「どもる体」

「目の見えない人は世界をどう見ているのか」を書いた伊藤亜綾さんの近著「どもる体」の講演を聞きに、新宿のカルチャーセンターに行ってきました。前著と違い、「どもる体」はやや難解で、読み進めていくのを躊躇していたところだったので、著者に生の声で教えてもらえる機会はまさに渡りに船でした。吃音から身体の時間論までを論じるという難解なテーマであるにもかかわらず、一つひとつの分かりやすい事例や断片を積み重ねていくことで、少しずつ深く、かつ分かりやすく展開していく素晴らしい内容でした。ぜひいつか、ケアカレナイトにも来ていただきたいと願います。

 

実は私も以前から吃音(どもり)に興味を持っていました。かつて別の学校で働いていたとき、電話でどうしても言えないフレーズがありました。「お電話ありがとうございます。○○○の村山です」という、一見なんてことのない二文が、ある日、私の口から上手く出て来なくなったのです。最初は言葉に詰まる程度でしたが、何度かそのような場面が続くと、電話を取る度にまた詰まるのではないかと不安になります。

 

電話が鳴ると、頭の中でフレーズを練習してから出るようにしてみても、それでも詰まってしまいます。そのようなことを繰り返しているうちに、ますます言葉が出にくくなり、次第に詰まるというよりは最初の言葉が出てこない、つまり電話に出ても、ひと言も話せなくなってしまうようになりました。

 

このときの自分の感覚を描写するとすれば、頭と身体が一致しないという表現が適切でしょうか。頭ではグルグルと言葉が回っているにもかかわらず、それが言葉となって出てこない。身体が反応しないので、言葉がどこかでせき止められたかのようになってしまう。死ぬほど苦しいほどではありませんが、もどかしいというべきか、とても情けない気持ちになります。

 

なぜこのようなことが起こるのか、その当時は分かりませんでしたが、あとから振り返って分析してみると、3つの要因が思い浮かびました。ひとつはリズムと構音上の問題です。他の言葉は普通に口から出てくるのに、「お電話ありがとうございます。○○○の村山です」というフレーズに詰まってしまうのは、ただ単純に私にとって言いにくいのです。最初の“お”から始まって、“ありがとう”のあたりが特に口が回らないのです。

 

2つ目は、心理的なプレッシャーです。言いにくいとはいえ、普通の状況では言える以上、リズムや構音上の問題だけではありません。電話がかかってきて、そのとき対峙する他者に向けて初めて発する言葉がスムーズに出るかどうかという不安があると、余計に口が回らなくなるのです。脳の半分ぐらいの機能が、上手く言わなければならないことに稼働されてしまい、メモリが少なくなっている状態で電話に出るので余計にフリーズしてしまう。三島由紀夫の「金閣寺」的に言うと、鍵が開かないという感覚です。

 

3つ目は、深層心理における抵抗です。どこの企業にも電話応対マニュアルがあると思いますが、私はそのような決められたものを反復することが好きではないようです。そして、働いているその学校や仕事に対しての心理的な抵抗もあったのかもしれません。本当はこんなことしたくないのに、こんなやり方は嫌いなのになど、無意識であっても、社会がこうあるべきという姿に引っ張られていることに対する抵抗です。2つ目と3つ目の要因については、吃音が社会的な障害だと言われる理由が良く分かりますね。

 

伊藤亜綾さんの講演は、ここから先、身体の時間論へとジャンプします。私たちの身体の中には、「リスク管理できる体」と「予測できない自然としての体」が共存しています。「リスク管理できる体」は、たとえば出勤時間や締め切りなどの決められた時間から逆算して今を生きるための体です。制度や予測、連続というものに縛られている、逆算の時間です。対して、「予測できない自然としての体」とは、ベクトルが常に今から未来へと向かっていて、自由であり触発であり、不連続であり、体の生理に合わせた、足し算の時間です。現代の人たちはほとんどを逆算の時間の中で生きていて、伊藤亜綾さんはその逆算の時間の中に足し算の時間があることについて研究を進めたいと語ります。認知症の方の「話が飛ぶ」という具体例を挙げての解説は秀逸でした。

 

 

その話を聞いたときに思い出したのは、星野道夫さんの「もうひとつの時間」であり、○○○さんの「○○○の時間」でした。星野道夫さんは、私たちが慌ただしく日常を過ごしている今、同じ時間に、アラスカの海ではクジラがジャンプしていることを知っていることが大切だと語り、○○さんは物事について深く考えるためには切れ間のない時間が私たちに必要だと説きました。私も両者の考え方には深く共感します。そのような足し算の時間は、私たちの人生を彩る上で大切な時間であるにもかかわらず、現代ではますます贅沢な時間になってきているのです。それでも私たちは、自分たちの意志を持って、逆算の時間だけを生きない、逆算の時間の中に足し算の時間を入れ込んでいくことができるはずです。