「居るのはつらいよ」

大学院まで通って臨床心理学を学び、博士となった著者は、心理カウンセラーの道を志すものの、目の前にあるのはデイケアの仕事のみ。セラピーをやりたかったのに、ケアの仕事しかない世の中のつらさは私も痛いほど分かります。社会とのボタンの掛け違いからスタートすると、理想と現実のはざまで、ずいぶんと苦労しなければいけません。最初はケアをセラピーよりも下だと見下していた著者も、うさぎ穴に落っこちて、地を這うような時間を過ごしたことで、ケアとセラピーの本質に気づいていくという物語。1章ごとに扱われているテーマがとにかく深く、その心理的な観察眼と洞察には敬服します。ケアの現場をポップに語りつつも、私たち人間がそこにいることの意味や価値を見つめ直す素晴らしい作品です。

 

沖縄の精神科デイケアで働くことになった著者は、「とりあえず座っておいてくれ」と言われますが、数時間もすると、それがいかに難しいかに気づきます。利用者さんと話してみても長くは続かない。誰もが押し黙っている凪(なぎ)の時間が、精神科デイケアにはやってきます。ただ「いる」ことが難しいと感じた著者は、何か「する」こと(たとえばカウンセリングなど)はないかと探し始めますが、何もないのです。そこは「いる」が求められている場所なのです。時間が経つにつれて、次第に著者も「いる」ことができるようになります。

 

僕はあのとき、カウンセリングもどきなんかをするのではなく、二人でデイケアに「いる」べきだった。一緒に、退屈に、座っているべきだったのだ。座っているのがつらければ、せめてトランプをやるとか、散歩をするとか、何かしら一緒にいられることを探すべきだった。ジュンコさんが求めていたのは、セラピーなんかじゃなくて、ケアだった。心を掘り下げることではなく、心のまわりをしっかり固めて安定させてほしかったのだ。

僕は間違っていた。何も彼女のことをわかっていなかった。

「いる」のがつらいのは僕だけじゃやない。「いる」のがつらくって、いろいろな声が聞えてきてしまう人たちが、ここに集まってきているのだ。デイケアって、そういう場所なのだ。

(中略)

とにかく「いる」。なんでもいいから「いる」。僕は「いる」ことを徹底することにした。となると、やれることは一つしかない。とりあえず座っている。これだ。

 

仕事にも慣れてくると、周りのスタッフの動きにも目が止まるようになってきます。精神科デイケアは普段こそ何も起こらない時間によって支配されていますが、何のきっかけもなしに、たとえば利用者さん同士の争いなど、いきなり起こるのです。そんなとき看護師がすぐに動いて、利用者さんの体に触れるシーンを見て、自分との違いを感じながらも著者は考えます。

 

看護師は何かが起きたときに、まず動く。目の前で誰かが倒れたとき、混乱しているとき、怪我をしたとき、具合が悪いとき、助けが必要なとき、看護師は即座に手を差し伸ばす。体が反射的に動く。

(中略)

僕らは「何が起きているのだろう?」と一拍考え、「どうしたらいいのだろう」とさらに一拍考える。それから動く。そのときに、看護師はもう走り出していて、体に触れている。僕はその後ろ姿を、指をくわえて見ている。

(中略)

そういうとき、看護師さんたちはメンバーさんの体に触れていた。リュウジさんの体を抑えたように、あるいはユリさんを抱きかかえたように、迅速に看護師たちは触る。体が触れられることを必要としているとき、看護師たちは反射的にそこに手を当てることができる。そしてそれが、メンバーさんを落ち着かせ、火を小さくする。

 

さらに著者は、心と体は分離されたものではなく(特にデイケアに集まってくる人たちにとっては)、心と体は混じり合い、「こらだ」になると考えを進めます。つまり、看護師さんたちが体に触れているのは、実は「こらだ」に触れているということなのです。それは単なるボディータッチとは異なり、こらだが触れられることを必要としているときに触れるということであり、逆に言うと、こらだが触れられることを必要としていないときには触れないということでもあります。相手のこころを知って触れる、そして体に触れることで心に触れるのを感じることが大切なのです。

 

 

その他、退屈についての論考(「ちゃんと退屈した時間があるから、僕らは安心してそこにいられる」)や恋による破壊と再生の物語(「たぶん、恋って、自分の中のいちばん弱い部分でするものなのだろう。だから、恋をすると、弱さが満ち溢れ、傷つきが蔓延する」)など、ケアの現場では特徴的に現れやすいけれど、それは私たちがいるどこにでもある課題です。スタッフの辞め方のくだりも興味深いし、最後のブラックなもの(ブラックデイケア問題)もリアリティに溢れています。最後はブラックな働き方やケアの現場の仕組みに困憊して、デイケアを退職してしまった著者でしたが、その後、自らカウンセリングルームを開業されているようです。そう、市場のロジックと「ただ、いる、だけ」の価値を両立させるには、自分の責任でケアとセラピーをやるしかないのです。