2021年

7月

27日

オリンピックのようなクラス

4月日曜クラスが無事に修了しました。フィリピン、スペイン、ペルー、中国、アメリカなど、外国の方が多く参加してくれて、まるでオリンピックのような国際色豊かなクラスでした。数えてみると、3分の1が外国の方という珍しい構成でした。年齢や性別だけではなく、国境を越えて介護について共に学びました。多少の言葉の壁があったとしても、人が人を想い、相手にとって何が幸せかを考えながらケアをすることに国籍は関係がないのですね。これから先、おそらく介護の現場にも外国の方は増えてくるはずで、今回のクラスメイトの皆さんは、とても貴重な体験をしたのではないでしょうか。研修の最後には、それぞれの国旗が散りばめられた、可愛らしいメッセージボードを贈ってもらいました。ありがとうございます。

振り返ってみると、生徒さんたちから色紙やメッセージボードを学校に贈っていただく文化は、介護職員初任者研修の第1期生から生まれました。私たち湘南ケアカレッジにとっても初めての研修に参加してくれた生徒さんたちが、勇気を持って感謝の気持ちを形にしてくれたことが、こうして今回の126期生まで続いているのです。今や講師席にも事務所にも所狭しと飾ってあるので、ある種の圧力になってしまっているのかもしれませんが(笑)、決してやらせではありません。何かの仕掛けをほどこしたわけではなく、声掛けをしたわけでもなく、生徒さんたちが自分たちの意思でメッセージを書いて、ボードの形にまとめてプレゼントしてくれたのです。

 

そもそも、こういうものは作ってもらうようにお願いするものではなく、生徒さんたちの間にそういう気持ちが生まれるかどうかが大切なのだと思います。「他の学校でこうしたものを見たことがない」と小野寺先生はおっしゃいますし、私も大手の介護スクールで働いていたとき、神奈川エリアの20教室を5年間見てきましたが、たしかに一度もそうしたものを見たことはありませんでした。それぐらい、色紙やメッセージボードを生徒さんたちがつくって、学校や先生方に贈る行為のハードルは高いのです。なぜかというと、そうしなくてもつつがなく修了することができるわけですし、誰から責められることもありません。そんな中でこうしてメッセージボードをつくってくださるのは、感謝の気持ちを形にして伝えたいという純粋な主体性以外の何ものでもないのです。

 

 

お金を払った分は取り返そうというギブ&テイクの関係ではなく、生徒さんたちと学校や先生方がギブ&ギブの関係にあるからこそ、色紙やメッセージボードを贈るという現象が起こるのだと私は思います。より安く、より多くを求める今の経済システムの中、お互いが与え合う関係になるのは極めて難しいことですが、サービスを提供する側とされる側が奪い合う関係を超えて、まさにオリンピックのようなスポーツマンシップが生まれているのです。

2021年

7月

22日

驚くべき成長

今年、介護福祉士に合格したTくんが、ふらりと遊びに来てくれました。彼はいつも決まってふらりとやってきます。初任者研修を申し込んだときも、仕事探しの相談に来たときも、そして今回も。同行援護と知的障害者ガイドヘルパー養成研修のパンフレットをもらいに、ふらりとやって来ました。しかも、なぜかたまたま事務所に誰かがいるのですから不思議。ふらりとやってきて、現状をマシンガントークで話して、帰っていきます。今回は、新しい職場を求めて板橋区に引っ越すことになった話、さらにこれからは個浴を施設等に導入する活動をしたいという理想と情熱を語ってくれました。

 

彼は湘南ケアカレッジの介護職員初任者研修を卒業したのち、とある施設に就職しました。見学に行ったいくつかの施設の中から、自分で選んだ施設です。介護職員初任者研修に通っていた当時のTくんを覚えている先生方は分かると思いますが、ぼんやりして、素朴ながらも変わったところのある青年でしたので、正直に言うと、意識の高い施設にいきなり入って大丈夫なのか、と心配したものです。

 

当時、その施設はまだオープンしたばかりでした。「介護を変える、自分たちで作り上げる新しい施設。普通の介護職が普通の介護をしたらあたりまえの生活」、『食事、排泄、入浴』の3つのあたりまえの生活を大切にする」という理念を掲げ、個浴などを実践しようとしていました。もちろん、介護スタッフには一人ひとりの利用者さんたちに対応し、浴槽に入浴してもらう介護技術が求められます。スタッフにも求めるものが多いため、その施設に合う・合わないは分かれます。介護技術や理念を体得したいと思う人にとっては良い施設ですが、もう少しのんびりと働きたいと思う人にとっては別の施設の方が合っているはずです。

 

Tくんへの僕の心配は杞憂に終わり、3年間勤めてリーダーとなり、介護福祉士に今年合格しました。これを機に、彼は新天地を求めることにしたそうです。東京都内であればどこでも良かったと彼は言いますが、その地域に根ざしつつ、個浴を広めていきたいと思ったそうです。いきなり広めると言っても難しいので、まずは入職して働きつつ、その施設に個浴を浸透させ、そこから人脈を作って、周りの施設等に個浴を広めていくつもりとのこと。その施設で個浴を実践してみて、利用者さんたちの喜ぶ姿を見て、それが普通の介護であり当たり前の生活であると、心から感じたからだそうです。また、自分も伝える活動をしてみたいと思ったそうです。

 

 

その話を聞いて、面白いと素直に感じましたし、心意気が素晴らしいと思いました。できっこないと言う人もいるかもしれませんが、彼はまだ若いので、時間をかけて取り組めば実現できるのではないかと僕は思います。それにしても、あの頼りなかったTくんが、介護福祉士を取り、個浴を広める活動をしたいと思うなんて驚きです。いつの日か、ケアカレナイトに彼をお呼びして、個浴の素晴らしさとそれにまつわる介護技術を教えてもらう日が来ると良いですね。今は夢物語かもしれませんが、10年後、生徒さんたちが私たちを飛び越えて、介護の世界を変えていってくれている未来が来ることを願っています。

2021年

7月

18日

介護職の性別や年齢についてー長く働き続けられるって本当?(後編)

上のグラフは介護職の年齢層を男女別で表したものです。男性は30代(29.2%)、40代(27.3%)が多く、次いで50代(14.1%)、20代(13.3%)となっています。働き盛りの年齢の男性の活躍が多いことが分かります。女性の場合、50代(25.9%)、40代(24.1%)、60代(25.5%)と、40代以上の方で4分の3を占める割合になっています。男性と女性のグラフで比べると、男性よりも女性の方が高齢になっても働き続けている方の割合が高いことが分かります。

 

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2021年

7月

12日

教育の責任

せっかくなので、最近思うことのひとつを書いておくと、教育には大きな責任が伴うということです。何かについて情報を発信する側、知識や技術、考え方を伝える立場の影響力は、私たちが思っている以上に大きいのです。たとえば、先生から生徒、大人から子どもへと伝えられる教育は、広く深く浸透し、世界の見方や見え方、そして社会そのものさえも変えてしまう可能性があります。私たちは自分の意思で情報を得て、自分の頭で考えているつもりでも、実は誰かによって与えられた情報を基に、誰かの考えを自分の考えだと錯覚してしまっていることが多いのです。ほとんどの人たちは、良くも悪くも、そのまま影響を受けてしまうのです。

 

介護の世界でも、高齢者の人権などほとんど考えられることもなく、身体拘束など当たり前の時代がありました。今、当時の写真を見ると愕然としますが、わずか数十年前はそれが普通であり常識だったのです。それが当然だと教えられていたということです。もしかすると、今私たちが常識だと思っていることが、数十年後には非常識になっている可能性は十分にあるのではないでしょうか。だからこそ、教える立場にある人たちは、本当にこれは正しいのだろうかと慎重にならなければならないのです。こうあるべきとか、こうでなければならないという狭い考えは捨て、もしかすると間違っているかもしれないと自らを疑ってみる謙虚さは持ち合わせていたいですね。

中央法規出版「認知症の人の歴史を学びませんか」より

特に、大人から子どもたちへの教育は未来に大きな影響を与えます。教育というと大げさかもしれませんが、大人の言動や見識、思想の一つひとつが子どもたちの未来を形づくります。たとえば、今ほとんどの学校で子どもたちにも着けさせているマスクは、いつまで続くのでしょうか。大人が事実を基に科学的に考えて教えてあげない限り、子どもたちも未来永劫にマスクをつけて生活することになります。高齢者や基礎疾患のある人を守るという名目の下、周りの目を気にして、大人がマスクを外さないのは個人の自由であり勝手ですが、子どもたちにも死ぬまでマスクを着けて生きる社会を伝えますか。

 

 

子どもたちには、大人になってからは自分たちの力で未来を切り拓いて行ってもらいたいと思います。しかし現実問題として、子どもたちは今、知識もなく、無力であるということです。だからこそ私たち大人や教育にたずさわる人たちには大きな責任があり、社会や子どもたちは私たちの鏡であるということをしっかりと認識しておく必要があります。まずは大人たちが謙虚に学び、自分たちの頭で考えなければなりません。そして行動すること。話はそれからです。

2021年

7月

06日

一人ひとりを考える

先日、大阪の介護の学校で働いている友人と会って話しました。もうかれこれ3年も会っていなかったようです。それでも、本当の友人は何年ぶりに会っても変わらないものですね。安心感というか、共感があるのです。彼は今や関西だけではなく、関東の教室もマネージメントしていますが、とにかく学校や先生、生徒さん同士に対するクレームが絶えないそうです。大したことではないのに文句を言ってきたり、いざこざが起こってしまうそう。学校が仲裁に入り、その対応に追われてしまうことも少なくないそうです。たしかに、教室が多くなるとその分トラブルも増えるのですが、それ以上に、私が話を聞いた限りでは、生徒さんと学校や先生、また生徒さん同士の関係性に問題の根っこはあると思いました。生徒さん一人ひとりを、人として考えていないことから生まれる、関係性の希薄化による問題です。

 

一人ひとりを考えると言葉で言うのは簡単ですが、意外と簡単ではありません。プライベートでは人間同士の付き合いができている人でも、仕事となると人を一人ひとりの個人として見ることができなくなります。それは私たちのせいではなく、今の経済のシステムがそうさせてしまっているところが原因のひとつです。仕事とはビジネスの中にあり、ビジネスはどうしても効率化を目指します。効率的に利益を上げることを考えると、人を左から右へ、佐藤さんや木村さんではなく、匿名の集団のお客様たちとして扱う方が効率的だからです。

 

一人ひとりを考えていてもキリがないというか、まとめて作ってまとめて売る方が、どう考えても効率的に稼げるのです。ビジネスは効率的に稼ぐことを目指すとすると、その中の仕事もその一部であり、私たちは望む望まないにかかわらず相手を一人ひとりの個人として考えることは非効率な状況に置かれてしまいます。これは介護の現場だけではなく、医療の現場でも、近くのコンビニやスーパーでも、飲食店でも衣料品店でも起きていることです。効率的に稼ぐことをゴールとするならば、一人ひとりを見ようとすることは障害にしかなりません。十把ひとからげに扱う方が効率的に稼げるのです。

 

そうすると当然、失ってしまうものもあります。一人ひとりとの関係性です。学校でいうと、生徒さんと学校や先生、また生徒さん同士の関係性が失われてしまいます。相手のことを見ていないので、どうしても対応が無機質になったり、ルールやマニュアルどおりになります。お客様は自分が個人として見られていないことを感じるので、スタッフを人として見ることもありません。お互いが人間の外見をして動くロボットのような関係になる。そうすると、相手に完璧を求めるあまり些細なことが気になり、相手の弱みが目に付くようになり、上手く行かないのは目の前にいるロボットのせいだと思ってしまうようになるのです。全て無意識のうちに。ほとんどの問題は関係性から起こるのです。

 

どうすれば良いかというと、やはり一人ひとりを考えることです。一人ひとりを考えると言っても、人生を背負うとかサポートするとかそんな大げさなことではありません。ちょっとした声掛けをしてみることから始めましょう。名前を呼んでみてもよいかもしれません。声をかけるためには、相手の動きや心理を観察したり、興味を持ったりしなければいけません。声をかけてみると、相手からは面白い反応が返ってくるかもしれません。それに返しているうちに、お互いのことが少しずつ知れて、いつのまにかお互いをひとりの人間として見られていることに気づくはずです。その積み重ねが大切です。

 

互いに人間として考えることができると、関係性が自然と良くなり、どちらも楽しいはずです。サービスを受ける側も提供する側も、お互いを理解しようとするはずです。もちろんクレームは一切なくなり、むしろ感謝してくれるはずです。そこには笑顔が生まれます。そして実は、その方が効率的に稼ぐことができるのです。だって、同じものを買うならば自分の好きな人から買いたいと思うはずですよね。大量にお金を使って無駄な広告を打って、無駄な人材をたくさん雇って、大きなザルで儲けようとするよりも、人間同士の関係性で商売する方がよっぽどローコストです。

 

 

コツは「効率的に」と「稼ぐ」を切り離して、別々に考えることです。効率的に仕事をしようとすることも、稼ぐことも決して悪いことではありません。この2つをまとめてやろうとするからおかしな方向に行ってしまい、誰もが不幸になってしまう。そうではなく、一人ひとりを考える方が実は「効率的」であり、その結果としてたまたま「稼げる」と考えることです。どのようなビジネスや仕事をするにしても、私たちや私たちの社会が幸せになるために、大切な考え方だと思います。

2021年

6月

29日

「コロナは概念」

コロナ騒動をきっかけとして描き始め、これまでは自費出版の手売りだった片岡ジョージさんの4コマ漫画が、ついに書店で発売されました。タイトルからして秀逸ですね。感染症としての新型コロナウイルスは存在しない!と声高に主張するのではなく、「コロナは概念」とすることによって、本質を突きつつも、敵対関係をつくることなく、分かる人にはクスっと笑える、痛烈な風刺であり批判になっています。タイトルにピンときた方は手に取って読んでもらいたいですし、カチンと来た方も頭を柔らかく解きほぐすためにもとりあえず読んでみてください(笑)。

この4コマ漫画のすごいところは、著者である片岡ジョージさんはかなりの時間をかけてウイルスや感染症、PCR検査などについて学んだ膨大な知識があり、その上澄みだけを笑いとしてすくい上げているところです。それはパート2に収められている4コマ漫画の解説を読めば伝わってきます。分かりやすくなければ伝わらない、笑いの方が怒りよりも圧倒的にパワーがあることを体現してくれています。世の中がおかしなことになっていても、それを笑いに昇華する著者の精神は尊敬に値します。

 

また、著者は専門家でも医師でも政治家でもない単なる一般人ですが、だからこそ今起こっている状況をフラットな視点で観られるのでしょう。誰に対してポジショントークをする必要もなく、物ごとを冷静かつ柔軟に考えることができるのではないでしょうか。知識や情報が偏っている専門家や医師、有権者である高齢者の顔しか見ていない政治家が真実から遠ざかっていくのに対し、インターネットなどで幅広く情報や考え方を得て、日常生活の肌感覚を大切に考える一般人の方が、真実に手が届いてしまっている現状は皮肉ですね。

 

どれだけ言葉を費やすよりも、実際に片岡ジョージさんの4コマ漫画を読んでもらった方が説得力はありますので、個人的なセレクションを勝手ながら引用させてもらいます。

最後にひと言だけ付け加えておくと、これをもし不謹慎だと思うのだとすれば、それは不勉強です。これからの私たちの未来にとって大切なことですので、いろいろな人たちの意見や考え方、そして事実や科学的知識を知って、もっと学んでみてください。特に、介護や医療の現場にいる人たちには、切にお願いしたいです。

講演動画も必見です。漫画の内容と事実のみを読み上げる内容になっています。

2021年

6月

22日

資格や経験を積み重ねていく仕事を探して(コロナ禍における介護業界への転職③)

音楽家として活動していた高橋さんは、コロナの影響で仕事が減ってしまったことから転職することしました。コンビニのレジ打ちやタクシー運転手などの選択肢を迷っているなか、保育士の友人に相談したところ、「資格や経験を積み重ねていくことも考えてみては?」との言葉といくつかの資格について教わり、その中のひとつだった介護職員初任者研修を受けることにしたそう。

 

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2021年

6月

15日

関わりこそ喜び

先日、卒業生のMさんから突然、電話がかかってきました。久しぶりのMさんからの電話は第一声、「今まで黙っていたことがありまして…」と始まりました。

 

「実は私の息子がそちらでお世話になりました」

 

 

おそらく私が驚くと思ったはずです。「Kくんですよね」と答えると、「知っていたのですか!」と逆に驚かれました。私もその事実を知ったときは驚きましたよ。ダイレクトメールの発送作業をしているときに、二人が同じ住所であることが発覚しました。Mさんも若かったので、お子さんではないかもしれないし、親戚の子どもと同居しているのかなと疑問は残ったのですが、とにかく血はつながっていることは明らかでした。そんな経緯を説明すると、Mさんは「すいません、息子から口止めされていて言えなかったんです笑」と教えてくれました。コンセプトマガジンにも出てもらったようにお母さんともコミュニケーションが取れていましたし、息子のKくんとは何度もランチに行って、向こうが勝手に私のことを「たっちゃん」と呼ぶほどの仲です(笑)。

 

Mさん「息子は今、Sという施設で働いていまして」

私 「はい、知っています。とても頑張っていて、施設長さんからの評価も高いです」

Mさん「そうなんですね。良かったです。実は、ようやく正社員になれました」

私「知ってます。Sは正社員になるのが難しいですが、なれると給与が格段に高くなりますので良かったですね」

Mさん「はい、ありがとうございます。それから、実は結婚して、このあいだ2人目の子どもが生まれまして」

私「おめでとうございます。1人目は知っていましたけど、第2子が誕生したのですね」

Mさん「子どものことも知っていたのですね(笑)」

私「奥様と付き合い始めた頃から話は聞いていますよ。それにしても、Kくんがケアカレに来てくれてから、介護の仕事を始めて、結婚して子どもができるまで速かったですね」

Mさん「あっという間でしたね」

私「Kくんがケアカレに来てくれたときはヤンチャで、エプロンを付けてもらうのに苦労しましたが、その時から心は優しい奴だなと思っていましたよ」

Mさん「彼は優しいかもしれませんね。でもケアカレにお願いした頃は、悪い友だちと付き合ったりしていて大変でした。育て方を間違えたかと本気で悩んでいましたから。おかげさまで今は別人のようですし、親子関係も良好です」

私「良かったです。先生方もKくんのこと好きなので、喜ぶと思いますよ」

 

そんな会話をして、電話を切りました。Mさんは息子のKくんが正社員になったことを報告するきっかけとして、全てを告白してくれたのだと思います。たしかにケアカレに来てくれてからKくんは大きく変わりましたが、本人が自分の力と意志で変わったのが実際のところで、たまたまそのタイミングにケアカレがあったということにすぎません。私たちとしては、その過程に並走できたことで、たくさんの喜びや学びを得ることができました。学校は表面的には知識や技術を教える場ですが、もっと深いところには、人間としての関わりがあり、それこそがお互いの喜びにつながるのです。

 

 

この前、藤田先生と話していたときも、「関わりがあったからこそ、僕もここまでやってこれました」とおっしゃっていましたし、橘川先生も「生徒さんとのかかわりが大切だと改めて気づかされました」と言ってくれました。僕も心からそう思います。これまでずっと教育にたずさわってきましたが、人と人とのかかわりこそが喜びであると本当の意味で分かったのは、ケアカレを9年間続けてきたからです。何をどう教えたかはあくまでも一時的なものであって、私たちの間にずっと残るのは関わりなのです。だからこそ、何百人、何千人、何万人の生徒さんが研修を受けたとしても、右から左へと流れるように入って出てしまっては、そこには何の価値もありません。学校運営としては、生徒さんたちの人数は多い方が良いのですが、最終的に私たちの記憶に残って、人生にとって意味を持つのは、人間同士の関わりだけなのかもしれません。これからも人と人との関わりを大切にする学校でありたいと思います。

2021年

6月

09日

介護職の性別や年齢についてー男性介護士ってどれくらいいるの?(前編)

「何歳くらいの人が働いていますか?」

「男性の介護士って、少ないですか?」

「長く続けられる仕事だと聞きました。本当ですか?」

 

初任者研修を受講している生徒さんからよく耳にする、介護職員の年齢についての質問です。私が仕事探しに同行して施設を見学する際にも、多くの生徒さんが採用担当者さんにその事業所で働いている職員さんの年齢層や男女比を質問しています。

 

自分と同じ年齢層の人も活躍しているのかな?という不安があるのでしょう。そこで、実際の介護職の年齢層や男女比などを、データも交えながら説明していきます。

 

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2021年

6月

05日

「ファーザー」

認知症になった頑固な父親と優しい娘の絆を描いた、心温まるヒューマン映画かと思いきや、全く違いました。しかも映画の序盤は介護者である娘(アン)の目線から見ていると、いつの間にか認知症の父(アンソニー)の視点に切り替わり、主観と客観の入れ替わりが起こるところが斬新です。そう、この映画は認知症の当事者を追体験する、恐怖のホラー映画なのです。VRで認知症の方の見え方を体験するのとはまた違い、自分の人生が乗っ取られていくような焦燥感や恐ろしさをストーリーとして体験できるのです。認知症の方の気持ちを理解したいと思う介護者の方は、ぜひ劇場でご覧ください。もちろん映画作品としての完成度も高く、音楽や映像、特にアンソニー・ホプキンスの迫真の演技は素晴らしいです。

 

この映画の中で面白いのは、時間軸がずれていくことです。過去と未来が逆に現れたり、未来から過去へと時間が流れたり、ときには何度も同じ出来事が起こったりする映画は、たとえば「メメント」や「TENET」、「メッセージ」など、これまでもいくつもありました。過去から現在、そして未来へと時間軸が狂うことで、私たちは不思議な感覚に陥りますし、そんなことが続くと、今自分がどこにいるのか分からなくなります。曜日感覚がなくなるという次元の話ではなく、自分の足場が失われ、どこに立っているのか分からなくなるような気持ち。自分が果たして誰なのか分からなくなるのです。それほどに私たちは、過去から現在、未来へ続く一本の上を歩いていることで安心できるのでしょう。

 

もうひとつ、事実と虚実が混ざって現れることで、どれが本当で、何が嘘なのか、誰が本当のことを言っているのか、見分けがつかなくなるという恐怖に襲われます。これは時間軸がずれるよりも恐ろしいかもしれません。あの人が言っていることと、この人が言っていることが正反対であったり、同じ人が時として違ったことを言ったりします。昨日はこう言ったけど、今日は全く違うことを言っている人が入れ替わり現れると、誰を信頼して良いのか分からなくなる。最も信頼すべき娘さえも、言っていることに一貫性がなく、時として理不尽な行動をしたりする。自分にとっての経験は絶対的である以上、事実と虚実が分からなくなることで私たちは混乱し、最後には自ら狂っていくのです。

 

 

アンソニーがこだわっているものが2つありました。ひとつは腕時計、もうひとつは自分の家です。そのせいで腕時計を盗まれたり、娘に自宅を乗っ取られるという妄想に取りつかれてしまいます。客観的に見るとおかしな行動も、腕時計は時間を表し、自宅は自分の居場所だと考えるとアンソニーのこだわりの意味が見えてきます。過去から現在、未来へとつながる一本の線から足を踏み外しそうになっているアンソニーにとって、今、何月何日の何時かを自分の目で確認することのできる腕時計は安心材料になります。また、何としてでも自分の居場所だけは守ろうとするのは、あらゆるものを奪われていると感じている人間の本能なのでしょう。結局、最後は老人ホームに入り、腕時計もしていないアンソニーの姿が映し出されたところで映画は終わります。私たちは、人生の最後には、時間も居場所も失ってしまうのでしょうか。

2021年

5月

30日

前職で培った接客経験を活かして(コロナ禍における介護業界への転職②)

飲食店で勤務していた橋本さんは、コロナをきっかけにこの先長く続けていく仕事について考え、ちょうど介護タクシーをしている友人の誘いもあったことから、介護職員初任者研修を受講しました。

 

「研修を受けたことで、障害のある方や高齢者の方との関わりを学んで、自分の価値観が変わりました。介護の仕事のお給料以外の良い部分を知ることもできて、これからの自分の生き方へも良い影響があったと思います」と、試しに受けてみた研修を通じて介護の仕事に対して、前向きになっていったそう。

 

 

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2021年

5月

23日

男は80歳から

たまたま実務者研修の授業の日に誕生日を迎えた生徒さんがいたので、お祝いをさせてもらいました。「33歳になりました。なんで誕生日なのに研修があるのだと思っていましたが、来て良かったです」と言ってもらえて嬉しかったですし、それに対して望月先生が「男は33からです!」と返していたのも面白かったです。授業が終わってから、男は33から発言について聞いてみると、「施設のおじいちゃんが、『男は80から』だと言っていたので」とのこと。その応用編だったのですね。それにしても、80になっても、これからが人生楽しいのだと思って生きる前向きさが素敵ですね。

 

そんな話をしていると、私が若かりし頃、先輩から「男は40から」だと真面目な顔をして言われた記憶が蘇ってきました。その先輩とはビリヤード仲間で、彼は東京藝術大学を首席で卒業し、ドイツに留学した経験もあり、ホルン奏者として様々な交響楽団に所属して演奏することを仕事としていました。当時私は20代でフラフラしていましたし、先輩は30代でNHK交響楽団に入ることが叶わずにモヤモヤしていた時期でした。

 

ビリヤード場からの帰り道で、何かの話の流れの中で、「村山くん、男は40からだから今は踏ん張りどころだよ」と言われたのです。「そうなんですね」と返しつつも、まだ30代にすらなっていない私にとって、まさか自分が40代になるなんて想像もしていませんでしたし、そんな私にとって「男は40から」という言葉は信じがたいものでした。心の底では、先輩は30になっても芽が出ていないから、男は40からなんて言っているんじゃないのという冷めた気持ちも少なからずあったはずです。

 

今から思えば、先輩の言葉は正しかったです。20代の頃は苦難と苦悩の連続でしたが、40代になってあらゆる意味で解放されました。人と人のつながりも広がりましたし、やりたいこともできるようになり、身も心も自由になりました。昔ほど全力で走れなくなったり、白髪が増えてきたりしますが、相対的には40代になってからの方が幸せです。先輩とはしばらく会っていませんが、おそらく今、立派な演奏者として活躍しているのではないでしょうか。20代の頃は20代こそが幸せのピークだと勝手に思い込んでいたのですが、実際にはそうではなかったのです。20代の自分には40代の自分のことなど、何ひとつ分からないのですね。

 

 

同じことは80代の自分に向けても言えるのかもしれません。さすがに80になってこれからということはないだろうと、先ほどの話は半ば冗談として書きましたが、もしかすると本当に80からなのかもしれません。年を取ると衰えてしまって、人生は悪い方向に向かってしまうと考えるのは、私たちがまだ若いからなのかもしれません。幸せ度を尋ねてみると、年齢が上がるほど幸せと答える人が増えるという調査もあるぐらいですから。それは性別を問わないはずです。今を生きることも大切ですが、人生はこれからもっと楽しくなると未来に希望を抱くことができると、誰もがもっと幸せになれますね。

2021年

5月

17日

介護職のシフトと休日ー土日は休めるの?

「介護の仕事をすると、土日は休めないって本当ですか?」

「シフト制の場合は、1週間どのような勤務スケジュールになりますか?」

 

まったく畑違いの業種から介護の仕事へ転職する卒業生さんから、このような休日についての質問を受けることがよくあります。「公休」、「年間休日」、「希望休」など採用情報でよく見る言葉は、他の業種では見かけないものもあるのでその疑問も当然です。

 

そこで、1か月単位で見るとどのような勤務スケジュールで働いているのかなど、具体的な例も交えながら説明していきます。働き方のタイムスケジュールを自分の生活スタイルにも置き換えて読んでもらえると、介護の仕事の働き方がイメージしやすいのではないでしょうか。

 

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2021年

5月

12日

長く続く付き合いを

「細くでも良いので、長くつながってくれると嬉しいです」

 

クラスの打ち上げなどで何かコメントを求められたとき、生徒さんたちに向かって私はそう伝えていました。太くても短く終わってしまう付き合いよりも、細くても長く続いてくれるそれの方が学校としては嬉しいと素直に思ったからです。その想いは今でも変わりませんが、つながりの質というのは、介護職員初任者研修と実務者研修では少し違うことが分かってきました。小野寺先生も指摘されていたとおり、初任者研修は太く短くなりがちで、実務者研修は細く長くなる可能性を秘めているということです。


私たちからすると、介護職員初任者研修は研修期間が15日間あることも手伝って、クラスメイトは仲良くなりますし、終わり頃には研修が終わってほしくないと言う生徒さんも出てくるほどです。しかし終わらない研修はありません。卒業してしまうと、それぞれは新しい道に進むことになります。介護の現場に飛び込む人もいれば、家族の介護に戻る人もいる。身に付けた介護の知識を生かせるような周辺産業に携わる人も出てくれば、全く関係ない仕事に就く人もいるはずです。悪く言うとバラバラになってしまうのです。そうすると、介護・福祉に対する興味にも濃淡が出てきて、気持ちが離れてしまう人もいて、次第に疎遠になってしまう。そうではなく単純に互いの近況報告を楽しみに会うようなクラスもありますが、多くの卒業生さんたちのつながりは先細りしてしまうのが実状でしょう。それはそれで仕方ないことですし、いつかまた再会する日が来るかもしれませんし、楽しかった学びの思い出がそれぞれの中で生き続けてくれたら良いと思います。

 

それに対し、実務者研修はわずか7日間と短いため、仲良くなる前に終わってしまう印象があり、私たちにとってもその点は不完全燃焼である感は否めません。実務者研修の生徒さん同士が、初任者研修の生徒さんたちのように、もっと仲良くなれたらと試行錯誤していますが、15日間と7日間という接触頻度の違いはどうしようもないのです。それでも7日間できることをしようと思ってやってきました。

 

ところが、実務者研修は盛り上がる前に終わってしまい、つながりは個別の細いものになりがちだけど、意外と長く続くのではと最近思うようになりました。それは何人かの実務者研修の卒業生さんたちから、「実務者研修で知り合った人といまだにLINEしたりしています」、「相談したり、情報を共有したり、お互いの職場の愚痴を言い合ったりしています(笑)」などと聞くことが多く、私の実感よりもつながりは続いている現実があることが分かってきたからです。実務者研修の卒業生は、そのほとんどが介護の現場で働いているため、置かれている状況や立場、興味の対象が同じだからです。分かりやすく言うと、話が合うということです。そうなのです、私が思っていたよりも、実務者研修の卒業生たちもつながっていたのです。

 

 

介護職員初任者研修と実務者研修のどちらが良いということではなく、つながり方の種類が異なるということです。もちろん、どちらの研修も太く長く続いてくれたら最高ですよ。そのためには、介護職員初任者研修が修了したあと、介護の現場で長く働いてくれる人が増えたら良いですし、実務者研修では研修内でひとりでも多くの生徒さんたちが個人的につがってくれる雰囲気をつくったり、工夫をすることが大切ですね。

2021年

5月

06日

多死の時代

「日本では1年間に何人が死ぬと思いますか?」

 

 

いきなり縁起でもない質問ですいません。この問いに正確に答えることができる人は少ないと思います。実は私も8年前までは答えられませんでした。8年前というのは湘南ケアカレッジを開校したとき。当時の説明会では「多死の時代」について話していたことがあります。少子高齢化社会というのは、つまり多死の時代のことであり、介護にたずさわる私たちは特に、誰もが死というものを身近に感じる時代になるという話です。

 

決して悲観的な意味ではなく、そのような時代において、私たちは死について考え、自分の親の死だけではなく自らの死とも向き合って、寄り添っていかなければならないという主旨でした。介護職員初任者研修では、死についても学びますよ。そんな話をするために調べていたときに恥ずかしながら初めて、多死の時代における国内の1年間の死者数を知ったのです。

 

知らなかったときは、大体数万人か多くて数十万人ぐらいかと見積もっていましたが、私の想像をはるかに超えて、日本では1年間に100万人以上の人が亡くなっていたのです(2013年時点)。あれから6年が経って、2019年時点では正確には138万人の方々が亡くなっています。恐る恐る1日当たりの死者数を計算してみたところ、138万÷365日で1日におよそ3780名の人々が死んでいるのです。この計算したときに私は素直に驚きました。日本ではそんなに多くの方々が、今日という1日の間に亡くなっているのだと。私の日常感覚とは全く違う現実におののいたのです。

 

公表されている死因を見てみると、悪性新生物(がん)が27.3%、心疾患(狭心症や心筋梗塞など)が15%、老衰が8.8%、脳血管疾患が7.7%、そして肺炎が6.9%、誤嚥性肺炎が2.9%と続きます。もっと現実的に見て、1日あたりのおよその死因別死者数を計算してみると以下のようになります。

 

1日当たりの死因別死者数

悪性新生物(がん) 1032人

心疾患        567人

老衰         332人

脳血管疾患      291人

肺炎         260人

誤嚥性肺炎      109人

 

たった1日でこれだけの人たちが実際には亡くなっているのです。私にはいまだに現実のものとは思えませんが、これが現実なのです。今この瞬間にも生まれてくる生命があるように、失われる命もあるということです。それが自然なのですね。どうしても私たちには身の回りのことしか見えないので、私たち一人ひとりにとっては死は非日常的なものになります。特に近代化された日本では、死という存在自体が忌み嫌われて、日常からは遠ざけられてしまっています。そんな私たちが突然、上のような数字を突き付けられると、現実のものとは思えないと思ってしまうのです。

 

 

介護職員初任者研修ではターミナルケアについて学びます。死について話し合ってみる、思いをはせてみることはとても重要です。死について考えることを先延ばしにせず、エンディングノートのような形で伝え合うことも大切です。しかし、もしかするとそれだけでは十分ではなく、死についてもっと俯瞰的に見る必要があるのかもしれませんね。それがなければ、死は日常的なものであり、誰にとっても身近なものであるという実感が湧かないのです。学ぶとは深く学ぶことだけではなく、引いて見る、遠くから物事を見てみる学びもあるのです。多死の時代を大きく考えてみるべき今、そう強く思います。

2021年

4月

30日

コミュニケーションについて

良い映画を観るとまた次も観たくなるように、良い本を読むとまた次も読みたくなり、そのような良い連鎖が続くことがあります。今年に入ってから、たまたま手に取って読んだ3冊がまさにそうでした。ご覧のとおり、まったく異なるジャンルやテーマの3冊ですが、どれも新たな気づきが多く、なるほどと頷きながら、食い入るように読みました。これら3冊を読み終わってみてふと気づいたのは、どれも他者とのコミュニケーションが中心にあったことです。自分とは違う他者をどう理解し、分かり合えるかというテーマでした。私は無意識のうちにコミュニケーションに興味を持っていたのか、それともコミュニケーションが求められる時代の流れなのか分かりませんが、改めて他者とのコミュニケーションを問うきっかけになりました。

それぞれの本の中身は別の機会に紹介しますが(興味のある先生はケアカレ図書館に置いておくので読んでみてください)、3冊に共通している主張があります。というか、馬と話す本も、今流行りのオープンダイアローグ本も、利他という新しいジャンルの本も、全て同じことを言っているのです。他者を「コントロールしようとしない」、「変えようとしない」、「誘導しようとしない」、「余白をつくる」、「待つ」、「自分を知る」などです。他者を変えようと(コントロールしようと、誘導しようと)しないからこそ、相手が(勝手に)変わるということであり、そのためには他者との間に余白やスペースをつくって、待つ必要があるということです。

裏を返せば、他者を変えようと(コントロールしようと、誘導しようと)すると、相手は変わらないし、コントロールが難しくなり、抵抗されてしまうということです。私が実体験としてこのことを学んだのは、30歳を超えて森塾という個別指導塾で子どもたちを相手に教えた頃です。集団授業の塾に比べ、個別指導の塾にはあまり勉強が好きではない、いわゆるやんちゃな(可愛いものですが)子どもたちが集まる傾向があります。勉強に対してはモチベーションが低く、大人に対しても従順ではないということです。集団授業の塾で教鞭をとっていた先生が個別指導では上手くいかないのは、ここに理由があります。上手くいかないというか、これまでのコミュニケーションが間違っていたことを知らされるのです。

 

それは私も同じでした。湘南ゼミナールという集団授業の塾でも、三幸福祉カレッジで働いていたときも、僕はこうあるべきという像を押し付けすぎていたのです。こうあるべきという、小さな輪の中に他者を押し込めようとして、コントロールしたり、誘導したり、相手を変えようとしたりしていたと思います。相手が大人や従順な子どもであれば、表面的には自分の意志が通った気になりますが、実は何も変わっていなかったのです。森塾で教えることがなければ、もしかすると私は永遠に気づかないまま一生を終えていたかもしれません。それほどに、森塾で今までのコミュニケーションのスタイルが通用しなかったことは私にとって貴重な経験でした。まずは褒める・認めることから入る、相手を尊重する(選択してもらう)、無理に教えようとしない(教えすぎない)、誘導しようとしている自分に意識的になる、などは森塾の子どもたちから教えてもらいました。

 

卑近な例になりますが、うちの子どもが中学生になった頃から、村山家の朝は「早く起きなさい!」というキッチンからの怒号でスタートします。子どもは目が覚めているのに、妻の声を聞こえないふりをします。いつまでも起きてこないので、「もう7時40分よ!」「〇〇くんをまた待たせるつもり!?」「朝ごはんちゃんと食べてよ!」「今日の持ち物の準備はできているの?!」と妻の怒りは最高潮に達します。私は目覚まし時計ではなく、このやりとりで目覚めます(笑)。朝からギャーギャー言われるから余計に起きたくないという息子の心理は良く分かります。コントロールに対する反抗ですし、両者の間には余白がない状態です。

 

ある日、妻が泊まりの研修で不在にしていました。朝ちゃんと起こしてと私は言われていたのですが、せっかくなので実験をしてみました。前日の夜、「明日はお母さんが朝いないから誰も起こしてくれないけど、何時に起きれば間に合うの?」と子どもに聞くと、「友だちが7時40分ぐらいに迎えに来るから、朝ごはんを食べる時間を考えると、7時20分に起きていると良いかな」と答えてくれました。「そっか。じゃあ、目覚まし時計をかけて自分で起きてね」とだけ返し、私たちは寝ました。もし子どもが寝過ごしたり、起きられなかったりしても、私は起こすつもりはありませんでした。いや、起こさないと決めて寝ました。万が一、学校に遅刻してしまっても大したことではありませんし、失敗から学ぶこともあるはずですし、そもそも普通に起きるだろうと考えていました。

 

 

子どもは早めに目覚ましをかけていたらしく、7時前から目覚ましは鳴り始めました。いつもは愚図っていつまでも布団から出ようとしない息子が、7時20分になると、誰に何も言われることなく自分でスッと起きたのです。朝ごはんを食べ、その日の持ち物を準備して(前日にやっておけよとは思いますが笑)、迎えにくる友だちを待つ余裕があったほど。たまたまこの日だけ上手く起きられたのかもしれませんし、緊張感がなくなってくると寝坊する日も出てくるかもしれませんが、とにかくこの日の朝は平和だったのです。毎朝、大声を張り上げて起こす方も大変ですし、嫌な気持ちで起こされる方も苦痛ですし、それを周りで聞いている方も心苦しい。コントロールを手放し、相手にゆだねることで、誰も声を荒げることなく、子どもは自分の意志で起きて学校に行ったのです。ただ、僕はこのやり方を妻に押し付ける気はありませんし、何かを変える気もありません。ご想像のとおり、翌日からはいつもの騒がしい朝が戻ってきました。まあそれはそれで良いのかもしれません。

2021年

4月

22日

介護福祉士合格おめでとう!

遅ればせながら報告させていただきますと、今年も湘南ケアカレッジの卒業生さんたちが介護福祉に合格されました!おめでとうございます。昨年に引き続き、合格祝賀会を催すことができずに申し訳なく思っていますが、その代わり、たくさんの卒業生さんたちから合格のメッセージをいただくことができました。私たちのおかげと書いてくれたり、先生方に教えてもらったところが問題に出ました!と報告してくれて嬉しいのですが、最終的に合格できたのはご自身の頑張りがあったからです。私たちは最後のひと押しができたかもれませんが、そこまで皆さんがしっかりと勉強してくれていたからこそだと思うのです。

 

今年度は全体の合格率が71%と昨年とほぼ同じでした(おかげさまで、湘南ケアカレッジは何とか90%を越えられそうです!)。実務者研修がスタートした2016年から、介護福祉士試験の受験者数がガクンと減り、それに合わせる形で合格率を70%前後に保とうとしていることが数字の推移で見て取れます。合格点があるわけではなく、受験者の上位70%を合格とするためのラインを引いて、そこの点数がたまたま合格点となるということですね。合格率ありきというか、ある程度の合格者数を確保するために、最低でも全国で6万人ぐらいの介護福祉士を誕生させたいという意図が見て取れます。総受験者数が大幅に減らない限り、来年以降もしばらくは70%前後の合格率は続きそうです。

 

合格率70%は簡単すぎるという声もあります。ちなみに、社会福祉士は27%前後、ケアマネジャーは19%、司法書士は3~4%です。たしかに他の国家資格と比べて合格しやすいことは確かですが、決して誰もが受かる試験でもありません。実感的に言うと、「きちんと勉強すれば合格できるけど、そうでなければ合格できない」というレベルだと思います。もちろん個人差はあるので、しっかり勉強したつもりでも合格できなかった、もしくはノー勉強だったけど合格したという人もいるにはいるでしょう。それでもほとんどの人たちは、試験に向けて多かれ少なかれ時間を割いて勉強したから受かったのだと思います。

 

 

湘南ケアカレッジの筆記試験対策講座の生徒さんの合格率が全国平均よりも20%も高いのは、皆さんそれぞれがきちんと勉強してくれたからです。ひとりで勉強できる自信がないからと言って参加してくださる生徒さんも多いのですが、それでも最終的に合格されるのは勉強しているからです。自腹で受講料を払い、5日間勉強する環境を自ら作ったことが成功の一因ですし、その機会を逃すことなく取り組んでくれたからこその合格ですね。何が言いたいかというと、みんな頑張ってくれてありがとうということです。会ってお祝いできなくて残念ですが、皆さんの気持ちは先生方にもちゃんと伝わっていますよ。

2021年

4月

15日

命という名の時間の奪い合い

昨年、公開されて世界中で大ヒットとなった映画「TENET(テネット)」は、時間は過去から現在、そして未来に向かってのみ流れるのではなく、未来から現在へと逆行できるという設定が斬新でした。臨場感のあるサウンドが全身に響き渡り、最初から最後までハラハラドキドキ、全身の血管が脈打つような作品でした。

 

 

ストーリーとしては、地球が滅亡するという未来において、行き場を失ってしまった未来軍と現在軍の時間を巡る戦いが生じます。未来軍は時間を逆行しながら、現在軍は時間を順行しながら、時間を奪い合うのです。映画の中では、未来軍は時間を逆行しなければならない分、かなりの不利を強いられることになりますが、それでも未来を変えるためには過去を変えねばならず、現在軍を押し返さなければならないのです。私がふと思うのは、この映画の中で行われていた未来軍と現在軍の争いは、今のコロナ騒動における高齢者と若者との関係性にそっくりだということです。

 

この話をする前に、「時間は命である」ということを明確にしておきたいと思います。この概念は、聖路加病院の日野原重明先生に教えてもらいました。日野原先生は90歳を過ぎた頃から10代の子どもたちに対していのちの授業を行い、「心臓は生きるために必要だけど、そこに命があるわけじゃない。これから一番、大切なことを言います。命とは、人間が持っている時間のことです」、「これからはだれかのために時間を使ってください」と語りかけたそうです。命とは人間が持っている時間であるという感覚は、若い人たちには分かりにくいと思いますが、人生が残り少ないと知れば知るほど、命とは時間である、時間とは命であると理解できるのでしょう。つまり、自分に与えられた時間(命)をどう使うかが大切なのだと、日野原先生は伝えたかったのです。

 

今、コロナ禍で起こっていることは、命という名の時間の奪い合いです。高齢者は自分たちの命を守るため、働き盛りの世代の生活や経済を縮小し、ステイホームすることを求め、さらに若い学生や子どもたちの通う学校を休校し、部活や遊びを止めさせることを強いています。もちろん、そうではない高齢者もいると思いますが、現実を見渡す限りにおいて、高齢者軍の総意としてはそういうことです。かけがえのない1年という時間(命)を若者軍から奪い、さらにこの先も同じことが続くでしょう。高齢者軍は本来であればだれかのために使うべき時間(命)を自分たちのために使い、無意識のうちに若者たちの命(時間)を奪ってしまっているのです。時間は命であるという感覚に乏しい若者軍は自分たちの命が奪われていることに無自覚であり、対する高齢者軍は命懸け、かつ人数が多いため、政治的にも圧倒的に有利です。若者軍に今のところ勝ち目はありません。

 

あえて命を奪うという過激な表現を用いましたが、高齢者軍が若者軍と真っ向勝負で、世代間対立をしてしまうと、時間(命)を奪い合うしかありません。この問題の解決策はなかなか考えつきませんが、まずは若者軍が自分たちの命(時間)が奪われていることを自覚すべきです。自覚しなければ、知らぬうちにあなたの時間(命)は誰かによって浪費され、乏しいものになっていくことでしょう。本来はもっと広く素晴らしい世界が見えたはずなのに、夢や希望さえも抱くことが難しくなってしまうのではないでしょうか。待っていても誰も与えてくれません。反抗して、自分から行動しなければ、この先ずっと、制限された人生を歩むことになりますが、それでよいのでしょうか?

 

もうひとつは、高齢者軍が少し冷静になることです。NHKなどのテレビやヤフーニュースばかり見ていないで、あらゆる角度からの情報や見識を集めたり、街に出て、世界をよく見てみることです。本当に新型コロナウイルスはあなたたちの命を奪うような致命的なウイルスでしょうか?本当に新型コロナウイルスは誰かと食事をしただけで感染するような感染力の強いウイルスでしょうか?本当にPCR検査や抗原抗体検査は感染者を正確に診断しているのでしょうか?本当に新型コロナウイルスが体内で増殖したことによって亡くなった方はいるのでしょうか?一度、異なったベクトルの視点から見てみてください。そうすることで、あなた方の進むべき方向は若者たちの時間(命)を奪う方向ではなく、若者たちと共に歩む方向だと分かるのではないでしょうか。このまま対立を進めても、高齢者は外にもなかなか出られず、子どもや孫たちにもほとんど会えず、死ぬまでマスクをして、最後は孤独に亡くなることを選択しますか?共に進んだとしても、あなたたちの命(時間)は失われることはありません。むしろお互いの時間も命もより豊かになるはずです。

2021年

4月

07日

変えられるもの、変えられないもの

3月短期クラスが終了しました。「修了したくない」とある生徒さんがおっしゃっていたように、とても楽しく学び、教え合い、助け合える、仲の良いクラスでした。最後のアンケートで印象的だったひと言に、「クラス全員が全員のことを知っていて良かった」というものがあり、まさにそういうことだと感じました。最終的な介護職員初任者研修の満足度を決めるもしくは高めるのは、生徒さん同士の横のつながりなのです。それがなければ、どれだけ私たちが素晴らしい授業を提供しようが、先生と生徒さんの信頼関係が築かれようが、大満足にはならないのです。

生徒さん同士のつながりを意図的につくるのは難しいことですが、仕組みとしてできることはたくさんあると思います。たとえば、湘南ケアカレッジでは、教室で座る席を固定していません。むしろいつもと違った席に座ることを勧めています。小学校や中学校のように、朝来て座る席が決められているわけではないということです。初日は誰もが新しい席に座りますので、2日目から「前回とは違った席に座ってみてください」と声掛けをしています。初日の望月先生も授業の中で、違った席に座ることの意味を伝えてくれているようです。

 

それはできるだけ多くのクラスメイトと接点を持って、仲良くなると、研修に対しても満足度が高くなることが分かっているからです。もしかしたら運命の出会いがあるかもしれないのに、同じ席に座り続けることで、せっかくの機会を逃してしまうのももったいないですよね。実際に卒業生さんたちからは、「声掛けしてもらったおかげで、いろいろな人たちと話すことができて良かった」と後から言ってもらうことが多いです。その時は分からなくても、広がった人間関係を見て、あえて違う席に座った意味を理解するということです。

 

そもそも声掛けをしているのは、不思議なことに、人間は前回と全く同じ席に座る習性があるようです。たとえ週1のクラスでも、1週間前に座った席を忘れることなく、席が決められているわけではないのに、同じ席に座ろうとします。前回と同じであることに安心するのかもしれませんし、誰かのお気に入りの席を取ってしまうことに遠慮するのかもしれません。ただそうして誰もが前回と同じ席に座るとどうなるでしょうか?毎回、同じ人たちが周りにいることになります。席を固定してしまうと、人間関係を含む環境が固定されてしまうのです。

 

逆に前回と違った席に毎回座ることで、毎回違う人が周りに座っていることになり、これまでとは違ったクラスメイトとの接点が一気に増えます。たとえば、毎回同じ席に座ると隣の人と同じグループになる後ろの列の2人を合わせて(極端に言うと)3人としか接点が持てません。ところがもし毎回違う席に座ることで、隣の人に後ろの列の2人を合わせた3人×15日間で45人(実際には約24名定員なので全員)のことを知ることができます。

 

毎回違う席に座るというほんのわずかなことですが、私たち一人ひとりの日常のちょっとした習性や習慣を変えることによって、全体としては大きな変化や出会いが生まれることが分かりますね。

 

「変えられるものを変える勇気を、

変えられないものを受け入れる冷静さを、

そして両者を識別する知恵を与えたまえ」

 

という神学者ニーバーの有名な言葉があります。様々な解釈があると思いますが、何から何まで変えることが良いということではなく、変えるべきものは変えるべきであり、変える必要のないものは変えてはならず、その両者を識別して行動するためには、勇気と冷静さと知恵の全てが必要であると私は考えています。

 

変えるべきものはそのままに、変えなくてよいことは変えてしまうことが多く見られる世の中ですから、ニーバーの言葉は心に響きますね。何よりも大切なのは、何を変えるべきで、何を変えないべきかを見極める知恵なのだと思います。それなくしては、どれだけ勇気と冷静さがあっても私たちは間違ってしますのです。

 

 

変えるべきことと変える必要のないもの見分け方は簡単です。まずは変えること(もしくは変えないこと)によって起こりうる未来を想像してみることが大事です。それから具体的に、変えることによって生じるメリットとデメリットを比べてみること。変えないことにもメリット・デメリットがあるはずです。比較してみて、メリットがデメリットを上回るのであれば、行動してみる価値はあります。変える価値があると思ったなら、勇気を持って行動すべきです。変えない方が得策だと考えたなら、冷静さを持って受け入れるべきです。皆さんもぜひ試してみてください。

 

追伸

 

先日、先生方と日曜日クラスの生徒さんたちに誕生日をお祝いしてもらいました。湘南ケアカレッジが開校して、丸8年が経ちましたが、今年もこうして祝ってもらうことができて幸せです。開校したときはまだ30代だった私が、いつの間にかアラフィフになってしまいました(笑)。「100年続く学校」を目指している湘南ケアカレッジにとっては、まだまだ旅の途上ですね。守るべきものは守り、かといって守りに入りすぎず、新しいことに挑戦もしていきたいと思います。経営とはそのバランスであり、思想でもあります。世界観が変わる福祉教育を提供することを通して、湘南ケアカレッジにかかわってくれた人たちの未来がより明るく照らされることを願っています。

2021年

3月

31日

天職の3つの条件

ふらりと教室に立ち寄ってくれた卒業生さんが、「介護の仕事は天職だと思います」とさらりとおっしゃいました。その言葉を聞けて素直に嬉しかったですし、と同時に、天職とは何だろう?どうすれば自分にとっての天職だと思えるのだろうかという問いが、むくむくと湧きあがりました。私もなかなか天職を見つけるために紆余曲折し、天職について考えていた期間は長いので、自分なりの答えを書いてみたいと思います。

 

 

その仕事が自分にとって天職であるための条件は3つあります。

ひとつは、お客さんとの波長が合うかどうかです。介護の仕事であれば、利用者さんとの波長が合うかどうか。波長というと抽象的ですが、他に相応しい言葉が見つからないので波長とさせてください。その仕事や業界には必ずお客さんがいて、お客さんのためにサービスを提供するわけなので、お客さんと良い関係が築けないと苦しいわけです。しかもお客さんに対する共感や尊敬、愛着のようなものが感じられないと、良い関係は長続きしませんね。もちろん一方通行ではなく、お客さんからの共感や尊敬、愛着、感謝などが得られないと、やってられない日が来るでしょう。

 

主にお客さんとの波長が大切ですが、一緒に仕事をする仲間(スタッフ)との波長が合うかどうかも大切です。共感や尊敬、愛着のようなものがお互いに感じられるかどうか。上下関係や年齢、性別など関係なく、一緒に働く人たちと波長が合わなければ苦しいですよね。実はお客さんとの波長が合うというベクトルが一致していれば、自然と一緒に働く人たちとの波長も合うものです(もちろんそうではない仲間も一定数いるでしょうが…)。お客さんとは波長が合わないけど、一緒に仕事をする仲間とだけ合うという場合、おそらくそれはその仕事が天職なわけではなく、職場に友だちがいるというだけの話でしょう。あくまでもお客さんとの関係が主で、一緒に仕事をする仲間との関係が従です。

 

私の場合は、大学を卒業してから塾業界に入りました。学生の頃から子どもの教育にはたずさわっていたので、自然な流れというか、就職氷河期の真っただ中で、それしか仕事が見つからなかったのです。最初の仕事は1年で辞めることになり、その後、知り合いの紹介で大手の介護スクールで働かせてもらうことになり、もしかすると自分に合っているかもと感じました。5年間、介護のスクールで働き、その後もう一度、子どもの教育に戻りました。最終的に、私は教えること自体は好きですが、子どもたちよりも大人(特に介護の世界の人たち、もしくは介護の世界に入ろうする人たち)の方が波長は合うと感じました。正直に言うと、子どもたちと接していると一時的には楽しいし、愛着もあるのですが、尊敬はあまり感じられませんでした。不思議と、一緒に働く仲間たちにも同じような感覚を抱いていました。それに対して、介護の学校でたずさわるお客さん(生徒さん)と一緒に働く仲間(先生方)は、とても良い人ばかりで、共感や愛着のようなものだけではなく、尊敬の気持ちも抱くことができたのですよね。これはあくまでも私にとっての波長であり、個人の感覚ですが、同じ教育の業界でも仕事によって波長の合う合わないは全く異なるということですね。

 

2つめは、その仕事をする中で常に学びがあるかどうかです。以前に「私が独自に発見した、一番ラクな天職の見つけ方」というブログを紹介しつつ、仕事の中に気づきがあるかどうかは、自分がその仕事を通して成長していけるかどうかに大きな影響を与えるため、とても重要だと述べました。お客さんや一緒に働く仲間と波長が合うだけでも十分ですが、もっと長い目で見て、その仕事を生涯やり続けるとすれば、普段働いている中で少しずつでも学びや気づきがあることで、自分自身が成長する感触がつかめるはずです。ただ単に学びや気づきがあると楽しいですし、過去の自分と比べて、より望ましい人間になっている実感は仕事を通して得られる喜びのひとつです。逆に、学びや気づきがなくなってしまうとその仕事はつまらなくなってしまいます。つまらない仕事は長く続けられませんから天職にはなりませんね。

 

最後の3つめは、その仕事が他の人たちよりも上手くできるかどうかです。2つ目の仕事の中に学びや気づきがあるかとも関係してきますが、成長して上達することで、他の人たちには及ばないレベルで仕事が上手にできたり、それによって誰かに喜ばれ、褒められ、認められ、感謝されたりします。私は学生時代に始めたビリヤードが好きでしたし、自分なりに気づきや学びもあったのですが、最終的には誰よりも上手くなることはできませんでした。アスリートの世界のように頂点に立たなくても良いのですが、やはりお金をもらう(稼ぐ)以上は、少なくとも他の人たちよりも上手にできる必要があるのだと気づかされたのでした。

 

 

あなたにとって3つの条件すべてが当てはまれば、その仕事は間違いなく天職でしょうし、まずは1つだけでも当てはまれば、天職かもしれないと思って良いはずです。そもそも簡単に天職など見つかるはずもありません。私もアルバイトを含めていくつかの職を転々としながら、ようやく自分にとっての天職に近いものを掴めた気がしています。今、天職が見つかっているラッキーな人はその仕事の中で己をどんどん磨いていってもらいたいですし、まだ見つかっていない人は探し続けて下さい。3つの条件を意識しながら探し続けていると、いつか見つかるはずですよ。

2021年

3月

24日

「人生、ここにあり!」

最近、Amazonプライムで映画を観るのにハマっています。良い映画を観ると、また次も観たくなって、その映画も面白いとまた次もと連鎖していく。「人生、ここにあり!」もその流れの中で見つけて観た映画であり、最高に素晴らしかったです。1980年代のイタリア、精神障害者の就労施設を舞台にして起こった運動を、実話に基づいてユーモラスに、人間味あふれるタッチで描いています。薬漬けにされ、施設に隔離され、決められた仕事をやらされていた精神障害のある人たちが、左遷されて来たある人物の登場をきっかけに、自分たちの手で社会に飛び出すことになります。ネタバレになるのでこれ以上は述べませんが、ちょっとした偶然が重なって、社会は少しずつ変わっていくのだなと感じました。精神障害や就労支援に興味があって学びたいと思っている方は、ぜひご覧になってみてください。

原題は「Si può fare(やればできる)」。学習塾の安っぽい宣伝文句のようですが(笑)、この言葉がこれほど当てはまる映画もないでしょう。あの時代に精神障害者が精神病院から社会に出ていくなんて、まさに無謀と思われていたでしょうし、狂気の沙汰だと非難した人たちも多かったはずです。それでもやればできると信じる者がいたからこそ、その過程には数々の悲しみや苦悩もあったはずですが、実際には何とかなったということです。

 

 

実際にイタリアには今、精神病院がありません。かつてはマニュコミオと呼ばれた巨大な精神病院が数多く存在していましたが、人間を「隔離」するシステムは人権や尊厳の問題と深く関わりがあることは明らかであり、イタリアはいち早く「共生」へと舵を切ったのです。もちろん、社会保障費といったお金の問題もあったのかもしれませんが、それは鶏と卵の問題であって、どう考えても人間を1か所に「隔離」しておくことは人権と尊厳の侵害であり、誰にもそうする権利はない以上、私たちに残された選択肢は「共生」しかないはずです。1998年にイタリアからは精神病院がなくなりました。

「共生」と言っても決して野放しにするということではなく、精神科医のフランコ・バザーリアが唱えたのは、「右手で病院を解体し、左手で地域ケアをつくる」と言われる改革でした。もちろん医療的なケアだけでは不十分であり、社会に出るということは、統合失調症を抱える人たちが自分たちで稼ぎ、自分の部屋で暮らし、周囲の人たちと人間関係を構築するということです。そのためには自分たちの仕事を持って、経済的に自立することが鍵となり、この映画はそのあたりを実に上手く描いています。彼ら彼女たちの「強み」や「得意とすること」を生かして仕事をするのです。もちろん、彼ら彼女たちが地域で生活することで起こる現実からも目を背けていないことも称賛に値する作品です。

最後に、ご存じのとおり、日本は世界一、精神病院の病床数が多い国です。世界の精神病床約185万床のうち約35万床が日本にあり、世界の精神病床の5分の1が日本にあるということです。これを日本が豊かであるからと見るか、人権意識に欠けていると見るかはそれぞれですが、私は何かが決定的にずれてしまっていると考えています。新型コロナウイルスの患者は、日本全体の病床数のわずか2%しか受け入れておらず、医療崩壊だと騒いでいる一方で、精神疾患の人たちを隔離するための病床数はごまんとあるのです。日本の病院は民間がほとんどですから仕方ないと考えるべきかもしれませんが、つまりはお金にならないことはやらず、自分たちの保身や責任逃れのためなら何でもするということですね。そういう実情を知らない人たちは、ぜひこの映画を観て、教養を深め、視野を広げてもらいたいと願っています。

2021年

3月

17日

一人ひとりがリーダー

2月短期クラスが無事に修了しました。初日から和やかな雰囲気でスタートし、講義もしっかりと聴いてくれて、実技演習も真剣に取り組んでくれた素晴らしいクラスでした。最終日の筆記テストにて、外国人の生徒さんが合格したとき、皆がお祝いムードに包まれたことからも、誰もが心ひとつにつながっていたことが伝わってきました。このようなクラスに参加したことは生徒さんたちにとって一生の思い出になるはずですし、先生方も介護を教えていて良かったと思えるのではないでしょうか。その証拠に、最後のアンケートの大満足度も100%でした。最終日には丁寧なメッセージ入りのボードを贈っていただきました!食事の授業が印象的だったのか、テーマは食だそうです。大切に飾らせていただきますね。ありがとうございます。

 

 

なぜ全員が大満足するようなクラスになったかというと、何人から生徒さんたちの良い影響は見逃せません。一人ひとりの生徒さんたちは、他の生徒さんとつながりを持ちたい、良い雰囲気のクラスにしたいと願っていても、全体として上手く行くこともあれば、上手く行かないこともあるでしょう。その違いは実はわずかで、周りの人たちに良い影響を与えて、自然と巻き込んでいけるような人がいて、その人に素直について行く人がいるかどうかが大切です。いわゆる良きリーダーと良きサポーターというやつ。あの人がいたおかげで、周りの誰もが良い関係を保てたということはたしかにあるはずです。

 

それでも、と最近は思うようになりました。誰かのおかげで上手く行くことはあるとしても、裏を返せば、それはその誰かがいなければ上手く行かなかったかもしれず、逆に誰かのせいで上手く行かなくなってしまうことも起こりうるはずです。自分ではない誰かに期待して、影響されるだけでは、望ましい未来も他人次第、運任せということになります。それは政治のような大きな未来でも、身の回りに起こる自分の未来でも同じです。誰かから許可が出るを待っていても何も起こりませんし、誰かが間違ってしまうと全員が間違ってしまうのです。

 

 

2月短期クラスは、クラスメイトの一人ひとりが自分たちの意思を持って、良い研修にしようと行動してくれたのだと思います。一つひとつの言動が積み重なって、クラス全体の雰囲気をつくりあげたのです。少数の誰かのおかげではなく、全員のおかげ。全員が良きリーダーであり、全員が良きサポーターであったということです。理想的な話に聞こえるかもしれませんが、本当に良いチームや人の集まりをつくろうとするならば、誰にとっても明るい未来を築こうとするならば、一人ひとりが責任を持って行動していかなければならないのです。そんなことを教えてくれた素敵なクラスでした。

2021年

3月

10日

コントロール願望を手放す

皆さんは、自分の中にあるコントロール願望に気づくことがあるでしょうか。コントロール願望とは、誰かを上手に動かしたい、操りたいという願望、つまり自分の思い通りに相手に行動してもらいたいという気持ちのこと。人間である以上、多かれ少なかれ、コントロール願望はあるのですが、自分でもコントロールが効かなくなるほどに無意識のうちに行ってしまっていると問題です。あなたのためと言いながら、自分の都合の良いように相手を誘導してしまう癖がついた人たちが増えると、お互いの選択の自由が少ない窮屈な社会が生まれてしまうからです。

 

私がこのコントロール願望に気づいたのは、子どもの教育にたずさわっていた頃です。その当時は、コントロールという言葉で考えていたわけではありませんが、子どもを上手いこと言いくるめる先生が仕事のできる先生という風潮に、何となく違和感を覚えていました。生徒の利を説きつつ、こうしてもらいたいという気持ちを伝えるのは先生の重要な役割のひとつではありますが、どうも単一の目的が最初にあって、そこに向けて生徒を巧妙に誘導しているだけにしか見えない現象があちらこちらに見られたのです。

 

なぜ違和感を覚えたかというと、先生は生徒を上手に導いたつもりでも、実は生徒さんは仕方なしに従っていることが多かったからです。生徒さんからすると、下手に逆らっても仕方ないし面倒くさいから、誘導させてあげているという気持ちなのに先生の方は気づいていないということです。私はこのような光景を見ると胸が痛みました。先生と生徒という力関係の中では、表面だけを見ると上手く行っているのですが、自分の意思に反して誘導された生徒さんの心にはしこりが残るのです。

 

「利他性」についての研究をしている伊藤亜紗さん(ケアカレナイトにも招こうと考えていた素晴らしい方です)が、視覚障害者の例を挙げて、私たちが誰かのためと思ってやっていることは意外にも利他的ではないと述べていました。中途で視覚障害になった方が、「毎日がはとバスツアーになった。ガイドヘルパーさんに一から全てを案内されるのは便利ではあるけれど、外の世界を自分で感じたり、考えたりもしたい」と話されたそうです。自分はガイドヘルパーという役割を演じ、相手を視覚障害者という役割に固定してしまうと、相手はとても窮屈に感じるということもあるということ。私を含めたほとんどの人たちは、利他の名目の下、実は利己的な行動をしてしまっているのではないでしょうか。自分は利他的だと信じているのに、相手は利己的だと感じているのが皮肉ですね。

 

 

それは介護の現場でも、親子の関係においても、同じように起こっています。特に、相手と力関係に差がある場合に顕著に見られる現象です。相手のためと言いつつも、自分のそうあってもらいたいという状態に相手をコントロールしていませんか?コントロール願望を克服し、本当の意味で、相手に自立支援や選択の自由を提供するためには、まずは自分の内にあるコントロール願望に気づくことです。コントロール願望を意識することができたら一歩前進。その先は自分のこうしてもらいたいという願望を疑い、手放すことです。前述の伊藤亜紗さんは、「スペースをつくる」と表現されていました。相手との間に、時間的、空間的、精神的なスペースをつくることです。そして最も大切なのは「待つこと」。相手をコントロールしたり、一方的に自分のべき論を押し付けないようにするためには、どうしても待つ時間が必要になってきます。スペースをつくり、待つことを意識できると、今まで自分が相手に対して抱いていたコントロール願望が幻想であったことに気づくはずです。

2021年

3月

05日

あなたとあなたの希望をつなげる【コネクトケア町田】

「『足がうまく動かないから、遠出はできないよ』と初めは諦めをにじませていたご利用者さんが、私たちが訪問介護に行くようになり、少しずつ気持ちが前向きになっていき、『ちょっと外でも散歩してみようかな』と誘ってくれた時、たまらなく嬉しかったです」

 

「デイサービスやグループホームもやりがいがありましたが、訪問介護がダントツに好きです」

 

「コネクトケア町田」管理者の柴さんは、そう自信を持って、訪問介護の魅力を語ります。自宅で暮らすご利用者さんのお宅を訪問し、掃除や食事作り、買い物、入浴などの介助を行う訪問介護。それは日常の困りごとを支援することで、ご利用者さんとご利用者さんの希望をつなげる仕事でもあるのです。

 

続きは→【介護仕事百景】へ

 

 

2021年

2月

28日

感情が動くから行動する

先日、実務者研修の医療的ケアの課題の返却に立ち会うことができました。そのクラスは満点はいませんでしたが、最高点の97点を取った4名の生徒さんたちが名前を呼ばれて、表彰されていました。そのうちの一人から、翌々日ぐらいに電話があり、「来年の介護福祉士の筆記試験対策講座に申し込みたい」と言ってもらえました。7月ぐらいから募集を開始する旨を伝えつつ、お席は確保しておくことになりました。私はこの一連の流れを実際に見て、褒め・認めの効果の大きさを改めて感じたのです。彼女の場合は、頑張って取り組んだ医療的ケアの課題が良くできて、((他の生徒さんたちの前で)褒め、認められたことで自信がついて、介護福祉士の筆記試験も頑張って挑戦しようとモチベーションが上がったのだと思います。そう、褒め、認められたことで、感情が動いたのです。

 

感情が動いたといえば、誕生日のお祝いも同じです。1期生の渡辺さんがたまたまスクーリングの最中に誕生日であったことから、湘南ケアカレッジでは誕生日ケーキを贈りながらハッピーバースデーソングを皆で歌い、喜びを分かち合うイベントが誕生しました。多くの人々の前で誕生日を祝ってもらうなんて生まれて初めてであり、嬉しい反面恥ずかしいという気持ちも分かりますが、祝ってもらった本人はもちろん、祝った周りの生徒さんたちにとっても、いつまでも語り継がれるイベントであることは、卒業生さんたちと話していると分かります。「まさか全員に祝ってもらえるとは思わなかった」、「あのとき、素晴らしい学校だと思いましたね」と言ってもらえるからです。

 

効果はそれだけではありません。他のステップアップ研修の申込受付をしていると実感として分かるのですが、誕生日祝いをしてもらった生徒さんの申込率は極めて高いのです。誕生日を祝ってもらったから、そのお礼にステップアップ研修を申し込もうと思ったわけではなく、自分の誕生日を祝ってもらったケアカレという学校や先生方のことが好きになり、もっとケアカレで学びたいと考えてステップアップ研修を申し込んでくれるのだと思います。ステップアップ研修を受けると役に立つ資格がもらえて…といった具合に理詰めで受講を決めているわけではなく、湘南ケアカレッジでもっと学びたいという感情が行動につながっているということです。

 

 

私たちは感情が動くから行動する。逆に言うと、感情を動かすことができなければ、行動してもらうことはできないということです。ここに教育であり、マーケティングや学校経営のヒントがあります。私たちが普段当たり前のようになってしまっている褒め・認め、表彰やイベントが、どれだけ生徒さんたちにとっては一回性であり、生徒さんたちの感情を動かしているのか、さらに感情が動くことがどのような行動に結びつくのかを知っておくべきですね。相手の感情を動かすためには、相手の立場に立ってみて、全体的な視点で見てみることです。そうすると、実はこちらの言動をまずは変えていくことが大事であることに気づくのです。

2021年

2月

23日

人生に、医療をそっとのせてもらう【まちだ丘の上病院・一二三学園】

「患者さんの人生に、医療をそっとのせてもらえるようになりたい」

 

ケアクルー(介護士)の上原さんは笑顔でそう話します。長い人生のなかでは、病気にかかったり、ケガをしたり、病院で過ごすことも時にあるでしょう。もしものその時、入院したからといって、これまでの生き方をすべて変えるよう強いるのではなく、その不安や苦しみでつぶれそうな心を支え、ともに歩む医療をつくりたいと、彼女たちは日々奮闘しています。

 

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2021年

2月

17日

先生方とのおもひで

先日、湘南ケアカレッジのホームページやブログを見て、ケアカレの卒業生ではありませんが、講師として働きたいと直接メールしてくださった方がいました。「生徒さんたちと本気で向き合い、資格を売り物にしないという信念が胸に刺さりました」とおっしゃってもらいました。介護の学校の先生は、これからの介護・福祉の世界を少しずつ大きく変えてゆく大切な役割を担っています。歴史を振り返ってみても、何をどう教えて、何が伝わっていくかによって、提供される介護の質や内容が大きく変わってしまうからです。私たちは教育を通して、介護の世界を良い方向にも間違った方向にも導くことができる、責任のある仕事をさせてもらっています。今は募集をしていないため、残念ながら今回は見送ってもらうことになりましたが、湘南ケアカレッジの先生になりたいと希望してくださって素直に嬉しく思います。

 

介護の先生って良い仕事だなと考えていると、私も介護の先生方に育てられたことをふと思い出しました。今から20年前の話になりますが、大手の介護スクールで働き始めたとき、最初にコーディネーターとして担当させてもらった横浜校と上大岡校の先生方には、息子のように可愛がってもらいましたし、困ったときには助けてもらいました。それまでは子どもの教育にたずさわっていた私にとって、自分の親もしくはさらに年上の女性の先生方と一緒に仕事をするのは初めての経験でした。彼女たちの授業を聞いて、授業後には一緒に食事に行ったりして、介護の世界のことや全然関係のないことまで教えてもらいました。急に教室を拡大し始める前の1年間は、私にとって学び深き至福の時間でした。

 

その時に抱いていたのが、尊敬という感情だったのだと思います。私の知らない世界を知っている先生方を素直にリスペクトすることができました。そして何よりも、彼女たちは優しかった。仕事のできない私のミスを大目に見てくれて、フォローしてくれたり、手を差し伸べてくれたり、無理を聞いてもらったのは一度や二度ではありません。私を立ててくれて、妥協してくださったことも幾度もあったはずです。先生方との交流を通じて、私は介護の世界を知り、社会で生きることを学び、人間としても少しずつ成長させてもらったのです。介護や医療の先生方に対する尊敬の気持ちは、今でも変わりなく持ち続けています。

 

 

私が仕事を選ぶときに、何となく基準にしてきたことがあります。それは尊敬できる人たちと一緒に仕事をすることです。どれだけ稼げる仕事であっても、尊敬できない人や一緒にいるのが苦痛な人たちと仕事することはありません。その基準は今や確信に変わっています。そういう意味においては、介護の学校は、生徒さんたちも心優しい人ばかりで、彼ら彼女たちにも囲まれて仕事をしていると考えると、ほんとうに良い仕事に巡り会えたなと思います。ポジショントークでは決してなく、心からそう思うのです。もちろん、ひとつやり方や考え方を間違うと、幸せな時間は崩れてしまうことも知っていますので、湘南ケアカレッジを立ち上げたときの初心に戻って、「大きくしない」、「いただきすぎない」、「資格を売らない」を大切に守っていきたいと願います。

2021年

2月

11日

潔癖主義に陥らぬよう

年初のブログにて、今年の心構えとして掲げた「潔癖主義に陥らない」について、卒業生さんから「どういうことですか?」と尋ねられました。言葉だけが先行してしまったというか、意味が分かりにくいと思いますので、分かりやすく説明したいと思います。この潔癖主義という言葉は、年末に観たBS1スペシャル「コロナ新時代への提言2」において、歴史学者の藤原辰史さんが語っていたものでした。まさに今の時代を言い当てていて妙だと思いましたし、介護・福祉の世界で生きる私たちは特に意識しなければならないのではと感じました。

潔癖主義とは、読んで字のごとく、潔癖を目指す(求める)思想や生き方なのですが、行き過ぎてしまうと「排除」を生むと藤原氏は語りました。ドイツのナチスの思想がまさに潔癖主義であり、自分たちの民族や人種ではない他者を汚れとして徹底的に排除した歴史がありました。最初はちょっとした綺麗好きだったものがエスカレートしていくと、自分や自分たち以外の他者を排除し、果てには撲滅しようとするのですから人間は恐ろしいものです。ユダヤ人を殺人ガスによって大量虐殺したのは、汚らわしいものを「消毒」して消そうという思想を体現していると藤原氏は述べました。潔癖主義と排除、消毒はセットであり、根本のところでつながっているのですね。

 

手をやたらと洗ったり、その上でアルコール消毒をしたり、また全員がマスクを着けて生活をしたり、ビニールシートを垂らしたりという世の中を見るにつけ、日本人の潔癖主義はどこまで行き着くのだろうと心配になります。手洗い自体は-19世紀、お産に立ち会う前の医師が手を洗うと産婦の死亡率が著しく低下したことから有効性が発見されたように、科学的根拠のあるものですが、手術をするわけでもない一般の人たちが手を洗いすぎるのは皮膚にも良くありませんし、必要な細菌まで失ってしまうことで逆効果さえなります。アルコール消毒はその最たるものであり、マスクやビニールシートはもはや未来から見ると笑い話になると思うレベルです。

 

手を洗うで思い出しましたが、私の叔母は晩年、今思うと認知症もしくは強迫性障害の症状を呈していましたが、特徴的だったのは1日に何十回も手を洗うようになったことです。手の皮膚がただれてしまうぐらい、ずっと手を洗っていました。洗っても洗っても、汚れているような気がしたのでしょう。実際には見えないはずですが、彼女には何かの汚れやウイルス、最近が見えていたのかもしれません。もともと精神疾患的傾向があったから手を洗うことに執着するようになったのでしょうか、それとも手を徹底的に洗うことで潔癖主義の傾向を強めて行ってしまったのか、おそらくそのどちらもだと思います。最後は親戚や身内ともあまり交わることなく亡くなってしまいました。幼心に私は、綺麗好き過ぎると精神を病んでしまうと思ったものです。

 

 

自分たち自身の免疫力や機能が落ち、強迫性障害につながってしまうのは仕方ないとしても、それが他者の排除や隔離、撲殺にもつながってしまうと考えると恐ろしいことではないでしょうか。家の中ではマスクを着けずに生活しているのに、外に出る時はマスクを着けるのは、自分(と家族は含む)とそれ以外の人たちとを隔絶しているという意味です。親しい人(知り合い含む)と素性を知らない他者との線引きも明確になってきました。私たちが恐れているのは、目に見えないウイルスというよりも、知らない他者ということです。無症状者からも感染するという根拠なき憶測も、その傾向を強めてしまっていますね。たとえば精神疾患のある人たちや知的障害のある人たちなど、昔は恐ろしいと思われて排除・隔離されてきた人たちを、福祉は先頭に立って受け入れてきた時代の流れから逆行し始めていませんか。一般の人たちはまだしも、せめて介護・福祉の世界で仕事をする私たちは潔癖主義に陥らないようにしたいですね。

2021年

2月

05日

自分の親を預けたい施設【シャロームつきみ野】

「シャロームつきみ野は、自分の親を安心して預けられる施設です」

 

介護スタッフ主任の平野さんは、自らの働く施設について、自信をもってそう語ります。驚くことに、勤務する介護スタッフの家族が入居しているケースは彼女だけにとどまらず、義両親や祖母が入居しているケースなど多数あるのです。

 

 

自身が働く施設に身内を預けたいと思えることがとても珍しく、それだけでその施設の魅力を語る十分な言葉になることが、介護の施設や事業所で勤めた経験のある方ならば痛感されるでしょう。

 

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2021年

1月

30日

いつもどおりであること

卒業生さんからいただいた年賀状に、「ブログ拝見しています。感染症対策をしっかりした上で続々と卒業生を送り出しているのを読んで、つい固くなる心がほぐされる気がします。『いつも通り』であることに安心するのでしょうか?思い出に残る学校であり続けてくださいね」と書かれていました。この文面を読んで、ハッと気づかされました。卒業生さんたちがブログやホームページを見ると、そのように感じるのだと。いつもどおりであること。普段どおりに学校が行われていること。ただこれだけで、卒業生さんたちにとっては、安心してもらえるのだと。こんなに嬉しいことはありませんよね。

 

それは自分の母校を想う気持ちに似ているのかもしれません。僕は小学校が東京都の練馬、中学校が兵庫県の仁川、高校は東京都の中野区と、父の転勤に合わせて点々としましたので、今となってはずいぶん遠い場所の話となってしまいました。もし生まれ育った地元の学校にずっと通っていたとすれば、中には入らずとも、外から校舎やグランドを見て、子どもたちが走り回っている姿にいつもと変わらない安心感を抱いたりするのだと思います。自分の担任の先生方はもういなくなってしたとしても、自分の母校がそこにあって、自分がそうであったように学び、遊び、泣いている子どもたちがいることにホッとするのです。

 

そのような感覚で、ケアカレのホームページも卒業生さんたちに見られているのだと思います。学校に直接遊びに来て、雰囲気を味わってもらっても良いのですが、さすがに日常の生活や仕事に忙しいでしょうし、近くに住んでいる方ばかりではありませんから簡単ではありませんよね。でも今は、湘南ケアカレッジのホームページを開いて、リアルタイムに更新されているブログを読んでもらうだけで、ケアカレがいつもと変わらず熱い授業を展開していることが伝わるはずです。特にコロナ禍の寒々とした状況の中、これまでとは違った閉塞感に包まれながら生活をしている人も多いでしょうから、ケアカレがいつも通りそこにあるだけで救いになることもできるはずです。

 

介護の学校という未知の場所を少しでもガラス張りにして、教室の雰囲気やどのような先生、クラスメイトさんたちがいるのかを知ってもらいたくて、実際の授業風景の写真を使いながら文章をつづってきました。思わぬことに、たくさんの卒業生さんたちが懐かしんで見てくれて、変わらず学校が行われていることで安心してもらえているのは嬉しい限りです。そんな副次的効果があるとは思いもよりませんでした。いつもどおり世界は回っていること、私たちの熱い気持ちは変わらないこと、卒業生さんたちにも大切なことを伝えるために、今年もブログは頻繁に更新していきたいと思います。

2021年

1月

24日

社会とつながる喜びの輪の中で【大賀藕絲館(おおがぐうしかん)】

「いらっしゃいませ」

 

自動ドアが開くと、目の覚めるようなはつらつとした声とおっとりとした優しい挨拶が私を出迎えてくれました。ここは、蓮の実ケーキや紅花のブーケ、ちりめん細工、手すき紙などの手作り製品を制作、販売している大賀藕絲館(おおがぐうしかん)です。

 

 

できることを仕事にして、みんなでひとつの物を作り、それを売る。障害のある方にとって、働くことを通し、誰かを喜ばせ、認められ、達成感を抱くなどといったさまざまな体験を積むことのできる場所です。

 

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2021年

1月

17日

感謝状からのつながりを

11月短期クラスの卒業生の皆さまより、感謝状が届けられました。良く見ていただくと分かるのですが、それぞれの生徒さんからのメッセージだけではなく、望月先生が大好きなキティちゃんやフレームには「ありがとう」のマスキングテープで飾られていて、とにかく様々な工夫がいっぱいです。私たち湘南ケアカレッジに愛情を持ってつくってくださったことが伝わってきます。私はちょうど事務所におらず、直接受け取ってお礼を言えませんでしたので、この場を借りて感謝の意を伝えさせてください。ありがとうございます!

 

実はこのメッセージボード(感謝状)は、介護職員初任者研修が終わってから作られたものです。ほとんどのクラスは研修中に、誰かが提案して皆で作成し、最終日にプレゼントしていただくのですが、今回のクラスは珍しく研修後にKさんが中心となって動き始めました。研修中であれば一人ひとりのメッセージを集めるのも簡単ですが、研修が終わってから作ることの何が大変かというと、それぞれに連絡をしてそれぞれに郵送してもらって集めなければならないことです。今、こうした状況なので、クラスメイト全員が一堂に会することも難しくなっていますので、なおさらメッセージ集めは困難を極めたと思います。最初にKさんから提案をされたときは、研修が終わってからではどこまで集め切れるかなと正直思いました。

 

それでもKさんはあきらめることなく、クラスメイト一人ひとりにメッセージカードと返信用の封筒を付けて郵送し、返ってくるのを待ちました。それに応えて、クラスメイトさんたちも返送して集まったメッセージをボードとして作り上げてくれたのです。こうして完璧なメッセージボードが出来上がったのを見ると、その制作過程で苦労があったからこそ、研修が終わったあとにもクラスメイトさん同士のやり取りが生まれ、つながりも深まったのではないかと思います。現にKさんたちと湘南ケアカレッジのつながりは深まりましたので、それぞれの生徒さん同士も同じでしょう。だからこそ、数名の生徒さんが集まってメッセージボードを教室まで持ってきてくださったのです。

 

湘南ケアカレッジにとって最も嬉しいことのひとつは、卒業しても生徒さん同士がつながっていてくれることです。先日、ある施設の新年会でお会いした実務者研修の卒業生さんは、「今でもクラスメイトの何名かとLINEで意見交換とかをしていますよ。いろいろな現場で働いていて、それぞれが経験値も高いのでアドバイスしてもらって、本当に助かっています」と言っていました。そういう話を聞くと、学校があって良かった、研修を行って良かったと素直に思えます。研修はわずかな期間で終わってしまいますが、その後も何かでつながっていてくれると、それは一生ものの財産になるからです。11月短期クラスの卒業生さんたちも、それぞれに歩む道は違ったとしても、同じ方向を向いているのは間違いないのですから、末永くつながっていってもらいたいと願います。

 

 

2021年

1月

14日

変わるきっかけ

15日間ありがとうございました。おかげさまで、本人も学校に来てくれるようになりました。髪の毛も黒くなり、ピアスも外して来てくれて、驚きました」

 

 

昨年の平日短期クラスに通ってくれていた、中学校2年生の生徒さんの担任の先生から、上のような電話をいただきました。その話を聞いたとき、心から良かったなと嬉しく思いました。彼女にとって、湘南ケアカレッジの介護職員初任者研修を受けることがひとつのきっかけとなり、彼女の人生が少しでも良い方に変わることを願っていたからです。

 

彼女のお母さまからお電話をいただいたのは、夏休み明けぐらいの時期でした。「お姉ちゃんがそちらでお世話になったのですが、今回は妹をお願いしたいと思いまして。今、中学2年生なのですが、学校に行っていないので、何もしないよりはせっかくだから通わせてみたいと思って。本人も通いたいと言っているので」とさらりと状況を教えてくださいました。

 

最年少記録が小学校6年生を誇るケアカレとしては、中学2年生の女子しかも本人に通う気があるのであればノープロブレムです。数々のやんちゃな10代を更生させてきたケアカレですから、学校に行けていないぐらいは全く心配ありませんしウェルカムです。私も今考えると、学生時代はよくあんなに制限ばかりで理不尽な場所に休みもせずに通っていたなと思います。それしか世界が見えなかったから仕方なかったのと、まあそういうものかとあまり深く考えていなかっただけでしょうか。感受性が強くて、自分の意志がある子どもにとって、学校という空間は息苦しいに違いありません。たしかに社会のレールから外れてしまったような気が本人はするかもしれませんが、全然そんなことはなく、むしろ人間としての自然な感情の発露なのではないかとさえ大人になった私には思えます。

 

さて、彼女は研修の最初の頃こそ、ひとりで大人しくポツンとしている姿が見えましたが、研修が進むにつれ、周りの大人たちから声をかけられたりするうちに次第に打ち解けていったようです。学校では注意される赤く染めた髪も数々のピアスも、一歩外に出て介護の学校に来てみると、「可愛いいね、似合ってるよ」と褒められ、認められます。周りのクラスメイトさんたちは決してお世辞を言って持ち上げているわけではなく、彼女ぐらいの年齢の女の子がおしゃれをしている姿を見て、素直にそう思って言っているのです。

 

通信添削課題も中学生の彼女にとっては簡単ではなかったはずですが、一度も不合格になることなくクリアしたように、一生懸命に取り組んでくれました。実技演習がスタートしてからも、周りのクラスメイトさんたちと楽しく積極的に学んでいました。最後の方は、彼女が中学生であることなど、誰も気にしなくなっていたはずです。20代から60代までの年齢層のクラスの中に見事に溶け込んでいました。実技もとても上手でしたし、最後の筆記試験も高得点で合格しました。10代の半ばで、あらゆる年代の人たちと一緒に学んだ経験は、彼女にとって大きな自信となり、糧となるはずです。担任の先生から聞いた話では、さっそく高齢者の介護施設でボランティアを始めてみるそうです。

 

今の悩んでいる、迷っている若い人たちに知ってもらいたいのは、目の前にある世界が全てではないということです。自分にとっての現実の世界はひとつしかない、自分が今いる状況からどうしても抜け出せない、そう考えてしまうと苦しいのです。これは若者だけではなく大人にも言えることで、自分に見えている、知っている世界なんて、実にちっぽけなものなのです。すぐ隣には全く違う世界があるし、見かたや考え方を変えるだけで、同じ世界もまた違った世界に変わります。

 

そうはいっても、若い頃は知識がなかったり、情報経路や量が少なかったりするため、一歩外に出ると全く違う世界が広がっていることに気づくことができず、だから一歩踏み出すこともできないという悪循環に陥りがちです。大切なことは、周りの大人が違う世界があることを教え、一歩踏み出すために背中を押してあげることです。そのためには、大人が世界の豊かさを知っていなければなりません。

 

 

彼女が湘南ケアカレッジに来てくれて本当に良かったと思います。外にはいろいろな世界があり、さまざまな人たちが社会で生きていて、自分を褒め、認めてくれる人たちもいると知れたことが、彼女のこれからの人生を大きく変えるひとつのきっかけや自信になれば幸いです。

2021年

1月

08日

「もはや老人はいらない!」

個人的にはとても面白く読んだのですが、介護の現場にいる人たちやこれから介護の世界に入って来ようとしている人たち、ましてや一般の人々には決して読んでもらいたくないと思う本です。それは半ば冗談ですが、それほどに現代の介護の世界の現実と闇が描かれているのです。前半部分は高齢者介護の実態を、後半部分は介護業界における経営や制度について、リアルな声で語ってくれています。私は立場上、後半部分を特に興味深く読みましたが、本全体としても1冊の告発本としての力作に仕上がっています。でも繰り返しになりますが、あまり手に取ってもらいたくはない本です(笑)。

 

副題にもあるように、今の時代の流れとして、長生きが喜ばれない介護社会への問題提起がされています。安楽死が手放しで美化され、介護支援から予防介護に重心が移り、いつまでも元気で働くことができ、役に立つ高齢者でなければ生きている価値がないと言わんばかりの世の中になってきつつあるということです。安楽死については、石飛幸三先生の提唱される尊厳死に代表されるように、自分の力で食べられなくなってしまったらそれで終わりにした方が良いという考え方には、僕も基本的には大賛成ですが、著者はそれでも生きたいと思ってもいいし、そう言いづらい風潮になっていると主張します。

 

本人が選択することができれば良いのでしょうが、そうもいかないケースも多いですし、私も昨年祖母を亡くしたときに家族だけではなく介護者の想いも大きく影響を与えることを学びました。また今は安楽死を望んでいても、死ぬ間際になれば生きることを望むかもしれず、絶対的な選択も正解もないから難しいのだと思います。時代の風潮として、私たちはただ生きていることを望まれなくなっているし、これからはその傾向はさらに加速することを著者は危惧しているのです。

 

本論は、介護施設で働く人の問題や介護保険制度の危うさです。月並みかもしれませんが、耳が痛いという表現がぴったりくるような内容ばかりです。介護と医療の世界における人材の違いについて、そもそもモチベーションが違うというのはその通りですし、介護職員の給与は決して安くないという論も頷くしかありません。特に介護人材の質については、ホーム長としての経験を踏まえて、補助金を出して急造した(いわゆる職業訓練のこと)介護職員のモチベーションの低さが離職率の高さに大きな影響を与えていると指摘しています。私もほとんど全ての補助金は無駄であり、かえって人間や社会の生きる力を奪ってしまうと考えていますので、諸手を挙げて賛成します。さらに医療保険制度と同じような考え方で運用されるのであれば、介護保険制度自体が要らないのではという、極論に見える提案にも、一理も二理もあると思います。間に入りすぎて、余計なことばかりするから、市場の原理が働かなくなってしまっているのではないでしょうか。

 

介護業界の問題点ばかりを炙り出しているように見える本書にも、わずかに希望というべきか温かさが垣間見える箇所があります。それは「介護職員がやる気を取り戻すには」というテーマにおける以下のような叙述です。

 

介護職員がやる気を取り戻すためには、彼らの領域の中で仕事に専念させることが重要であり、その仕事とは「生活自体を支える仕事」、まさに日常生活全般に対する支援業務だと思います。日常生活の支援なので、そこには成果も糞もありません。あるのは「笑い」や「涙」、「怒り声」などの喜怒哀楽です。この喜怒哀楽に対し介護報酬を与えるべきなのですが、なかなか実務的には難しいのかもしれません。

 

 

やはり介護の本質は日常生活の支援であり、そのやり取りの中で、リハビリになることがあるかもしれないし、予防になることもできるかもしれないし、もしかするとできないかもしれない。藤田先生が「介護者の接し方や声掛けひとつが治療にもなる」とおっしゃるのはそういうことでもあるのですが、なかなか成果が見えにくいですよね。成果が査定しにくいものを制度としてしまうと行き詰って当然ですし、もし医療と同様に成果を求めるのであれば、医療と介護を別々にするのではなくまとめてしまった方が良い。介護の世界で生きる私たちが避けては通れない、よくよく考えていかなければならない本質的な問題ですね。

2021年

1月

01日

明けましておめでとうございます

明けましておめでとうございます。年が明けて、1231日が11日になっても、世界は何も変わっていないのですが、私たちの気持ちや意識は少なからずリセットすることができます。一年の計は元旦にありというように、今年こそはこう過ごしたいと願う日常を元旦から過ごして習慣にするということですね。個人的には、今年は良く読んで良く書く年にしたいと考えています。だからこうして元旦からキーボードを叩いています。もちろん、昨年のうちに今年の目標も決めましたよ。ここに書けることと書けないことがありますが、具体的なものから気持ちの問題まで少し書いてみたいと思います。

まず今年はもう一度原点に戻ろうと思っています。世界情勢を見て、今年は介護の世界に入ってくる人たちが増えると予測し、1人でも多くの生徒さんたちに湘南ケアカレッジの介護職員初任者研修や実務者研修を受けてもらいたいと計画している一方で、私たちの原点であり理念である「世界観が変わる福祉教育を」提供することを忘れてはいけません。簡単に言うと、湘南ケアカレッジに来てくれた生徒さんたちに、(介護や福祉の)世界を見る目が180度変わったと言ってもらえるような研修を目指すということです。そのためには、心を動かせるような内容の濃い授業を展開しなければいけませんし、学校と生徒さんたち、生徒さんと先生方、そして生徒さん同士で人間的なつながりが生まれることも大切です。365日間、授業のある日は、世界観が変わる福祉教育を提供できているのかを心のどこかに意識しながら生きたいと思います。

 

そういった研修や授業を提供できるのは、先生方のおかげです。湘南ケアカレッジは今年で9年目を迎えることになります。ケアカレが開校して以来、今いる先生方が全力で授業をしてサポートをしてくださったからこそ、ここまでやってくることができました。100年続く学校を目指すと言いながらも、開講当初は9年目の今日は想像すらできませんでした。生徒さんたちが学校に来てくれることももちろん大切ですが、先生方がいてくれるからこそ、湘南ケアカレッジはあるのです。

 

 

この話は先生方にもしたことがないかもしれませんが、湘南ケアカレッジを運営している株式会社の理念は「小さなチーム、大きな仕事」です。中華料理の円卓を囲めるぐらいの少人数のチームで話し合い、褒め・認めあい、時には喧嘩しながらも、同じ方向を目指して、私たちがやらなければ誰がやるという価値のある仕事をしたいという想いです。大きなチームで仕事をすると、その総量は多くなったとしても、一つひとつの仕事の中身は少ないことは身に染みて分かっていますので、その逆を行きたいということです。小さくても大きな仕事はできる時代ですし、自分たちでは気づいていないかもしれませんが、小さいからこそ大きな仕事ができるとも言えます。もちろん、いきなり大きな仕事にはなりませんので、一人ひとりに向き合いながら、コツコツと積み重ねていくことが何より大事ですね。

 

最後にもうひとつ、これは時代的なものですが、世間が潔癖主義に流れている今、大切なことは心を分断されないようにすることでしょうか。潔癖主義の行き着く先は、自分と他者、自分の家族と世間、自分の仲良しと知らない人、自分の国と他国などという分断であり、それを推し進めた最終地点は他者の排除です。恐怖によって私たちが肉体的には分断されたとしても、たとえソーシャルディスタンスを取ってのマスクやビニールシート越しであったとしても、(ケアカレナイトにお呼びしようと考えていた伊藤亜紗さんが利他として提唱するように)相手の心に届くように話し、聞き上手になるべきです。そして、そのためには相手をコントロールしようとするのをやめ、待つことです。

 

 

今年もよろしくお願いします。

2020年

12月

29日

やっぱり褒めが大事

「介護はこころが8割」だとすると、教育においては「褒め・認めが8割」です。学生の頃から塾などで子どもの教育にたずさわってきて、10年ぐらい掛かってようやくたどり着いたひとつの結論です。残りの2割は、教える内容や話し方、授業の進行のスムーズさや板書の取り方など、その他もろもろです。教育学部等ではその他もろもろの部分をみっちりと教えてもらえるのですが、実際に教えてみると上手く行かない。先生は完璧に授業をしているつもりでも、生徒さんの反応は鈍く、表情は曇りがちで、アンケートにおける評価も高くない。教育現場あるあるです。

 

「なぜ授業が上手くいかないのでしょうか?」、「悪くない授業をしているつもりですが、なぜか生徒からの評価が良くなくて…」、「授業の内容とはあまり関係ない、どうでもよい部分にクレームを言われたりするので困っています」などと相談されて、実際にその先生の授業を少し見せてもらうと、大体の場合において、なるほどとなります。ほとんどのケースにおいて、ただ単に褒め・認めが足りない(もしくは全くない)ことが原因でした。その他もろもろの部分を気にするあまり、褒め・認めが足りない(もしくは全くない)ことに先生自身が気づいていなかったのです。

 

「褒め・認めが足りないですね」と(当時は単刀直入でした…)伝えると、その先生は思いがけないところからボールが飛んできたようなキョトン顔をして、しばらく考えて、「なるほど」と理解してくれました。自分の授業が上手く行かない原因が、まさかそんなところにあろうとは、教えることに真剣すぎる先生ほど意外にも盲点になってしまうようです。「褒め・認めをもっと入れていくと、授業の雰囲気は良くなって、生徒さんたちからの評価はさらに高くなりますし、多少失敗しても許してもらえますし、変なクレームもなくなりますよ」とアドバイスすると、それ以降、先生は生き生きと授業してくれますし、生徒さんたちにも笑顔が出てきて、授業の雰囲気も明るくなります。その様子を見て、やっぱり褒め・認めは大事なのだと思うのです。

 

湘南ケアカレッジの先生方の最大の強みは、褒め・認めだと思います。介護の先生方も医療の先生方も、それぞれの先生方によって褒め方、認め方こそ違えども(それもまた素晴らしい)、「褒められて嬉しかった」、「褒めてもらえて自信が持てた」など、アンケートにもたくさんの感謝の言葉が並んでいることからも、生徒さんたちが十分に褒め・認めてもらえているのが分かります。積極的に褒め・認めをしてくださっている先生は、やはり生徒さんたちからの評価も好意的です。生徒さんたちは、私たちが思っている以上に不安な気持ちを抱えて通ってくれているのだと思います。

 

私たちの目的は、自分の教えたいことを教えるではなく、介護・福祉教育を通じて、生徒さんたちを褒め・認めながら導くことであり、相手のニーズもそこにあります。そうして最終的に、「世界観が変わった」と言ってもらえたり、生徒さんの人生が少しでも変わるきっかけとなれば、これ以上の喜びはありませんね。

 

 

もし授業に行き詰ってしまったら、褒め・認めが足りないのではないだろうかと振り返ってみてください。適切なポイントで、具体的な伝え方で、生徒さんを褒め・認めることができているか。また、たくさんの褒め・認めポイントが想定されていて、それらから逆算する形で授業が構成されているかどうか。教え方のサイクルは回せているかどうか。もしかするとそれは教育の現場だけではなく、普段の生活や仕事、人生の中で上手く行かないことがあったときにも、同じように考えてみてもよいかもしれません。やはり褒め・認めが大事という結論にたどり着くはずです。

 

望月先生が今年も筆記試験対策講座の解答用紙にメッセージを書いて、生徒さんたちに贈ってくれました。今年はさらにパワーアップして巻物のようですね(笑)。また、影山さんも講座の前に宿題のチェックをしながら、スタンプを捺して回って、宿題をやってきてくれたことを褒め・認めてくれています。そんな単純なことでも、生徒さんたちは嬉しそうに笑顔になってくれます。ひとりでも多くの卒業生さんが介護福祉士になれますように!

2020年

12月

22日

福祉のこころ

平塚市のみずほ小学校にて、福祉のこころや障害について、小野寺先生がお話しさせていただきました。総合学習の時間の中で、高齢者や障害のある方などを幅広く知り、福祉って何だろうと考えるきっかけをつくりたいと、小学校の先生である私の友人から依頼をいただきました。対象は小学校3年生120名とのことで、なんと体育館での授業というか講演になりました。わずか45分間でしたが、正直に言うと、小学生の頃からこのような授業を聞くことができて、彼ら彼女たちは幸せだなと思いました。今日の小野寺先生の話が、記憶のどこかに残って、たとえ僅かだとしても、子どもたちの未来に何らかの影響を与えることを願っています。

 

小野寺先生ははじめに、ちょうど小学校3年生のときにストーブを蹴飛ばして、やかんに入っていた熱湯がかかってしまい、やけどをした話をしてくれました。その当時は、やけどの跡を見られるのが嫌で仕方なかったそうです。夏でも長袖のTシャツを着たりして隠していたそうです。それは人と違っていることを周りのクラスメイトたちに言われることが嫌だったということですね。僕も小さい頃、アトピー性皮膚炎がひどかったので、その気持ちは良く分かります。小野寺先生が子どもたち全員の間を、腕にあるやけどの跡を見せて回ると、「おおっー」という声が上がりました。そして、「今こうして皆さんの前でこのやけどの話ができているのだから、やけどを負ったことは決して不幸ではないんだよ」と伝えます。障害があることは不便ではあるけれど、不幸ではないということです。

 

2人1組のペアになってもらい、ひとりが目をつぶり、もうひとりが相手の手を上から持ち上げたり、下から支えるようにして上げたり、優しく触ったり、肩をポンと叩いてみたりを交互に体験してもらいました。腕を上から掴まれて持ち上げられるよりも、下からそっと支えられるようにして上げられる方が優しい感じがした。そんな感想が続々と出てきます。相手の手を上に移動させるという、実質的には同じ物理行為であっても、相手が感じる気持ちは全く違うのです。こちらの意図に忖度しているわけではなく、子どもたちは自分の感覚や感情に正直なのでしょう。その感覚や感情をからだの記憶として覚えていて、それが福祉であるといつか結びついてくれるといいですね。

 

 

福祉というのは、幸せのこと。国語辞典にもそう書いてあるし、誰かが幸せになったらそれが福祉であり、誰かを幸せにして自分も嬉しかったらそれが福祉。そう考えると、福祉って難しいことではないのかもしれません。

2020年

12月

15日

フラットな関係

実務者研修の生徒さんから、無事に実技テストに合格できたお礼と共に、ケアカレで研修を受けられて良かったと感謝のメールをいただきました。先生方にも感謝しつつ、クラスメイトの中で友だちもできたと報告してくださいました。「世界観が変わる福祉教育を」という理念を掲げて開校した湘南ケアカレッジも8年目に入り、私たちが最高の福祉教育を提供するだけでは完全ではなく、クラスの雰囲気というか一体感が何よりも大事ということをつくづくと感じています。先生方と生徒さんたちの関係はもちろんのこと、生徒さん同士の関係性が重要です。もっと言うと、たった一人でも仲良くなれた人がいたら、その学校や研修は最高の思い出になるということです。

今年最後の介護職員初任者研修11月短期クラスも、生徒さん同士の関係性が良かったです。それは朝の授業が始まる前の生徒さん同士のやりとりや授業中の取り組みの雰囲気、そして授業が終わって仲良く帰っていくときの表情などから伝わってきます。生徒さん同士の仲が良くなり、クラス全体の雰囲気が良くなると、生徒さんと学校や先生方との距離もあっという間に近くなります。互いに話しかけやすかったり、聞きやすかったりするようになるのでしょう。こうなればしめたもので、生徒さんたちも先生方もリラックスして授業に臨むことができるようになります。

 

湘南ケアカレッジのほとんどの研修やクラスにおいて、一気にまたは少しずつ、研修全体の一体感が高まっていくのは、フラットな関係が保たれているからだと私は思います。特に生徒さん同士がフラットな関係の中で一緒に研修を過ごすことによって、日常生活の中ではありえないつながりができるのです。それはいかに私たちが普段の生活において、それぞれの立場や役割、上下関係の中で生きていることの裏返しでもあります。家では親子や夫婦という関係性や役割があり、仕事に行くと上司部下、または先輩後輩という上下関係の中に放り込まれます。気の置けない旧来の友人であったとしても、それぞれの社会的立場が変化するにつれ、微妙な関係性のズレが生じたりするのではないでしょうか。

 

 

介護職員初任者研修も実務者研修も、私たちが背負って生きている関係性や経歴、立場などの全てを下して、生徒さんたちは出会います。そこには年齢も性別もほとんど関係なく、ただ一人の人間同士として出会うのです。だからこそ、クラスメイトに中学2年生がいても、80代の方がいても、いつの間にか何の違和感もなく溶け合っていくのです。これって意外と普通のことではないと思うのは私だけでしょうか。そういう出会いこそが、人生においてとても大切な出来事なのではないでしょうか。それがたとえ一瞬や一時期のものだったとしても、湘南ケアカレッジが誰もがフラットな関係でいられる場所として存在できることを私は誇りに思います。

2020年

12月

05日

介護福祉士「模擬試験・直前対策講座」

 

来年の介護福祉士筆記試験に向けて、令和3年1月12日(火)に「模試試験・直前対策講座」を行います!本試験に近い形で模擬試験を行い、その後、解答・解説を聞くことで、全ての範囲を網羅しながら、実戦形式で学ぶことができます。本番の試験に臨むにあたっての、総復習であり総まとめとしてご受講いただければ幸いです。

以下の方はご受講をお勧めします。

 

最後の仕上げとして、総復習してから本番に臨みたい

⇒ひとりで勉強しているので不安が残る

⇒本番の試験のような形(模試)で力試しをしてみたい

 

⇒当日の緊張感や時間配分に慣れておきたい

 

 

★講座の流れ

 

 

 

 

 

★使用テキスト(模試問題集)

*1月12日(火)当日の朝、配布します。*力試しにならなくなるため、事前に目を通すことがないようにお願いします。

 

★場所、時間帯

湘南ケアカレッジ於 9:30~17:00

 

★受講料

,000円(模擬試験問題集、税込み)

 

★定員 28名

*席に限りがあるため、定員になり次第、締め切らせていただきます。

 

★お申し込み

以下の申し込みフォームに記入の上、送信してください。またはお電話(042-710-8656にて直接お申込みください。

*募集終了しました。

2020年

12月

03日

出会えただけでありがたい

「もしも入居者様が『そよかぜ』ではなく、どこか他の施設を選んでいたら、きっと一生出会うことがなかったでしょう。だから、こうして出会えただけでありがたいと思っています」。介護職員の苫米地(とまべち)さんはそう言います。入居者様の言葉や想いを引き出すように、答えやすい質問を優しく問いかける彼女と、時おり笑顔を浮かべながら思い出ばなしを始める入居者様の姿には、「ありがたい」という言葉に込められた、入居者様を大事に想う気持ちがあふれていました。

 

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2020年

11月

26日

もっと話したい

8月からスタートした日曜日クラスが無事に修了しました。始まった当初は、(現在は3人掛けの机に2人で座ってもらっているため)席が足りなくなってしまうのではとヒヤヒヤしていましたが、何とか最後まで問題なく終えることができました。ケアカレ史上、一番ではないかと思うぐらい通信添削課題の点数が全体的に高く、ほとんど100点満点の生徒さんばかりというレベルの高いクラスでした。お休みされる方も少なく、とても順調に15回の研修が終わりましたが、私は祖母のお葬式で岡山に帰ったり、北海道に出張したりということが重なったこともあり、あっという間に終わってしまったという感じです。もっとゆっくりと話がしたかったなと思う生徒さんばかりでした。

 

そう思えるのは、生徒さんと私たちの距離が縮まってきた証拠なのだと思います。介護職員初任者研修が始まったときはお互いに手探りですが、朝あいさつをしたり、ちょっとした話をしているうちに、少しずつ相手の人となりが分かってきます。それだけでは単なる生徒さんと学校という関係で終わってしまいますが、そこからもう少し先に、相手の今置かれている状況やこれまでの背景、そして考え方や気持ちを聞けるまでになると、そこには人と人の関係が生まれ始めます。もっと相手のことを知りたいと思うようになるのです。

 

それは学校だけではなく、どんな職場でも集まりでもインターネット上でも同じで、自分とは違う他人と接することこそが私たちの本質的な喜びなのだと思います。それがなければ、この世の全てはつまらないものです。湘南ケアカレッジが開校して今年で8年が経とうとしている中、最も大切なものは、生徒さんや先生方との人間的な関係だとはっきり気づきました。どれだけたくさんの生徒さんが来てくれても、誰とも人間的な関係を築くことができていなければ、何の意味もないというか、何も残らないのです。

 

 

「世界観が変わる福祉教育を」を理念に湘南ケアカレッジを開校したように、来てくれた生徒さんたちの世界観が変わるような内容の研修を提供したいと思っていましたが、もしかするとそれ以上に私が大手の介護スクールで働いていて物足りなかったのは、人と人との関係がなかったからだと今は分かります。どれだけ利益を出しても、たくさん教室を出しても、働いている人たちは忙しくなるばかりで、生徒さんや先生方との人間的なやりとりは失われてしまっていたのです。せっかく自分たちの手でやっているのですから、何かが残る学校にしたいと思います。そのためにも、研修が終わったあとに後悔しないように、もっとたくさんの生徒さんとゆっくり話をしようと思います。もちろん卒業してからでも良いので、いつでも遊びに来てくださいね。ランチでもしながらお話ししましょう!

2020年

11月

19日

安心して暮らせる社会を【町田福祉園】

支援スタッフの阿部さんが隣に腰かけ、ご利用者様の目を見て名前を呼ぶと、口元をほころばせながら彼女を見つめて、差し出された彼女の手にその大きな手を添えます。すると今度は、その方は自らの頭を彼女の手に差し出すように首をかがめ、彼女のその手が額に触れるや、目を細め、単なる喜びや嬉しさを超えた気持ちをその顔に表していました。ここは町田市図師町にある「町田福祉園」。障害のある方が暮らす施設サービス(施設入所支援)や、自宅やグループホームなどから日中の活動のために通う通所サービス(生活介護)などを運営しています。正門から木々に囲まれた橋を進むと、正面に2階建ての建物が見えてきます。

 

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2020年

11月

12日

エッセンシャルワーカー

9月短期クラスが無事に修了しました。先生方からは教えやすいという声が上がっていたように、学ぶことに熱心で、積極的なクラスでした。生徒さんが意欲的であると、やはり私たちも教え甲斐もありますし、相乗効果でクラス全体が盛り上がっていきます。そのような雰囲気の中で学ぶと、介護の世界の素晴らしさが伝わりやすくなるのではないでしょうか。介護職員初任者研修を受ける前は、介護の仕事をできるか自信がない、自分に合っているかどうか分からないと不安に感じていた方も、研修が修了する頃には、自分にもできるかもしれない、やってみたいと思えるはずです。それは先生方だけの力だけではなく、生徒さん同士がつくりだした気持ちの集合体です。自分たちの環境や仕事を良くするも悪くするも、結局は自分たち次第ということですね。

生徒さんのひとりに、NHKの契約の仕事をしている生徒さんがいました。NHKの料金支払いの契約をしていない家に赴き、契約をお願いする仕事だそうです。「文句やきつい言葉を言われない日はない」と彼は言います。そもそもNHKを見ていないので料金を支払いたくない(支払わない)と思っている家庭を訪問して、何とか月額2000円以上の料金を徴収する契約を結ばせようとするのですから、露骨に嫌な顔をされたり、抵抗されるのはもちろん、罵詈雑言を浴びるのは日常茶飯事の仕事です。

 

個人的には、NHKのドラマや教育番組はクオリティが高いと思いますが、最近のニュース番組などにおける明らかな偏向報道を目にすると、とても公共放送とは思えませんし、料金を払ってまで見たいとは思えなくなりました。スクランブル放送にして、観たい人は料金を払って観るようにするか、観たい番組だけを課金して観るようにすれば良いと思います。そうすれば、契約させられる人も契約を促す仕事もなくなり、わざわざお互いに嫌な思いをすることもなくなるでしょう。そう、彼はそのような仕事に嫌気が差し、人に感謝される仕事をしたいと思って、介護の世界に来てくれたのです。

 

デヴィッド・グレーバー氏によって提唱された、ブルシットジョブ(bull shit job)という概念があります。直訳すると汚いので(笑)分かりやすく訳すと、「クソどうでも良い仕事」ということになります。完璧に無意味で、不必要で、有害でもある有償の雇用形態のことを言います。その仕事をしている本人でさえ、誰の役に立っているのか分からず、やりがいを全く感じられない仕事が近代では増殖しているという指摘です。問題なのは、こうしたブルシットジョブに就いている人たち自身が、無意味でくだらないと思いながらも働き続けざるを得ないということです。

 

ブルシットジョブの反対にあるのが、エッセンシャルワーカーです(イギリスではキーワーカーと呼ばれるそうです)。看護師や介護士、バスの運転手やスーパーやコンビニの店員、ごみ収集員など、誰かがその仕事をしなければ社会が機能しなくなってしまう、いなくなっては困る人たち。正直に言うと、コロナ騒動でエッセンシャルワーカーが表舞台に登場し、感謝され、褒めたたえられた時は何か気持ち悪い気がしました。拍手を送ってくれた彼ら彼女らの気持ちはありがたいのですが、なぜ今になって急に?と考えたとき、今まではエッセンシャルワーカーの仕事になど見向きもせず、感謝の気持ちなどなかったことの裏返しなのではと気付いてしまったからです。穿った見かたをしすぎでしょうか…。

 

いずれにしても、エッセンシャルワーカーの問題は、ブルシットジョブに比べて意外にも賃金が低いということです。なくなっては困る仕事にもかかわらず、なぜか賃金は低く抑えられているというアンバランスです。おそらくこれから少しずつ、この問題は解決していくでしょう。今回のコロナ騒動の影響を受け、世界中からブルシットジョブが急速になくなっていき、エッセンシャルな仕事をする人が増えるはず。

 

 

その流れの中で、今まではブルシットジョブに流れていたお金の流れが変わり、エッセンシャルワーカーはやりがいと感謝の言葉だけではなく、それに見合う対価や報酬も要求するようになるからです。コロナ騒動はブルシットジョブだけではなく、不要不急の名目のもと文化的な仕事も奪い去ってしまいましたが、もしひとつ良かった点があるとすれば、私たちがエッセンシャルな仕事へと回帰しなければなくなったことでしょうか。長い目で見て、それが人々の幸せにつながることを願います。

2020年

11月

05日

一体感を高めていこう

介護職員初任者研修10月短期クラスが終わりました。初日を担当した望月先生が、「こんなに反応の良いクラスは久しぶり」と嬉しそうに語っていたように、最初から学ぼうという雰囲気にあふれている素晴らしいクラスでした。座学が終わって、実技に入っても同様に、決して手を抜くことなく、一つひとつの演習に積極的に取り組んでくれていました。先生方にとってもハッピーな研修だったのではないかと想像します。14日目の実技のテストが終わって、先生方から出た言葉は、「一体感があったよね」でした。クラス全体が、より良い実技になるように頑張ろうという同じ気持ちでひとつになったということです。改めて、ケアカレの原点であり、学校としてあるべき姿を思い出させてくれたクラスでした。

 

湘南ケアカレッジの原点は、やはり一体感にあると思います。生徒さんたちは介護を学ぶことを通して、先生方は教えることを通して、周りの人たちと心をひとつにして楽しむということです。一体感のあるクラスでは、生徒さんたちはお互いに高め合うこともできます。ときにはクラスメイトの頑張りを見て、自分も頑張ろうと思えたり、また自分が上手くできていることがあれば、クラスメイトに教えることで相手も自分もさらに上達します。一体感は良い方向にさえ向けば、自分だけでは決して得られなかった力を得られたり、また相手をより高く引き上げることができるのです。

 

せっかく学ぶのであれば、最高の体験を手にしてもらいたいと願います。ひとりで研修に来て、ひとりで帰って、ひとりで修了するのではなく、いつの間にか皆と仲良くなって、最後は全員で一緒に修了することが大切です。そういう人間らしい研修は一生の思い出になります。たった15日間でも、ただ資格を得るために通って記憶の片隅にも残っていない研修ではなく、楽しかった思い出と共に一生記憶に残る研修の違いは、周りのクラスメイトや先生たちとどれだけ心が通い合ったかにあると思います。気持ちがひとつになる一体感を味わうことができたなら、その研修は成功したといえるのではないでしょうか。

 

 

11月短期クラスの成功から学んだことは、実務者研修も同じように一体感を高めていかなければならないということです。介護職員初任者研修と違ってわずか7日間の研修ではありますが、その短い期間でもできる限りにおいて一体感をつくり上げることが何よりも大切だということです。私の感覚ですが、実務者研修はまだ周りのクラスメイトとのつながりをつくれずに修了してしまう人が少なからずいると思います。授業内容の細かい改善ももちろん必要ですが、鍵となるのは一体感を持って学んでもらうことです。それが欠けていると、どれだけ学びが深くても、楽しくはありませんし、人生の記憶に残してもらえないのです。来年度に向けて、どのようにすればさらに一体感を高めていけるかを先生方と考えていきたいと思います。

2020年

10月

30日

最初が肝心

「最初が肝心」という聞き慣れた言葉があります。あまりにも漠然としすぎて、見渡す限り何も見えない平原で、何をして遊んでもいいよと言われた子どものように戸惑ってしまいます。最初が大切という意味は理解できても、具体的に何をどうすれば良いのか分からないのです。「最初が肝心」を私なりに解釈すると、全体を10割だとすると、最初の2割によって残りの8割も決まってしまうので、最初の2割をどうするかによって全体の10割も大きく変わってしまうということ。それでもまだ分かりにくいので言い換えると、何をするにしても、最初に集中して頑張ってやっておくと全体の結果も良くなり、また最初の部分を見るだけで全体の姿もほぼ見えてくるということです。これは仕事をする上だけではなく、人生を語るときにも当てはまる大切な話だと思います。

 

まず、人間の集中力は無限ではありませんので、最初の部分に集中させると良いです。たとえば、1日のうちでやるべきことがあるとして、そのうちでも重要なことを1日の早い段階(朝とか午前中)にエネルギーを使ってやり切るということです。1日をまんべんなく区切って、エネルギーを均等に分配するのではなく、最初の部分に集中させるということ。それによって勢いがつき、残りの時間も有意義に過ごすことができ、全体としては大きくプラスに働くのです。マイペースという言葉がありますが、得てして均等にエネルギーを使うことを意味しますので、マイペースで生きることは全体としては良く生きることにつながるか疑問です。

 

もう少し長期的な視点で考えてみても、たとえば1年後に10の地点にたどり着こうと思ったら、ほとんどの人は1ヶ月で1ずつ進んでいこうと計画を立てるはずです。そうではなく、最初の3か月で2ずつ進んで、その後は1や0.5ぐらいの感覚でメリハリをつけるべきです。マイペースで計画すると途中で上手く行かなかったり、プランを変更せざるをなくなったりして、10の地点にたどり着けなかったりします。一方、最初に集中して2ずつ進もうとすると、途中の失敗や変更にも対応できる余裕が生まれ、上手く行くと全体として10を超える地点までたどり着けることもあるのです。

 

これが分かってくると、今日は朝から何をしようかと考えるはずです。その日にやるべきことの中で最も重要なことは何かを決めて、それを朝一から集中して取り組むのです。朝はエンジンが掛からないからゆっくり始めようとか、会社に来てから朝ごはんを食べているようではいけません(笑)。あとからゆっくりすれば良いのです。1日中ずっと高い集中力で頑張り続けるのは若い頃でなければ難しいため、ほとんどの人はペース配分の問題として最初に集中すべきだということです。あとから頑張ろうと思って最初にだらだらとしてしまう人は、全体を振り返ってみると、最初から飛ばしていた人には追いつかないのです。これは1日の仕事だけではなく、人生の幸福の問題でもありますね。

 

もうひとつ、最初の部分を見ると全体も見えてくるということもあります。正直に言ってしまうと、最初の時点でダメなものは最後までダメ、全体としても良いものは最初から良いということです。これはパチンコから学んだことです(笑)若かりし頃、パチンコにはまっていた時期があり、その時にある法則を発見したのです。「出る台は最初から出るし、出ない台は最初から出ない」という法則です。もちろん例外もあって、最初だけ出て後から全く出なくなる台もあるし、最初は出ないけれど後から出始める台もありますが、あくまでも例外です。私が何を悟ったかというと、最初の部分を見れば、全体の姿もおおよそ見えてくる。つまり、最後まで待つ必要はなく、最初の部分だけを良く見て判断すればよいのです。これは人間にも、仕事にも職場にも、あらゆる全てのものに当てはまる法則です。

 

 

まとめると、私たちは自分ごととして何かに取り組むときには、最初から一気に集中して頑張ってみると、全体の結果としては良いものが出てくるということ。そして、他のものを判断するときには、最初の部分をしっかりと見極めることが大切だということです。この2つの法則は実はつながっていることに気づいた人は、同じエネルギーでもメリハリをつけて使うことによって、全体としてより良い人生を送ることができると分かるはずです。人生はそんなに簡単ではありませんが、この法則を知って実行できるかどうかで結果が大きく変わることは確かなのです。私がパチンコから学んだ法則を、ぜひ参考にしてみてください。最初が肝心なのです。

2020年

10月

25日

最初から最後まで優しかった

私事ながら、祖母が97歳で亡くなりました。昨年末あたりから、誤嚥性肺炎をきっかけとして調子を崩し、入退院を繰り返してきましたが、10月11日に息を引き取りました。死に目に会うことは叶いませんでしたが、今の状況下でそれは仕方ないことだと納得しつつ、生きていても、たとえ亡くなってしまっても、祖母はいつも私の心の中にいますので、あまり生死の間に大きな隔たりは感じないというのが正直なところです。十年近く前から認知症を患っていたことも関係しているかもしれません。祖母は少しずつできることが少なくなり、少しずつ記憶を失っていったのです。私たちは、長いお別れをしてきたのだと思います。とはいえ、火葬へと送り出す前に最後のお別れをしたとき、いつも病床の祖母にそうしていたように、頬に手を当ててみると冷たくなっていて、その時ばかりはさすがに涙が出てしまいました。今までありがとう、という感謝の涙でした。

 

祖母は私をたー坊と呼んで可愛がってくれました。物心がついて、岡山の田舎に帰省する頃には、そこにはいつもひいばあちゃんとおじいちゃん、そしておばあちゃんがいました。ひいばあちゃんは1日中寝ていることが多く、小さかった私の世話を焼いてくれるのは主におばあちゃんでした。年末年始やお盆休みといった短い期間しか帰らないからかもしれませんが、田舎にいる間はずっと大切にされた記憶しかありません。東京に戻るときはいつも、ひいばあちゃんも、おばあちゃんも泣いて別れを惜しんでくれました。幼ごころに、また次の休みになったら来るから泣くほどじゃないでしょ、と思っていましたが、曾祖母と祖母にとっては、もしかしたらこれが最後の別れになるかもといつも思っていたのだと今は分かります。

 

私が祖母との関係の中で最も覚えているのは、大学に入ってからのことです。ひとり暮らしを始めた私は、両親からは十分な仕送りをしてもらっていたのにもかかわらず、なぜか月末になるといくばくかのお金が足りなくなりました。ガス代や電気代などが思っているよりも高かったり、思わぬ出費をしてしまったり、まあ私がしっかりしていないからなのですが、単発の力仕事を入れたりしつつも、お金をどうしようと思い悩む日々でした。そんな折、タイミング良く届く、祖母からの荷物の一番下には必ず1万円札が1枚入っていました。私の好物だと祖母がずっと思っていたひじきの他に、お菓子や果物、日用品などを敷き詰めて送ってくれた中でも、現金な話ですが、最も1万円札が有り難かったのです。あとから知ったのは、家計の管理をしていた祖母が、何とかやりくりして捻出した1万円だったそうです。大げさかもしれませんが、あの頃は毎月のように祖母は命の恩人だと感じ、御礼の手紙を書いたり電話をしたりしました。今の私があるのは、色々な意味において、祖母のおかげです。

 

 

祖母は習字の先生をしていました。毛筆も硬筆もどちらも教えてもらいましたが、私には才能がなかったのかもしれません。あまり楽しいと思えませんでしたし、大好きな祖母に誘われるから断れずに付き合っていただけで、おばあちゃんごめんなさいと思いつつ、早く遊びに行きたくてうずうずしていたのが実状でした。認知症になってからも、ほほほほほっと上品に笑う声も、いつも「ありがとう」と感謝を忘れない姿勢も同じで、祖母という人間はずっと変わらなかったことに安心しました。そういえば、祖母は曾祖母を十年近くにわたって自宅で介護しました。その時代は、今のような介護サービスもなく、嫁に入った女性が介護するのは当然という風潮だったのだと思います。毎日真夜中に起こされて困っている話や、ろう便のエピソードなどを聞いてはいましたが、小さかった私にとってはどこか他人事でした。本当に大変だったと思います。それでも曾祖母のことを「とても良い人だった」と祖母は語っていました。だから血がつながっていなくても最後まで介護できたのだと。もちろん祖母も、私にとって、最初から最後まで優しくしてくれた、とても良い人でした。お疲れさまでした。そして、ありがとうございました。

2020年

10月

20日

介護過程とは?

実務者研修で主に学んでいただく介護過程とは、分かりやすく言うと、介護の考え方です。思考の過程と言い換えても良いと思います。どのような思考過程を辿って、介護を提供するべきかという考え方のこと。そしてその考え方は、介護の仕事だけではなく、どの業種でもどの世界でも使うことのできる、普遍的なものです。情報を集め、情報を解釈・統合化し、何ができるのか、どうすればできるようになるのかを見つけ(アセスメント)、それを元に短期、長期的な目標を立て、実行し、結果を観察して、再度計画を修正していくというプロセスです。文字にすると難しく思えるかもしれませんが、何かを良くしようと思って取り組んでいるときには、誰もが無意識もしくは意識的に辿っている思考過程なのではないでしょうか。それをあえて介護の世界において学問的にしたものが介護過程です。

 

子どもの教育においても、この考え方は当てはまります。私が塾で教えていたときは、授業が始まる前にスタッフが集まって、一次情報の共有が行われます。「○○くんは●●したいと言っていた」、「親は△△してくださいとおっしゃっていました」など、本人や親の要望を集めてみたり、生徒さんの教科ごとの点数や成績の伸び具合、また本人の意欲や性格等をスタッフ全員で共有しつつ、その情報の背景や裏にある心理などを読み取り、解釈し、話し合いをします。最初は好き勝手なことを言い合うのですが、最終的にはリーダーが情報や解釈を集約し、何ができるのか、どうすればできるようになるのかを見つけ、適切な短期、長期目標を掲げ、具体的な行動へとつなげていきます。

 

こうしてくださいと指示をすることもあれば、スタッフのこうしたいという考えにゴーサインを出すこともあります。いずれにしても、正しい思考過程を経て出た結論を具体的な行動として試してみるということです。もし上手く行かなかった場合は、再度1から考え直せばよいのです。このようなプロセスを仕事の一環として毎日繰り返すことで、その精度も高まってくるのです。

 

介護福祉士を目指すための実務者研修において、介護過程が課せられたということは、介護の業界においての現状として、介護過程が大きな課題ということでしょう。介護の現場では全くと言ってよいほど、介護過程が展開されていないという危惧があるのだと思います。目の前にある仕事を手当たり次第にこなしていくばかりで、そこにはプロセスがないということです。情報はあったとしても、それがバラバラになっていたり、共有されていなかったり、上手く解釈されていなかったりするのかもしれません。

 

そして、向かっている方向が間違ってしまっていると、日々の行動もおかしなことになってしまい、やればやるだけお互いに疲弊していき、誰も望まない結果が出てしまう。それは介護過程の欠如ゆえなのです。間違った方向への努力は、意味がないどころか、ときとして有害にもなりえます。介護福祉士になる前に、介護過程を学ぶことで日々の仕事を見つめ直してみましょう、というのが実務者研修のコンセプトのひとつなのです。

 

 

考え方ひとつで 、現場は少しずつ変わって行くと私は思います。逆に言うと考え方が間違ってしまうと、現場は少しずつ悪くなって行きます。考え方に正しいも間違っているもないと反論される方もいるかもしれませんが、私の経験上、正しい方向も正しい考え方も存在します。正しいビジョンがすぐに実行され、実現するとは思いませんが、それでも情報を集め、情報を解釈・統合化し、何ができるのか、どうすればできるようになるのかを見つけ(アセスメント)、それを元に短期、長期的な目標を立て、実行して、結果を観察して、再度計画を修正していくというプロセスを日々、コツコツと行っていくことで、介護の現場も少しずつ大きく変わっていくのだと私は信じています。

2020年

10月

15日

差別や偏見はなぜ生まれるのか?

コロナ禍中、アメリカでは人種差別に対するデモが起こりました。平和な日本人の感覚からすると、「3密になって大丈夫なのかな?」、「何でそんなに怒っているのかな?」と思われるかもしれませんが、彼ら彼女らは人間が生きる上で最も大切な尊厳や人権のために立ち上がっているのだと思います。最近は過激になりすぎたり、政治活動にすり替えられてしまった感は否めませんが、最初は人間の尊厳や人権を守るために、行き過ぎた差別や偏見、そして暴力(物理的なものから言葉によるものまで)は許しておけないということだったのでしょう。日本では欧米のような目に見える差別や偏見に遭遇することが少ないため、私たちはかなり鈍感になっていますし、だからこそ差別や偏見を自分の中に無自覚的に有しているにもかかわらず、見逃してしまっているはずです。目に見えない内なる差別や偏見です。

 

実は今回のコロナ騒動と、差別や偏見の問題は根底でつながっています。現在の状況において、過剰に感染症対策をしてみたり、他者にもそれを求める方々は、最終的には差別や偏見を助長し、それに加担してしまう人たちです。それとこれは違うと思われるかもしれませんが、実は同じ線の上にあって、地つながりなのです。そう考えると、周りを見渡してみても、ほとんどの人たちは、自覚的にせよ無自覚的にせよ、誰かに偏見を持って差別してしまうということになりますね。私たち人間は、自分の内にそういう傾向があることに自覚的でなければいけません。

 

もう少し分かりやすく説明すると、差別や偏見とは、自分に危害を及ぼす恐れのある他者に対して抱くものです。他者(それが人間であろうとなかろうと)が自分にとって危険だと感じるからこそ、遠ざけようとする意識が強く働き、相手を避けたり、隔離したり、排除したり、迫害したり、根絶したりするのです。それはドイツナチスのユダヤ人の迫害などが典型的な例ですし、日本でもハンセン病や結核患者など、今から振り返ると恐ろしいほどの偏見と差別がまかり通ってきた歴史があります。それらの第一歩は、すべて未知の存在に対する恐怖心から始まっています。

 

これは人から聞いた話ですが、アメリカに住む黒人は、白人コミュニティに入る際には自分が危険な人間ではないことを知ってもらえるようアピールすることを心がけるそうです。たとえば、自分は大学に通っていることを会話の中に織り込むことによって、この黒人は安心な黒人だと示すというように。私もアメリカに留学していたときは、正直に告白すると、どうしても繁華街ですれ違う黒人の人たちに対して、最初は恐怖心を感じていました。生活していく中で、実際に黒人の方々と触れ合う機会も増えるにつれ、少しずつ怖さは薄れていくのですが、日本にいる時はないと思っていた偏見や差別は私の内にもあったのです。

 

見知らぬものに対する恐怖心は人間の本能ですから、ある程度は仕方ないものです。しかし、その恐怖心にそのまま反応してしまうと、自分の安全・安心を守るという錦の元、何の悪気もないまま他者に偏見を持ち、差別してしまうことにつながります。ここまで書いてきても、病気に対する対策と人間に対する差別は違うと考える方もいるかもしれませんが、残念ながら根っこは同じなのです。もし違いがあるとすれば、新型コロナウイルスは(マスメディアの影響で)身近にあるように思えるのに対し、たとえば黒人の方々は身の回りにいないだけです。見知らぬもの対する差別や偏見は人間であればある程度は仕方ないものですが、大切なのは内なる差別や偏見が自分にもあると知ることです。まずはそこからです。

 

どうすれば差別や偏見をなくせるかというと、相手を知り、勇気を持って近づくことです。「無知を恐怖で焚き付ければ、ヘイト(憎しみ)が生まれる」と言われますので、まずは対象や他者のことを良く知ることから始めなければいけません。本を読んだり、誰からから話を聞いたりして、きちんと知識を知ることです。テレビやネットニュースばかり見ていたり、自分好みの話題をスマホで流し読みするのではなく、正しい情報を持って自分で考えてみることです。そうすることで、あなたの内にあった差別や偏見は少しずつ溶けていくはずです。その状態こそが、教養があるということです。

 

もうひとつは恐怖心を克服して、対象に対して近づいてみることです。そうすることで、今まで自分が勝手に抱いていたイメージが思い込みであることに気づくはずです。そして今までの自分を恥じるはずです。最も効果的な方法であるものの、さすがに怖いという方もいるかもしれませんが、実はどれだけ知識があっても、相手に近づいて、話してみたり、触れてみたり、体験してみないと分からないことの方が多いです。つまり、知識だけあっても勇気がなければいけませんし、どちらかが欠けてしまうと、差別も偏見も克服できないということです。

 

 

介護や福祉にたずさわる私たちは、最も差別や偏見と向き合わなければならない対人援助職であり、だからこそ一般の人たちと比べても、より一層の教養と勇気を持たなければならないのです。

2020年

10月

10日

「ミッドナイトスワン」

15分におよぶ予告編を見て、大きな期待をして観に行った「ミッドナイトスワン」は、高かったハードルをさらに超えていく傑作でした。今年の日本映画ベストワンは間違いなく、私が観た日本映画の中でも10指に入る素晴らしい映画でした。トランスジェンダーの凪沙(なぎさ)を演じた草彅剛さんの心の叫びが伝わってきて、バレエダンサーを夢見る無口な中学生、桜田一果役の服部樹咲さんの透明感と存在は圧倒的でした。痛々しいまでの苦しさや哀しさが全編を覆っていますが、バレエの華麗な動きや背景に流れる音楽があまりにも美しく、そのコントラスト(対比)が実に見事です。無償の愛、偏見・差別、生まれ出ずる悩み、審美、自分らしくあることなど、この映画を観た人たちは、それぞれが異なったメッセージを受け取るのではないでしょうか。絶対にという言葉はあまり使いたくありませんが、絶対に観るべき映画です。

 

ネタバレをしてもつまらないし、予告編を見てもらえればあらすじは掴んでもらえるはずなので、ストーリーや登場人物を紹介することはせず、私の受け取ったメッセージを書きたいと思います。それは、人と違っていることは美しいということです。これは言葉遊びではなく、いわゆる美人の顔というのは人々の平均のパーツを集めたものに過ぎないという研究があるように、整っているにすぎません。美という観点から言うと、整っているものはつまらないのです。平均的な人間が平均的な絵を描いて、それはたぶん美しくはないはずです。

平均から外れているところに本物の美は存在し、愛されるのです。

 

しかし、私たちは周りの価値観や環境に大きく影響を受けてしまっていて、平均から大きく外れてしまうと、気持ち悪いとか怖いと思われ、その視線を受けることで自分も自分のことをそう思い込んでしまい、劣等感を抱くようになってしまいます。凪沙が一果に「私って気持ち悪い?」と聞いて泣き崩れる場面がありますが、恐ろしいのは周りの視線が本人の認識まで変えてしまうことです。

 

この映画は「みにくいあひるの子」をモチーフにしているのではと勝手に解釈しています。あひるの中では見た目も違って醜いと言われて、最後は親にも酷い扱いを受けて追い出された子が実は白鳥の子どもで、大きくなるにつれて美しくなり、空に羽ばたくようになったのです。周りの視線に怯えながらも白鳥であることをやめず、バレエに救われて外の世界に羽ばたいていく成長を一果は表現していますし、最初は違和感のあった凪沙の姿も次第に自然になってきて、美しいとすら思えるようになります。ふたりは本当は白鳥なのに、あひるの世界で孤独に強く生きなければならないという点で共通していて、そこに親子でもない恋人でも友人でもない、しかし無償の愛と強い絆が生まれるのです。

 

 

私はこの映画を観ながら、「一つ目国」の悲劇という話をふと思い出しました。

「一つ目国」の悲劇

ある旅人が、旅の途中で道を見失い、
不思議な国に迷い込んでしまいました。

その国は、一つ目人間の国だったのです。

その国の住人は、誰もが、目が一つしかない人々であり、
旅人のように目が二つある人間は、
一人もいなかったのです。

その国に迷い込んだ当初、
旅人は、変わった風貌の住人を見て驚き、
そして、しばらくは、
彼らを不思議に思って眺めていました。

しかし、その国で過ごすうちに、
旅人は、だんだん孤独になってきました。

自分だけが二つの目を持つことが
異常なことのように思われてきたのです。

そして、その孤独のあまり、
ついに、その旅人は、
自ら、片方の目をつぶし、一つ目になったのです。

この旅人の悲劇は、決して、
遠い彼方の国の物語ではありません。

なぜなら、
我々も、しばしば、
この旅人のように、
自ら、片方の目をつぶそうと考えてしまうからです。

自分自身であることの孤独。

そのことに、耐えられず、
自分自身であることを
やめようと考えてしまうのです。

 

(田坂広志「風の便り」より)

 

女性の心を持った凪沙が、一果にバレエを続けさせるために、男性の姿に戻って生きていこうとしたとき、一果は感謝するどころか「頼んでない!」と怒ったのは、幼心ながらも自分自身であることを失ってはいけないことを知っていたからだと思います。あなたはそのままが美しいのに、人と違うことがより美しいのに、孤独に耐えきれず、差別や偏見、同調圧力に自ら負けてはいけないと、口下手な中学生ながらに伝えたかったのです。真の美しさや愛は、本当はふたりの側にあるのですから。

2020年

10月

05日

尊敬し、信頼し、親しみを感じる

9月短期クラスが無事に修了しました。とても雰囲気が良く、授業にも積極的に取り組んでくれて、ずっと通ってもらいたいと思えるほどに素晴らしいクラスでした。何と言っても、通信添削の出来も良く、実技テストや最後の筆記テストの点数の高さ(ほぼ全員が90点台!)という数字からも、このクラスのレベルの高さが伝わってきました。楽しいだけではなく、しっかりと内容も学んでくださったということです。13日目の介護過程の授業が終わった後、その日で授業が最後になる佐々木先生、望月先生、橘川先生のもとに、生徒さんたちが集まって、遅くまで残って話していました。私はその光景を外から見て、とても嬉しく思いました。先生方と話したいという想いは、いつでもどこでも、学びの場に共通しているものですね。

 

先生と(個別に)話したいという想いは、生徒さんが先生のことを尊敬し、信頼に足ると思い、かつ親近感を覚えたからこそ。そのどれが欠けてしまっても、生徒さんたちは先生と話したいとは思えないはずです。1回きりの授業ではなかなか難しいと思いますが、授業が終わった後に、生徒さんたちが話したいと思って、話しかけてくれるかは、自分の授業という形を通したプレゼンテーションが成功したかどうかのひとつの指標になります。それは質問という形をとるかもしれませんし、この先生なら相談したいと思ってもらえることも大切ですし、単なる雑談でも良いのです。生徒さんたちが先生と話したいと思って話しかけてくる行動は、先生として成功していることの証拠のひとつなのです。

 

私も塾の先生をしていたときも、生徒さんたちに授業以外の場所や時間に話しかけられると、素直に嬉しかったですね。他の先生のところに自分よりももっと生徒さんが集まっていると、ジェラシーを感じたりもしました(笑)。忙しくてゆっくり話せないことが多かったのですが、人間同士の心が通じ合う、とても貴重な時間に感じました。今はもう先生として教えることがなくなってしまいましたが、その思いはより一層募ってきます。学校とは互いに尊敬し、信頼し、親しみを感じる場だったのです。

 

 

その反面、私のような大したことない人間でも、先生というだけで興味を持ってくれることに不思議というか、こそばゆい気持ちを抱いたのも事実です。先生という職業は過大評価されがちで、影響力は良い意味でも悪い意味でも大きいため、そのあたりは自覚していなければならないとも思っていました。私たちはあくまでも役割を与えられているのであって、ひと度、授業が終わって外の世界に出れば、ひとり一人の人間同士としてフラットに語り合うことができれば良いですね。

研修が終わった後、生徒さんたちから先生方ひとり一人に対して、メッセージ集が渡されました。プレゼントも個別性があって、先生方もさぞかし嬉しいのではないでしょうか。ありがとうございます!

2020年

9月

30日

今見えているのは真実ではない

先日の実務者研修の導入部分にて、望月先生が新卒で入った施設の話をしてくれました。当時はまだ措置の時代で、高齢者や障害者に対して、お世話をしてあげていると考えるのが普通の介護観でした。介護の学校でもそのように習いますし、先輩方もそのように教えてくれて、そのように現場も回っていました。しかし、施設長は少し変わった人だったそうです。

 

(当時はボケとか痴呆と呼ばれていた)認知症の利用者さんが施設の外に出ようとするので、新人の望月先生が施設のあらゆる扉に鍵をかけて回っていたところ、「何しているの?」とその施設長に聞かれたので、「外に出てしまうと危ないので鍵を掛けています」と答えたところ、「もしあなたが何らかの理由で家から外に出るなと言われて、鍵をかけられたらどう思う?何としてでも出たいと思うだろうし、鍵をかける人たちに対して不信感を抱くよね」と言われたそうです。

 

 

「でも、外に出たら車にはねられたり、何が起こるか分からないので…。私たちは利用者さんたちの安全を守らなければいけませんよね」と望月先生も返すと、「じゃあもう一度聞くけど、…」と先ほどと同じやり取りに。最終的には、「やってみなよ」ということで、他の業務を改善したりして、徘徊する利用者について行く職員をつけ、外に出たい人は出て行ってもらい、しばらく歩いて、話したりしてから施設にまた戻っていただくということになりました。今となっては普通に考えれば分かる当たり前のことですが、その当時は誰も賛成しない、むしろあり得ないと思われていた介護観に、キャリアの最初から触れることができてラッキーだったと望月先生は言います。

 

これは決して大げさな話ではなく、実はさらにその20年前ぐらいまでは、認知症は未知の病気であり、認知症の方は何も分からなくなった廃人として部屋に鍵をかけられたり、座敷牢のような場所に閉じ込められたり、また精神病者として精神病院に強制入院させられた時代があります。手足を縛られ、拘束衣を着させられたり、強い薬を飲まされたりして身動きが取れないようにされました。おかしいなと思いながらケアをしていた人もいたかもしれませんが、当時はそれが当たり前とされていたのです。今思えばおかしいと分かるけれど、当時は分からなかった、分かろうとすらしていなかったことなど、特に病気に関してのそういった歴史は(何ひとつ反省されることなく)繰り返されてきたのです。

私は仕事の関係で、広島に2年間、住んでいたことがあります。とても住みやすい街でした。自宅から会社まで、原爆ドームを横目に見ながら自転車で通っていました。いつの間にか日常の風景になってしまうものですが、最初の頃は、あの原爆ドームを間近にして畏怖の念を覚えていたものです。というのも小学生の私は、「はだしのゲン」という漫画を図書館で借りてきて、読みふけっていた時期があったからです。想像力豊かな子どもにとっては衝撃的な内容で、原爆の恐ろしさや戦争によってあぶりだされた人間の心の闇の深さを、子ども心に切実に感じていた時期があったのです。今でも鮮明に覚えているシーンがあります。

この兵隊さんは死んでしまうのですが、無事に助かったと思えた人たちでさえも、このような症状を呈してバタバタと亡くなっていきました。短期間で亡くなる方もいれば、しばらくして死亡する方もいたり、長期間にわたる後遺症に悩まされたりする方もいたそうです。人間の身体を外部からも内部からも破壊する原子爆弾とは、何と恐ろしい兵器なのだろう。それが小学生の私の素直な感想でした。8月6日の原爆の日になると、毎年、「はだしのゲン」の数々の名シーンや登場人物が私の中に蘇ってきて、心の中でそっと手を合わせます。

 

今年もそうこうしていると、たまたま詩人であり絵本作家であるアーサー・ビナードさんの講演会の動画をふと見る機会がありました。彼はアメリカ人なのですが、原爆を落とされた広島に移り住み、被爆者から直接話を聞いて、それを本や物語にしてきました。彼ら彼女らから話を聞く中で、上の漫画で紹介したような症状についても知らされたそうです。当時は、赤痢という感染症だと思われていて、症状の出ている人は隔離されました。原爆投下直後ですから、隔離はされてもそこで適切な診療や治療など施されるべくもなく、ほとんどの患者さんたちは隔離されたまま亡くなって行きました。

 

なぜ赤痢だと考えられたかというと、下痢や嘔吐などの症状が似ていたからです。次から次へとこうした症状が出る人が現れるため、医療の現場はパニックになり、当時の医師も看護師も感染症だと思い込んでしまったのです。赤痢としては考えられない症状を呈する人も中にはいたのですが、これは原爆の中に仕込まれた新型の赤痢だとされたのです。

 

アーサーさんが話を聞いたひとりの女性は、赤痢だと診断されて隔離された病院から脱走し、実家に逃げ帰りました。このまま隔離されていたら死んでしまうと考えたからです。実家の親や親せきは、彼女の症状を見て、「毒吸うたね」と言い、解毒を促すどくだみ茶などを飲ませたりして、看病をしてくれたことで一命をとどめたそうです。

 

これは後から分かったことですが、原爆によるあの症状は赤痢ではありませんでした。たくさんの人々が次々に罹(かか)っていたので、あたかも人から人へ感染しているように見えたのですが、実は放射線による内部被ばくでした。爆心地から近いところにいた人から早く症状が現れ、離れて行くほど順番に遅く症状が出たのです。これによって広島の人たち(特に市街地で被爆した人たち)は酷い差別を受けました。「ピカが染(うつ)る」と言われて家に入れてもらえなかったり、県外の実家に帰ろうものなら、広島県人というだけで白い目で見られ、その家族も一緒に迫害されたのです。

 

この病気が内部被ばくによるもので、赤痢菌による感染症ではないことが分かったのは、6年ほど後になってからでした。もちろんそれで全てが終わったわけではなく、それ以降も間違った認識ゆえの差別や偏見によって、被爆者の人たちは数十年にわたって二次的な被害を受け続けたのでした。

 

 

なぜこのような過ちが起こってしまったかというと、最初の段階での専門家の見立てが間違っていたからです。当時の広島通信病院の院長であった蜂谷道彦氏が赤痢だと決め、その権威の元、医療関係者は感染症対策を進め、そして恐ろしい感染症である新型赤痢だと行政が民衆に広めたのです。被爆者たちが声を上げたり、その後の症状の経過から、人には感染しない単なる内部被ばくであると気づいたときには、もう差別と偏見は広がってしまい、手遅れになってしまっていました。かといって、今だに真実はほとんど公(おおやけ)にされておらず、専門家や行政からは被爆者に対しての謝罪もなく、全てはあやふやなままです。

56分あたりからご覧ください。日本語めちゃくちゃ上手ですよ!

この話を聞いたとき、ハンセン病のことが思い浮かびました。「あん」という素晴らしい映画を観て、東村山市にある全生園という施設に足を運んでみたことがあります。ハンセン病は太古の昔から存在する感染症(とされている)ですが、日本では1931年以降、らい予防法によって患者を療養所に強制入院させました。入院といっても、いつか退院できるわけではなく、死ぬまで隔離されるということです。当時らい病と呼ばれていたハンセン病は、国にとっては撲滅すべき病気であり、スペイン風邪やペストと同様に恐ろしい病気であると広く民衆に知らされました。ハンセン病であることが分かると、自宅に防護服を着た職員がやって来て、家中を真っ白になるまで消毒し、その後、患者を療養所まで連れていきます。わざと民衆の前を歩かせて衆知にさらし、患者が歩いた後ろの土を消毒したというから残酷です。患者本人は一生涯にわたって、社会とは隔絶した人生を送ることになり、またその家族も遺伝的な病気であると疑われて村八分にされたり、兄弟は結婚できなかったりなど、言葉では表せないほどのすさまじい差別と偏見にさらされたのです。

1947年に治療薬が開発され、ハンセン病は治る病気になりました。それでもなお1996年のらい予防法の廃止に至るまで隔離は続きました。介護福祉士の国家試験にもハンセン病の問題は出ましたよね。実は、ふたを開けてみると、ハンセン病は極めて感染力の低い感染症でした。現在では、人から人へ感染する可能性はほぼないと言われています。感染する可能性は極めて低いことが分かっても、一度振り上げた拳は簡単には降ろせないというか、あれだけの差別や偏見を助長しておいて、今さら感染力はほとんどありませんとは言えなかったのでしょう。また、当時の医師たちはゼロリスクを求めたのか、ウイルスを撲滅しようと使命感にかられた面もあったのかもしれません。そのことで多くの患者さんたちの人権が踏みにじられ、人生が犠牲になってしまいました。

 

 

私たちはたまたま今の時代に生まれ、今の自分を生きていますが、もしかすると70年前であればハンセン病になって隔離されたかもしれないのです。ハンセン病患者の方々の人生を想うと、感染力を見誤ってしまい、それを広く知らしめてしまいましたでは済まないのです。恐怖に駆られたり、パニックになると、判断を誤ってしまうこともあると思いますし、その時には真実が分からなかったかもしれませんが、もし間違っていたとしたらすぐに正せばよいのです。いや、正さなければならないのです。

そのためには、今起こっていることや考えていることを常に疑ってみることが必要です。特に専門家と呼ばれている人であればあるほど、知識がある分、思い込みも激しくなってしまいます。違った面から物ごとを見ることができないのです。そして、世の中の皆が同じ方向に考えているときほど危険です。自分たちは間違っているかもしれないと考えてみることで、真実は見えてくることがあるのです。それは数々の歴史が教えてくれています。アーサーさんは講演会の締めの部分で、「今皆さんに見えているのが真実だと思ったら大間違い」と語りました。

 

感染症ではないものを感染症として、差別や偏見を助長してしまったり、感染力の極めて低い、人から人へと感染する可能性などゼロに近い感染症を、稀に見る恐ろしい感染症だとして90年近くにわたって患者を隔離してしまったのです。また脳に器質的な障害が生じた人を精神病者として閉じ込め、拘束し、自由を奪ったのです。そのことで生じた、星の数ほどの偏見や差別、失われた人々や家族のきずな、台無しにされた人生はどうなるのでしょうか。歴史(といってもそれほど昔ではありません)を振り返ってみれば、私たちは同じような過ちを何度も繰り返し犯してきたのです。

 

 

もし私たちがタイムマシーンを使って、原爆が投下された1945年やハンセン病が流行した1930年代に戻っても、同じように騙されてしまうと思います。その当時は、一般市民が情報を得る手段はほとんどなかったのですから、間違って当然です。しかし、今はどうでしょうか。テレビや新聞、ヤフーニュースに代表されるネットニュースのようなマスメディアからの偏った情報をうのみにするのではなく、自ら検索したり、ソーシャルネットワーキングサービスなどを使えば、多面的な情報や事実をある程度は手に入れることが可能です。知らなかったでは済まされない時代に生きている私たちは、二度と同じ過ちを繰り返してはならないのです。

2020年

9月

25日

かけがえのない時間

私が社会人として最初に就いた仕事は、塾の先生でした。先生と言っても、ただ教えるだけではなく、生徒の募集から教室の掃除まで、塾の運営に関わる全てを任せてもらいました。当時の直属の上司の中土井さんはとても変わった人で(今は業界ではかなり有名なコンサルタントになっていますが)、本を毎日1時間読んでノートに要点を書くことや使い捨てられない人材になることなど、世の中のことが何も分かっていなかった私に対して、社会人としてどうあるべきかを直球で教えてくれました。その当時は意味が分からなかったけれど、あとになってようやく、「なるほど、そういうことね」と理解したことがたくさんあります。

 

ある時、塾に通ってくれていた男子生徒が教室に入ってくるなり、「自転車が壊れたので、ペンチみたいなの貸して!」と言ったのです。それを聞いた私は、工具箱からペンチを取り出して、その男子生徒に手渡しました。彼は「ありがとう!」と言って教室を出て行き、駐輪場に向かいました。その様子を見ていた中土井さんが僕の傍にやってきて、「なぜ一緒に行かないの?一緒に修理してあげなよ!」と言い放ちました。いきなりそう言われてムッとしましたし、それぐらい自分で直せるだろと心の中では思いながらも、仕方なく私は駐輪場まで行きました。タイヤを保護しているカバーが曲がっていて、車輪が回らなくなっているのを、2人でああでもないこうでもないと話しながら、なんとか元どおりに直すことができたのです。その一件以来、彼とは勉強の話だけでなく、部活のことや好きなスポーツチームやアニメのこと、友だちや親、将来のことまで話すようになりました。

 

私はそれまで、先生は勉強を教えるために存在すると思っていました。どうすれば分かりやすい授業ができるのか、どうすれば生徒さんたちは成績が上がるのかばかりを考えていました。でも、中土井さんの忠告をきっかけとして生徒と関わってみたことで、今までは見えていなかった生徒の一面を見ることができただけではなく、私と彼の関係性は変わり、私の見えている世界も大きく変わったのです。彼の成績も劇的に変わったとは言えないのが残念ですが(笑)、もっと大切なことを見つけた気がしました。

 

それは過ごした時間が大切だということです。自転車が直るかどうかはどうでも良くて、その作業を通じて彼と一緒に時間を過ごしたことに意味があるのです。結果は二の次で、その目的のために共に過ごした時間にしか価値はない。時が経てば経つほど、そう思うようになりました。何をどう教えるか、何を学んだかはあとからついてくるものであって、その行為を通じて過ごした時間の記憶だけが(私がそうであるように)永遠に残るのです。

 

結果が、最初の思惑通りにならなくても、そこで過ごした時間は確実に存在する。そして最後に意味を持つのは、結果ではなく、過ごしてしまった、かけがえのないその時間である。

星野道夫)

 

 

それは教育だけではなく、介護や他の仕事でも同じだと思います。いかにして(個別に)過ごす時間をつくることができるか。そのチャンスがあったなら、逃してはならないのです。ただ単に授業をする、ただ単に介護をするだけではなく、その仕事を通じて、共に過ごすかけがえのないその時間こそが大切なのだと意識しながら仕事をすることで、結果として良い教育や介護が提供できるのではないかと思います。

2020年

9月

20日

その人らしさに魅せられて【看護小規模多機能型居宅介護支援ハーモニー】

「この家で最後まで暮らしたい」

 

住み慣れた我が家で自分らしい最期を望む方は、決して珍しくありません。どうしても守りたい暮らしとは、どのような意味を持つものなのでしょうか。

 

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2020年

9月

15日

「苦しい時は電話して」

坂口恭平さんによる、自殺者をゼロにしたいという想いで書かれた新書です。彼の著書である「独立国家のつくりかた」も最高傑作でしたが、今回の「苦しい時は電話して」も素晴らしい内容になっています。帯に090-8106-4666という坂口恭平さん本人の携帯電話番号が大きく掲げられているように、彼は「いのっちの電話」という、死にたい人であれば誰でも電話できるサービスを無償で行っています。バカげていると思われるかもしれませんが、本当の話です。ずっと前から彼がひとり公共機関としてこのサービスをやっていたのを私は知っていますし、幸いなことに私は電話したことはまだありませんが、彼が死にたい誰かの話を聞くことで多くの人々が救われてきたのは事実だと思います。

 

実は坂口さん本人が躁うつ病で、死にたいという願望を抱え、常に生と死の間をさまよっていると言っても過言ではありません。死にたい人が死にたい人の電話を受けるのですから、お互いの気持ちが分からないわけはありませんし、話すことでお互いに救われるということです。本書はそうした死にたい人たちとのやり取りを通じて考えたことや、死にたいと思う気持ちや状態を極めて冷静に、客観的に、哲学的に考察したことが、当事者であり第3者の視点で見事に描かれています。

 

彼によると、死にたい時は全く同じ状態だそうです。彼だけではなく、電話をしてくれる他の人たちも全く同じ状態。死にたくなる状態とは、熱が出たり、咳が出たり、血が流れたりすることと同じように、どんな人にも起こりうる症状だと言います。生きている中ではいたって普通のことなのです。具体的には、死にたい時とは、脳が誤作動を起こして、何でも反省してしまっているときなのではないかと言います。彼は破壊的反省と表現しますが、自分が乗っ取られてしまう感じだそうです。それはあくまで状態であって、死ぬまで続くわけではなく、必ずやまた抜け出して、健やかに過ごすことができるようになるにもかかわらず、その状態にいるときはここからは絶対に抜け出せない思えてしまうのです。

 

うつと言うと、私も一度だけそのような状態になったことがありました。まだ20代の頃、とにかく忙しくて、朝7時に起きて深夜1時までぶっ続けで働き、自宅に帰って3時までには寝るという生活を、ほとんど休むことなく、土日祝日も関係なく送っていた時期がありました。今となっては完全な違法状態ですが、当時はそのあたりの認識は会社にとっても従業員にとっても薄く、月の労働時間が500時間に達することは普通でした。そんな生活を2年ほど続けていたある日、いつものように朝起きて、準備をして自宅を出た瞬間、「会社に行きたくない!」という考えが、突然、疾風のように私の頭を乗っ取って、激しく揺さぶってきたのです。自分の脳が乗っ取られる感覚は生まれて初めてでした。あまりの衝撃に驚きつつも、うつ病は脳の器質的な病気であることを知っていたので、ああ、これがうつの症状かと冷静になれたのが良かったと思います。頭を引きづるようにして出社して、何とか仕事をこなしているうちに、いつもの自分に戻ったのですが、あそこで完全に乗っ取られていたら、その後どうなっていたか分かりません。脳が過重なストレスによって疲れることがあって、それがうつの原因だと身をもって理解しました。だからこそ、そういう場合はまず身体と脳を休めるに限ると今は分かっているので、そうなる前に実践することができます。

 

坂口さんは、反省することは禁止するが、悩むことは悪くないと語ります。死にたいほど悩んでいるということは、実は何か自分にとっての願望があるということなのです。そこに気がつくことができると、死にたい気持ちは少しずつ消えていくそうです。彼は死にたいと電話を掛けてきた人の話を聞いて、それから好きなことを尋ねます。そうすると、意外にも映画が好きで映画を撮りたい、音楽が好きでジャズ喫茶をやりたい、などの願望が出てくる。そんなこんなを話しているうちに、思考が変わっていくそうです。つまり、死ぬと決めている人ですら実は、とても固まった思考の中にいるからそうなっているのであって、そこから離れたら、死ななくて良いと思えるはずなのです。他の思考回路をつくってあげることが大事なのだそうです。

 

さらに坂口さんは、死にたいというのは向上心だとも言います。今よりも充実して生きたい、楽しいことを求めまくっているからこそ、ありのままを受け入れられず、死にたいと思ってしまっていると。つまり、今とても死にたいということは、今とても生きたいということなのだと。死にたいと悩む自分やその気持ちをポジティブに語りながらも、坂口さんは自分なりの解決法を考えます。その中でも最も効果的なものは、毎日1時間でいいから、何かをつくることだと言います。死にたいと思う多くの人々は、何かをつくることに向いているのではないかとも言います。毎日時間を決めて、創造すること。死にたいとき=つくるときなのです。逆に言うと、何かをつくることによって死にたいという状態から抜け出せる可能性があるということですね。

 

 

最後まで読んで、これは死にたい人のためだけの本ではなく、私たち誰にも当てはまる生き方や考え方の本だと思いました。今よりも充実して生きたいという気持ちの裏返しとして、私たちは多かれ少なかれ、現状が受け入れられずに思い悩み、死にたいと思うほどに苦しくなってしまうこともあるかもしれません。しかし、それは創造するための力になり、そのような気持ちが強い人ほど、毎日、何かをつくり続けることで自らを救うことができるのです。何をつくるかは人それぞれだと思います。もしかすると、その何かをつくることを止めた(止められた)とき、私たちに生命の危機が訪れるのかもしれません。

2020年

9月

10日

50代での転職ストーリー

アイスクリームのように溶けてしまいそうな暑さのなか、また一人、卒業生から転職に成功したと感謝のメールをいただきました。嬉しくてつい何度も読み返してしまいました。初任者研修から実務者研修とケアカレで受講してくださった彼女は、介護福祉士にもなり、障害者支援の仕事から高齢者支援の仕事への転職を考えていたそうです。「転職する際には、絶対に『介護仕事百景』を参考にしようと思っていた」との言葉どおり、施設紹介の記事を読み込み、とある施設へ見学に訪れたのでした。

 

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2020年

9月

06日

裏のテーマ

7月短期クラスが修了しました。夏休みのクラスだけあって、とても元気で活気のあるクラスでした。とはいえ、授業が始まると、聞くべきところはしっかり聞くというメリハリのある雰囲気で楽しかったですね。研修の最終日には、久しぶりにメッセージ入りボードをプレゼントしてもらいました。コロナ禍で生徒さん同士、生徒さんと先生、そして学校との距離感が微妙にこれまでとは違ってしまうことを心配してきましたが、少し安心しました。リーダーシップを取ってくれたYさんには心から感謝します。あとから良く見て分かったのですが、7月短期クラスのロゴもオシャレですし、絵具を吹きつけてつくられた下地も手が込んでいて、これから迎える秋の間、ずっと鑑賞していられそうな美しさです。それからIさんからは歌舞伎座のどら焼きをいただき、大変美味しかったです。ありがとうございました。

 

研修修了後の打ち上げにて、「アンケートやリアクションペーパーに、裏のテーマについて生徒さんが書いてくれていると、伝わったんだなと思う」と藤田先生がおっしゃっていて、なるほどと思いました。どういうことかというと、その分野や科目に対する知識・技術を教えるのはあくまでも表面的な話で、実はそれらを教えることを通して、もっと深いテーマが生徒さんに伝わるのが理想だという話です。たとえば、医療的ケアの授業で言うと、口腔鼻腔からの痰吸引や胃瘻に関する知識・技術を教えることを通して、実はフィードフォワード(まずは褒め・認める)の大切さを伝えるという2階建てになっているということです。知識・技術だけを教えるだけでも簡単ではありませんが、さらにその先を考えているのはさすがですね。

 

先生の本来の役割は裏のテーマを伝えることだと私も思います。知識・技術はテキストを読めば分かってしまうものなので(インターネットにもたくさんの知識・技術がありますし)、知識・技術だけを教えるだけでは物足りないのです。表面的には知識・技術を教えているように見えて、気づかないうちに生徒さんたちには裏のテーマがきちんと伝わると、生徒さんたちは学びが大きいと感じ、満足度が高く、先生方が好きになるのです。無意識のうちに裏のテーマが伝わっている場合もあるのですが、意識的に裏のテーマを設定して、授業を設計することができると、よりゴールにたどり着きやすくなると思います。

 

そう考えると、ケアカレの先生方の授業にはそれぞれに裏のテーマがありますね。望月先生であれば相手に寄り添う思いやりや愛情、佐々木先生であれば人が人を想うこと、新倉先生であれば(親子で)学ぶことの大切さ、奥先生であれば在宅で生きる(亡くなる)素晴らしさ、阿波加先生であれば笑顔で受容すること、小野寺先生であれば介護の楽しさや情熱、そしてチームワーク、橘川先生は心配りと褒め・認めの大切さ、嶋田先生であれば訪問介護の仕事のやりがいや楽しさ、村井先生であれば病気や障害を自分の身に置き替えてみることで健康の大切を知ること、野田先生であれば相手を観察することの重要性、千種先生であれば同行援護の仕事の専門性の高さ、尾形先生であれば視覚障害のある利用者さんの世界の多様性を知る楽しさ、などなど。勝手なことを書いてしまいましたが、生徒さんたちの生の声を聞いていてもそう思います。

 

先生方のそれぞれの裏テーマが響き合って、介護職員初任者研修や実務者研修、同行援護従業者養成研修などの研修が、ひとつの体験として生徒さんたちに伝わっているのです。研修が終わって、具体的な知識・技術が学べて良かったと言う生徒さんはほとんどいませんが、彼ら彼女たちには言葉にはならない何かが伝わっているはずです。

 

 

先日、見学に来て申し込んでくださった方が、「相模原のハローワークに行ったら、職員の方にここを勧められました。ケアカレの卒業生さんがハローワークに行って、良かったと言う声を多く聞いているので、良い学校なのだと思いますと教えてくださいました」と言っていました。それを聞いたときは、嬉しかったですね。私たちが伝えたいテーマは確実に生徒さんたちに伝わって、それは言葉では表せないからこそ、より一層、人の心から人の心へと伝わっている気がします。ありがとうございます。

2020年

9月

01日

心残りゼロで生きる【ケアプラザさがみはら】

「どう生きるかは、どう死ぬのかと、表裏一体だと思うのです」

 

施設長の大塚さんのお話しのなかで、ひと際、真剣なまなざしをもって語られたこの一言が、取材のあともずっと心に残りました。生きること、死ぬこと。それは別々のものではなく、太く強く繋がっているのです。特別養護老人ホームケアプラザさがみはらは、相模原市の緑区にあります。徳島県に本部を構える社会福祉法人蓬莱会(ほうらいかい)の関東地方における初事業所です。

 

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2020年

8月

27日

ICFの視点から

実務者研修の4月木曜日クラスが修了しました。緊急事態宣言が延長される中でのスタートとなり、最初は不安な気持ちを抱えながら参加してくださった生徒さんもいたと思いますが、皆さん最後まで頑張って通い切ってくださいました。年齢も幅広く、ケアカレの卒業生さんを含め、なかなか個性的なメンバーのクラスでしたが、最後はとても仲良くなって、(あくまで比喩として)肩を組みながら卒業されていきました。最後の授業の際にいただいたメッセージボードは、なんとICFの図になっていて、さすが実務者研修の修了生らしい発想だと感心しました。クッキーからお手製のはがきまでいただき、ありがとうございます。

 

実務者研修では介護過程について学んでいただきます。介護過程は知れば知るほど、勉強すればするほど深くて、難しくなっていくのですが、その中にICF(国際生活機能分類)があります。ICFとはものすごく簡単に言うと、「その人のできないところばかりを見るのではなく、できることにフォーカスし、どうやったらさらに良くなる(できるようになる)のか」という介護者が持つべき視点のことです。私たち介護者や支援者は、高齢の方や障害を持つ方を前にすると、どうしてもできないことに目が行ってしまいます。あれもできない、これもできないとなり、気がつくと何もかもやってあげるという考え方に陥ってしまうのです。それはある意味において、自然なことなのかもしれません。

 

意識しなければ、私たちはそのような視点で世界を見てしまう動物である以上、意識付けというか、思考の仕組みが必要になってきます。放っておくと、私たちは他人のできないことばかりを探してしまうので、あえてICFというというある種の矯正ツールを用いることによって、視点の転換を行うことができるのです。これは湘南ケアカレッジでもテーマとしている教え方のサイクルと、考え方は似ていますね。まずはできていることを褒める・認めるところから始め、その後にできていないところを伝え、やってみせて、やってもらって、再度、褒め・認めというプロセスがあってこそ、本当の意味で相手に伝わるということです。このサイクルを意識して回すためには、まずは相手のできることを見なければならず、仕組みとして生徒さんの良いところを見つけられるということです。

 

 

実は、他者に対する見方というものは、自分に対する見方の鏡のような関係にあり、相手のできないこと(できていないこと)ばかりを見ていると、いつの間にか、自分に対しても同じようにできないこと(できていないこと)を見るようになってしまいます。稀に他者に対する視点と自分に対するそれが全く異なる人もいますが、ごく稀です(人間はそんなに器用ではないので)。ということは、ICF的な視点で他者を見ることができると、自分に対してもそうすることができ、自分の可能性も広げることができるということですね。湘南ケアカレッジの実務者研修を受けた卒業生さんたちには、ぜひICFの視点で世界を見て、自分の人生をも豊かに育てていってもらいたいと願います。

2020年

8月

22日

爪切りは誰がするべきか

先日、「ご利用者さんの爪切りは誰が担当するべきか」といったテーマで、介護職員と看護師の業務分担を話し合う機会がありました。

 

かれこれ6年ほど私が勤めているグループホームに、初めて看護師が入職したことから、業務分担の見直しが始まったのです。回覧用紙に記された介護職員の意見は、爪切りは看護師がするべき業務との声ばかりでした。

 

「体調・身体管理は看護師の業務だから、爪切りも看護師がするべき」

「切りづらい爪の人がいるから、看護師に切ってもらいたい」

「せっかく看護師がいるのなら、介護職ではなく看護師にやってもらいたい」

 

出揃った意見を後からまとめて見た私は、予想外の展開に思わず目を疑ってしまいました。ここでいうご利用者さんの爪切りとは、水虫や巻き爪などの病気ではない健康な爪の爪切りなので、もちろん介護職が行っても問題のない介護です。

 

続きは→【介護仕事百景】にて 

2020年

8月

17日

夏の読書感想文

今年の夏は、田舎に帰省することなく、いつもとは違った夏休みをすごしました。物心ついた頃から、お盆と正月には帰省していましたので、何とも不思議な気分です。どれだけ交通の便が良くなったとはいえ、岡山の津山に行って帰るには丸2日ぐらいはかかってしまいますし、向こうに行ったら行ったで妹の子どもたち3人が舌なめずりをして待ち構えていたりして(笑)、なかなか本を読む時間も取れなかったりします。たくさん本を読もうと仕込んで行っても、結局いつも1冊読めるか読めないか。あえて今年の夏の良かった点を挙げるとすれば、ゆっくりと本が読めたということぐらいでしょうか。介護とは違う分野の読書感想文として何か1冊、ブログに書こうと思っていましたが、せっかくなので全てを紹介したいと思います。

 

岡本太郎さんによる「自分の中に孤独を抱け」です。シリーズ前作となる「自分の中に毒を持て」は岡本太郎節が爆発している傑作であり、冒頭に書かれている『人生は積み重ねだと誰もが思っているようだ。僕は逆に、積み減らすべきだと思う』という一節に、若かりし頃、頭を殴られたような衝撃を受けたことを覚えています。岡本太郎さんがここ言わんとしていることは、今になってようやく分かってきた気がします。私の今までの短い人生経験を振り返ってみても、やはり最も生きる情熱やエネルギーがグッと湧いてきたのは、何もないゼロの状態から何かに挑戦して、ときには孤独になったり、現実にはねかえされたりして闘って、世の中が動いたときだと思います。己を捨てて孤独になって闘え、それこそが一瞬を生きることだ、挑みをやめた瞬間から老人になる、という岡本太郎節はこの本書にも通じています。今はこういう思想は流行らないのかもしれませんが、私は共感しかありません。いつだって人生ドキドキハラハラしている方が面白いですから。それから、本書の中にある、人間は氷河期に樹に上りそこなって猿になれなかった、というたえと話は絶妙です。まるで自分のことのように思えてなりませんでした。

 

茂木健一郎さんによる「クオリアと人工意識」は難解な本でした。実は私は茂木健一郎さんが有名になる前からのファンで、彼が東京芸大で教えている頃、もぐりの学生として授業を聴講しに行っていたぐらいです。その頃に著された「脳と創造性」という本は名著です。いつかケアカレナイトにお呼びしようと思っていましたが、今の状況では叶わぬ夢となりそうですね。その茂木先生が16年ぶりに自分で書いた本ということで(有名になってからライターさんが書いていた間の本はあまり面白くありません)、読んでみました。ちなみに、クオリアとは主観的な感覚のことで、たとえば赤い色の赤さがクオリアです。茂木さんは本書の中で、人工知能(AI)について踏み込んで考えていて、0と1からなる人工知能が人間を超えて発達していく中で、クオリアや人工意識のようなものを獲得できるのか(獲得できたように見えるようになるのか)という問いを論じています。私はこの本を読みながら、田舎に帰る途中、在来線の窓際に座り、目の前の小さなテーブルにはお茶が置いてあって、外には田畑が果てしなく広がっている風景をふと想像してしまいました。この感覚もクオリアなのですね。そう考えると、人工知能がどれだけ発達しても、獲得できたように見えるようにはなっても、実質的にクオリアや人工意識を獲得するのは難しいと思うに至りました。この本は、何回か読み返さなければ理解が深まらないタイプの本ですね。

 

「感染症利権」は、今の時代をより深く理解するために読んでみました。日本における検疫や公衆衛生の歴史、後藤新平や北里柴三郎といった人物らによる学閥、そしてペストやコレラといった感染症の大流行を知れたことは良かったのですが、どうしても著者は現安倍政権に対する偏見を持って今回のコロナ騒動も捉えているため、偏った面しか見えていないと思えてなりませんでした。今回のコロナ騒動がややこしいのは、こうした反安倍派の人たちが政権批判のために利用しようとしたり、メディアが公正な情報を伝えず視聴率を追い求めたり、専門医たちの利権や学閥、変なプライドために持説を展開したことで、科学や事実がずいぶんとねじ曲げられてしまっている中での民衆のパニックなので、もはや議論にならないのです。本書における、七三一部隊が行った人体感染実験の凄惨さ、結核やハンセン病患者たちの闘いの描写は見事で、医師たちは「命令」、「探求競争」、「利権」で動くという洞察も素晴らしいのですが、コロナ禍の現状認識がずれてしまっていることが分かってしまうと、読者としては白けてしまいます。

 

小林よりのりさんの「戦争論」はキンドルで読みました。広島・長崎への原爆投下や終戦記念日など、この時期は戦争について考えないわけにはいきませんね。小林よしのりさんは、日本人にとっての戦争というものを、誰よりも分かりやすく、正確に正しく伝えている思想家のひとりだと私は思います。教科書に載っているような歴史上の事実とされていることでさえ、目を逸らさずまっすぐに見ることで、これほどまでに解釈が違ってくることを教えてくれるのです。たとえば特攻隊を、英雄だと祭り上げられて無駄死にした若者たちと捉えるか、誤った道に進んでしまった民衆を救おうと己の命を賭けて戦争を終わらせようとした若者と考えるか。慰安婦問題や日本軍による大虐殺など、知らなければ済む話ですし、私も今まで歴史には興味がなかったのですが、今の日本を見るとなぜ戦争が2度も起こってしまったのか少し分かる気がするのです。小林よしのりさんのコロナ禍に対する評論も実に鋭く(「コロナ論」が近日発売されます)、それは彼が膨大な資料の山の中からみつけた事実を元に自分の頭で歴史を考えてきたからこそ、何が正しくて、何が愚劣かを見極めることができるからだと思います。

2020年

8月

12日

最前線で働く人たちへのリスペクトを

先日、ボディメカニクス講座の2級が開催されました。昨年からスタートして、今年で2年目になりますが、今回で100名近くの方が2級まで修了したことになります。来年には1級を開催し、ボディメカニクスの素晴らしさを人々に伝える(教える)ことができる人を養成していきたいと願います。今回のボディメカニクス講座には、介護職員初任者研修を5年前に卒業した生徒さんが来てくれて、「介護福祉士になりましたよ!」と遅ればせながら報告をしてくれました。

 

彼女は卒業してからすぐに有料ホームで働き始め、そのままずっと同じ施設で働き、一昨年、介護福祉士になったそうです。ケアカレに来たときは、(当然のことながら)介護については何も知らない、明るくてノリの良い女性でしたが、今や「介護は奥が深いですね」と深遠な言葉を発するほどに成長されました。ケアカレを卒業してから介護の仕事を続け、介護福祉士まで取り、新しい領域となる視覚障害者の支援を学びに来てくれたのは嬉しい限りです。しかし、「介護職員初任者研修の当時のクラスメイトはほとんど皆、介護の仕事を辞めてしまいましたよ」と寂しそうに教えてくれました。

 

LINEでつながっているクラスメイトたちの中で、彼女以外の全員が、5年経った今、介護の仕事から離れてしまっているということです。介護の一度も仕事をしなかったのではなく、一旦は介護の仕事をやってみたにもかかわらず続かなかった、別の仕事に移ってしまった。おそらく10名~15名に1人か2人しか5年続かない計算になります。これはかなり由々しき事態なのではないかと思う一方、それが現実なのかもしれないと感じます。どれだけ学校として介護の世界の素晴らしさを伝えても、介護現場に出てしまうと現実の壁にぶち当たって、理想は敗れてしまう。どれだけ多くの卒業生さんを育てても、まるでザルから抜け落ちるようにして、介護の仕事を辞めてしまうということです。このままですと、介護現場の人手不足はますます進んでしまいます。

 

お給料の低さや慢性的な人手不足による忙しさ、周りのスタッフとの人間関係など、一旦介護の仕事に就いた人が辞めてしまう理由は様々で、人それぞれなのだと思います。しかし、はっきりと言えることは、現場で最前線に立つ仕事は大変だということです。これは他のどの業種でも同じことですが、つまり対人援助職(接客業とは少し異なる)の肉体的、精神的な負担は私たちが想像する以上に大きいです。わずかな期間であれば続けられても、長く続けるためには、それだけのモチベーションや息抜き、目的や目標がなければならないのです。

 

 

そして何よりも、最前線で働く人たちに対するリスペクトが必要だと私は思います。現場から退いて、一歩外から関わっている人たちは、現場で働く人たちに対するリスペクトを忘れてはいけません。自分にはできないことをやってくれている人に対して、尊敬と感謝の気持ちを忘れない。それは長い目で見て、自分たちの住む世界をよりよくすることにつながっていくと信じています。

2020年

8月

07日

飛び跳ねる未来の支援者たち【つるかわ学園】

園庭に備え付けられた大きなトランポリンの上で自由に飛び跳ねる、彼ら彼女たちの元気な声が敷地中にこだまし、私を出迎えてくれました。

 

町田市真光寺にある「つるかわ学園」は、令和2年に創設60周年を迎えました。生活介護、施設入所、短期入所(ショートステイ)の3つのサービスを提供しています。生活介護とは、障害のある人が日中利用するサービスで、つるかわ学園では余暇活動やビーズ製品の制作、花壇の管理などを行っています。高齢者介護で言うと、デイサービスがイメージ的に近いかもしれません。

 

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2020年

8月

04日

前に進む

先月の七月七日、七夕の日。年々、背が高くなってゆく笹の木に生徒さんたちや先生方が短冊をつけてくれました。それぞれの願いを読んでみると、「介護福祉士に合格しますように」、「コロナがいなくなりますように」、「仕事が見つかりますように」など現実的なものが多く、ぜひとも叶いますようにと願います。

 

 

私自身も、今年は何を書こうかなと悩んだ挙句、やはりケアカレの七夕だから、いつもと同じあの願いにしようと思っていたところ、あの願いがすでにつり下げられていたのです!驚きと共に、とても嬉しく思いました。書いてくださった先生の顔を思い浮かべ、心の中で手を合わせました。ケアカレはそうした人たちの想いによって支えられて、ここまでやって来られたのです。

 

湘南ケアカレッジが開校して、今年で8年目になります。先生方と一緒に、いちからケアカレの文化やブランド(評判)を作り上げてきました。今年はコロナ禍の影響もあり、広告をほとんど出していないからこそ分かるのですが、生徒さんたちの多くは、「あそこの学校は良いよ」と知り合いの誰かに勧められて来てくれているのです。先生の授業や人柄、学校の雰囲気など、卒業生さんたちは自信を持ってケアカレを勧めやすいのだと思います。

 

そうした文化やブランドは、一朝一夕でできるものではなく、長い時間をかけてひとり一人の生徒さんたちと向き合って、積み重ねてできたものです。そしてこれからも、ケアカレを勧めてくれた卒業生さんのためにも、勧められて来てくれた新しい生徒さんのためにも、ケアカレに来て良かったと思ってもらえる学校でありたいと願います。

 

それと同時に、ここから先は、もう少し前に進まなければならないとも思いました。七夕の夜、医療的ケアの授業を終えた先生方とミーティングという名の打ち上げを行っていた中で、もしケアカレの教室を出すとして、教室長として赴任するとすればどこに行きたいか?という話題になりました。もちろん、ただそこに行きたいという希望だけではなく、その場所に介護・福祉教育の市場がなければなりません。

 

村井先生は北海道が良いと手を挙げてくれて、裕美先生は沖縄が好きだと言ってくれました。藤田先生は、現実的に錦糸町あたりは生徒さんが集まると思うと提案してくれました。私は立川あたりが次の一手かなと考えています(当初ケアカレは町田と八王子の2教室開校を予定していました)。半ば冗談ではありますが、未来に思いを馳せることは大切で、そうしたやり取りの中で、それぞれの嗜好性や人生に対する姿勢も垣間見えて面白かったです。

 

 

次の8年後のケアカレ、つまり16年目の私たちはどうなっているのでしょうか。町田校の文化やブランドはさらに積み上がっているでしょうし、初任者と実務者研修を合わせると卒業生はゆうに1万人を超しているはずです。もしかすると、新しい研修が生まれているかもしれませんし、先生方が日本各地の好きな場所で教室を構えて教えているかもしれませんし、ケアカレプロデュースの施設や事業所が立ち上がっているかもしれません。何をするにせよ、私たちは自分たちにしかできないことを、正しいやり方で行っていきたいと思います。

 

私の大好きな映画「インターステラ―」の中の名言のひとつに、「運動第3の法則。前に進むには、後ろに何かを置いていかなければならない」というセリフがあります。たしかにその通りなのですが、前に進むことで、後ろに置いていくものもありますが、一緒に付いてくるものもあるかもしれません。どのような形であれ、今から8年後には、今とは違った景色が見えることを私は願います。そうすることで、ケアカレが100年続く学校であることができるのではないでしょうか。

2020年

7月

25日

まずは褒め・認めから

3月末から学校がお休みになり、ようやく6月から本格的に再開されるまでの約2カ月間以上にわたって、お子さんがずっと家にいたことでストレスを感じた親は多かったのではないかと想像します。手伝いも勉強もせず、テレビやYouTubeを見たり、ゲームをしてばかりのいい加減な生活をしている我が子の姿を見て、つい小言を言ってみたり、厳しい口調で注意してしまったのは、私だけではないはずです(笑)。

 

 

どれだけ正しいことを言ってみても、左の耳から右耳に抜けてしまうようで、聞く耳を持たないことに苛立ちは増すばかり。そしてさらにきつく当たってしまう。そのような負のスパイラルが、どこの家庭でも繰り返されてきたのではないでしょうか。(子どもがずっと家にいるという)非日常的が日常になってしまうと、日常的にはできていたことができなくなってしまいます。私にとってそのひとつは、「まずは褒め・認めから入る」ことです。

「まずは褒め・認めから入る」とはどういうことかと言うと、何か(ネガティブなことや耳障りなこと)を相手に伝えたい場合は、いきなり本題から入るのではなく、相手にとって良いことや嬉しいことから伝えることです。なぜかというと、ネガティブなことをいきなり伝えると、相手はそれに対して心を閉ざしてしまい、肝心の内容が伝わらないからです。

 

これは私が子どもの教育に携わっていたときに学んだことですが、子どもたちは分かりやすいぐらいに褒め・認めから入らなければ、全く話を聞いてくれません。さらに次も悪いことを言われると構えてしまうので、その人に対して心を開くことはなくなります。自分の伝えたいことを伝えるのがコミュニケーションのひとつであるとすれば、「まずは褒め・認めから入る」はコミュニケーションの初歩ですね。物事には順番があるということです。

 

「まずは褒め・認めから入る」はあくまでもコミュニケーションの方法ですが、本質はそこにはありません。大切なことは、「まずは褒め・認めから入る」ためには、私たちは相手の良いところを見つけなければ(見なければ)ならないことです。他者の悪いことは目につきますし、自分のべき論が狭い人であればあるほど、相手に厳しくすることは簡単です。しかし、正しく伝えるためには、まずは褒め・認めから入らなければならないとすると、意外と難しい(自分は相手の悪いところしか見ていなかった)ことに気づくはずです。相手をどうこう言う前に、自分の視点を変えなければならないのです。

 

忘れないうちに今すぐ伝えなければならないと考えて、ズバッと言ってしまうと、実は伝わったように見えて何も伝わっていないのです。脊髄反射のように、思ったことをそのまま伝えてしまうと、子どもは心を閉ざしてしまいますし、大人はその場はやり過ごしてくれるかもしれませんが、裏でペロッと舌を出しているはずです。最も良くないことは、心を閉ざしてしまった人に対しては、相手の良いところも悪いところも伝えなくなってしまうのです。本音のコミュニケーションはしてくれなくなるということです。

 

 

言われているうちが花という言葉がありますが、あなたが誰からも何も言われなくなったのは、間違っていないわけでも正しいわけでもなく、感情的であると思われて、まともにコミュニケーションが取れない人だとあきらめられてしまったのかもしれません。私はそうなってしまうことが何よりも怖いので、まずは自分の子どもに対して、褒め・認めから入ることを改めて気をつけていきたいなと考えています。皆さんもご家庭や職場でぜひやってみてください。

2020年

7月

19日

不要不急って?

6月短期クラスには、音楽家が2人いました。ひとりはオーケストラなどでコントラバスを演奏している方、もう一人はバンドでギターを弾いている方。かつても歌手や楽器演奏など音楽をやっている生徒さんはたくさんいましたが、1クラスに2人も音楽活動を生業としている方が参加したことは初めてかもしれません。

 

コントラバスの生徒さんは、かつて高齢者施設でもボランティアとして演奏をしたことがあり、それもあって今のタイミングで介護について学んでみようと思ったそうです。自身が奏者として参加されたオーケストラのCDをいただき、拝聴してみたところ、とても心落ち着くものでした。私はクラシックには全く通じていませんが、自宅でBGMとして繰り返し聴きながら仕事をしています。ギターの生徒さんはSpotify(音楽アプリ)にも曲が入っているロックバンドで、こちらも聴いてみたところ、新しいタイプの音楽で演奏の完成度も高くて驚きました。

 

今、新型コロナウイルス禍の中にあって、音楽家だけではなく、役者さんや芸能人、モデルさんなどのアーティストからスポーツ選手に至るまで、私たちの生活を彩る仕事をしていた人々の活躍の場が脅かされています。飲食業や宿泊業などに比べても、いわゆる不要不急の度合いは高いため、最も長い期間にわたって影響を受ける業界や職種のひとつではないでしょうか。自分がもしそうした仕事をしていたらと想像するだけで、複雑な思いになりますし、背筋が凍るような気がします。緊急事態宣言中は、医療関係者やスーパーやコンビニで働く人たち、ごみ回収業者の人たちなど、いわゆる不要不急ではない仕事をするエッセンシャルワーカーがもてはやされましたが、まるで光と影のように、アーティストやスポーツ選手は不遇を強いられようとしています。

 

コロナウイルスの全貌が少しずつ見え始めてきて、日本における状況もはっきりとしてきた今、それでもなおイベントの開催を抑止する力が働いていることが不思議です。アメリカやブラジルやインドの感染拡大国でのイベントではなく、日本国内であれば、開催したい人は開催して、参加したい人が参加すれば良いのです。周りの人たちへの影響を考えろという声も出てくると思いますが、それを言い出したら、これからも金輪際イベントは開催できませんし、これまでも本当はすべきではなかったはずです。誰を何から守っているのか分かりませんが、不要不急こそが人間らしさの象徴であり、できる限り早く取り戻していくべきものだと思います。そして同時に、不要不急を決めつけて、それを避けるように人間の行動や移動の自由を制限するのもやめましょう。たとえ医療関係者や介護福祉関係者であっても、彼ら彼女たちはその前に人間です。不要不急でないものも重要ですが、同時に不要不急こそ私たちが生きていく上で大切なものです。

 

それは若者であっても、高齢者でも障害のある方でも同じですね。不要不急なものを奪っていくと、その行き着く先は、施設に閉じ込められ、車椅子に座らされ、経管栄養につながれ、移動や行動の自由を奪われて生かされる日常です。それは私たちの未来でもあるのです。アーティストやスポーツ選手は、なんとか生き延びて、不遇の時代を自身の力に変えて、これまでよりもさらに高い文化や熱狂を生む活動をしてくれるはずと信じていますが、まずは私たちが不要不急の先にはそこで生きている人たちがいること、そしてゼロリスクを求めて不要不急を排除していくと、未来の自分の首を締めてしまうことにつながることに気づいてもらいたいと願います。

2020年

7月

14日

「学校に行きたくない君へ」

「学校に行きたくないという子どもに対して何を伝えるか」をテーマとして、「不登校新聞」を制作・発行している人たちが、自分の会いたい人に会いに行って聞いたインタビュー集です。基本的には、行きたくないなら行かなくてもいいし、あなたが考えているほど学校に行かないことは問題ではないから心配しなくていいよというメッセージが詰まっています。学校という空間や時間の外には、子どもの頃には想像もつかなかった広大な世界が広がっていることを、著名人たちがそれぞれの体験を通して語ってくれています。個人的には、樹木希林さんの「誰かのことを嫌だと思っても、それは自分にとって難がある存在として受け入れてみてもらいたい」という考え方は奥が深く、また西原理恵子さんの「理想よりも明日の飯を食うことに一生懸命になった方がいい」という現実志向は清々しく感じられました。

 

私は学校に行くか行かないかという選択に悩んだことはありません。学校が好きだったわけではなく、決して常に人間関係が良好だったわけでもありません。多かれ少なかれいじめられたこともあれば、授業が退屈だったり、部活に行くのが辛かったことも数えきれないほどありました。それでも不思議と、学校に行かないという発想には至らなかったのです。当時の私にとっては、学校に行かないという選択肢すらなかったのでしょう。それに比べると、学校に行かない選択肢があることは良いことです。大人になって、ずっと同じ会社で一生を過ごす時代ではなく、転職も当たり前になったように、置かれた場所で咲けない場合は、別の可能性を探してみるのも大切なことですね。

 

学校に行かなかった期間は、あとから見ると最高の学びの時間になると思います。どこにも所属せず、自分自身と向き合った日々は、私たちの人生に奥行きと彩りを与えてくれます。日本人は履歴書に空白があることを極度に恐れ、どこかに所属して、何らかの身分や立場を与えられていないと不安で生きていけません。学生でもなく、定職に就いてもおらず、家庭を持っているわけでもない孤独な状態ほど、心細く自信がなくて、だからこそ時間を忘れて必死に学ぶ時代になるのです。そういう貴重な時間を得られるという意味においては、学校に行かずに学ぶという選択肢は大賛成です。

 

 

とはいえ、もし自分の子どもが「学校に行きたくない」と言ってきたとしたら、なるべく行ってもらいたいと願い、その方向で話をすると思います。それが親としての本音です。それは体面上ということではなく、自分がそうしてきたからというわけでもありません。なぜ子どもがそう思うのか詳しく話を聞きたいですし、相談にも乗りたいし、何らかの助けになれたらと思います。むしろレールから外れる選択をするのは賛成こそすれ、反対する理由はありません。それでも最終的には、学校に行くという選択をしてもらいたいのはなぜでしょうか。レールから外れることを怖れているのは、子どもよりもむしろ親なのかもしれません。親心は裏腹ですね。

2020年

7月

10日

介護職のための「事実」から状況を把握する考え方

先月のブログを読んだ卒業生さんから、「町田という地域や感染者の推移を踏まえて安全だと判断したと書いていましたが、どういう意味ですか?」という質問をいただきました。たしかに、そのような情報はテレビでも新聞でも発信されておらず、世の中にはコロナは怖い、危険だというイメージが溢れているばかり。卒業生さんだけではなく、私の妻も感染はまだ拡大していると思っているようですし、子どもに至っては先生や周りの大人の言うことを真に受けるしかないため、家にいるとき以外は屋外でもマスクをしなければならないと中学生なりに怯えています。ちなみに、北海道の友人と電話で話したところ、「東京ではコロナでバタバタ死んだ人たちが道端に横たわっているイメージがある」と言っていました(笑)。

 

 

*この文章は6月20日頃に先生宛に送った手紙であり、状況や数字は刻々と変わっても、基本的な考え方自体は変わりませんので、データ等はそのまま掲載しておきます。今の状況を把握するためには、今の数字を使って自分で考えてください。

 

今回の日本におけるコロナ禍に関しては、情報災害(インフォデミック)であるところが大きいと思います。恐怖感に襲われると、思い込みが激しくなるのは人間の避けられない習性であり、視聴者が観たい情報を誇大に提供するのがマスコミの役割だとしても、せめて専門家ぐらいは冷静に対応して、事実に基づく情報を発信してもらいたかったと残念に思います(もちろんそうしてくれた専門家も少数ですがいました)。一般の人たちが危険を察知していないときには「危ないよ」と警鐘を鳴らし、一般の人たちが過剰に恐れてパニックになっているときには「大丈夫だよ。冷静に」と落ち着かせるのが、専門家の役割だと私は思います。

 

さて、感染症対策は冷静な専門家に任せるとして、私たちが市民として、または介護職として知っておくべきなのは、今どういう状況にあるのかということです。世の中の空気感とかテレビでそう言っているというレベルではなく、事実に基づかなければいけません。このことに関しては、「FACTFULNESS(ファクトフルネス)」という昨年に発売されてミリオンセラーになった本にも詳しく書いてあります。

 

著者のハンス・ロスリング氏は医師・公衆衛生学者として、エボラウイルスなどの対策に関わってきた経験や失敗から、いかに私たちが思い込みによって間違った認識や誤った判断をしてしまうかを痛感したそうです。それらは社会にとって不利益になるだけではなく、時として人の命をも失わせてしまうと感じ、事実に基づく世の中の見方を伝えることをライフワークに活動しました。興味のある方は、ケアカレ図書館で借りて読んでみてください(読みやすいですし、今の時代における必読本ですよ)。

ここでひとつ目の質問です(FACTFULNESS(ファクトフルネス)っぽく)。

 

問1 日本における新型コロナウイルスの感染状況は、

1 いまだに拡大し続けている

2 落ち着いてきている(ほとんど収束している)

3 そもそも最初から広まっていない(終息していた)

 

 

まずは世界各国の新型コロナウイルスの感染者数の累積データ(6月20日時点)を見てください。感染者数の上位10か国に中国と日本を加えた、外務省のデータです。

アメリカはあれだけ強いロックダウンを長期間にわたって行ったにもかかわらず、感染者数の増加に歯止めがかかっていませんし(人種差別抗議デモの前も後も)、南米のブラジルやペルーも増加中です。中国は武漢でのパンデミック時にやや増加しましたが、それ以降は収束していることが分かります。

 

 

このようなグラフを見るとき、重要なことは「横軸と縦軸の目盛りが等しい間隔になっているか」ということです。ワイドショーなどで用いられるグラフは、わざとあることを伝えたい(騙すという言い方もできます)ばかりに、目盛りを操作していることが多く、頭痛がすることがあります(笑)。上のグラフを見てもらうと、縦軸の目盛りも20万人ごとで等間隔になっていますし、横軸の日付も1週間ごとですね。

たとえば、上のようなグラフは意図的な操作が入っています。縦軸を見てもらうと、1目盛りが600人、6000人、6万人、と等しくなく、あたかも日本も他の国々とほぼ同様に感染拡大しているように映ります。

 

続いて、上位21から35位までに韓国と日本を加えた、最近の2週間のデータ(6月20日時点)です。

上位20位以下の国になってくると、中国、韓国、日本以外の国は微増傾向というところでしょうか。

 

これはあくまでも世界各国を比べたものであり、比較することも大切なのですが、それぞれに人口の多さが異なることも忘れてはいけません。たとえば、中国は人口が14億人であり、インドは13億人と日本の10倍以上、アメリカは3億3000万人と日本の3倍近いです。人口が多ければ、それだけ感染者数も多いのは当然で、単純に感染者数の比較だけでは意味がありません。

 

数字を見たり、比較したりするときには、必ず「分母」を入れなければいけません。そうしないと、妙に数字が大きく見えたり、逆に小さく見えてしまったりする錯覚が起こってしまうのです。たとえば、同じ39人でも、100人中の39人だとずいぶん多いのですが、1000万人中の39人だとかなり少ないということになります。「分母を入れる」ことで事実を正しく認識することができるようになります。

 

 

それでは、その国の人口を分母にした(1万人あたりの)感染者数データを見てみましょう(6月20日時点)。

1万人あたりの感染者データとしては、カタールの315人がダントツですが、アメリカも66人と多いですね。おおざっぱに言うと、アメリカでは100人に1人(1%)が感染しそうになっているので、近所に数名の感染者がいたり、知り合いや友人に感染者が出てきたりという状況です。医療機関や介護施設だけではなく、市中にも感染が広まったということです。日本は1人と、1万人に1人(0.01%)なので、いわゆる万が一という程度の感染状況です。風の噂では聞くことはあっても、身の回りの知り合いに感染者を見つけるのは難しいという感じですね。

 

日本はPCR検査を積極的に行っていないから、感染者数は正確ではないと思われる方は、同じことを死亡者数で行ってみても、ほとんど同じような結果が得られます。まれに感染者数に対して異常に死者数が多い国(ベルギーなど)もありますが、日本は人口比の感染者数も死者数も極めて少ない国です。

 

ここまでくると、世界の国々と比べても仕方ないという声もチラホラと聞こえてきます。そう、世界は広いですし、うちはうちでよそはよそ(笑)、ウイルスは国を選ばないとはいっても、もう少し焦点を絞って日本だけを見てみましょう。

 

続いて2つめの問題です。

 

問2 

東京や神奈川などの首都圏における新型コロナウイルスは、

1 いまだに拡大し続けている

2 落ち着いてきている(ほとんど収束している)

 

3 そもそも最初から広まっていない(終息していた)

 

まずは日本における1日の感染者数の推移グラフ(6月19日時点)を見てみましょう。見事な山なりの形をしていますね。ちなみに、これは感染者数の累積(足していったもの)グラフではありません。累積にすると右肩上がりになるのは当然で、あたかも感染が拡大しているように見えます(下の赤線グラフのように)。

 

続いて、日本全国の中でも最も感染者が多い東京都の感染者推移データです。

6月中旬あたりから、やや感染者数が上昇傾向にあるように見えますが、半分以上は夜の街で検査を行ったことによる感染者の増加であり(偽陽性含む)、その他医療機関の院内感染を除くと、ほとんど増加傾向はないと考えてよいはずです。つまり、日本全国だけではなく、東京も同じく山なりのグラフを描いているということです。とはいえ、感染経路不明が15人と聞くと、自分の周りにもいるのではと感じるかもしれませんが、東京都の人口は1300万人ですから、「分母」を入れて考えると15/13000000、およそ1日100万人に1人が感染する現状ということです。

 

100万人に1人というとイメージしづらいと思いますが、満員の東京ドーム(5万5000人収容)が20個あって、その中の1名が感染するという確率です。余計に分かりにくいですかね。ちなみに、東京都で1日の感染者数が最も多かったときでも200人程度でしたので、200/13000000、約6万5000人に1人の感染者という感じです。満席の東京ドームにひとりいるかいないかでした。

 

もう少し解像度を上げて、東京都の区市町村別(各区や市町村が発表したもの)感染者数のデータを見てみましょう。

圧倒的に多いのは新宿区と世田谷区ですかね。院内感染が起こった病院のある区は数字が跳ね上がっています(院内感染は防ぎようがないのだと思います)。これも分母を入れて考えてみると、さらに詳しく見えてきます。新宿区の人口は33万人、世田谷区は93万人、町田市は43万人が分母です。かなり多く見える新宿区でさえ531/330000ですから、0.16%、トータルで500人に1人いないぐらい。ちなみに町田市は現在55名ですから、55/4300000.001%、1万人に1人ぐらいですね。

 

 

新宿区、世田谷区を中心として、その周辺の地域にも感染者が拡がっていることが分かります。ただこれだけ多くの地域に住む人々が通勤や通学で都心へと移動しているにもかかわらず、都心から少しでも離れると感染は広がっていないとも解釈できますね。

 

最近の状況を見てみると、新宿区が90名と突出していますが、これは前述したように夜の街関係ですね。町田は1週間で1人となっています。逆にこれだけ少ないと、その1名は誰だ、公表しろと言う人が出てきそうで心配です。最近、相模原市の小学生が感染者となり、学校が休校になって、消毒したとのことで、そこまで大げさにするべきなのかと思いつつ、その子が可哀想でなりません。誰だって感染する可能性はあるのだから、いちいち差別せずに受け入れようよと思います(笑)。

神奈川県にお住まいの先生方や生徒さんたちも多いので、簡単に見ておくと、東京都よりも状況は圧倒的に良いです。人口比でいうと、相模原市(70万人)は町田よりも良くて、横浜市(372万人)と川崎市(147万人)は町田よりもやや悪いのですが、それでも1万人に1人レベルです。

特に6月に入ってからは神奈川県全域で感染者数が0~5名を推移しています。これでは市中には私たちが感染するレベルのウイルス量が(今は)存在しないと考える方が自然ですし、むしろ感染する方が難しいのではないでしょうか。

 

最後におさらいをしておくと、事実に基づいて世界を見るためには、まずは「比較してみる」、その際に用いるデータのグラフは「目盛りは等間隔」であることが前提で、さらに数字単体ではなく、「分母」を入れることが大切です。

 

 

決してコロナによる953名の死者(6月20日時点)が少ないということではなく、1人ひとりの命に想いをはせつつも、世の中にはたくさんの人たちが住んでいて、日本では毎年100万人以上の方々が亡くなっており、それはつまり(目に見えないだけで)1日3000名以上ががんや肺炎や心疾患、不慮の事故(交通事故など)など何らかの病気や事故で死んでいることも忘れてはいけません。事実に基づいた見かたができるだけで、生と死を上手に受け止め、安全とリスクを適切に扱うことができるのではないでしょうか。

 

結局のところ何が言いたいのかというと、コロナは日本では大したことないとか、町田ではもう大丈夫だということではなく、事実に基づいて世の中を見ることで少し安心しませんか、ということです。テレビやスマホばかり見ていると不安を煽られてしまうかもしれませんが、事実やデータをきちんと把握することでバランス良く世界が見えてきます。そうすることで、必要以上に怖れることも、ストレスを感じることもなく、心穏やかで平和な暮らしが送れるのです。そしてこの先、万が一、本当に危険な状況になりそうなときには察知することができ、それに見合った対策やリスクコミュニケーションもできるのではないでしょうか。介護という専門職に携わる人たちには、そうあってほしいと私は思います。

2020年

7月

05日

快刺激を意識する

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

初任者研修の医学の授業を、6年ぶりに聴講させてもらいました。昼食後の眠気に誘われて万が一にも眠ってしまったら笑いごとでは済まないと、妙な緊張感のなか臨みましたが、見事杞憂に終わりました。

 

6年前に初任者研修を受講させてもらったので、今回は2度目の医学の授業だったにも関わらず、「この話、聞いたことがある気がするけれど面白い」とついひとつ残らず聞きたくなり、藤田先生のテンポの良い話し方も相まって、本当に1日があっという間でした。

 

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2020年

7月

01日

ひとり一人と話したい

2人の卒業生さんが教室に遊びにきてくれました。遊びになんていうと今の状況では語弊があるかもしれませんので、話しに来てくれました。おふたりは介護職員初任者研修のクラスこそ違いましたが、実務者研修で知り合い、介護福祉士筆記試験対策講座を一緒に受け、見事に合格して、介護福祉士になった報告を兼ねて来てくださいました。ケアカレも今年で8年目を迎え、卒業生さんも3000名を超えると、昔の生徒さんと最近の生徒さんの時間差が分からなくなっていきます。今回足を運んでくださったひとりは何と6年前、もうひとりは5年前の卒業生さんでした。もうそんなに時間が経ったのだという驚きと、それでも変わらないお二人の人柄と私たちの関係性に安心もしました。

 

Mさんはデイサービスを経て、7月から老健で働くことになったそうです。「だんだんと大変な仕事を選んでいるのは分かっているのですが」という言葉に、介護福祉士になって、ステップアップしたいという気持ちが伝わってきました。彼女の素晴らしい人間性があれば、どこに行っても仕事にも馴染んで、周りの人々に良い影響を与える介護福祉士になってくれるはずです。介護福祉士というのは知識、技術を持った国家資格保持者ということだけではなく、介護の仕事において関わる人たちにとって、模範というか素敵だなと思われる存在でなければならないと思います。とても難しいことですが、専門性と人間性を両方とも高めなければならないのです。

 

もうひとりのMさん(どちらもMさんでした!)は、今取り組んでいる訪問介護が合っているそうです。かつて施設で働いていたときは、次から次へと作業に追われてしまい、どうしても利用者さんとゆっくり話す時間が取れなかったのが心苦しかったけれど、訪問介護はやるべきことをきっちり終わらせれば、その後、利用者さんと少しでも話せる時間がつくれるのが良いとのこと。利用者さんもMさんと話す時間を楽しみにしてくれているそうです。そういう意味で、自分の裁量が大きいのが訪問介護の良さですが、中には自分のやりたいようにやったり、やらなかったり、時には自分が母親のようになって利用者さんを支配してしまったりと歯止めが利かなくなるのも訪問介護の怖さでもありますね。自分の介護を客観的に見ることができないといけないということです。

 

 

コロナ禍におけるデイサービスや訪問介護の実態やお子さんの学校の問題、介護福祉士試験のことなど、話題は尽きず、気がつくと随分と長く話してしまいました。やはりこうして卒業生さんたちと、学校を一旦離れて、ひとりの人間同士として話ができると楽しいなと素直に思います。介護の仕事にたずさわる人々は、皆優しくて、人のためにという献身的なところがあり、気持ちが良い人ばかりです。学校や研修という枠の中だけでは知り得なかった人柄や人間性に触れることは、この仕事をやっていて良かったと思える瞬間でもあります。そして、3000名を超える卒業生さん一人ひとりと、このような時間を過ごすことができたら、私の人生はもっと豊かになるのになと心から思うのです。まずは話しをすることから始めようと思います。

2020年

6月

27日

「従来型」と「ユニット型」、あなたはどっち?

「特別養護老人ホームで働きたいのですが、ユニット型と従来型は何が違うのですか?」

 

多くの種類がある介護サービスの中から特別養護老人ホームだけに絞っても、ユニット型と従来型とでは別物と考えた方が良いほどの違いがあります。正しく違いを知ることで、本当に自分に合った働き方ができる職場が見つかるはずです。

 

まず、特別養護老人ホーム(以下、特養)には原則として要介護3以上の方が暮らしています。ターミナルケア(終末期ケア・看取り介護)を行っている施設も増えてきており、終の住処とも呼ばれています。多くの施設が入所定員100名前後となっており、町田市内で23か所、相模原市で38か所あります。(令和26月現在)

施設の建物のつくりの違い

従来型特養とユニット型特養の一番分かりやすい違いは、入居者さんが暮らすエリアのつくりです。

 

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2020年

6月

21日

日常生活を取り戻そう

湘南ケアカレッジは、5月7日より研修を再開させてもらいました。開催してほしいという生徒さんや施設・事業所からのニーズが強かったこと、そして町田という地域や感染者数の推移を踏まえて安全であると判断したからこその再開です。今回、5月の再開前に話をさせてもらう中で、ほとんどの先生方が「せっかく授業をするからには、しっかりと学んでもらいたい」と言ってくださって嬉しかったです。

 

全くグループワークをしない、人と接する実技は避ける(デモンストレーションのみ)という対応を取る学校もある中で、授業をやるからには(感染症対策をしながら)学ぶべきことは学んでほしいと先生方も想ってくれていることに救いを感じました。何もせずに現場に出たときに困るのは生徒さんであり、実際の現場では人と接しないわけにはいかないですものね。

 

湘南ケアカレッジは資格を売る学校ではなく、介護・福祉教育を提供する学校ですので、教えるべきことを教えないのは自分で自分を否定することになってしまいます。研修を行う以上は、湘南ケアカレッジに来て良かったと思ってもらえる授業を提供したいと考えています。

 

さて、ここからが本題ですが、緊急事態宣言が解除されたのちは、できるだけ早く日常生活を取り戻していかなければいけません。不安や心配もありますし、人によってその程度は異なるのもたしかですが、過度に恐れることなく、今までどおりの普通の暮らしを送ろうとする意識が大切だと思うのです。若い人たちからで良いと思います。普通に仕事をして、普通にご飯を食べて、普通に余暇を楽しみ、普通に会話をする。

 

なぜかというと、私たちが全体として怖がりすぎてしまうことで、社会が委縮し、それが回り回って身近な人たちを苦しめることにつながるからです。介護や医療の仕事自体はなくなることはありませんが、それ以外の仕事はどうでしょうか。肉体としての死は免れたとしても、経済的な死や社会的な死もあるはずです。

 

第2波は、実は経済的な波なのではないかと考えています。東日本大震災のときに、地震そのものよりも、あとからやって来た津波の方が被害は大きかったように、新型コロナウイルスよりも経済的な停滞もしくは不況の方が恐ろしいかもしれません。大きな波であればあるほど、時間差があってやってくるものですし、長きにわたって社会を飲み込むからです。

 

私の義弟(妹の夫)が六本木に日本料理屋を2年前にオープンしましたが、ここ数カ月、お客さんはほとんどいない状況であり、いつまでこの状況が続くのか、客足が戻ってくるのはいつになるのか分からないそうです。彼は20年にわたる厳しい修行期間を経て、勇気を持って自分のお店をオープンし、最高の日本料理を提供してきたのを知っているだけに残念でなりません。

 

 

私たち一人ひとりがゼロリスクを求めすぎて、社会全体としての空気がそうなった場合に、それは巡り巡って、(幸いにして自分の仕事がなくならなかったとしても)身近な人たちの首を締めてしまうことになりかねないのです。緩んでいると言われて自粛警察に批判されるかもしれませんが(笑)、日常生活を取り戻そうとすることは周りの人たちを助けることにもなるのです。

2020年

6月

17日

好きは偉大

先日、お付き合いのある事業所様からの依頼で、「統合失調症」をテーマに研修を行いました。現状でもそうですが、これの先さらに統合失調症は介護職員にとっても知っておくべき障害のひとつになるはずです。精神科医療の歴史から、精神を病む人の治療を取り巻く環境、人のこころの構造、精神疾患の理解まで、3時間という短い時間でしたが、藤田先生がコンパクトで中身の濃い授業をしてくれました。私も動画撮影のため、最初から最後まで聴講させてもらいました。べてるの家から始まり、もともと興味のある分野でしたので、とても興味深く、勉強させてもらいました。

 

授業の合間で、「自分のストレス解消方法を1分間で30個書いてみよう!」というストレススコーピングのワークを生徒さんたちに課していました。実際に私も取り組んでみたのですが、ほとんど書けませんでした。寝ること、美味しいものを食べること、犬の散歩に行くこと、ネットサーフィンをすること、映画を観ること、競馬を観戦することなど、6個ぐらいしか書けません。もちろん、ストレスを解消する方法は多ければ多いほど良く、ストレスを受けやすいかどうかはさておき、私はストレスをためやすいタイプなのかもしれないと思いました。書ける人は30個ぐらいは簡単だそうですから、皆さんもぜひ書き出してみてもらうと、自分がストレスをためやすいタイプかそうでないのか分かるはずです。

 

このストレスコーピングのワークを終えて、ふと思ったのは、かつて藤田先生が知的障害者ガイドヘルパー養成研修で行った「自分の好きなものを挙げて自己紹介してください」というアイスブレイクと似ているということです。生徒さんそれぞれの好きなものを挙げて、自己紹介してもらうと、高尾山の麓で冷蔵庫を使わない生活をしている、「ゆうれい会社道連れ」というインディーズバンド、華道、茶道、アマゾンを使った便利な生活、田舎の風景、イチゴのショートケーキ、生春巻き、トランペット、パフューム、保育園、人と接することが好き、福祉、洗濯物をたたむ、小学生の放課後支援、ワンボックスでドライブ、チワワ、ジャニーズ、グランベリーモール南町田、猫、大阪弁、トールペイント、海老名の図書館、神木隆之介、韓流ドラマ、南こうせつ、川釣り、ジェットスキーなどなど、まさに十人十色。たくさんの自分の世界にはない「好き」がポンポンと出てきました。

 

私も生徒さんたちと一緒になって挙げてみたところ、先ほどのストレス解消法と重なるのですが、まずは競馬(これは語り始めると止まらないので語りません)、ビリヤード(学生の頃にアメリカに行って修行するぐらいはまりました)、映画鑑賞(「ショーシャンクの空に」、「アバウトタイム」、「あん」、「アマデウス」、「ファイトクラブ」など挙げていくと100を超える好きな映画があります)、読書(ビジネス書から教養本、小説まで読みますが、おすすめの1冊は星野道夫さんの「旅をする木」)、音楽はサーフミュージック(DefTechなど)やジャズ(セロニアスモンクのピアノ)、それから野球を小さい頃ずっとやっていました。美味しいものを食べることが好きになったのは最近の話で、290円ののり弁も好きです。旅行をするのも好きでオーロラを見に行くのが夢。ストレス解消法と考えると難しかったのですが、自分の好きを書き出すのは楽しいですね。

 

 

このアイスブレイクは、好きなものはたくさん挙げられる、皆の前で話せる、他者に興味が湧く(興味を持ってもらえる)、誰かの話を聞くときに目線を合わせているなどを実体験してもらうためでした。冒頭のストレス解消法とも好きは重なっており、好きなものが多くあればあるほど、他者とのコミュニケーションも上手く行き、ストレスから自分を守ることもできるということなのでしょう。そう考えると、好きは偉大ですね。

2020年

6月

12日

できることをする

正月明けごろ施設・事業所の採用担当者さんと話していると、インフルエンザが今年はあまり流行っていないと耳にし、少しほっとしていたのが随分と前のことのように思えます。それから、新型コロナウィルスのニュースが瞬く間に広がり、楽観的な私も介護・福祉の仕事はこれからどう変わっていってしまうのだろうかと漠然とした不安を感じていました。

 

私が支援員として働いている障害者の方が暮らすグループホームも、徐々にその影に飲み込まれていました。ご利用者さんが楽しみにしている土日のガイドヘルパーが中止となり、ついで平日の日中を過ごす通所も休業。行き場がなくなったご利用者さんは、グループホームで24時間過ごすことになっていました。それはこれまで何十年とかけて裾野を広げてきた日常が、小さく小さく織り畳まれていっているようで、窓の外を物欲しげに見ているご利用者さんの後ろ姿に切なさもこみあげました。

 

また、グループホーム内でマスクを常時着用しての支援は、とにかく表情が伝わりづらく、目の細い私は少し顔の緊張を解こうものなら「怒っているの?」とご利用者さんから心配される始末。マスクで口元が隠れるだけで、表情の受け止め方はそれほど変わるのかと、反省しました。

 

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2020年

6月

07日

心が分断されないように

「自分が感染しているかもと考えて行動を」というメッセージは、裏を返すと「他者は誰もが感染源である(自分が感染させられるかもしれない)」という意味でもあります。両者はセットであり、最初は善意で始まった行動が、いつの間にか他者への不信へとつながっていくのだから不思議です。コロナ騒動のおかげで、本来は過剰であった生産や労働が減り、環境に優しい社会に変化していくことは望ましいのですが、人と人の心が分断されてしまうことはできる限り避けたいものです。

 

何よりも怖いのは、政治家やメディア、専門家に煽られて、人々が不安や恐怖に巻き込まれすぎるあまり、偏見を増長し、差別が起こってしまうことでしょうか。今から70年ほど前、ハンセン病が流行したとき、不治の恐ろしい伝染病とみなされ、患者は偏見の目で見られたばかりではなく、強制的に隔離された歴史があります。結核もそうでしたし、最近ですと東日本大震災の放射能とも似たところがありました。時代が違っても、同じようなことは、見えない病気である新型コロナウイルスでも起こり得ます。

 

 

自分以外の他者を不潔な存在としてみなしてしまう過剰さゆえに、外国人というだけで拒否をしたり、くしゃみや咳をしただけで白い目で見られたり、たまたま感染してしまった人を加害者とみなしたりすることはすでに起こっています。誰もが普通に暮らしていれば感染してしまう可能性はあるのです。明日は我が身かもしれません。もしそうなってしまったとき、あなたはどう思うのでしょうか。私たちにできることは、正しい知識と事実に基づく適切な予防策や判断の上で、ウイルスや感染者たちを受け入れることでしょう(もちろん医療的な一定期間の隔離は必要です)。

 

今年のアカデミー賞で外国語映画として初の作品賞に輝いた「パラサイト―半地下の家族」のポン・ジュノ監督は、

 

実際のウイルスや細菌が体内に入るという恐怖以上に、人間の心理が作り出す不安や恐怖の方が大きい。心理的な不安や恐怖に巻き込まれ過ぎると、災害を克服することが難しくなる。今は実際にウイルスが存在しているわけだが、このウイルスをあまり恐れすぎて、過度に反応したりすれば、もっと恐ろしいことが起きる。そこに国家的、人種的な偏見を加えてしまうと、より恐ろしいことが起きる」

 

と述べたそうです。「パラサイト―半地下の家族」は面白くて示唆に富んだ素晴らしい映画でしたが、監督のこのコメントもまた素晴らしいですね。

 

 

無知ゆえの心理的な分断が起こってしまうことこそ、私たちは意識して防がなければならないのです。心の分断を防ぐためには、正しい知識を得ること、自分の頭で考えること、情報の海に溺れないこと、他者を信頼すること、自分のべき論に捉われないことです。介護にたずさわる私たちは、特に感染症に関してきちんと学ぶことは大事です。ウイルスは今年で終息するというよりも、来年も再来年もこの先ずっと続いていくものです。だからこそ、ウイルスによって人々が分断されることなく、ウイルスと共存して生きていく社会を、私たちはつくっていかなければならないのです。

2020年

6月

02日

お給料は月収ではなく、年収で比べることをオススメする理由

「同じ地域にある施設でも、月給が20万円ほどから30万円を超えるところまで、なぜ大きな差があるのですか?」

 

仕事探しをしている生徒さんが大手求人誌や求人サイトを見て、不思議そうに質問をしてくれました。この質問は多くの方から過去にも受けたことがあります。介護・福祉の仕事を探す際に給与の全体構造を知っておくと、結果に納得できる就職へと一歩近づけるはずです。

 

 

介護・福祉の仕事と一言で言っても、サービスの種類や勤務時間、ご利用者さんの様子(障害・病気の状態)もさまざまです。サービスの種類が違うのであれば、例えばデイサービスと特別養護老人ホームの給料が異なることは腑に落ちます。しかし、同じサービスである特別養護老人ホームとすぐ近くにある特別養護老人ホームのお給料に開きがあることには疑問が浮かぶはずです。

 

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2020年

5月

25日

そっくりそのまま自分に返ってくる

昨年末、今年72歳で介護福祉士に合格された卒業生さんが、菓子折りを持って、遊びに来てくれました。あらかじめお電話をいただいていたので、一緒にランチをすることに。介護の現場のことやあと数年で定年になってしまうこと、亡くなった奥さまのこと、若かったときのことなど、近くのネパール料理屋で舌鼓を打ちながら話してくれました。私よりもウン十年も長く生きている大先輩が何を考え、何を思うのか、私は昔から年長者の話に耳を傾けることが好きでした。自分にとっては未知の領域だけに、最後は想像するしかないのですが、すでに経験をされている人たちの言葉には重みがありますよね。

 

「40ぐらいから、あっという間だったな。若い頃は、何だよジジイって思っていたけど、今は自分がそのジジイになっちゃった(笑)」と彼は軽快につぶやきました。保坂和志さんという作家による、「三十歳までなんか生きるなと思っていた」というエッセイがあります。若い頃は心のどこかで年長者を拒絶する自分がいて、自分はあんな大人にはなりたくないと思っていたけれど、いつの間にか自分も当たり前に30歳を超えてそんな大人になっていた。しかし最後には、「歳をとってみっともない姿になって生きていることを「凄いんじゃないか」と、いよいよ自覚的に考えるようになった」とも保坂さんは書きました。

 

若いときには若いときの、年を重ねたら重ねたときの、それぞれの想いがあるのだと思います。人間誰しもが、半ばで息絶えない限り、どちらの気持ちも体験するのです。過去と現在、そして未来はつながっていて、ぐるぐると回っている。他人の現在であって、自分の未来ではないと思っていたものが、いつのまにか自分の未来となり現在となる。自分はいつまでも子どもだと思っているのは難しく、気がつくとあなたは老人ですと言われている。自分よりも未来を生きている年長者と話すと、輪廻転生というと大げさですが、自分も他者の人生も巡りめぐっていることを肌で感じることができるのです。

 

そんな中で直感するのは、自分が今、年長者に対して行っていることは、自分がそうされる未来であるということ。つまり、年長者を尊敬すれば、自分が年長者になったときにもそうされる。その逆もまた然り。年長者をぞんざいに扱っておいて、自分が年長者になったときに丁寧に接してもらえると思うのはあまりに勝手です。今目の前にいる年長者は未来の自分であり、自分がどうしてもらいたいかを決めるのは実は自分だということです。

 

 

自分がしていることは、そっくりそのまま自分に返ってくる。そう考えると、高齢者の介護に携わる私たちの役割は大きいですね。あなたが今している介護が、あなたが高齢者になったときに受ける介護です。自分がそうしてもらいたいと思うように、私たちは振舞わなければいけないのです。

2020年

5月

21日

良い方へ目を向けよう

ここ数日、ケアカレのホームページを見て学校が再開されているのを知ったからか、卒業生さんたちが続々と教室に足を運んでくれています。「介護福祉士に合格しました!」という報告であったり、「こんな状況ですから、何かお手伝いできることがあれば」という嬉しい声を掛けてくれてくださいました。おそらく、4月に入ったら挨拶に行こうと思ってくれていたのに休校していたので、今来てくれたのでしょうね。ウイルスによって人と人の間に距離ができて、心が離れてしまいがちなこの時期でも、ケアカレを思い出して、顔を見せてくれる卒業生さんには感謝の言葉しかありません。

 

ひとりの卒業生さんは、今年介護福祉士に合格し、その勢いで医療・介護連携士という資格を取ろうと予定していましたが、このコロナ騒動で中止になってしまったそうです。彼は初任者研修でも実務者研修でもクラスの中心となり、周りのクラスメイトを正しい方向に引っ張ってくれました。そして、ケアカレの方向性についても、深く理解してくださっています。その上で、今回時間ができたので、何かお手伝いできることがあればと申し出てくださいましたが、すぐにこれといったことを提案できずにすいませんでした。何せケアカレも今年は、いつまた緊急事態宣言が叫ばれるのかとびくびくしながら、それでも人間性を失わずに世界観が変わる福祉教育を提供するために、粛々と運営をしていなければならないと思っています。皆さんが安心して、心から楽しんで授業を受けられるような日が早く来るといいですね。

 

もう一人の卒業生さんは、ケアカレの実務者研修のテキストだけを使って筆記試験の勉強をして、100点合格したという強者(つわもの)です。アプリで過去問はやってみたけれど、あまり役には立たなかったそうです。たしかに過去問はテストの傾向を掴むことはできますが、同じ問題は二度と出ませんから。ただし、自分の苦手な分野を把握することはできたので、その分野を重点的に、テキストを読んだりして学んだそうです。実に効率的な勉強法ですね。今は訪問介護をやっているので、買い物支援であらゆるドラッグストアに行く機会があり、エタノール70%の消毒液があったのでと買ってきてくれました。今の時期はお菓子よりも消毒液の方が実用的ですね(笑)。ありがとうございます。

それ以外にも、たくさんの卒業生さんが代わる代わる遊びにきてくれました。こんな状況においても、わざわざ立ち寄ってくださって、ケアカレの卒業生さんたちは本当に温かいし優しいなと思いました。もしかすると、私だけが勝手に、世の中の人たちの心が離れて行ってしまっていると誤解していたのかもしれません。マスクやビニールシートによって遮断されてしまっていても、私たちの心は確実にそこにあって、想像力次第でつながることはできる。そう卒業生さんたちに教えてもらった気がします。これからも良い方向を見ていきたいと思います。

 

最近、良く聴いているジェイソン・ムラーズの新曲です。

2020年

5月

15日

同行援護従業者養成研修(5月、11月クラス)募集開始します!

目を閉じてみてください。音はそのまま聞こえてきますが、視覚からの情報は失われてしまいます。そう、見える人が目をつぶると、見えなくなる不安や怖れを感じます。見えている状態が普通であって、そこから光や情報が失われていく。単なる引き算であり、マイナスという感覚です。しかし、目の見えない人は、何も見えない暗闇の世界を生きているのでしょうか?

 

もう1歩踏み込んで、目の見えない人は、目の見える人には見えない世界を感じているのではないか、と考えてみてはいかがでしょうか。

 

「同行援護従業者養成研修(一般課程)」は、視覚障害のある方の外出支援(ガイドヘルプ)について学ぶための研修です。

 

→目の見えない人の世界に興味がある

→同行援護の仕事をするにあたって必要な、正しい知識や技術を身につけたい

→高齢者介護とは全く違う、視覚障害者の支援について、深く学びたい

 

という方は、ぜひご受講ください。

 

ガイドヘルパーの仕事に即した、実践的なオリジナルコンテンツ

①基本技能と専門的知識

同行援護の基本技能に関しては、基本姿勢を徹底します。利用者さんの半歩前に平行にきっちりと立つ、脇を締める。美しい姿勢が保たれることで、安全と安心が確保されるのです。できるガイドヘルパーかどうかは、姿勢を見れば分かります。何よりも先に、基本姿勢をしっかりと身につけることが大切です。

 

その他、アイマスクをしながらの食事介助や、階段昇降やまたぎ、トイレの介助についてなど、あらゆる場面における基本的な動作をみっちり練習します。2日目は町田駅を利用させていただき、エスカレーターの上り下りや電車の乗降など、実際のガイドヘルプを想定した実践的な体験をしてもらいます。

②当事者との交流・相互理解

視覚障害のある方が実技演習に参加してくれます。実際の交流を通して、同行援護の正しい技術や実際のガイドヘルプ活動を体験することができます。

 

当事者の方と実際に触れ合ってみること、直接に話をすることによってこそ、相互の理解は深まるはずです。

 

当事者の方が、グループワークにも参加して、視覚に障害のある方の気持ちや考え、経験談などを語ってくださいます。私たちの想像を超える話が飛び出すかもしれませんね。

③屋外での実習

ガイドヘルプ本来の目的は、余暇をいかに楽しく過ごしてもらうこと。そこで、屋外に外出することにしました!

 

教室から町田駅、町田駅から電車に乗って橋本駅まで、歩き回ったり、食事をしたり、100円ショップに寄って買い物をしたりします。視覚障害のある方とガイドヘルパーが過ごすように、私たちも外出の研修を楽しみながら、あらゆる局面における実践的な学びを得ることができます。

タイムテーブル

第1日目

 9301130  

2

同行援護の制度と従業者の業務

 11401400

*途中休憩20分挟む 

2

同行援護の基礎知識

14001800 

4

基本技能

第2日目

 9301130  

2

情報支援と情報提供

 11401400

*途中休憩20分挟む 

2

代筆・代読の基礎知識

14001800 

4

応用技能

*昼食はガイドヘルパーの演習の流れの中で召し上がっていただきます。

*雨天決行になりますので、雨天の場合は雨がっぱ等をご用意ください。

修了証明書

研修終了後には、「同行援護従業者養成研修」修了の資格が手に入ります。この資格を持っていなければ、同行援護の仕事に従事することはできません。もちろん、履歴書にも「同行援護従業者養成研修修了」と書いていただけます。

講師紹介

千種珠美

尾形亜希子


湘南ケアカレッジの講師は、同行援護(視覚障害者のガイドヘルプ)の経験が豊富であり、教えることに対しての技術と情熱を持っています。分かりやすく丁寧に教えさせていただき、同行援護の仕事の素晴らしさをひとりでも多くの人々に伝えたい、と願っております。

受講料

19,000円(税込、テキスト代込)

定員

24名限定

*授業内容の関係上、1クラスを少人数に限定させていただくことをご理解ください。

受講資格

介護職員初任者研修課程修了者(修了予定者を含む)、ホームヘルパー2級課程修了者、介護福祉士並びに東京都居宅介護職員初任者研修課程及び東京都障害者居宅介護従業者基礎研修課程修了者、東京都障害者(児)居宅介護従業者養成研修1級課程、2級課程及び3級課程(旧東京都障害者(児)ホームヘルパー養成研修の各課程を含む)の修了者(修了予定者を含む。)、介護保険法上の訪問介護員、実務者研修修了者、介護職員基礎研修課程修了者。

研修日程

第1回

第2回

3月21日(土)、

4月4日(土)*終了

5月31日(日)、6月6日(土)*まだお席あります

第3回

 

11月22日(日)、29日(日)

*募集開始しました!

 

*同行援護従業者養成研修(一般課程)は全2日間で修了する研修になります。

 

*定員の関係上、振り替えはできませんのでご了承ください。

研修会場

湘南ケアカレッジ町田教室 

生徒さんの声

感動しました

 

とても勉強になりました。介護の仕事をしているため、どうしても体全体で介助してしまいたい気持ちになってしまいます。色々な研修を受けてきましたが、初めてのことが多く、受講して良かったと思います。特に階段の乗降など、とても難しいと思いました。食事の介助は、仕事では全介助が多いので、今回の体験で説明がとても必要だということも分かりました。あまり見たことがない福祉用具が多く、便利であることに感動しました。(伊東さん)

私の人生にとってプラス

 

アイマスクをしていたことで、キャンディの味が分からなかったりと、見えない経験は貴重でした。お弁当の説明や市役所のスロープ階段体験、トイレの入り方等、勉強になりました。自らがアイマスクを使用し、利用者役になることで、基本姿勢の意味が理解できました。熱心に教えてくださる先生方の気持ちが伝わり、もっと勉強したいと思いました。レストランでの水の出し方、切符の買い方等も学び、何より畑山さんにお会いできたことは、私の人生にとってプラスになりました。(笹田さん)

目が見えないと他の感覚が鋭くなる

 

1日目の研修では見えない世界を初体験し、目が見えないと他の感覚が鋭くなると感じました。そして、過剰な介助は不要だということも知りました。食事の説明においては、物の説明はきっちりと、位置関係ははっきり伝えることさえ出来れば、かなり自立で行ってもらえることを知りました。「介助」と「お世話」の違いを自覚し、しっかり「介助」出来るガイドになりたいと思いました。Sさん)

こどもの国は草の香りや風がとても爽やか

 

分からないことを一つひとつ学ばせていただくことの喜びを感じつつ、エレベーターやエスカレーターの介助、切符の買い方など、全てが初めてで大変勉強になりました。こどもの国は草の香りや風がとても爽やかでした。最初はしっくりしなかったグループワークも、2日間研修でご一緒しているうちに親近感を覚えました。とても楽しかったです。(柏木さん)

せっかく覚えたことを忘れない

 

基本姿勢を覚えるのが大変でしたが、研修初日の後、右腕をふらないことを意識したり、右側に人がいることを想像しつつ行動しました。トイレに入る時にも、誰かを同行援護しているつもりで言葉を頭の中で繰り返したり、せっかく覚えたことを忘れないように努力しました。階段や屋外、舗装外道路などでは案内すること、される事の大変さを知りました。大変貴重な経験をさせていただき、ありがとうございました。(Sさん)

繰り返し練習できたので良かった

 

基本姿勢や階段の昇降、またぎ動作など、繰り返し練習できたので良かったです。音と香りのコラボレーションは楽しかったです。実践的な練習(エレベーターやエスカレーター)電車の乗降などできてよかったです。休日で混んでいて大変でしたが、この研修に参加できてよかったです。ありがとうございました。(Aさん)

世の中が変わる

 

目からの情報がないだけで、こんなに世の中が変わるのですね。同行援護も十人十色。基本をしっかり忘れないようにと思いました。何でも勝手にするのではなく、きちんと同行援護の本質を理解しなければいけませんね。2日目はかなり遠くまで行った気がします。安全のためにも、利用者さんの必要とする情報をきっちりと伝えられる介助者になりたいです。(澁谷さん)

お申し込みの流れ

①以下のお申し込みフォームに入力してお申し込みください。もしくはお電話(042-710-8656にて直接お申込みください。

いずれの場合も、ご希望のクラスが定員になりますと受付できませんのでご了承ください。

 

②受講確認書をお受け取りください。

ご自宅に「受講確認書(受講料お振込みのご案内)」が届きます。

 

  受講料をお振込みください。

「受講確認書」が到着後、1週間以内に受講料をお振込みください。お振込みは、銀行ATM やネットバンキングからでも可能です。※手数料は各自でご負担ください。また、お振込みは案内をよくご確認の上、お願いいたします。

 

④研修当日 申し込みクラスの日時をご確認の上、教室までお越しください。当日、テキストをお渡しします。

 

お申し込みフォーム

2020年

5月

13日

「居るのはつらいよ」

大学院まで通って臨床心理学を学び、博士となった著者は、心理カウンセラーの道を志すものの、目の前にあるのはデイケアの仕事のみ。セラピーをやりたかったのに、ケアの仕事しかない世の中のつらさは私も痛いほど分かります。社会とのボタンの掛け違いからスタートすると、理想と現実のはざまで、ずいぶんと苦労しなければいけません。最初はケアをセラピーよりも下だと見下していた著者も、うさぎ穴に落っこちて、地を這うような時間を過ごしたことで、ケアとセラピーの本質に気づいていくという物語。1章ごとに扱われているテーマがとにかく深く、その心理的な観察眼と洞察には敬服します。ケアの現場をポップに語りつつも、私たち人間がそこにいることの意味や価値を見つめ直す素晴らしい作品です。

 

沖縄の精神科デイケアで働くことになった著者は、「とりあえず座っておいてくれ」と言われますが、数時間もすると、それがいかに難しいかに気づきます。利用者さんと話してみても長くは続かない。誰もが押し黙っている凪(なぎ)の時間が、精神科デイケアにはやってきます。ただ「いる」ことが難しいと感じた著者は、何か「する」こと(たとえばカウンセリングなど)はないかと探し始めますが、何もないのです。そこは「いる」が求められている場所なのです。時間が経つにつれて、次第に著者も「いる」ことができるようになります。

 

僕はあのとき、カウンセリングもどきなんかをするのではなく、二人でデイケアに「いる」べきだった。一緒に、退屈に、座っているべきだったのだ。座っているのがつらければ、せめてトランプをやるとか、散歩をするとか、何かしら一緒にいられることを探すべきだった。ジュンコさんが求めていたのは、セラピーなんかじゃなくて、ケアだった。心を掘り下げることではなく、心のまわりをしっかり固めて安定させてほしかったのだ。

僕は間違っていた。何も彼女のことをわかっていなかった。

「いる」のがつらいのは僕だけじゃやない。「いる」のがつらくって、いろいろな声が聞えてきてしまう人たちが、ここに集まってきているのだ。デイケアって、そういう場所なのだ。

(中略)

とにかく「いる」。なんでもいいから「いる」。僕は「いる」ことを徹底することにした。となると、やれることは一つしかない。とりあえず座っている。これだ。

 

仕事にも慣れてくると、周りのスタッフの動きにも目が止まるようになってきます。精神科デイケアは普段こそ何も起こらない時間によって支配されていますが、何のきっかけもなしに、たとえば利用者さん同士の争いなど、いきなり起こるのです。そんなとき看護師がすぐに動いて、利用者さんの体に触れるシーンを見て、自分との違いを感じながらも著者は考えます。

 

看護師は何かが起きたときに、まず動く。目の前で誰かが倒れたとき、混乱しているとき、怪我をしたとき、具合が悪いとき、助けが必要なとき、看護師は即座に手を差し伸ばす。体が反射的に動く。

(中略)

僕らは「何が起きているのだろう?」と一拍考え、「どうしたらいいのだろう」とさらに一拍考える。それから動く。そのときに、看護師はもう走り出していて、体に触れている。僕はその後ろ姿を、指をくわえて見ている。

(中略)

そういうとき、看護師さんたちはメンバーさんの体に触れていた。リュウジさんの体を抑えたように、あるいはユリさんを抱きかかえたように、迅速に看護師たちは触る。体が触れられることを必要としているとき、看護師たちは反射的にそこに手を当てることができる。そしてそれが、メンバーさんを落ち着かせ、火を小さくする。

 

さらに著者は、心と体は分離されたものではなく(特にデイケアに集まってくる人たちにとっては)、心と体は混じり合い、「こらだ」になると考えを進めます。つまり、看護師さんたちが体に触れているのは、実は「こらだ」に触れているということなのです。それは単なるボディータッチとは異なり、こらだが触れられることを必要としているときに触れるということであり、逆に言うと、こらだが触れられることを必要としていないときには触れないということでもあります。相手のこころを知って触れる、そして体に触れることで心に触れるのを感じることが大切なのです。

 

 

その他、退屈についての論考(「ちゃんと退屈した時間があるから、僕らは安心してそこにいられる」)や恋による破壊と再生の物語(「たぶん、恋って、自分の中のいちばん弱い部分でするものなのだろう。だから、恋をすると、弱さが満ち溢れ、傷つきが蔓延する」)など、ケアの現場では特徴的に現れやすいけれど、それは私たちがいるどこにでもある課題です。スタッフの辞め方のくだりも興味深いし、最後のブラックなもの(ブラックデイケア問題)もリアリティに溢れています。最後はブラックな働き方やケアの現場の仕組みに困憊して、デイケアを退職してしまった著者でしたが、その後、自らカウンセリングルームを開業されているようです。そう、市場のロジックと「ただ、いる、だけ」の価値を両立させるには、自分の責任でケアとセラピーをやるしかないのです。

2020年

5月

08日

人間性を失わない

4月の緊急事態宣言を受け、およそ1ヶ月の間、休校していましたが、今月7日からは介護職員初任者研修と実務者研修を再開することにしました。町田という地域や感染者数の推移という数字を踏まえ、現時点における感染のリスクは極めて少なく、再開しないことによって生まれる迷惑や停滞の方が多大であると判断しました。介護の現場は休むことなく動いており、その一端に関わらせていただいている学校として、私たちばかりが歩みを止めてしまうわけにはいきません。自分たちの頭で考えて出した結論です。

 

学校は再開しましたが、今までのような形ではないと考えています。これから先しばらくは、湘南ケアカレッジは新型コロナウイルスに感染しないための学校として運営していかなければならないはずです。特にマスクに関しては見て分かりやすいので、同調圧力の声は高まっていくはずです。他校では、ビニール手袋の全員着用を求めてくる声もあったそうです。もしかするとこの先、フェイスシールドを装着して参加する生徒さんが現れたり、それを先生や周りの生徒さんたちにも怒って要求してくるなんてことも…。ゼロリスクを求め続ける限り、私たちは自分の首を自分で締め、周りの人たちの首を締め、行き着く先は感染者やその家族、外国人、海外からの帰国者、高齢者、そして医療従事者、介護職員などに対する偏見や差別、攻撃につながります。

 

私たちは感染症についての知識がほとんどない一般の人々ではなく、介護や医療に携わる専門職を育てるプロフェッショナルですので、今この状況において、この場所で、どのような対策が必要で、何が必要ではないのか、事実と科学的根拠を基に適切な判断をしていかなければならないと考えています。

 

もうひとつの視点としては、感染症の影響はしばらく、もしかすると1年、2年単位で続いていきますので、行き当たりばったりではなく、継続的に行動していけるものでなければいけません。そうは言っても、先生方や生徒さんによっても、リスクに対する考え方や不安の度合いは違いますし、どこまですれば安心なのかも異なるはずです。安全と安心のバランスが崩れているから難しいのです。賛否両論あると思いますが、ある程度のガイドラインがあった方がやりやすいと思いますので以下に書いておきます。もちろん、今後の状況に応じて、さらに厳しくなったり緩めたりもします。

 

・手洗いの徹底

朝、外から来てくれた時に生徒さんたち全員に手洗いをお願いしています。手を洗う習慣は、感染症予防だけではなく、衛生面においても決してマイナスにはならず、継続して実施していける簡単なオペレーションです。ほとんどの生徒さんは、マスクはしていても手を洗っていないことが分かったので、朝、声掛けをすることにしました。初日のオリエンテーションでも手洗いのお願いと場所の説明をしています。正しい手洗いの仕方に関しては、初任者研修の2日目の授業で祐子先生が詳しく教えてくれます。

 

アルコール消毒に関しては、エタノール度のやや低いもの(60%程度)ではありますが手に入りましたので、教室の入り口のところに置いておきます。手洗いをした後に、使用したい生徒さんや先生に使ってもらえればと思います。

 

・マスクの着用

接近して教える(話す)ときには、できるだけマスクを着用しましょう。もし自分が感染者であれば飛沫感染を防げるという目的とお互いの安心のためです。マスクに関しては、感染予防としても飛沫感染を防ぐという意味においてもエビデンスはほとんどありませんので、布マスクでも花粉症対策用のマスクでも構いません。お互いが安心できるという意味合いが大きいと思います。

 

ただし、サージカルマスクの表面でも7日間、内側で4日間もウイルスは残存するという研究結果があるように、外からウイルスを付けて持ってきてしまったりと、マスク自体がウイルスの温床となり媒介してしまう可能性も考えられますので、できるだけ手で触らずに、使い捨てを心がけた方が良いですね。感染症の専門家が外ではできるだけマスクはしたくない、ソーシャルディスタンスが大事というのはそういうことです。

 

・教室内の換気

幸いなことに、これから暖かくなってきますので、教室の窓をできるだけ開けて換気を心がけましょう。これも簡単に継続的にできるオペレーションであり、感染症対策というだけではなく、空気が淀んでおらず開放的であることは良いことです。学校を開催する以上、いわゆる3密の、密集、密接は避けることができません(2mのソーシャルディスタンスを取ることは難しい)ので、密閉だけでも避けることができればと思います。密閉度という意味においては、実は教室の天井の高さや広さも関係があるため、幸いにもケアカレの教室は広くて天井が高いのでクリアできるはずです。

 

このような不確実な状況下では、みんながやるからそうするのではなく、自分たちで考えて行動していくことが重要だと思います。それぞれの業態や地域、年齢層、その時の状況によって、正解は異なるはずです。また、継続性があるのかという指標も大事です。単なる気分でそうするのではなく、一旦立ち止まって、それはやり続けることができることなのかを問うてみるということです。意味がなければやり続けることはできませんし、一度始めてしまったことは理由がなければやめることが難しくなってしまうからです。

 

最後に、湘南ケアカレッジは、「世界観が変わるような福祉教育を提供する」ことを理念として先生方と一緒に作ってきた学校です。そのためには、素晴らしい内容の授業を提供するだけではなく、先生方と生徒さんたち、また生徒さんたち同士の距離感が近く、心の交流が大切でした。この先、新型コロナウイルスに感染しないことだけを目的とすると、人と人との心の距離は離れていくはずです。その中でも、できるだけ人間性を失わない学校であれたらと願います。

 

4月短期クラスの生徒さんで、教室に入ってくるとき、また授業が終わって帰るとき、マスクを手でちょっとだけ外して口元が見えるようにして、「おはようございます」、「ありがとうござました」と挨拶をしてくれた女性がいました。その行為を見て、個人的には素敵だなと思いました。戦時中に、大きな声では言えないけれど私は戦争に反対ですと目で訴えるような感じと表現すれば分かってもらえるでしょうか。

 

 

ケアカレにとっては、「世界観が変わるような福祉教育を提供する」ことと「新型コロナウイルスに感染しないこと」は、どちらが大事ではなく、どちらも大事なのです。そのために何ができるのか、まだ答えは出ていませんが、一個人としてもケアカレとしても、できる限り人間性を失うことなく生きて、いつかまた誰もが笑顔で授業を受けることのできる日を待ちたいと思います。

2020年

4月

30日

「誤作動する脳」

ケアカレナイトでも講演をしてくださった樋口直美さんの新著です。前作「私の脳で起こったこと」も稀有な体験記でしたが、こちらは文学作品としても読めるような最高傑作に仕上がっています。レビー小体型認知症を広く知らしめることよりも、彼女の脳に起こった究極的な体験を通し、私たちはどう生きるべきかを示してくれている―たとえば「夜と霧」のような―哲学書のようだと感じました。脳が誤作動を起こすことで、私たちの人生はどう変わってしまうのか、またそのような脳とどう付き合って共に生きていくのか。脳が健康な私たちから見れば苦境にしか見えませんが、本書の中にはかえって生きる勇気や希望、喜びがあふれているのですから不思議です。

「幻視」、「幻聴」、「嗅覚の喪失」、「方向感覚の欠如」など、脳が誤作動を起こすことによって、5感に異常が現れます。人間はたった一つの感覚に異常をきたす、もしくは失ってしまうことにより、人生の質が大きく変わってしまいます。樋口さんの体験を読むだけで、自分に置き換えてみると、その壮絶さが伝わってきます。それでも、今まで出来ていたことが出来なくなることの物理的な恐怖と精神的な不安は想像を絶するでしょう。当初はうつ病だと診断されて、向精神薬を処方されたことにより症状が激化してしまった(樋口さんは今も生傷とおっしゃる)数年間の実体験は正視するのが難しく、よくぞ生き延びてくれたとしか言いようがありません。

 

いつもと同じ道を歩いていたにもかかわらず、ある日突然、気がつくと同じ場所に戻ってきてしまい、堂々巡りをしてしまう混乱と恐怖を描いたシーンは、昨年10月、私がフランスに行って感じたものとそっくりでした。

 

夜、現地で友人とレストランの前で待ち合わせをして、知らない土地なので30分ぐらいは早めにホテルを出ました。大体の方向とお店の住所は分かっていたので、道にある地図を見ながら歩いていました。次第に暗くなっていきます。そろそろ近くまで来たかなと思い、あたりを見回してみると、何やら違う建物や標識が出ていることに気づきました。

 

おかしいなと思い、スマホを取り出して確認してみると、ずいぶんと離れた場所にいることは分かりました。実は私は位置情報をオンにしたくないということと道に迷って困ったことがないので、それまでグーグルマップを利用していませんでした。こういうときこそと思い、利用しようとしましたが、なぜかスマホの文字が読めません。以前にも夜になるとスマホの文字が読みにくいという傾向はあったのですが(年齢的なものでしょうか)、ここまで暗い中でスマホの細かい文字(しかもフランス語)を読むことができないことにそのとき初めて気づきました。

 

大げさだと思われるかもしれませんが、文字や道の輪郭がぼやけて見えないのです。かなり拡大すれば見えるのですが、地図の全体像が完全に失われてしまいます。頼りにしていたスマホが使えないことが分かり、私はとにかく前に歩くことにしました。歩きながら、周りの建物や標識を見て軌道修正していこうと考えたのです。

 

友人には道に迷ってしまったので、待ち合わせ時間には間に合わなそうと連絡を入れました。さすがに日本であれば、同じような状況に陥っても何の心配もしなかったと思います。しかしそこは初めて訪れた国の知らない土地です。友人を待たせているという焦燥とこのまま道に迷いホテルにも戻れないのではないかという不安は募っていきました。不安によって混乱してしまうと、人間は冷静さを失ってしまうようで、私はいつもよりももっと速い速度で歩き回りました。

 

ところが、私の目の前にはさっき見たことのあるパン屋が現れたのです。どう見ても同じパン屋と店員さんでした。あれだけ歩いたにもかかわらず、私はぐるりと回って同じ場所に戻ってきてしまったようです。あのときの絶望は忘れられません。大人になって久しぶりに味わった方向喪失感でした。樹海などで道に迷う人がぐるりと回って同じ場所に戻ってきてしまうのは良くある話だそうです。また、あとから知ったのですが、パリの街は道が放射線状に伸びているため、わずかな方向の違いが最終的には大きな違いとなってしまうとのこと。

 

1時間以上歩き続けた私は心身ともに疲れ果て、恐る恐る道端に立っていた女性2人組に尋ねることにしました。もちろんフランス語は話せないので、稚拙な英語で聞いてみると、「私たちもパリの住民じゃないから良く分からないけど、ホテルは大体あっちの方だと思うよ」と教えてくれました。レストランに行くことをあきらめて、私は自分のホテルにそこから30分近く歩いて戻ったのです。

 

今となっては良い思い出ですが、あのときの自分を見失ってしまった恐怖は、まさに認知症の方が日々体験していることなのではと想像することができます。道に迷うことに関しては、グーグルマップを入れたり、周りの人たちに助けを求めるという解決法がありますが、常に新しい障害が現れてその都度、恐怖と不安に襲われ、何とか生き延びようともがき、解決策を見つけ、少しずつ希望や喜びを見つけていくのだと思うのです。

 

 

だからこそ、樋口さんの言葉には重みがあって、希望も解決策もあるのです。それは新型コロナウイルスという目に見えない病の影響によって、私たちの脳も誤作動を起こしつつある状況の中、救いになる言葉なのではないかとさえ思えます。私が線を引いた箇所の一部を引用し、希望を持って終わりにします。

 

「幻視が怖かったのではありません。私は、私が恐ろしかったのです。でもその恐怖こそは、新しい情報と知識を得ることで消える幻にすぎませんでした」

 

 

「私たちを社会から切り離すのは、単純な無知や根拠のない偏見ではなく、専門家の冷酷な解説だと私は感じていました。それは病気そのものよりもずっと重いものでした。これは人災だと私は思いました。そして人災であれば、変えることができると」

 

 

「精神は脳の主かもしれません。実際、体調が悪いときでも、人前ではシャキッとしていられます。やりがいのある大切な仕事に向かうときは、脳が最速で働き始めます。親しい人と楽しく過ごしているときは、症状も出にくくなり、体調も良くなります。生きがいのある生活の中で、仲間と四六時中、楽しく大笑いしていれば、症状など出る間もなく、絶好調の毎日が続くのではないかと真面目に夢想しています」

 

 

「雨が降ったら傘をさせばいい」

 

 

「患者の大きすぎる期待は、失望と的外れな恨みを簡単に生みます。それでは医師も患者もお互いに不幸です。不毛です。この不幸は、どうすれば減らすことができるんだろうかと考えてきました。

 

認知症や認知症医療について学ぶほどに知ったのは、『脳のことでわかっていることは本当に少ない』ということです。医療に担えることは限られているということです。いまだに原因もわからず、治す薬もなく、確実な予防法もない病気なのです。加えて個人差が大きく、診断名が同じでも人によって症状が大きく違い、薬の効き方も副作用の出方も進行の仕方もひとり一人違います。人間関係など環境の影響が非常に大きく、環境だけで症状が大きく改善したり悪化したりします。これからどんな症状がどう出て、どう進行していくのかなど、誰にも分からないのです。しかし患者側からはそうは見えません。認知症が病気なら、問題を解決する責任者は医師だと思ってしまいます。

(中略)

 

治療とは、視界のきかないジャングルを踏み分けて進む冒険のようだと今は思います。医師にだって、先は見えないのです。そんなジャングルを、目をつぶって医師の後ろにくっついていくのは危険すぎます。それでは崖から落ちても文句は言えない。医療の限界を知るにつれて、そう考えるようになりました。」

2020年

4月

20日

転職するときには、介護仕事百景で選びたい

介護仕事百景がスタートして、4回目の春を迎えました。なぜか春だけ気持ちが浮足立ち、その度に迎えた季節を数えてしまうのは、春生まれの性だけではなく、何か新しいことを始めたくなる気持ちがウズウズと生まれる季節だからでしょうか。

 

つい先日、就職内定の知らせを届けてくれた方は、湘南ケアカレッジで初任者研修を受講したのがちょうど私と同じ時期の方でした。「もう、6年前になるのですね」と、旧知の仲のようにそれぞれの思い出話に花が咲きました。クラスは違うため、一緒に机を並べて授業を受けたわけではないのに、同じ先生の話をするだけで打ち解けてしまうあの懐かしい気持ちも卒業生さんならきっと、分かっていただけるでしょうね。

 

6年前に初任者研修を修了し、実務者研修を経て介護福祉士にもなった彼女は、この春グループホームを辞めて、次なる介護の仕事を探していました。

 

「転職するときは、介護仕事百景で選びたいと思っていたのです」

 

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2020年

4月

02日

劇の主役は誰?

最近、学校は劇場であり、そこで行われる授業は劇だと思うことがあります。ということは、その劇の主役は誰?ということになりますが、主役は先生方であり生徒さんたちです。湘南ケアカレッジでは、毎年、介護職員初任者研修が13本、実務者研修が12本ほど催され、同じ脚本(カリキュラム)のもと、メインの主役(先生方)は変わらないにもかかわらず、一つひとつの劇は少しずつ大きく違ったものになります。たとえば劇団四季のライオンキングや森光子さんの放浪記など、同じ公演を何百回行っても、どれひとつとして同じにはならないのと似ていますね。それはもう一人の主役である生徒さんたちのメンバーが、がらりと変わるからかもしれません。

 

先日、介護過程の授業を別のクラスから振り替えで12月日曜クラスにやってきた生徒さんが、「クラスによって全然雰囲気が違いますね。いろいろな方々とお話しできて楽しかったです。振り替えして良かったと思います」と言ってくださいました。ほとんどの生徒さんはやはり自分のクラスが1番良かったと思うので、振り替えして良かったという声はあまり聞くことはありませんが、他のクラスの生徒さんたちとも会えて良かったとポジティブに感じてくれる方も稀にいるのです。今回の生徒さんに関しては、12月日曜クラスの雰囲気がとても良かったということだと思います。いずれにしても、同じ初任者研修でも、それぞれのクラスで行われている公演は(良し悪しではなく)同じではないということですね。

 

それは主役のひとりである生徒さんたちの配役が、クラスによってごっそりと変わることが大きな理由だと思います。主な登場人物(先生方)は同じだとしても、それを取り巻く重要人物たちが異なるため、そのことが化学反応を起こし、相乗効果を生んで、毎回の授業から全体の研修まで大きく影響を与えることになります。特に毎回違う個性や背景を持った生徒さんたちの反応や動きによって、先生方の個性も生かされていくのです。授業は先生がつくるものだと思われるかもしれませんが、実はそうではなく、おそらく半分ぐらいは生徒さんたちによってつくられているのです。

 

 

私は湘南ケアカレッジという劇場の裏方として、主役である先生方と生徒さんたちが思い切って演技してもらえるようにサポートをするのが役割です。そして実際に開演されている演劇を見させてもらって、毎回、喜んだり、悩んだり、迷ったり、感動したりしています。初任者研修であればわずか15日間、実務者研修であればたった7日間の公演ですから、本当にあっという間であり、ひとつの公演が終わったと思いきや、また目まぐるしく次の公演がやってきます。だからこそ、初任者研修は100回以上、実務者研修は50回近くの公演を開催してきましたが、飽きることなく、毎回が緊張感に溢れて、充実しているのです。109期生である12月日曜日クラスは、とても素晴らしい公演だったと思います。先生方とクラスメイトの皆さま、ありがとうございました!

2020年

3月

28日

16時間夜勤と8時間夜勤の違い(前編)

介護・福祉の仕事といえば、夜勤が不安材料に挙がることもありますが、その仕組みと実際の仕事内容を知れば、案外自分に合っていると考える人も実はいて、私もその一人。自分や家族との生活スタイルが合い、睡眠時間などの自分の身体のリズムも崩れなければ、それで良いのです。

 

夜勤には、大きく分けて2つの勤務時間パターンがあります。1回の勤務で16時間働くパターンの夜勤と8時間働くパターンの夜勤です。従来型特別養護老人ホーム(以下、従来型特養)では16時間夜勤が多く採用され、ユニット型特別養護老人ホーム(以下、ユニット型特養)では8時間夜勤が多く導入されています。グループホームや有料老人ホームなどは、私の体感的には16時間夜勤の方が多い気がします。

 

詳しくは→【介護仕事百景】へ

 

2020年

3月

23日

共にあること

先日、先生方と生徒さんたちに誕生日を祝ってもらいました。1日遅れなのでプレゼントはもらえませんでしたが(笑)、生徒さんたちが皆でホワイトボードにメッセージや絵を書いてくれました。「学校が楽しいです」と書いている人が多くて嬉しかったです。また、イラストレーターをやっていたという生徒さんの絵はさすがですし、私がトイプードルを飼っていることを覚えていてくれていたり、アンパンマンやバニーガールまで登場して賑やかですね。今から7年前に湘南ケアカレッジを先生方と立ち上げたときは、私もまだ30代でしたが、遂にアラフィフに足を突っ込んでしまいました。時の経つのは速いものです。

 

7年経った今でも、こうして誕生日を覚えてもらえて、祝ってもらえることに嬉しさを感じます。湘南ケアカレッジは町田にしかない小さな学校ですが、だからこそこうして先生方や生徒さんたちのライフタイムイベントにも立ち会うことができるのです(ケアカレは誕生日に来てくれた生徒さんや先生方にはお祝いをしてケーキを贈る習慣があります)。そのような大げさなことだけではなく、毎日会うことで生徒さんたちの顔や名前を覚えたり、話をすることもできますし、先生方とも顔を合わせてコミュニケーションを取ることができます。当たり前のことですが、教室が多くなればなるほど、学校という組織が大きくなればなるほど、当たり前のことが難しくなるのです。

 

よく卒業生に「なぜケアカレをつくったのですか?」と聞かれるのですが、その答えのひとつに、「介護の学校に関わる先生方も生徒さんたちも良い人ばかりだから」があります。決してポジショントークではなく、これまでいくつかの業種や仕事を経験してきて、仕事内容や給与以上に大切なのは、関わる人たちだと私は考えているからです。人生の大部分を仕事に費やしているのですから、そこで関わる人たちの影響は大きいですし、できれば良い人たちに囲まれていたいものです。それが叶うのが介護の学校だと思って、自分の仕事としてケアカレを立ち上げました。だからこそ、こうして素敵な先生方や生徒さんたちと共にあることは私にとって嬉しいことなのです。

 

 

この7年の間には、もっと教室を増やそう、拡大しようと何度思ったか分かりません。これからもその葛藤はあると思います。しかし、よくよく考えてみると、結局のところ、大きくなることで失うものの方が多いのです。わずかばかりの安定や売り上げの大きさ、雇用を生み出すことはできるかもしれませんが、学校として最も大切な人と人のつながりが(特に私にとって)希薄になってしまうのです。それは大きな介護のスクールで働いていたことがあるからこそ、経験として知っていることでもあり、もし何も知らないまま学校を立ち上げていたとしたら、迷うことなく教室を増やしていたはずです。もしそうしていたら、今はどうなっていたのか、あくまでも想像でしかありませんが、おそらく誕生日を祝ってもらうことはなかったかもしれません。先生方、生徒の皆さま、ありがとうございます!

2020年

3月

18日

週1、2日や時短勤務などの働き方特集

「子どもが幼稚園や学校に行っている間の時間で、介護・福祉の仕事をしたい」、「今勤めている仕事はそのままに、休日や空いている時間を使って介護・福祉の仕事も始めてみたい」など、非常勤職員(アルバイト・パート)として介護・福祉の仕事で働きたいという方の声をよく耳にします。

 

そこで介護仕事百景に掲載している施設・事業所の担当者さんに再度問い合わせ、短い勤務時間(14時間から)や少ない日数(週に1日から)の働き方について教えてもらいました。

 

続きは→【介護仕事百景】へ

2020年

3月

12日

ささやかだけど、良いこと

介護職員初任者研修の2月短期クラスが無事に終わりました。4月から新しく介護の仕事に就く新卒の方も多く、ひとつ前のクラスから振り替えをしてきた生徒さんもおっしゃっていましたが、全体的に年齢層の若いクラスでした。若い生徒さんが多いと静かになる傾向はありますが、周りの生徒さんたちと分け隔てなく接して、クラスの雰囲気を盛り上げてくれる生徒さんがいたことで、それぞれが少しずつつながってくれたと思います。私も毎朝、それぞれの生徒さんたちと挨拶をしたり、話しをすることができ、関わりを持つことができました。生徒さんたちとの関わりは、私がこの仕事であり学校を続けていく原動力になっています。

 

今からちょうど20年ほど前、私は大手の介護スクールで仕事を始めました。友人の紹介で入社させてもらうことになったのですが、当時は介護のカの字も知らない初心者でした。ホームヘルパー2級講座を受けて、教室のコーディネーターとして配属されました。教室の準備をしたり、生徒さんの実習を手配したりするのが主な仕事でした。その仕事を始めて比較的早い段階で、面白いな、自分には合っているなと感じたのを覚えています。先生方は尊敬できる人ばかりで、色々なことを教えてもらい、可愛がってもらいました。生徒さんたちは良い人が多く、話していて楽しかったからです。

 

その後、担当教室の数が増え、支社全体の仕事を任されるようになってからは地獄の日々を過ごしましたが、先生方へのリスペクトと生徒さんとの関わりの楽しさがベースにあったからこそ乗り越えることができたのだと思います。どんな仕事もそうかもしれませんが、人との関わりや付き合いの中にこそ喜びがあるはずです。と同時に人間関係の中に苦しみや辛さも生じるのですが、ベースにあるのは喜びや楽しさです。喜びや楽しさを感じないとすれば、その仕事は合っていないし、長く続けることはできないでしょう。その仕事自体が合っているのかよりも、その仕事の周りに集まる人たちと一緒にいて自分が楽しいのか、喜びがあるのかが大切なのです。

 

 

もちろん、与えてもらうばかりではなく、自分にできることを提供するのが仕事です。先生方と生徒さんたちの間に入って、介護の研修が円滑に進み、双方が良い時を過ごせるようにするのが私の仕事です。先生方のように、直接生徒さんたちを教えることはできませんが、間接的に生徒さんたちをサポートすることはできるはずです。授業をすることはできなくても、ひとりで矢面に立ってもらう先生方を後方から支援することはできるはず。具体的な方法はたくさんありますが、何よりも大切なのは気に掛けること。生徒さんや先生方のことを想って気に掛けること。そこから全てが始まります。

 

そう考えると、私にできるのはささやかなことにすぎません。介護の学校にたずさわって、ずっとこのささやかなことを続けてきました。その人のことを気に掛け、声をかけ、想いを聞くだけで、ほとんどの問題は解決してしまいます。ささやかだけれど、良いことにしていきたいと願っています。

2月短期クラスの生徒さんたちから、先生方ひとり一人へのメッセージ入りの色紙をいただきました。ポケットからメッセージを取り出すと次から次へと。このパターンは111期生の中でも初めてで、新しい発想ですね。お花やフォトフレームまでいただき感謝しております。ありがとうございました!

2020年

3月

06日

勉強することの大切さ

12月からスタートした実務者研修の火曜クラスが修了しました。今までで最高かと思われるほどに、湘南ケアカレッジの介護職員初任者研修の卒業生の比率が高いクラスであり、そのおかげもあってか、とても前向きでまとまりの良いクラスでした。実務者研修からケアカレに来てくださった生徒さんも、これで晴れてケアカレの卒業生になりますね。実際に、研修修了後の打ち上げは、介護職員初任者研修の卒業生に実務者研修から来てくれた卒業生さんも混じって行われていました。違うクラスで卒業したケアカレの卒業生さんたち同士、そして実務者研修から初参加の卒業生さんたちがゆるやかにつながっていくのを見ると、嬉しくなります。打ち上げを企画してくださったYさん、色紙を中心になって贈ってくださったUさん、そしてクラスメイトの皆さま、ケアカレに来てくれてありがとうございました!

 

打ち上げの席では、生徒さんたちの本音をたくさん聞かせてもらいました。お酒の席だからこそ言えることもあるのでしょう。ケアカレの雰囲気が好きだと言ってくれた方もいましたし、先生方がただテキストに沿って授業をしているのではなく、自身の経験や知識や技術、そして考え方を自分の言葉で語ってくれるところが良いと褒めてくれた方もいました。その方は他の学校で他の研修を受けたことがあるので、余計に授業の内容の違いが分かったそうです。

 

さらになるほどと思わせられたのは、「先生方が言っていることが同じなのが良かった」という声でした。ここで言う、「言っていることが同じ」とは画一的という悪い意味ではなく、先生方の言っていることに一貫性があるということです。相手の意見を否定しない、まずは良いところを見つけて褒める・認める、誰のための介護なのか考える等々、介護の先生も看護の先生も同じことをそれぞれの方法や表現で伝えてくれているのです。

 

これって当たり前のようでいて、意外と当たり前ではありません。なぜ湘南ケアカレッジではそれが可能かというと、それぞれの先生がそれぞれの人となりや授業を知っていることも大きいのですが(それぞれが敵対するのではなくサポート・フォローできる)、それ以上にそれぞれが勉強しているからだと思います。新しい介護や看護にアンテナを立て、常に勉強しているからこそ、今、正しいことを生徒さんたちに一貫性を以て伝えることができるのです。

 

 

看護師の藤田先生と村井先生が最後に語っていたように、看護の世界も20年前と今とでは全く変わっています。同じことは介護の世界にも当てはまり、そして10年後の介護や看護の世界も今とは全く違ったものになるでしょう。良くなっていくということです。何が正しくて、間違っているのかを見極めるためにも、自分が正しい行動を取るためにも、私たちは正しい情報や知識・技術を学び、自分の頭で考えることが大切です。国が言うから正しい、厚生労働省が言うからその通りにするでは間違ってしまうのです。この変化の激しい、情報過密な社会で正しく生きていくためには、私たちは勉強し続けなければならないのです。

2020年

3月

01日

得意なところを

湘南ケアカレッジの先生方を評して、ある生徒さんが面白いことを言っていました。

 

「佐々木先生や橘川先生はひとり一人を個別に見てくれるタイプで、小野寺先生や望月先生は全体を見るタイプかな」。

 

 

たった15日間しか授業を受けていないにもかかわらず、実によく見ているなと感心させられたと共に、生徒さんは良く見ているのだと背筋が伸びました(笑)。まさにその通りで、ケアカレの先生方はそれぞれに得意分野があります。生徒さん一人ひとりを良く見て、声掛けをしてサポートしていく個別タイプ、クラス全員を盛り上げて、まとめて指導することができる全体タイプです。決して個別タイプがクラス全体を導けないかというとそうではなく、全体タイプがひとり一人を見ていないかというとそうではありません。先生の個性として、特にどちらの分野に強くて、生徒さんたちに良い影響を与えているかどうかということです。

他の先生で言うと、阿波加先生や嶋田先生、野田先生、村井先生、新倉先生、尾形先生は個別タイプ、藤田先生や奥先生、千種先生は全体タイプだと思います。そしてご覧のように、湘南ケアカレッジとしての強みは、先生方のタイプが違い、そのバランスが上手く取れているということですね。

 

私は子どもの教育に携わっていたことがあり、いわゆる塾というものですが、塾にも集団と個別があります。集団とは先生ひとりが多くの人数の生徒さんに対して授業をすること、個別は先生ひとりが生徒さん1人(もしくは2人)に対して指導をすることです。そして、塾の先生の中でも、集団授業が得意な先生もいれば、個別指導が得意な先生もいます。集団の授業ができれば個別指導は簡単だと思われがちですが、意外とそうではなく、たとえば個別指導は生徒さんの表情を読み取ったり、理解していないところを細かく見分けたりする能力が必要になります。また逆に個別指導が上手であっても、集団を相手に伝えるためには別のスキルが必要になるため、集団授業は苦手という先生もいます。まれにどちらも使い分けることができる先生もいますが、ほとんどはどちらかに偏っているのが実状です。ちなみに、私は個別指導の方が得意でした。

 

 

介護の現場においても、同じようなことが当てはまるかもしれません。利用者さんを個別にケアしていくのが得意な職員さんもいれば、施設全体を見渡して、利用者さんを盛り上げたり、スタッフをまとめたりするのが得意な職員さんもいるはずです。大切なことは、その人の得意な分野を見極めて、タイプを知った上で、得意なところをより生かしてもらえるような役割を担ってもらうことです。さらにその施設・事業所における個別タイプと全体タイプのバランスも大切かもしれません。タイプが偏った人たちばかりを集めてしまうと、お互いの得意なところを活かすことができなくなり、全体としてはバランスを欠いてしまうことになります。どちらかのタイプしかいないということはあり得ないので、職場の配属を考えるときには、個別タイプと全体タイプのバランスを考えて配置していくことが大切ですね。

2020年

2月

24日

「37セカンズ」

映画のタイトル「37秒間」は、主人公であるユマが、生まれた時に呼吸ができなかった時間です。そのことでユマは脳性マヒとなり、母親の介護を受けながら、車椅子で生活を送っています。もう少し早く産まれてこられたら、自分は健常な人と同じような生活ができていたかもしれない。私たちの人生の長さから見ると、ほんの瞬間にすぎない時間が彼女の運命を変えたのでした。もちろん良くも悪くも。彼女は漫画家のゴーストライターをしていますが、本当の漫画家になることを夢見ています。そのためにも、健常な人であればできたはずの体験や経験を自分もしなければならないと一念発起して、母親を振り切って、外の世界へと飛び出します。

前半部分は障害者の性や自立をポップに描いた作品だと感じ、その音楽のリズムに合わせて、どこまで突き抜けていくのだろうか、そしてその先には何が見えるのだろうかと期待しました。今までの障害者を描いたドラマや映画とはひと味違って、突っ込むところは突っ込みながら、リアリティがあって、「障害者も健常者も変わらないよ」というセリフが随所にあるように、上手くできるかどうかという違いはあっても、そこに壁はない(バリアフリー)のだという映画のテーマが伝わってきます。

 

ところが、後半部分に入ってから、それまでの勢いがなくなってしまったばかりか、なぜか登場した双子の姉を追いかけてタイに行ってみたりしたところから、急激にNHKっぽくなってしまいます。テーマが、障害者の性と自立から、障害者と家族の物語にすり替わってしまったのです。父や母の娘たちを想う気持ちも良く分かりますし、健常な姉と障害を持つ自分とのぎこちない関係や姉妹愛も分かります。ただそれはもう十分というか、バリバラや24時間テレビで流してくれたら良いのです。せっかく映画というスタイルを取り、主役の佳山明さんは間違いなく魅力的で、素敵な役者さんたちに脇を固められながら、強烈なスタートダッシュを切ったのですから、最後まで突っ走ってもらいたかったというのが率直な感想です。最後まで走り切るからこそ、人間の性や生き方のバリアフリーが見えてくるではないでしょうか。

 

 

以上はあくまでも個人的な感想なので、皆さんにはぜひ映画を実際に見て感じてもらいたいと思います。思っていたよりも面白かったと感じる人もいるでしょうし、期待しすぎてガッカリしたと思う人もいるはずです。実はこの1週間前に「ピーナッツバターファルコン」という、ダウン症の子どもが主人公の映画も観ており、そちらは全くの期待外れであり、改めて障害や病気をテーマとして扱う作品は難しいなと感じました。

2020年

2月

20日

先輩ができたよ

介護仕事百景を通して介護・福祉の仕事に就き、日夜頑張っている卒業生さんの近況を聞くと、その生き生きとした話しぶりから、転職が成功をしたことを知り、ほっと安どします。そしてほぼ同時に、温かく迎え入れ、一流の介護士に育ててくださっている現場の職員さんに感謝の気持ちを抱きます。Aさんは、昨年とある特別養護老人ホーム(特養)に転職し、そろそろ1年が経とうとしています。彼女が所属するユニットには、湘南ケアカレッジ(ケアカレ)の卒業生が多く働いており、彼女の指導にあたってくれたのも卒業生の彼・彼女らでした。

 

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2020年

2月

17日

「東京ケアウィーク2020」に行ってきました!

福祉用具専門相談員養成研修の準備の一環として、小野寺先生と「東京ケアウィーク2020」に行ってきました。東京ビッグサイトで開催されるこのイベントは、介護・福祉関係者のみが参加できる、介護業界最大級の商談展です。福祉用具や介護ロボットはもちろんのこと、介護食、健康維持運動機器、人材採用、介護ツアーなど、多様なサービスを提供する600社が集いました。今回はコロナウイルスの影響か、中国人のバイヤーの方々がほとんど参加していなかったこともあり、思っていたほど人は多くなく、ゆっくり落ち着いて各ブースを回ることができました。国際福祉機器展ほどの熱気はありませんが、とても有意義なイベントだったと思います。来年もまた参加したいです。

さすがに600社すべてを見ることはできませんでしたので、見て回った中でも印象に残った福祉用具やサービス等を簡単に紹介しますね。

まずは、とろみ調整食品である「つるりんこ」です。特徴としては、従来のものと異なりダマにならないため、見た目に透明感がり、無味無臭ということ。また、飲み込みやすく、とろみの質が安定しています。15秒ほどかき混ぜて、2分待つだけつくれますので、簡単ですね。牛乳や半固形の流動食用のものもありました

続いて、柔らかいにもかからず、見た目が美味しそうな「そふまる」です。従来のきざみ食やミキサー食とは異なり、素材の形をできるだけ残しています。実際に数品食べてみましたが、その美味しい見た目と食べてみたときの柔らかさのギャップに驚きました。特に、このソフトもちは、誰が見てもお餅ですが、食べてみると粘り気がなく喉に詰まる心配もなさそうです。聞いてみると、餅の成分は残しつつも粘り気だけを消しているとのことでした。

個人的に良いなと思ったのは、おやつの宅配サービスです。毎日、違ったおやつが一品届くので、バリエーションも豊富で利用者さんも喜ぶはずですし、買い漏れの心配がなくなるのもスタッフにとっても安心です。何よりも美味しそうですし、おかきも柔らかいので高齢者も食べやすいです。毎月、新作が出るそうなので飽きさせませんね。自分の家に毎日届けてもらいたいと思うぐらいです(笑)。小野寺先生もご自身が働いているデイサービスに届けてもらおうか真剣に検討していました。

介護付きの旅行サービスの「旅介」も面白そうでした。様々なツアーが企画されていて、介護施設に旅行ツアーがやってくるイメージです。最近はチケットが入手できたので、大相撲を観に両国国技館に行ってきたそうです。

ユニバーサル版のボッチャも面白そうでした。本物のボッチャで使われるボールよりも、柔らかくて、軽くて、表面がゴムっぽくなっているので持ちやすいそうです。ルールはシンプルですが、意外と難しくて、奥が深いので、お年寄りも熱狂してくれるとのこと。思っていたようになかなか行かず、たまに上手く行くことがあるのが楽しいそうです。それから、試合中にチーム内での相談も許されているため、コミュニケーションが生まれるのもボッチャの良いところだとのこと。

今回、実際に会場に足を運び、現場の福祉機器の担当者から話を聞き、実際に使ってみたり、手に触れてみたり、食べてみたりしたことで、より一層、その便利さや大切さが分かりました。やはりこうした最新の福祉機器は、情報として知る→直接教えてもらう→実際に体験してみるという段階的に理解が深まるのだと改めて思いました。これは吉藤オリイさんが開発している分身ロボットで私が体験したことと同じで、実際に分身ロボットを通して遠隔操作で寝たきりの方とコミュニケーションを取ってみて初めてその価値が分かるということですね。極論を言うと、自分が体験してみなければ、その価値や意味は理解できず、それを誰かに心から勧めることは難しいのです。このあたりを踏まえながら、福祉用具専門相談員養成研修をつくっていきたいと思います。

2020年

2月

11日

決めつけない

先生としての最大の資質は、決めつけないことだと思います。これはこういうこと、この人はこういう人と先生が決めつけてしまうと、それ以上に物ごとが上手く運ぶことはありませんし、生徒さんは伸びません。生徒さんにとって、それだけ先生は影響力が大きいということであり、時として先生の考え方や見かたが、生徒さんの人生を左右してしまうこともあるのです。だからこそ、先生という職業にある人たちは、物ごとを大きく広く考えられなければいけませんし、そのためにあらゆる教養や経験が必要なのです。

 

私が決めつけないことの大切さを学んだのは、子どもの教育にたずさわっていたときでした。毎朝、生徒さんやクラスについてミーティングをする中で、同じ生徒さんやクラスに対しても先生たちの意見は分かれることが多々あります。ある先生は「あの子は〇〇だからダメだ」と言い、ある先生は「あの子は◇◇は良くできている」と返し、ある先生は「あの子は△△と考えているんじゃないかな」など、様々な見解が出てきます。そのどれもが間違ってはいなくて、どれかが正しいという訳でもない。

 

そんな状況においても、その生徒さんのことをダメだと考えた先生に任せると生徒さんはダメになり、良くできていると考えた先生に任せると生徒さんは良くなり、といった具合に変わっていくことにある時、私は気づいたのです。それは想えば叶うということではなく、念ずれば通ずということでもない、先生がそう考えたことが生徒さんから引き出されてくる(引き出そうとする)のだと思います。だとすれば答えは簡単で、その生徒さんのことを良く考えている先生に任せるべきであり、全ての生徒さんのことを良く考えているのが良い先生なのです。

 

介護職員初任者研修の1月短期クラスに、4年ぶりに参加してくれた生徒さんがいました。彼は15歳の頃、ケアカレに来てくれましたが、いろいろあって途中で受講を断念してしまい、その後、もう一度チャレンジしましたが挫折、再々チャレンジで今回来てくれたのです。4年前の彼はまだ子どもで、介護にほとんど興味がなかった感じでしたが、久しぶりに会うとずいぶん立派になっていて驚きました。もうかれこれ介護の仕事を3年続けて頑張っているそうです。会話の節々から利用者さんのことを考えて仕事をしていることが伝わってきました。人間は変わりますし、成長するものですし、そもそも元々彼の持っていた資質なのでしょう。そのときダメであっても、決めつけずに、時間をかけてでも、引き出してあげることが大切なのですね。

 

介護福祉士の試験が終わって、自己採点のために教室に来てくれた生徒さんも合格点に達していて驚かされました。残念ながら昨年は合格できず、今年が2回目のチャレンジでした。筆記試験対策講座にも通ってくれていたのですが、途中の確認テストの点数も少しずつしか上がって来ず、かなり心配していました。でも、彼女は最後まであきらめずに頑張ったのですね。それまでに解いた問題集も復習し、過去問も何度も解き、小野寺先生がくれた要点プリントも何度も見直したそうです。さらに当日は、形から入ると言って、髪を黒く染めて臨んだそうです。どれだけ言葉を尽くしても、彼女が合格点に達していることの驚きを彼女のことを知らない方に伝えるのは難しいのですが(笑)、とにかく決めつけてはいけないということです。先生方が決めつけることなく応援してくれたからこそ、彼女はその力をいかんなく発揮してくれたのだと思います。

2020年

2月

06日

「ボクはやっと認知症のことがわかった」

認知症の診断をする「長谷川式スケール」を開発した長谷川医師が認知症になる。木乃伊(ミイラ)取りが木乃伊になるという表現は相応しくないかもしれませんが、それこそが認知症の本質であり、誰しもが避けては通れない道なのです。かつて大学病院の先輩から、「あなた自身が同じ病気にならない限り、あなたの研究は本物じゃない、認めない」と言われたことがあり、それに対して長谷川氏は今なら「ボクも本物になりました」と言えますねと答えています。長谷川氏は認知症を研修してきた第一人者のひとりとして、また自ら認知症になった当事者のひとりとして、客観的かつ主観的に認知症について語っているのが本書の素晴らしさであり、稀有なところです。

 

長谷川氏は実際に認知症になってみて、感じていること、思っていることを素直に語ります。

 

認知症を公表してから2年が過ぎて、かなり症状が進んできているとの自覚はあります。ただ、人間は、生まれたときからずっと連続して生きているわけですから、認知症になったからといって、周囲が思うほど自分自身は変わっていないと思う部分もあります。そもそも認知症になったからといって、突然、人が変わるわけではありません。昨日まで生きてきた続きの自分がそこにいます。

 

これはともすると抜けがちな視点です。もしかすると、長谷川氏でさえ自らが認知症になる前は認知症でない人と認知症の人の間に明確な境界線を引いていたのかもしれません。そうではなく、全くいやほとんど同じ人間なのです。認知症になる前となった後はつながっているのです。それまでの人生とこれからの人生は地続きなのです。

 

実際に自分が認知症になってみて実感したことは、認知症は、いったんなったら固定したもののように思われがちですが、そうではないということです。たとえば、ボクの場合、朝起きたときは調子がよいのだけれど、だんだん疲れてきて、夕方になると混乱がひどくなる。でも、ひと晩眠るとすっきりして、またフレッシュな新しい自分が蘇ります。つまり、そのときどきの身体や心の具合によって、認知症は良くも悪くもなる。だから、「一度なってしまったらおしまい」とか、「何もわからない人になった」などと思わないでほしい、特別扱いしないでいただきたいと思います。

 

長谷川氏の場合は、朝は調子が良くて、夕方になって次第に疲れてくると悪くなる。それからひと晩眠るとリセットされるというように日内変動があり、決して固定された状態ではないということです。つまり、認知症になったからといって、それまでと違う人になるわけではなく、固定された状態になるわけでもない。それまでと同じ自分の人生が続き、そして良くなるときも悪くなるときもあるということです。

 

 

本書で語られていることは、少し認知症を学んだ人にとっては当たり前のことかもしれませんが、実際に認知症になった長谷川先生が言うと説得力がありますね。同じことでも誰が言うかが重要ですが、さらにどのような状況にある誰が言うかはさらに重要です。認知症研修の第一人者が自らの人生を使って導き出した認知症のすべてを、ぜひ読んで知ってください。そこにはまだ私たちが見ぬ、けれどもいつかは見ることになる世界が広がっているはずです。

2020年

2月

02日

愛を感じた

介護福祉士筆記試験対策講座が終わりました。佐々木先生から始まった襷(たすき)を新倉先生が受け継ぎ、望月先生、小野寺先生へとつながり、最終走者である藤田先生が見事にゴールしてくれました。まるで駅伝の青山学院大学のような豪華なメンバーですね。最終日には、金色の鉛筆(今年は先生方が心を込めてケアカレシールを貼ってくれました)と消しゴムを合格祈願として生徒さんたちに配りました。ひとりでも多くの生徒さんたち、いや願わくは全員の生徒さんが介護福祉士になれますように。

 

ここまでくれば、あとは何としてでも合格してもらいたい気持ちで一杯です。たとえ合格ラインギリギリであったとしても、合格は合格です。小野寺先生もよく言うように、72点介護福祉士とか110点介護福祉士とか資格証明書に印刷されるわけもなく、何点で合格しようが介護福祉士は介護福祉士なのです。もちろん、介護福祉士の試験を受けるために勉強したことには意味や価値がありますが、合格したからこそ世界が変わる、合格しなければ見えなかった世界があることも知ってもらいたい。

 

「介護福祉士に合格してから、人が変わったように頑張っていますよ」

 

昨年末、町田で介護・福祉・医療に関わる人々の忘年会に参加させてもらったとき、卒業生さんが働く事業所の代表から聞いた言葉です。卒業生の彼は、昨年度の介護福祉士試験に合格しました。試験直後に自己採点をしてみて、これは落ちたと思い、自暴自棄になっていた時期もありました。そのときは、「介護福祉士なんて資格はク〇だ」とまで言っていたのですが(笑)、奇跡的にギリギリで合格することができたのです。それ以降の彼は、今まで以上に周りが見えるようになり、自ら考えて行動するようになったそうです。自信がついたのと、自覚が芽生えたのです。介護福祉士に合格したぐらいで大げさな、と思われるかもしれませんが、実際にそうやって見える世界が変わる人も多いのです。

 

 

望月先生が答案用紙に書いてくれたコメントを読んで、「愛を感じました。勉強しなければと思いました」と言ってくれた生徒さんがいました。70名の生徒さんたち全員にこれだけのメッセージを書くのに、どれだけの時間がかかったことでしょう。佐々木先生もひとり一人にメッセージを書いてくれました。そこに合格してほしいという愛を感じないわけにはいきませんよね。新倉先生も小野寺先生も藤田先生も愛のある授業をしてくださいました。私たちが生徒さんたちに渡した愛という襷をかけ、3月25日(水)はぜひ合格というゴールにたどり着いてもらいたいと願います。

2020年

1月

28日

台風でのひとりごと(村井先生)

ここ最近の災害、とりわけ風水害において、甚大な被害が各地で起きたことは記憶に新しい。

 

梅雨前線と台風の影響から強烈な雨が降ることで、河川の氾濫や浸水、土砂災害がいつのタイミングで起きても不思議ではない。それは西日本であれ、東日本であれ、どこでも起こり得る気象現象である。いつの日か、自分の住む地域も浸水や土砂災害に見舞われるのであろうと考えると、気が気ではない。

 

近年、勢力の強い台風が発生する原因のひとつに、海水温度の上昇が関係していると言われている。しかし、海水温度を下げるような取り組みや生活スタイルに舵を取っているかと問われると、何ひとつしていない。それでいて、梅雨や台風の時期は気が気でないと考えているのである。他国の異常気象による自然災害をメディアで目にする機会も多くなった。日本だけではなく世界的な取り組みが必要なのであろうと考えさせられる。

 

そんな我が国の風水害のニュースを見ていると、「自助」という言葉が多く使われていることに気がついた。「自助」とは、災害による被害を少なくするために備え、個々人が自己の身の安全を守ることを言い、安全対策の手立てを自己で行い、身の安全に取り組むことで、個人単位での防災・減災につなげる考えである。

 

ニュースを見てゆくなかで、「要配慮者利用施設」に入所している高齢者の避難について、「避難する場所」、「避難に要する時間」、「人員の確保」が課題だと報じられていた。水防法では、災害時に手助けが必要な人がいる「要配慮者利用施設」対し、避難計画の作成と訓練実施を義務付けている。国土交通省によると、20193月時点で全国の対象施設67901カ所の施設のうち、避難計画作成済みは36%、訓練実施は13%という結果になっている。つまり、24444カ所の施設が避難計画書を作成し、訓練実施は8827カ所施設ということになる。

 

ここでは、計画書の作成や訓練実施について論じるつもりはない。ただ、手助けが必要な人がいる「要配慮者利用施設」には自力での避難が容易ではない方が数多く入所しているという事実がある。そのような 「要配慮者利用施設」がある地域でひとたび大雨洪水警報が発令された場合、少なからず避難を開始していないと甚大な被害を被ることが予測される。

梅雨前線並びに台風の影響による強烈な雨というのは、地震とは違い、ある程度の予測が可能である。

 

しかし、課題であると言われる「避難する場所」、「避難に要する時間」、「人員の確保」を達成するには以下が必要になるであろう。それは、迫りくる脅威のなかで、安全な場所を確保し、時間を要さずに移動するために人員を投入するのである。皆さんはこれらが可能であると思うだろうか。それが出来ないから報道にあるように課題なのである。そこで、河川の氾濫、浸水、土砂災害が予想された場合、前日避難という方法をとることでこの課題は達成できないだろうか。

 

しかし「明日、台風が上陸するので計画避難を開始します」という施設があるとは考えにくい。仮に前日避難を実施するとなると、施設職員は招集され、総出で上階または近くの避難場所へ移動することになる。場合によっては、台風が過ぎ去るまで利用者に付き添い安全を確保する必要がある。この前日避難は理想的な防災・減災であると言える。しかし、「要配慮者利用施設」だけの自助努力だけでは、マンパワー及び時間、費用と言った負担が大きく現実的ではない。さらに職員の家族の安全を蔑ろにすることはできない。

 

そこで、ひとつ希望を投じたい。高齢者の避難について、入所している高齢者の家族の協力が得られないものだろうか。先ほどの「避難する場所、避難に要する時間、人員の確保」という課題を遂行するには、人的・物的資源が豊富に必要になる。警報発令にともない、避難計画に沿って、避難を施設職員だけで遂行するには課題が多すぎるのである。それは課題ではなく必然ではないだろうか。

 

「共助」という視点で地域の方々の協力を得るという方法もあるが、地域の方々は自己の「自助」で精一杯になるであろうと推察すると、地域の方々の協力は難しい。そこで、入所している家族の協力が得られないものかと考える。家族の負担が増えるという見方が先行するかもしれないが、入所する家族には有益な面が2つある。

 

ひとつは、家族が傍に居てくれることで入所する家族の心の支えになる。

 

もうひとつは、避難に際して移動と付き添いの人員になるのである。

 

可能ならば、水害の及ばない地域に住む家族が、自宅へ一時的に家族を避難するという方法は有効であり有益であると言える。どのような災害においても、迅速な避難には多大な労力と費用が伴う。それを施設ならびに施設職員だけのマンパワーで遂行するには限度がある。大雨洪水警報の発令をもって避難を開始する頃には、公的機関(警察・消防・自衛隊)の協力は得られないものと捉えたほうが無難である。

 

 

近頃、多くなりつつある水害での浸水、土砂災害について、施設のあり方をソフト面から捉え直す必要があるのではないだろうか。個人が自分を守り、家を守り、家族を守ることで、地域や社会が守られてゆくのである。施設に家族が入所しているのであれば、その家族を災害から守ることも家族の役目ではないだろうか。近頃の風水害による被害は甚大で、「自助」と「共助」という言葉以外に「家族」を組み合わせた柔軟な考えと実践が求められているような気がしてならない。

 

(村井)

2020年

1月

23日

知らないからこそ、寄り添える。押しつけないからこそ、頼られる。

最後のケアカレナイトが行われました。昨年2月、藤田先生の「アンガーマネジメント講座」から始まり、乙武洋匡さんや吉藤オリイをはじめとしてたくさんのゲストスピーカーにも登場いただきながら、最後は奥玲子先生の「在宅で死ぬということ」で幕を閉じました。締めくくりに相応しい、笑いあり涙ありの心を動かされる講座でした。奥先生の話は流れるようにテンポが良く、死というテーマを扱っているにもかかわらず決して湿っぽくならない、爽やかな生きるエネルギーを感じさせてくれます。だからこそ、ターミナルケアの現場で頼りにされて、長きにわたって活躍できるのでしょう。その話す姿を見るだけで、ターミナルケアを支える私たちには何が求められているのか?が分かる気がしました。

 

在宅で死ぬことを考えたとき、本人だけではなく、多くの介護者は不安を感じると思います。苦痛を和らげることができるのか、末期は苦しんでしまうのではないか、家族の負担が大きくなるのではないだろうか、などなど。グループワークでもたくさんの不安が出てきました。だからこそ、ほとんどの人々は在宅で死にたいと願っていても、叶わないという現実があるのです。それに応じる形で、奥先生は在宅で死ぬメリットとデメリット、そして病院で死ぬメリットとデメリットを挙げて、それぞれの良さと足りなさを説明してくれました。

 

 

その上で、在宅で死ぬことにまつわる素晴らしいストーリーを実際の経験を元に語ってくれました。有名な大学に進学したにもかかわらずギター奏者になると言ったことに反対したことでわだかまりが生じてしまい、疎遠になってしまった孫のライブに最期に足を運んだ話、子どもたちが小さい頃によく遊んだ江の島の海に子どもたちと最期に行った話、最期に大好きなお風呂に入って亡くなった話、大好きな人の腕の中で死んだ友人の話、北島三郎を聴きながら死んだ方の話などなど、奥先生にしか話すことのできないリアルなターミナルケアの現場を教えてくれました。

 

また、落ち着いてお見送りをするためには、死の過程を知っておくことが大切だと奥先生は言います。たとえばがん患者さんが亡くなるまでは以下のような過程を経ます。最期に“息を引き取る”という表現がありますが、まさに息を吸って人は亡くなるそうです。生まれてきたときは「オギャー」と息を吐いて始まり、死ぬときは息を吸って旅立つのですね。

ターミナルケアを支える私たち(介護職)にできることとして、「知らないからこそ、寄り添える」、「押しつけないからこそ、頼られる」という2つの視点を教示してくれました。特に2つ目の視点は、打ち合わせの段階から興味深いと思っていました。ターミナルケアだからこそ何かをしてあげなければならないと思い、ともすると自分の考えや想いを押しつけてしまいがちになることもありますが、本人の意思や家族の気持ちを尊重し、そっとしておくことも大切なのです。それはドライということではなく、放っておくということでもない、必要なときだけ全力で支えるという距離感でしょうか。「知らないからこそ、寄り添える」、「押しつけないからこそ、頼られる」は、ターミナルケアにおいてだけではなく、介護職として仕事をする上での心構えと考えても良いでしょうし、もしかすると介護職としてだけではなく、人として生きる上で大切なことなのかもしれません。

 

 

最後に、ケアカレナイトの企画から準備、当日の司会進行まで、1年間務めあげてくれた影山さんにも拍手を。全てが初めての経験で大変だった思いますが、明るく元気に笑顔で頑張ってくれました。きっと新しい自分に気付けたと思います。生徒さんたちが来てくれて、先生が話してくれてこそ学校はあることを知れたと思いますし、そこに生まれる人と人とのつながりこそが私たちの喜びになることを感じてくれたはずです。

 

ケアカレナイトも最後ということで、卒業生さんからもお土産をいただきました。そのお心遣いが嬉しいです。ありがとうございます!

2020年

1月

20日

オリジナリティあふれる介護

卒業生のTさんが遊びに来てくれました。よほど話したいことがたまっていたのか、マシンガンのように息つく間もなく、今の施設や仕事について語り尽くしてくれました。実は前回来てくれたときは、今のフロアから異動するように言われて、辞めようかどうか迷っているという相談でした。まずは別のフロアに行って頑張ってみて、それでも合わなかったら辞めれば良いのではとアドバイスさせてもらいました。その後、しばらく音沙汰がなかったので、どうなったのかと心配していたところ、何と今はそのフロアのリーダーになったとのこと。予想もしなかった嬉しい展開であり、彼も今行っている業務改善について生き生きと教えてくれました。

 

彼は今のフロアに異動してから、できるだけ利用者さんにオムツを外して生活してもらおうと考え、数週間かけて自分で排泄のケアに入りながら、利用者さんの排泄の時間を記録していったそうです。そうしてデータを集積してみると、大体決まった時間に排泄があることが分かり、その時間に合わせて(排泄の予定時間よりも少し前に)利用者さんをトイレ誘導することにしたそうです。Aさんは何時何分ごろに、Bさんは何時何分ごろにとそれぞれ排泄の時間帯は異なるのですが、そうすることでオムツを外すことができたばかりか、自分で立ってトイレまで行って排泄する自立支援のケアが少しずつできるようになったそうです。

 

何と言っても喜んでくれたのは利用者さんでした。それまでは便意をもよおしてもトイレに連れて行ってもらえず、「オムツにして」と言われていましたが、先回りしてトイレに誘導してもらえるので自分の意思と力で排泄を行う、人間らしい生活が戻ってきました。寝たきりにされていた利用者さんが、少しずつ自分で動く(動ける)ようになったりしました。また、オムツをつけっぱなしのフロアと比べて、利用者さんの便の質も変わってきたそうです。看護師さんが、「他のフロアの利用者さんは黒い便ばかりだけど、このフロアの利用者さんはそうではないから不思議だ」とも言っているようです。

 

排泄のケア以外にも、入浴も入ってもらうタイミングをずらすことで、ひとり当たり時間をかけてゆっくりと入ってもらえるようにもなりました。そうした工夫をすることで、たしかに場合によっては分刻みの仕事になってしまうこともあるけれど、自分たちの都合で一斉にトイレ誘導して、それ以外の時間はオムツにして、余った時間は職員同士でしゃべっていたりするならば、忙しくても構わないと彼は言いました。

 

彼とは別のフロアに、もうひとり頑張っている卒業生さんがいるそうです。彼も利用者さんがトイレに行きたいと言えば誘導し、起きたいと言われれば起こして、利用者さん本位の介護を提供しようとしているそうです。そんな彼のことを、フロアの主任が「どこの学校で教えてもらってきたのか分からないけれど、自分のやりたいようにやってしまうオリジナリティの部分があるのですよね」とリーダー会議にて発言したそうです。ここで言うオリジナリティとは、独創的という良い意味ではなく、自分勝手というニュアンスです。リーダーとして会議に参加していたTさんは、自分も同じ学校何だけど…と思いつつ、利用者さんのペースに合わせて自立支援をうながすケアをすると、この施設ではオリジナリティがあると暗に揶揄されるのだと驚いたそうです。

 

 

私たちはその話をしながら大笑いしました。それほど難しいケアをしているわけではなく、利用者さんのペースに合わせて自立支援をうながす介護をしようとすると、「それでも地球は回っている!」と言ったガリレオ・ガリレイのような扱いを受けて迫害されてしまう現状があるということです。それでもケアカレの卒業生さんが、学校で教えてもらったことを現場でも実行しようとしてくれていることは誇らしく、いつの日かそれがオリジナリティと言われない当たり前のケアになることを願ってやみません。

2020年

1月

15日

「THE UPSIDE 最強のふたり」

7年前に公開され、日本アカデミー賞の外国語映画賞などを受賞した「最強のふたり」のリメイク版です。オリジナル版はフランス映画でしたが、今作はアメリカのハリウッド作品となります。正直に言うと、今回のリメイク版の方が断然良かったです。オリジナル版が評判倒れの内容の薄い作品に感じられたのは今でも覚えていますが、こちらは期待を上回る出来栄えに仕上がっています。普通はオリジナル版には勝てないものですが、リメイクした甲斐がありましたね。障害者と介助者という関係ではなく、ひとりの人間同士として関わることの大切さが、ユーモアを持ってきっちりと描かれています。細部に登場するシーンや会話も機知に富んでいて、とにかく最後まで共感しながら観られる映画になっています。

 

リメイク版の方が遥かに良かった理由のひとつとして、登場人物(俳優や女優)の魅力があると思いました。特に、パラグライダーの事故で妻を亡くし、自身も四肢麻痺となった大富豪のフィリップを演じたブライアン・クランストンの熱さを身体の内に抑えた演技が素晴らしいです。一代で会社を立ち上げて大成功した行動力と勇気、明晰な頭脳を持っているにもかからず、一見すると首から下の動きを失い、何もできない人でしかない、その社会的または人間的なギャップを見事に演じています。彼が介助者に介護や福祉についてこれっぽっちも興味のないデルを選んだのも良く分かる気がします。

 

彼が嫌ったのは、障害者だからといって先回りされることや、子ども扱いされることだと思います。そういった配慮のようで本人にとっては配慮ではないことへの憤りに近い嫌悪感を、物理的なことはほとんど自分ではできない状態になって初めて、強く感じたのではないでしょうか。これは距離感の問題とも少し違って、なれなれしすぎたり、気が利かなくても良いということではなく、心理的な壁の問題です。偏見の壁と言ってもよいかもしれません。デルはフィリップに障害があると分かっていながらも、偏見を持たない稀有な人だったということです。

 

フィリップとデルの出会いのシーンが象徴的です。面接にやってきたデルは、とある事情があってフィリップに対して不採用のサインを求めます。「全身麻痺だからサインできない」とフィリップが答えると、「じゃあゆっくり書けば」とデルは返し、その返しにフィリップはクスッと笑います。このやり取りだけで、デルの心の中に偏見がないと見抜いたフィリップは採用することに決めたのです。

 

 

ほとんどの応募者はフィリップの目にかなわなかったように、偏見を持たないということはかなり難しいのです。大人になればなるほど。子どもがはっきりと物を言ってしまうのは、偏見を持たないからです。フィリップのような立場になってみると、はっきりと言われたことではなく、周りの人々の内にある偏見に深く傷つけられることに気づくのでしょう。フィリップとエドの障害者と介助者という役割から見ると、ハラハラさせられるようなやり取りはこの後も続くのですが、私たちの心配をよそに彼らは仲を深めていきます。フィリップは古くからの友だちだったらそうする(言う)ような介助を望んだのです。

2020年

1月

08日

「在宅で死ぬということ」ターミナルケアを支える私たちには何が求められているか?

「自宅で看取ることができると、ご家族は涙を流しながらも『ありがとう』『よかったです』などの言葉を口にされます。」

 

在宅ターミナルケアの現場で長きにわたって活躍するケアマネジャー・奥玲子先生は、そう語ります。

 

1950年代には80%以上の方が自宅で亡くなっていたのに対し、医療が著しく発達した70年後の2020年現在は、およそ80%近い方が病院で亡くなっています。しかし、半数以上の方は、病院ではなく自宅で死にたいと考えているのです。この矛盾はどこから生まれているのでしょうか。さらに、病院で死ぬことと、在宅で死ぬことは、何が違うのでしょうか。そして、ターミナルケアを支える私たちには、何が求められているのでしょうか。

 

以下のような方はぜひご参加ください。

⇒ターミナルケアについて詳しく学びたい

⇒終末期の利用者さん(患者さん)やその家族にどのように接するべきか知りたい

⇒人の死について深く考えてみたい

 

→ケアカレナイト最終回の詳細、お申し込みはこちら