不自由な生活

先月、左足を骨折してしまいました。湘南ケアカレッジが入っているビルを出たところで、足をひねってしまったのです。転ぶ形になれば良かったのですが、全体重が左足の甲にかかった状態で耐えてしまったことで、腱に引っ張られて骨が割れてしまいました。パキっ!と音がしたので、すぐにやってしまった…と分かったほどです。過去に同じ場所で何度かつまずいて、足をひねったこともあったのですが、今回は最悪のひねり方でした。それにしても、若い頃であればここまでの怪我にならなかったので、私も年を取ったということですね。骨折は生まれて初めての経験なので驚いています。

翌日、整形外科に行ってレントゲンを撮ってもらったところ、やはり骨が折れていました。手術をしてボルトで骨をくっつけるか、それとも安静にして骨がくっつくのを待つ保存療法にするのか選択を迫られましたので、後者を選びました。さすがに入院して手術をするほどではないと思ったからです。そこで石膏のようなものと包帯で足を固めてもらい、松葉づえの使い方を指導されて、不自由な生活が始まりました。

 

たしか6、7年前にも同じく足をひねって、リスフラン靱帯を損傷したことがあり、その時以来の普通に歩けない生活です。ゆっくりとしか歩けない生活をしてみると、自分が邪魔になっていることに気づきます。自分が歩くのが遅すぎて、追い越してくれたらまだ良いのですが、後ろから来る人々が私の後ろで詰まっているのが分かります。申し訳ない気持ちを抱えながらも、自分のペースでしか歩けないことに情けなさを覚えます。階段を登るときは手すりのありがたさを感じ、降りるときは患側の脚から1段ずつしか降りられず、降りる方が登るよりも難しいことを身をもって知るのです。

 

また、ズボンや靴下を脱ぐときには、脱健着患(健康な方から脱いで、怪我をしている方から着る)が理にかなっていることが分かります。順番を逆にしてしまうと、上手く行かなかったり、痛かったりします。普段は何も考えることなく行っている動作のひとつ一つにも、意味を持たせることができるのです。それは自分が病気や怪我をしてみないと分からないことですね。

 

そして、何をするにも時間がかかるので、イライラします。たとえば、教室から町田駅に行くまでに普段の倍ほどの時間を要してしまいます。今までであれば駆け乗れた電車やバスも見送らざるをえませんし、駅の下り階段は後ろから押されないか冷や冷やしながら降りることになります。高齢の方や障害のある方が怒りっぽくなるのは当然のことだと思います。日常生活の中で神経がピリピリする場面が多いのです。

 

 

そうはいっても、さすがにここまでくるとあきらめの境地というか、慌てずにゆっくりと過ごそうと思うようになりました。周りの景色を見ながら、一歩一歩、前進していくだけです。この状態が一時的なものと分かっているからこそかもしれませんが、たまには不自由な生活も必要だと思うのです。ゆっくりとしか歩けない高齢者や障害のある方の気持ちも分かりますし、何よりも人の優しさが身に染みるからです。そして、その不自由な生活はいつか確実に自分にもやってくる未来でもあるからです。