映画「こんな夜更けにバナナかよ」

原作よりも面白い映画というものはほとんど存在しないと思っていましたが、この映画は原作の伝えたいテーマに忠実でありながら、よりダイレクトに観客の心をわしづかみにするロックさとポップさを併せ持つ作品でした。私が原作を10年以上前に読んだとき、そのキャッチ―なタイトルと表紙のインパクトに反して、中身は鹿野靖明という難病患者の生涯を描いた、実に硬いノンフィクションだと感じたことを覚えています。その原作を題材として、鹿野の生き方に想いを馳せ、もう一度、人間が生きることについて問い直し、作り直された素晴らしい映画です。もはや介護や福祉の枠を超えて、全ての人たちに観て何かを感じてもらいたいと願います。

この映画のひとつのテーマでもある、自立して生きるとはどういうことなのでしょうか。自立するとは、つまり自分の足で立つこと。赤ん坊としてこの世に生まれてきて、親という他人に育てられ大きくなり、いつか自分一人の力で生きていけるようになること。もちろんそれも立派な自立であり、それは人間だけではなく動物の世界においても、巣立ちや親離れのプロセスというものがあります。その一方で、自分ひとりの力だけではなく、誰かを頼ることで生きていけるようになることも自立のひとつです。頼る先が豊富であればあるほど、ある意味において、一人で生きている人よりも自立しているのです。

 

この映画の主人公である鹿野は、筋ジストロフィーという全身の筋力が低下していくという難病を抱えていて、日常生活動作のほとんどを自力で行うことができません。起きてから寝るまで、いや寝ている間さえも体位交換に人の手を借りなければならず、24時間体制で誰かがそばにいなければ生きていけないのです。そのような状況において、それでも病院のベッドに縛りつけられるのではなく、親の人生を犠牲にするのでもなく、自分の生活をしていくためには、誰かに思いっきり頼るしかありません。つまり、生きていくのに遠慮なんかしていられないのです。

 

 

ただそれだけでは、他者の善意にすがるのは限界がありますし、長続きはしないのかもしれません。しかし、鹿野は違ったのでした。生きていくことに遠慮はしないけれど、それを我がままにしないというか、自分とボランティアの人たちを対等にすることで、いつの間にか自分ごととして引き受けてもらうことに力を注いだのです。どのようにしたかというと、人間同士として、気持ちをぶつけ合ったり、喧嘩したりすることを通して、お互いの理解を深めて行ったのです。映画のワンシーンで、ひとりの女性ボランティアが看護師に向かって言った、「鹿野ボラなめんなよ!」というセリフに全ては集約されていると思います。そこには一心同体という言葉が宿っているのではないでしょうか。