これを敬す

私の下の名前は敬之(たかゆき)です。昔、自分の名前の由来を両親に聞いたところ、「漢文にある一節で、之(これ)を敬す、つまり人を敬うという意味だよ」と教えてもらいました。その当時は良く理解できませんでしたが、なるほど、両親は私に、人から敬われるよりも、人を敬うような人間になってもらいたいと願って、名づけたのだと今は分かります。人を敬うとは、相手を尊重すること、尊敬すること、若者風に言うとリスペクトということなのでしょう。そんな名前を授けてもらった以上、人に対する敬意を欠いてはならないといつも心がけていますし、そのためには自分自身が謙虚でなければならないと考えています。

 

謙虚であるということは、決して自信をなくすとか、へりくだるということではありません。自分の考え方が実は間違っているのではないか、自分が見ているもの以外の見方があるのではないか、自分は思い込んでしまっているのではないか、自分は経験していないことが世の中にはたくさんあるではないか、などなど。謙虚になるためには、まずは自分の考え、ものの見方、思い込みや経験を疑って、全てとっぱらってみようとすることから始まります。年齢を重ねると、どうしても自分の固定観念に強く縛られてしまいがちになりますので、それでも謙虚になれるかどうかは、自分という箱からいかに出られるかにかかっています。そして、それこそが知性なのだと思うのです。

 

湘南ケアカレッジは今年で5年目を迎えました。素晴らしき先生方に恵まれ、たくさんの生徒さんたちに来ていただき、卒業生さんたちのつながりの輪が大きく広がりました。外から見れば順調満帆に映るかもしれませんし、実際に私が思っていた以上の学校になりました。とはいえ、この先、もっと良い学校にしていくためには、謙虚にならなければいけません。

 

どうすれば謙虚でいられるのでしょうか。まずは客観的に自分たちを見て、間違ってしまっていることや思い込み、おろそかにしていることがないか疑ってみる必要があると思います。良いところはさらに伸ばして、慣れによっておろそかにしているところは元に戻す。それは基本に立ち返るという意味でもあります。

 

しかし、年齢を重ねるほど、他者から指摘されたり怒られたりすることが少なくなりますので、謙虚でいることは難しくなります。また、立場が上になればなるほど、傲慢になってしまいがちです。私にも先生方にも当てはまることですし、もしかするとこのブログを読んでくださっている卒業生さんもそうかもしれません。

 

 

自ら気づくことが難しく、気づかせてもらうこともなくなってしまうとすれば、次にできることは新しいチャレンジをすることです。失敗するかもしれないことをやってみて、失敗したらその結果を素直に受け止め、何が正しくて、何が正しくなかったのかを改めて見直してみることです。誰かに自分を謙虚にしてくれることを期待するのではなく、自らさらに良くなろうと行動することによってこそ、謙虚でいられるのです。そうしてはじめて、私たちは自分を知り、相手を敬うことができるのだと思います。