生きているうちに、1度はお目にかかりたかったと思うほどに、尊敬してやまない人物が私には幾人かいます。その一人が日野原重明先生です。お会いしたことも話したこともないにもかかわらず、その著書での言葉や映像を通して語り掛けてくるメッセージに共感してやみません。105歳まで医師として現役で働きながら生きたという事実の重さの前には、私の考えや経験などあってないような軽さにすぎません。この本は日野原先生が対話形式で、最後に私たちに遺してくれた言葉の数々になります。
ここから先は、質問に対する日野原先生の答えを読んでいただければ幸いです。私が言葉をはさむ余地はありません。
▶今までたくさんの人の死を見てきた先生にとって、死とはどのようなものですか?
「新しい始まり」という風に感じます。
死ぬということは、多くの人にとって、まるでとかげのしっぽが切れるように終わるものだと考えられていますが、たくさんの死をみとってきて感じるのは、終わりではなく、新しい何かが始まるという感覚です。
「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば多くの実を結ぶ」これは、聖書の中でも僕の好きな「ヨハネによる福音書」の一節です。
麦が死ぬというと、何かさびしいような気がするかもしれません。でもそうではなく、麦が地面に落ちれば、翌年にまた多くの実を結ぶことになる。つまり、一粒の麦は死ななければいけない。死ぬことによって、無数の麦の誕生につながるという希望を示しているのです。
▶先生は命の尊さを伝える活動を続けてこられましたが、命とはどんなものなのでしょうか?
僕は長年、命の尊さを伝えることを使命として、「命の授業」というタイトルで全国の10歳の子どもたちと交流してきました。
僕は、子どもたちにこう問いかけます。
「命はどこにあると思う?」
そうすると、子どもたちは心臓のあたりを指したり、脳みそと答えたりするのです。
心臓は身体を動かすために働いている単なるポンプのようなものに過ぎないよ。脳みそはいろんなことを考え出す機能を持った身体の一部分でしかないんだよ、そして、「命というのは君たちが使える時間の中にあるんだよ」と子どもたちに伝えてきました。
僕は続けます。
君たちは今、毎日朝ごはんを食べて、学校に来て勉強して、友だちと遊んで…。これは誰のためにしていると思う?全て自分のためだよね。君たちは、子どものうちは与えられている時間を全部自分のために使いなさい。だけれども、君たちが大きくなったら、その時間を他の人のため、社会のために使わないといけない。そう気づく時が必ず来るよ。だから大きくなって大人になったら、君たちの命をできるだけ周りの人のために使ってくださいね。
▶離婚を経験し、もうこんな思いはしたくなくて、新たな出会いを求められずにいます。
別れというものは本当に悲しいものですね。
それでも、別れるべきその日が来たならば、ただ悲しさを感じて終わりにするのではなく、別れが教えてくれる「出会いの意味」に目を向けてみてほしいのです。別れとは、出会いの中にあり、悲しく静かに僕たちが出会った本当の意味を再確認させてくれるものだからです。