私事ながら、祖母が97歳で亡くなりました。昨年末あたりから、誤嚥性肺炎をきっかけとして調子を崩し、入退院を繰り返してきましたが、10月11日に息を引き取りました。死に目に会うことは叶いませんでしたが、今の状況下でそれは仕方ないことだと納得しつつ、生きていても、たとえ亡くなってしまっても、祖母はいつも私の心の中にいますので、あまり生死の間に大きな隔たりは感じないというのが正直なところです。十年近く前から認知症を患っていたことも関係しているかもしれません。祖母は少しずつできることが少なくなり、少しずつ記憶を失っていったのです。私たちは、長いお別れをしてきたのだと思います。とはいえ、火葬へと送り出す前に最後のお別れをしたとき、いつも病床の祖母にそうしていたように、頬に手を当ててみると冷たくなっていて、その時ばかりはさすがに涙が出てしまいました。今までありがとう、という感謝の涙でした。
祖母は私をたー坊と呼んで可愛がってくれました。物心がついて、岡山の田舎に帰省する頃には、そこにはいつもひいばあちゃんとおじいちゃん、そしておばあちゃんがいました。ひいばあちゃんは1日中寝ていることが多く、小さかった私の世話を焼いてくれるのは主におばあちゃんでした。年末年始やお盆休みといった短い期間しか帰らないからかもしれませんが、田舎にいる間はずっと大切にされた記憶しかありません。東京に戻るときはいつも、ひいばあちゃんも、おばあちゃんも泣いて別れを惜しんでくれました。幼ごころに、また次の休みになったら来るから泣くほどじゃないでしょ、と思っていましたが、曾祖母と祖母にとっては、もしかしたらこれが最後の別れになるかもといつも思っていたのだと今は分かります。
私が祖母との関係の中で最も覚えているのは、大学に入ってからのことです。ひとり暮らしを始めた私は、両親からは十分な仕送りをしてもらっていたのにもかかわらず、なぜか月末になるといくばくかのお金が足りなくなりました。ガス代や電気代などが思っているよりも高かったり、思わぬ出費をしてしまったり、まあ私がしっかりしていないからなのですが、単発の力仕事を入れたりしつつも、お金をどうしようと思い悩む日々でした。そんな折、タイミング良く届く、祖母からの荷物の一番下には必ず1万円札が1枚入っていました。私の好物だと祖母がずっと思っていたひじきの他に、お菓子や果物、日用品などを敷き詰めて送ってくれた中でも、現金な話ですが、最も1万円札が有り難かったのです。あとから知ったのは、家計の管理をしていた祖母が、何とかやりくりして捻出した1万円だったそうです。大げさかもしれませんが、あの頃は毎月のように祖母は命の恩人だと感じ、御礼の手紙を書いたり電話をしたりしました。今の私があるのは、色々な意味において、祖母のおかげです。
祖母は習字の先生をしていました。毛筆も硬筆もどちらも教えてもらいましたが、私には才能がなかったのかもしれません。あまり楽しいと思えませんでしたし、大好きな祖母に誘われるから断れずに付き合っていただけで、おばあちゃんごめんなさいと思いつつ、早く遊びに行きたくてうずうずしていたのが実状でした。認知症になってからも、ほほほほほっと上品に笑う声も、いつも「ありがとう」と感謝を忘れない姿勢も同じで、祖母という人間はずっと変わらなかったことに安心しました。そういえば、祖母は曾祖母を十年近くにわたって自宅で介護しました。その時代は、今のような介護サービスもなく、嫁に入った女性が介護するのは当然という風潮だったのだと思います。毎日真夜中に起こされて困っている話や、ろう便のエピソードなどを聞いてはいましたが、小さかった私にとってはどこか他人事でした。本当に大変だったと思います。それでも曾祖母のことを「とても良い人だった」と祖母は語っていました。だから血がつながっていなくても最後まで介護できたのだと。もちろん祖母も、私にとって、最初から最後まで優しくしてくれた、とても良い人でした。お疲れさまでした。そして、ありがとうございました。