潔癖主義に陥らぬよう

年初のブログにて、今年の心構えとして掲げた「潔癖主義に陥らない」について、卒業生さんから「どういうことですか?」と尋ねられました。言葉だけが先行してしまったというか、意味が分かりにくいと思いますので、分かりやすく説明したいと思います。この潔癖主義という言葉は、年末に観たBS1スペシャル「コロナ新時代への提言2」において、歴史学者の藤原辰史さんが語っていたものでした。まさに今の時代を言い当てていて妙だと思いましたし、介護・福祉の世界で生きる私たちは特に意識しなければならないのではと感じました。

潔癖主義とは、読んで字のごとく、潔癖を目指す(求める)思想や生き方なのですが、行き過ぎてしまうと「排除」を生むと藤原氏は語りました。ドイツのナチスの思想がまさに潔癖主義であり、自分たちの民族や人種ではない他者を汚れとして徹底的に排除した歴史がありました。最初はちょっとした綺麗好きだったものがエスカレートしていくと、自分や自分たち以外の他者を排除し、果てには撲滅しようとするのですから人間は恐ろしいものです。ユダヤ人を殺人ガスによって大量虐殺したのは、汚らわしいものを「消毒」して消そうという思想を体現していると藤原氏は述べました。潔癖主義と排除、消毒はセットであり、根本のところでつながっているのですね。

 

手をやたらと洗ったり、その上でアルコール消毒をしたり、また全員がマスクを着けて生活をしたり、ビニールシートを垂らしたりという世の中を見るにつけ、日本人の潔癖主義はどこまで行き着くのだろうと心配になります。手洗い自体は-19世紀、お産に立ち会う前の医師が手を洗うと産婦の死亡率が著しく低下したことから有効性が発見されたように、科学的根拠のあるものですが、手術をするわけでもない一般の人たちが手を洗いすぎるのは皮膚にも良くありませんし、必要な細菌まで失ってしまうことで逆効果さえなります。アルコール消毒はその最たるものであり、マスクやビニールシートはもはや未来から見ると笑い話になると思うレベルです。

 

手を洗うで思い出しましたが、私の叔母は晩年、今思うと認知症もしくは強迫性障害の症状を呈していましたが、特徴的だったのは1日に何十回も手を洗うようになったことです。手の皮膚がただれてしまうぐらい、ずっと手を洗っていました。洗っても洗っても、汚れているような気がしたのでしょう。実際には見えないはずですが、彼女には何かの汚れやウイルス、最近が見えていたのかもしれません。もともと精神疾患的傾向があったから手を洗うことに執着するようになったのでしょうか、それとも手を徹底的に洗うことで潔癖主義の傾向を強めて行ってしまったのか、おそらくそのどちらもだと思います。最後は親戚や身内ともあまり交わることなく亡くなってしまいました。幼心に私は、綺麗好き過ぎると精神を病んでしまうと思ったものです。

 

 

自分たち自身の免疫力や機能が落ち、強迫性障害につながってしまうのは仕方ないとしても、それが他者の排除や隔離、撲殺にもつながってしまうと考えると恐ろしいことではないでしょうか。家の中ではマスクを着けずに生活しているのに、外に出る時はマスクを着けるのは、自分(と家族は含む)とそれ以外の人たちとを隔絶しているという意味です。親しい人(知り合い含む)と素性を知らない他者との線引きも明確になってきました。私たちが恐れているのは、目に見えないウイルスというよりも、知らない他者ということです。無症状者からも感染するという根拠なき憶測も、その傾向を強めてしまっていますね。たとえば精神疾患のある人たちや知的障害のある人たちなど、昔は恐ろしいと思われて排除・隔離されてきた人たちを、福祉は先頭に立って受け入れてきた時代の流れから逆行し始めていませんか。一般の人たちはまだしも、せめて介護・福祉の世界で仕事をする私たちは潔癖主義に陥らないようにしたいですね。