度崩壊してしまった「ご近所づきあい」は、もう元の形では再生できないし、疑似的な再生を目指そうにも、即効性のある手段などひとつもない。

 

逆に問題を抱えた人間をどこかに追いやるのはとても簡単だ。電話一本、苦情ひとつで何かが動いて片づけてくれる。実にインスタント。実にコンビニエンス。しかしそれで「ほっと胸をなでおろすような安心」を得ても仕方ない。それは「本当の安心」なんかじゃないからだ。いつか自分が逆の立場になったら、途端に不安だらけになるという「暫定的な心の平穏」に過ぎない。因果はめぐる。他人にしたことは、必ず自分にも返ってくる。老いた人間やぼけた人間を邪魔もの扱いする社会は、いつか自分も邪魔者扱いされることになる社会だ。人が人を薬漬けにして、おとなしくさせようとするのなら、その人もいつか薬漬けにされていくことだろう。何はともあれ、人が人をダメにして、人が人を追い出していくシステムの中で、びくつきながら暮すのはあまり楽しくないはずだ。

(「へろへろ」より)

 

 

「よりあい」の思想も、あくまでも問題提起にすぎませんが、こういう思想をもとに、ひとり一人が認知症や介護の問題をもう少し自分ごととして考えてみるべき時期がきているのだと思います。

 

★演劇「生きる」のダイジェスト動画はこちらで見ることができます。