せっかくなので、最近思うことのひとつを書いておくと、教育には大きな責任が伴うということです。何かについて情報を発信する側、知識や技術、考え方を伝える立場の影響力は、私たちが思っている以上に大きいのです。たとえば、先生から生徒、大人から子どもへと伝えられる教育は、広く深く浸透し、世界の見方や見え方、そして社会そのものさえも変えてしまう可能性があります。私たちは自分の意思で情報を得て、自分の頭で考えているつもりでも、実は誰かによって与えられた情報を基に、誰かの考えを自分の考えだと錯覚してしまっていることが多いのです。ほとんどの人たちは、良くも悪くも、そのまま影響を受けてしまうのです。
介護の世界でも、高齢者の人権などほとんど考えられることもなく、身体拘束など当たり前の時代がありました。今、当時の写真を見ると愕然としますが、わずか数十年前はそれが普通であり常識だったのです。それが当然だと教えられていたということです。もしかすると、今私たちが常識だと思っていることが、数十年後には非常識になっている可能性は十分にあるのではないでしょうか。だからこそ、教える立場にある人たちは、本当にこれは正しいのだろうかと慎重にならなければならないのです。こうあるべきとか、こうでなければならないという狭い考えは捨て、もしかすると間違っているかもしれないと自らを疑ってみる謙虚さは持ち合わせていたいですね。
中央法規出版「認知症の人の歴史を学びませんか」より
特に、大人から子どもたちへの教育は未来に大きな影響を与えます。教育というと大げさかもしれませんが、大人の言動や見識、思想の一つひとつが子どもたちの未来を形づくります。たとえば、今ほとんどの学校で子どもたちにも着けさせているマスクは、いつまで続くのでしょうか。大人が事実を基に科学的に考えて教えてあげない限り、子どもたちも未来永劫にマスクをつけて生活することになります。高齢者や基礎疾患のある人を守るという名目の下、周りの目を気にして、大人がマスクを外さないのは個人の自由であり勝手ですが、子どもたちにも死ぬまでマスクを着けて生きる社会を伝えますか。
子どもたちには、大人になってからは自分たちの力で未来を切り拓いて行ってもらいたいと思います。しかし現実問題として、子どもたちは今、知識もなく、無力であるということです。だからこそ私たち大人や教育にたずさわる人たちには大きな責任があり、社会や子どもたちは私たちの鏡であるということをしっかりと認識しておく必要があります。まずは大人たちが謙虚に学び、自分たちの頭で考えなければなりません。そして行動すること。話はそれからです。