「ばあばは、だいじょうぶ」

最近は絵本を読む機会が多く、この本は卒業生さんから紹介されたものです。これからの高齢社会を生きる上において、認知症に対する知識や理解はとても大切であり、それは大人だけの問題ではなく、子どもたちも知っておくべきことです。かといって難しくとらえる必要はなく、この絵本を読む(読み聞かせる)ことから始めるぐらいで良いのです。認知症ではなく、わすれてしまうびょうき。とても良い表現だと思います。認知症をこれほど優しく適切に説明した言葉はなく、子どもの心は素直にそう受け入れることができるはずです。

 

どんなことがあっても「だいじょうぶだと」と言って頭をなでてくれたばあばが、いつからか忘れてしまう病気になってしまい、犬に何度もエサをあげたり、同じことを繰り返し聞いたりして、主人公のつばさは困惑します。そして、少しずつ大切に食べていたジャムを全部食べられたときは怒り、落ち葉で淹れたお茶を出されたときには慌てて逃げだしました。病気が進行するにつれ、あれだけ大好きだったばあばとの間には溝が生まれ、疎遠になっていくのでした。

 

ある日、ばばはは突然外に出て行って、帰ってこなくなってしまいます。翌日、ようやく家に帰ってきたばあばは、裸足で震えていて、頼りなく見えました。「ごめんね」と言いながら、靴下を履かせてあげると、ばあばは「だいじょうぶだよ」とつばさの頭をなでてくれたのでした。

 

今まで守ってくれていた人が、いつの間にか守るべき人になり、そうして守っているつもりでも、実は守られているのかもしれない。そうした人生の振り子について、作者である楠章子さんはあとがきにこう書きます。

 

冷えたからだをふるわせ、心細そうな顔をして。あの母の顔は、いまでも忘れることができない。ずっと母は、私を守ってくれる人だった。でも、今の母は「守るべき存在」なのだと、私はやっと気づいたのだった。けっこう時間がかかった。

(中略)

守るべき存在がいるのに、私はつばさのように目をそらしている人、どうしていいか分からなくなっている人に、この絵本が届きますように。

(中略)

守っているつもりで、じつは今も守られているのかもしれない。

 

 

私たちは生まれて、勝手に死んでいくのではなく、誰かを守り、誰かに守られて生きています。守られてばかりだと感じることもあるでしょうし、守ってばかりだと思うこともあるかもしれません。もしかすると、自分が守られていたことに気づくのは、自分にとっての守るべき存在に気づいたときなのかもしれません。誰かが誰かを守り、誰かは誰かに守られる。守っているようで、実は守られている。ほんとうは、私たちはずっと、お互いに守り守られながら生きているのです。