2025年
6月
29日
日
「アロマテラピーを基礎から楽しむ」

6月16日(月)、DonQo Hand 碧こと冨田みどりさん(ケアカレの卒業生)による「アロマテラピーを基礎から楽しむ」の講演イベントが行われました。参加者が全員女性という珍しいイベントでしたが、それだけ女性は香りに敏感であり、興味があるということでしょう。アロマストーンをつくりながら、アロマの歴史や精油とハーブウォーターの違い、精油の作成法や成分表について、基礎から教えてもらって、唯一の男性である運営の私も非常に楽しく学ばせてもらいました。特に香りのイメージングは面白く、香りにも多くの種類があり、それぞれに呼び起されるものが異なることを体感しました。
自分の香りの好みを知るために、8種類の精油の香りがしみ込んでいるムエット(細長い紙)を渡され、ひとつずつ香りを味わうように嗅いで、そこからイメージ(想起)される物や人、色、風景、思い出などを記していきます。小さい頃からアレルギー性鼻炎を患っている私は、それほど匂いに関して敏感なタイプではなく、どちらかというと鈍い方だと思いますので、他の人たちと比べるとイメージされる範囲も狭いはずですが、それでもあらゆる感情や思い出が蘇ってきました。
たとえば、7番目に渡された香りはハッカのそれで(あとでペパーミントの香りであることが発表されました)、小さい頃にハッカの飴が苦手だったことを思い出しました。友だちの家に行くと、飴をくれて嬉しかったのですが、たまにハッカの飴をくれることがあり、残念だと感じたあの嫌な感情が蘇ってきました。他の味の飴は甘いのに、なぜハッカだけ苦いのか、なぜスース―するのか、そしてなぜ皆は美味しそうに食べているのかが分かりませんでした。ある香りから昔の思い出が蘇ってくることを、「プルースト効果」と呼ぶそうです(由来は検索してみてください)。
私がいちばん好みだったのは、2番の柑橘系の香りでした。日本人の90%は柑橘系の香りが好きだそうですが、実は10%は嫌いな人もいるということです。これもプルースト効果が影響をしていて、ミカン農家で育った人が小さい頃に働かされた嫌な思い出が思い出されるという理由もあるようです。つまり、自分が好きだと思った良い香りも、嫌いな人もいれば、苦々しい思い出が浮かんでしまう人もいるということです。絶対的な良い香りなどはこの世に存在しないということでしょう。
認知症の人たちをリラックスさせる効果があるとされている香りもあれば、夜になると覚醒して歩き回ってしまう利用者さんを落ち着かせる香り、逆に日中は気分をシャキッとさせる効果のある香りもあると言います。アロマは薬ではないため効能をうたうことはできないのですが、その代わり、香りは副作用も少ないというメリットがあります。介護の現場でも試してみて、効果が感じられなければやめれば良いのです。もちろん、そのためにはアロマテラピーについてもっと深く学ぶ必要は出てくるはずです。
今回、アロマテラピーの基礎を学んだことで、奥深さも知りました。ハンドマッサージについても詳しく学びたい方も多くいて、いつかまたイベントでやってみたいなと思います。
かいザニアの講演イベントは今回でラストとなり、来月からはケアカレナイトが復活して、夜の時間帯(18:30~20:30)の開催になります。
7月31日(木) 介護技術のリスキリング―ベッド上での着脱・オムツ交換 小野寺祐
8月27日(水) 保護犬・猫×福祉のゆくえ 高木真備
9月24日(水) 緊急時の応急対応 村井毅
というラインナップを予定しております。
詳細は後日、発表させていただきますのでお楽しみに!
2025年
6月
23日
月
教えを乞う

今年度からスタートしたシン・ボディメカニクス講座(1級)の生徒さんたちが成長する姿を見て、この歳になって、ようやく教えを乞うことの大切さを知りました。教えを乞うというと大げさかもしれませんが、教えてもらうことでコツが掴める、上達できたという体験をしました。独学で練習していたとしたら辿り着かなかったかもしれない、辿り着いたとしてもかなりの時間を要していたであろう点まで、一気に到達するのです。「教えてください」と言って、自らの意思で教えてもらいに行くことで、自分の人生が大きく広がるのです。
思い返せば、私は教えを乞うたことがほとんどない人生でした。教えてもらうことはあっても、教えを乞うたことはあまり記憶にありません。自分でできるという自信があるからでしょうか、それとも教えてもらうのは恥ずかしいというプライドが高いからでしょうか。小さい頃から教えを乞うことが苦手な子どもでしたし、部活や勉強も見様見真似で自力でやりたいタイプでした。それは大人になってからも同じで、上司や自分よりも優れている人に直接、「教えてください」とお願いすることはありませんでした。もちろん、人一倍練習や勉強をしますし、仕事も頑張るのですが、自分だけの力では限界があるのです。
なるべく早い時点で教えを乞うことが大切だと今は思います。自分で努力することなく、最初から何でもかんでも教えてもらおうとする他力本願とは違って、もちろん自分でも練習・勉強しつつも、早めから教えを乞うことです。そうすることで、上達のスピードも速く、しかも正しい方向に上達することができます。たとえば、私は若い頃ビリヤードをやっていましたが、かなりの時間を費やしたにもかかわらず、上手くなることができませんでした。最終的にはフォームに問題があったからです。それは早い段階から熟練者に教えを乞うていれば矯正できたはずですし、時間が経ってしまうと身体が変に覚えてしまっているので改善が難しいのです。
私たちは自分で何とかする、見て覚えるなどを美徳とする傾向にありますが、それは人生の彩りや奥行きを失わせる可能性があると思います。プライドは側に置いておいて、もっと早い段階で教えを乞うていれば、もっと(早く)上手くなったのにという後悔は多いです。30年前の自分に伝えるとすれば、「早く教えを乞いなさい」ではないでしょうか。たとえ教えを乞うためにお金が多少かかるとしても、実はできるだけ早く教えを乞うことで、お金も時間も浪費せずに済みます。若い人ほどドンドン教えを乞うべきですし、歳を取っても教えを乞う必要は十分にあります。教えを乞うことは、第三者の知識や技術を借りて、自分の人生を充実させることなのです。
2025年
6月
15日
日
ハッピーバースデーソング

今年度からの新しい取り組みとして、実務者研修の外国人専用クラスを開催しています。コロナ騒動以降に特定技能として日本にやって来て、介護の現場で働いて数年になる外国人がそろそろ介護福祉士を見据えなければいけない時期に来ていることもあり、実務者研修を受けたいという要望が高まっていたからです。これまでも通常のクラスに入って日本人と一緒に研修を受ける外国の方もたくさんいましたが、本音としては、外国人専用クラスがあるならそちらの方が安心するということです。個人的には、介護の現場がそうであるように、日本人に混じった方が良いと考えていますが、外国の人たちにとってはやはり不安もあるようです。添削課題や授業時間等はそのままに、授業の内容はゆっくりと丁寧に、漢字にはふりがなを振りながら進めてきました。
私たちにとっても初めての外国人専用クラスですが、一緒に進めているうちに、少しずつ分かってきたことがあります。たとえば、当たり前ではありますが、それぞれの日本語力には大きな差があることです。日本語検定の3級(N3)や2級(N2)といった区分けはありますが、同じN3でも限りなくN2に近いN3とギリギリN3に受かったというレベルのN3があるのです。これはあくまでも私の体感ですが、N3レベルだと片言というか、授業の内容を理解するのはかなり難しく、N2レベルでやっとついてこられるかなという感じです。それでもあきらめず、休むことなく参加している彼ら彼女たちは、相当な覚悟を持って日本に来ていることが伝わってきますので、私たちもそれに応えるべく、全員が修了できるようにサポートしたいと思います。
外国人クラスならではの面白さもあります。先日、たまたま授業の日に誕生日を迎えた生徒さんがいて、ケアカレ恒例の誕生日お祝いをしました。サプライズでバースデーソングを歌って、誕生日ケーキを渡すのですが、通常の日本人クラスですと先生が「それじゃあ、バースデーソングを歌ってお祝いしましょう!」と促してはじめて生徒さんたちは歌い出すのですが、今回は先生が「今日は〇〇さんの誕生日です!」と言ったそばから、誰かが歌い始め、すぐさま全員が続いたのです。これにはビックリしたのですが、さらに驚かされたのは、バースデーソングが私たちがいつも歌っているそれと少し違ったことです。出だしから途中までは同じで、(やはり世界共通なのだ)と安心してたら、最後の部分の音程が異なっていて、何だかカッコ良かったのです。「天使にラブソングをみたいだった」と望月先生は表現してくれました。
ハッピーバースデーソングを歌って誕生日をお祝いするという文化は世界共通でしたが、歌が少し異なっていたように、私たちは基本的には通底する部分でつながりつつ、違いのある部分に関してはお互いに面白がると良いのではないでしょうか。この先、介護の業界は特に、外国人の力を借りないと成り立たなくなるのは明らかです。そのとき、この違いを面白がれる力がお互いに必要になってくるはずです。違いを受け入れられるかどうかはもっと後の問題で、まずは違いを面白がるところからスタートするべきです。湘南ケアカレッジが開校して13年目に入り、時代が変わりつつあるのを感じています。そういえば、お祝いに渡したショートケーキは食べてくれたのでしょうか。美味しかったかなあ。
2025年
6月
09日
月
狭く深く、介護・福祉教育を提供する

183期生が無事に修了しました。皆さまお休みすることなく、全員が最後まで完走してくれました。振り替えをしたことによって、最終日に修了できない生徒さんがいるのは当たり前の風景ですが、今回のクラスは誰一人振り替えすることもなく、全員で最終日を迎えることができたのです。それによって毎日顔を合わせることになり、クラスメイト同士の絆は強まりますし、絆が深まるからこそお休みしたくなくなります。僕も25年ほど前にホームヘルパー2級講座を受けたときそうでしたから、良く分かります。学校が楽しいから休みたくないのです。素晴らしいクラスでした。研修が終わってから、生徒さんのひとりが色紙を持ってきてくれました。感謝しかありません。
最終日の筆記テストが終わった後、打ち上げも行われました。「どこのお店が良いですか?」と事前に相談を受けたので、「16時から入れるお店としては、こことあそこがありますよ」と候補をお伝えしました。その中に、私の友人が最近店長になった小田急線町田駅北口から出てすぐのところにある「鳥貴族」を入れたところ、そこに行くことになったそうです。私からも「うちの生徒さんたちが16時ぐらいに行くからよろしく」と連絡を入れておきました。
ところが当日、遅れて教室を出発した生徒さんに聞くと、「お店に電話したら、まだ開店していないみたいで、ひとまず角の居酒屋で飲んでいる」とのこと。私の友人が店長になった「鳥貴族」は16時から開いていると聞いていたので不思議に思って調べてみると、何と「鳥貴族」は町田に3店舗あって、北口にある「鳥貴族」は小田急町田2号店という名称だそうです。町田北口店はたしかに開店が17時からになっています。ややこしいですね。生徒さんたちは北口店に電話してしまったのでした。
そんなことはどうでも良いのですが(笑)、私がきちんと調べて、「鳥貴族の小田急町田2号店は16時から開いている」と伝えていれば何の問題もなかったので、角の居酒屋まで謝りに行きました。すると「先生も一杯飲んでいきませんか?」とお誘いいただきました。一旦、教室に帰り、後片付けと明日の準備をしてから居酒屋に戻って、卒業生さんたちと久しぶりに教室の外で個別に話すことができました。教室では見せていなかった顔を見せてくれる生徒さんもいて楽しかったですし、生徒さんと学校という関係を超えて、ひとりの人間同士として話せるのも嬉しいです。
研修終了後ぐらい、本当はこうして皆さんとゆっくり語りたいものです。そのためには、打ち上げが開催されて、誘ってもらえるという2つの条件をクリアしなければいけません。決して簡単ではありませんが、どのクラスでも打ち上げに参加できるような学校にしていきたいと思います。私たちは町田にしかない小さな介護の学校です。介護・福祉教育を広く浅く提供するつもりは最初からなく、狭く深く、地域に根付いて、生徒さんたち一人ひとりと向き合って行きたいと心から願います。
2025年
5月
29日
木
「イラっとしない・させないコミュニケーション技術」藤田省一

ゴールデンウイーク最終日に、かいザニアの講演イベントとして、藤田省一さんをゲストスピーカーに招き、「イラッとしない・させないコミュニケーション技術」について話してもらいました。介護現場で働く人たちだけではなく、あらゆる仕事に就いて働く人々にも聞いてもらいたい、とにかく深くて良い内容でした。
今から6年前、ケアカレナイトにて、藤田先生には「アンガーマネジメント」について教えてもらいましたが、それをさらに進化させたような突っ込んだ話でした。私自身も、最近年齢を重ねるごとにイラっとする回数が増えてきていることもあり、身につまされる話であり、自分のべき思考をもう一度見つめ直してみる良い機会になりました。
私が最近イラっとしたのは、お風呂に入る時間が遅くなったことです。うちの家族は(私も含めて)長風呂で、お風呂に入ると1時間ぐらいは出てきません。出て来ても洗面所で髪を乾かしたり、最近大学デビューした息子はお肌の手入れなんかもしている始末で、次の人がなかなか入れません。そうこうしているうちに時間が経ち、10時ぐらいから1人目が入り始めたとしても、最後の人がお風呂に入るのは12時を回っています。1人目が入るのが30分遅れたとすると、最後の人がお風呂に入って就寝できるのは深夜2時近くということになります。私が最後に入ることが多いのですが、さすがにお風呂上りにチンタラとお肌の手入れをしている息子にイラっとして、「それいつまでかかるの?」と嫌味を言ってしまいました。大人気ないですね。
こんなしょーもない話ですが、研修で藤田先生に教えてもらったことに沿って、自分の感情について分析してみました。あとからお風呂に入る人のことを考えられない息子に対する失望感、いや、私が早く入って寝たいのに入れなくて嫌だという一次感情があったと思います。もう少し長くお風呂に入りたい気持ちも分かるのですが、自分ひとりで暮らしているのではないのだから、周りの人たちのことも考えて、早めに切り上げてバトンタッチすべきという「べき思考」も私の中にあります。
さらに深掘りすると、父親であり年長者である私に主導権があり、敬われて尊重されるべきだという権利意識や権力志向もあったはずです。もし私がホームステイや居候としてこの家に住んでいるとしたら、自分が一番最後になって寝るのが遅くなろうが、嫌だと思うことはあっても、イラっとして文句を言ったりしませんからね。この最後の部分が、自分には見えていない一次感情であり、自分をイラっとさせるべき思考なのですね。
このようにして、自分の一次感情やべき思考と向き合って考えることは大切です。プライドが高くて、自分だけでは深い感情まで向き合えないという人は特に、プロセスレコードを用いて、他者と共有しつつも自分では見えない感情を指摘してもらうことがおすすめです。年齢が上がれば上がるほど、べき思考はより強く固まっていき、一次感情に気づくのに鈍感になり、他者からそれを指摘してもらう場面も少なくなります。最も厄介なのは権利意識や権力志向が強まることです。
裏を返すと、自分がイラっとしている原因の全てが、他者をイラっとさせている、または困らせていることにつながるのです。年を重ねるほど、べき思考や権利意識、権力志向を手放して、自分も周りもイラっとしない・させない関係性の中で楽しく過ごしていきたいものですね。
2025年
5月
18日
日
目を合わせて微笑むだけで

ゴールデンウイーク中は学校もお休みでしたから、競馬や格闘技を観に行ったりと、いつもは足を運べないところまで遠出したりしました。その中で、どこに行くにしても、ご飯を食べるお店や休憩のためのカフェに入ります。どのお店に入っても、注文をして、お金を払い、商品(食べ物や飲み物)を受け取るだけのやり取りが生まれます。同じ日にあらゆる場所で何度もそのやり取りを繰り返しているうちに、あることに気づきました。
目を合わせて、ニコっと微笑む店員さんと、そうではない店員さんに完全に分かれるということです。お店全体として前者が多いお店とそうではないお店にも分かれますので、教育の問題といえばそのとおりですが、時として同じお店の中でも前者も後者もいることがありますので個人の問題とも言えるでしょう。
私の理想とする接客としては、
「いらっしゃいませ」←ここのところで、目を合わせて、ニコっと微笑む
「ご注文はいかがしますか?」
「●●をひとつお願いします」
「ありがとうございます。●●が1つで〇〇〇円になります」
お金を受け取り、商品を渡す
「ごゆっくりお過ごしください」←再度、目を合わせて、ニコっと微笑む
最初と最後だけでも、客と目を合わせて、ニコっと微笑むことができれば良いのです。ゴールデンウイーク中に次々と客がやってくるお店は特に、余計なコミュニケーションをはさむ時間も余裕もないでしょうから、わずか0.5秒でできることを作業中に織り込めば良いのです。それができるだけで、その店員さんの印象も違いますし、お店全体の印象も大きく変わるのです。もちろん、目を合わせて、ニコっと微笑むことができる店員さんには親しみを感じ、そのお店にも温かみを感じます。その逆も然り。
なぜこのような違いが現れるのでしょうか。それは前述したようにお店の教育の問題でもありますし、店員さん個人の問題でもあります。そもそもお店の接客マニュアルの中に、目を合わせて、ニコっと微笑むが入っていない、もしくは入っているけれど(忙しいを言い訳に)徹底できていない。いずれにしても、最終的には店員さん個人がそうするかしないかを決めることはできるはずです。そう考えたとき、目を合わせて、ニコっと微笑むことができる店員さんは人間として仕事をしているのに対し、マスクをして無表情で必要最低限の作業しかしない店員さんは自らを機械化しているのです。
ただ一方的に店員さんだけの問題にしてもいけません。サービスを受ける側も、店員さんと目を合わせて、ニコっと微笑むことができているのでしょうか?私たち人間は相互性の生き物ですから、目を合わせて、ニコっと微笑んでも何も反応が返ってこないことが続くと、こんなことをしても無意味だと思うようになります。今はマスクをして無表情で作業をしている店員さんも、最初は素顔で目を合わせて、ニコっと微笑んでいたのかもしれません。ほとんどの人たちはサービスを提供する側にも受ける側にもなりえますので、どちらの立場に立つとしても、目を合わせて、ニコっと微笑めば良いのです。たったそれだけのことで、私たちは人間としてのやり取りができ、お互いが幸せな気持ちで日々を過ごすことができるのです。
2025年
5月
08日
木
褒め・認めることの難しさ

湘南ケアカレッジの教え方のひとつとして、まずは褒める・認めるがあります。私が褒める・認めることの大切さを教えてもらったのは、30代の頃に勤めていた個別指導の塾でした。個別指導に来る生徒さんたちは、基本的には勉強が苦手な子であり、だからこそ余計に褒め・認めが大事でした。その塾では徹底して褒める・認めるを先生側に教え込んでいました。生徒さんが問題に答えるたびに「いいね!」、質問をするたびに「いいね!」、文章を読むたびに「いいね!」と、相槌を打つように褒めるのです。システム化されていて、やや過剰に思えるかもしれませんが(私も最初はそう思っていましたし違和感もありました)、何をしても無反応であったり、できないことを指摘され続けるよりは大分ましです。
なぜここまでして先生に生徒を褒める・認めることを習慣づけていたかというと、これはしばらくしてから気づいたのですが、先生というのは意外と褒められない生き物だからです。先生方は学生時代に勉強がどちらかというとできた部類であり、できることに対しての基準も高く、自分に厳しい人が多い。その基準や厳しさを生徒さんに求めてしまうと、目の前の生徒さんはひとつも褒めるところなんてないと見えてしまいます。
気がつくと褒め・認めはなくなり、相手を努力が足りないダメな人間だと認識し、本人は教えているつもりでも指摘ばかりしてしまうのです。それでも成績が上がれば良いのですが、大体において生徒さんは自信をなくし、モチベーションを失い、成績が落ちるだけではなく、塾を辞めて行ってしまいます。
むしろ学生時代にあまり勉強ができなかった先生の方が、ちょっとしたことで生徒を褒め・認めることができます。結果的に、あまり勉強ができない先生に教えられた生徒さんの方が成績は伸びる、という不思議な現象が起きます。このことが分かってから、僕は偏差値が高い大学の学生ではなく、普通(中ぐらい?)の大学で最低限の教える知識を持っている大学生を積極的に採用することにしました。
褒める・認めることを技術的に習得することもできなくはないのですが、マインドが変わらないと褒め・認めは長続きしないからです。勉強をできる先生が勉強をできない生徒の気持ちを理解することは難しい、もしくは相当長い時間がかかるのです。勉強ができる先生が良い先生になるためには、相手の立場に立って、気持ちを理解しようとするマインドチェンジが求められるのです。
自分が教えたいことを教えるのではなく、相手にとって必要な学びは何かと考え、相手の立場や気持ちを想像し、最も伝わりやすい方法を採ることは、(まずは褒める・認めるから始めるだけなのですが)簡単なようで簡単ではありません。小手先や口先の技術はいつの間にか消えてしまいます。伝統芸のような技術に変えるには、自らのマインドを変え、それから身体に定着させていく努力をするしかないのです。
2025年
4月
30日
水
「若年性アルツハイマーの母と生きる」岩佐まり【かいザニア講演イベント4/19】

今年4月からスタートした「かいザニア」の講演イベント第1弾として、岩佐まりさんに「若年性アルツハイマーの母と生きる」をテーマとして語っていただきました。岩佐さんはおよそ10年前の卒業生であり、そこから介護塾を一緒にやってみたり(その後、彼女はご結婚されて大阪に移住されたり)と共に歩んできましたが、ようやく湘南ケアカレッジに招待して、講演していただくことが叶いました。しかも、「かいザニア」の講演イベントのトップバッターを務めていただき、嬉しい限りです。
岩佐さんが話してくれた内容は、介護の仕事をしている人にもそうでない人にも響くものでした。家族にとっても本人にとっても、いちばん辛い時期は発症して初期の段階であること、男性の介護者に虐待が多い理由、中核症状とPTSDについて、ケアマネジャーの重要性など、認知症に関する詳しい説明から接し方、考え方まで、介護職員初任者研修の授業でも話してもらいたいと思うほど、学びの深いものでした。やはり実体験に基づく創意工夫やアドバイスは説得力がありますし、岩佐さんは自ら学んで社会福祉士を取得していますから、理論と実践のバランスが取れていて、学びが深いと感じました。
お母さまが軽度認知症(MCI)と診断されてからスタートした、母娘の二人三脚の介護人生は、涙なしには語れませんが、そこに笑いを入れてくるのが岩佐さんらしく、介護は「自分の人生とともに歩む」というメッセージを体現していると思いました。
個人的には、休憩をはさんだ後のグループワークも興味深いものでした。「これからの介護に求めるもの」というテーマでした。ケアカレの卒業生さんが多かったこともあり、家族介護者だけではなく、介護職員の視点から出てくる現場の声にもハッとさせられました。介護業界の人材不足を指摘する点はどちらの側も同じでしたし、特に喀痰吸引研修1号と2号のハードルを下げて、喀痰吸引等ができる人を増やすことは喫緊の課題だと感じました。
湘南ケアカレッジのYouTubeチャンネルにて最初の20分は観ていただけますし、「かいザニア」のLINEに登録してくださると、講演の全編を観ることもできます。来月(5月)の講演イベントは、看護師YouTuberである藤田省一さんの「イラっとしない・させないコミュニケーションズ技術」です。アンガーマネジメントの応用編としてお話ししますので、よろしければお越しください!
★かいザニア講演イベントの詳細・お申込みはこちら
2025年
4月
07日
月
藤田先生の誕生日

湘南ケアカレッジは、生徒さんの誕生日を皆でお祝いしますが、実は先生方の誕生日も同じです。授業の当日が誕生日の先生がいれば、バースデイソングを歌いながらバースデーケーキを贈ります。先日の実務者研修の最終日が、藤田先生の誕生日でした。授業の最後に藤田先生が締めくくりの言葉を終えた後、そのまま前にいてもらい、私が音頭を取って生徒さんたちに祝ってもらいました。とても良いクラスで、最終日ということもあって互いに仲良くなっていたこともあり、素晴らしい雰囲気で誕生祝いを盛り上げてくださいました。実務者研修はわずか7日間ですが、こうして先生方と生徒さんたちが一体になる瞬間に立ち会えるのは幸せです。
藤田先生からもひと言頂戴しました。「ケアカレで教え始めてもう10年ぐらいですが、誕生日をその日にこうして祝ってもらったのは初めてです。今日は朝から授業しながら、皆がとても良かったので、良い1日だなと感じながら教えていました」と語ってくれました。これだけ授業をしてもらっていても、誕生日当日が授業の日に当たることは今までになかったのでした。これまでは前祝や後祝いを私たちだけで行うことはあっても、生徒さんたちも巻き込んでの誕生祝いは10年に一度ぐらいしか訪れないのです。
それは10年教え続けてくれたからの偶然でもあります。今でも思い出します。村井先生が北海道の浦河の病院に左遷、いや派遣されることになり、その後釜として連れてきてくれたのが藤田先生でした。村井先生の紹介とはいえ、先生として相応しくなければお断りするかもしれないと思いつつ、会ってみると、全てにおいて素晴らしい人で安心しました。そのとき藤田先生は長野から東京に出てきたばかりで、右も左も分からない状態でしたが、あれから10年経って、現在は自ら会社(ケアツリー)を立ち上げて、東京の浅草橋で介護・看護について教えているのですから大出世ですね。
ケアカレが2013年に開校してから、あっという間に12年が過ぎたような感覚ですが、改めて振り返ってみると、10年以上にわたって、ケアカレを支え続けてくれたのは先生方です。学校は生徒さんがいないと教えられませんが、先生もいないと教えてもらえません。学校と先生と生徒はお互いを必要としている関係性にあります。どちらが上でも下でもなく、学び合うことによって互いに成長することが大切ですね。そういう意味においては、生徒さんたちも立派な介護士になったり、自らサービスを立ち上げたりして、私たちの見えないところで、それぞれに大きく成長しているのだろうなと想像します。私もケアカレも成長していかなければいけませんね。

2025年
3月
30日
日
時代遅れになっていないか?

4月からスタートする実務者研修の刷新を図るため、医療的ケアの通信添削課題を見直してみました。不必要な問題を削って全体の問題数を少なくし、さらに参照ページを付けることが目的です。生徒さんの余計な負担を少しでも取り除くことができればと思い、新しいテキスト(第4版)と照らし合わせながら、1問目から実際に解いてみました。まず、全てにフリガナが振ってあって読みにくい(笑)。外国人にとっては便利になった改善ですが、日本人にとっては目がチカチカしてしまいます。片方が得をすればもう片方が失うのではなく、本来はフリガナが振ってあるテキストとそうではないものを選択できるのがベストなんですけどね。
それから、細かい言い回しや言葉が変わっていて問題が解きにくい。版が変わるごとに全ての問題を解き直すのはさすがに大変なので、どこがどう変わったのか、出版社はせめて変更表を学校には渡すべきですね。テキストを読んでも正確には答えられないような問題もあり、今さらこんなことを言うのは恥ずかしい話ですが、これで満点近くを取っていた生徒さんは凄いなと思いました。特に外国人の生徒さんにとって、この医療的ケアの課題は修行のようなものだったはずです。これまで卒業された外国の方々に電話をかけて(今さらですが)「大変だったね。頑張ったね」と褒めてあげたいぐらいです。
実務者研修が2016年にスタートしてから、はや9年が経ちました。医療的ケアの課題はおよそ10年前につくったものを、ほぼそのまま使ってきました。内容的に大きな変更がないと考えていたのですが、改めて見直してみると、アップデートできていなかった箇所がいくつも見つかったということです。やはり10年近くも経つと、変わっていないように見えても、少しずつ大きく変わっていたということです。今回のようなきっかけがなければ、気づかなかったかもしれません…。
これは医療的ケアの課題だけではなく、全てにおいて当てはまる問題だと思います。たとえば、介護者の身だしなみのプリントを初任者でも実務者研修でも渡していますが、ケアカレが開校した当初からほとんど同じものを使っています。10年以上も経つと、介護者の身だしなみの基準って変わっていないものでしょうか?ヘルパー2級時代は、茶髪の人は実習に行く際に黒髪に染め直してもらったりしていましたが、今はピンク色の髪の毛の女の子が、高齢者からも「綺麗ねえ~」なんて言われるぐらい時代は変わってきています。
スポーツでいうと、野球のユニフォームの着方も僕が野球をやっていた頃とは大きく変わりました。僕の時代はストッキングを見せて履かなければダメとされていました。滑り込みをしたときにストッキングが足を守ってくれるという理由や、ズボンを伸ばすとだらしないという理由でした。ストッキングを履いていると、足がしめつけられて苦しいこともあり、監督や先輩がいないところではストッキングを脱いで、ズボンを下げて練習していたりしました。
それがいつの間にか、プロ野球選手でさえもズボンを下げて、ストッキングを隠すようになりました。こちらの方が足にとってもより安全であり、逆にスタイルが良く見えるからです。だらしないと言うのはあくまでもその時代の指導者たちの主観だったということです。受け取り手の感覚が変わってくると、だらしないはカッコいいに変わったのです。ちなみに、その当時、教えてもらっていた打ち方や理論は、半分ぐらい間違っていたことがのちに分かりました。
身だしなみは単なる例にすぎませんが、授業で教えている内容や資料、言葉づかい、教え方、介護に対する考え方など、私たちはひとつ一つを見直してみるべきタイミングなのだと思います。開校から12年が経った2025年、時代遅れにならないよう、アップデートしていく必要があるのです。
2025年
3月
14日
金
ケアカレらしさ

12月から通信添削がスタートした実務者研修のクラスが、先月末で無事に修了しました。外国人の方も含めて、30名近い生徒さんたちが集まり、共に学びました。初日から最終日の授業に至るまで、少しずつ盛り上がり、最後の医療的ケアの授業はとても良い雰囲気で迎えることができました。看護師の村井先生も、「これぐらい人数がいると盛り上がりますね。昔のケアカレの雰囲気を思い出します。これぐらいがケアカレらしくて良いですね」とおっしゃってくださいました。かつては介護職員初任者研修も実務者研修も36名近い人数で授業をしていましたので、その頃の熱気が少し蘇ってきたようでした。最終日には、メッセージ入りの色紙までいただきました。ちなみに、左に置いてあるサボテンは生徒さんの手作りです!ありがとうございます。
ここ数年は、介護職員初任者研修はもちろん、実務者研修もクラスによっては十数名の生徒さんしかいませんでした。特に医療的ケアの授業は、ペアになって声を掛け合いながら進みますので、それぞれが大きな声を出す方がクラス全体としては盛り上がるのです。しかし、人数が少ないとどうしてもシーンと静かになってしまい、余計に声が出しにくい雰囲気になってしまいます。落ち着いた雰囲気のバーだと静かに話すのに対し、賑やかな居酒屋だと声の大きさなど気にすることなく話せるのに近いですね(笑)。人数が多いとその分クラスの雰囲気が賑やかになって、周りに遠慮することなく話せて、最終的にはそれが熱気に変わっていくということです。
ケアカレらしさを懐かしみながらも、もうあの頃は帰ってこないのだなと寂しく思う気持ちもあります。実務者研修はともかくとして、介護職員初任者研修に36名も生徒さんが集まっていた時代は終わったのだと思います。悲観的になっているわけではなく、それは抗いがたい時代の変化や流れなのです。同じ人間でも日々変わっていくように、動的平衡というか、万物は絶えず変化しながらもバランスが保たれているのです。行く川の流れは絶えずして、しかも元の水にあらず、という鴨長明のあれです。卒業生さんのひとりが、「他の学校も見学に行きましたが、湘南ケアカレッジは全然違いました。ケアカレは生き残っていくと思います」と言って励ましてくださったので、時代の波に身を任せながらも頑張るしかありませんね。
これから大きく転換を図るとすれば、人材紹介を中心とした学校へと舵を切るしか手はありません。人材紹介は大きなお金が動く業界ですから、それに比べると教育など市場価値はほとんどないのです。だからこそ無料にして生徒を集めて、人材紹介で利益を出す事業モデルの学校、いや人材会社が大本の学校がほとんどなのです。今の時代においてどちらが価値があるかという話であって、どちらが良い悪いという問題ではありません。ただ、教育にずっとたずさわってきた人間からすると、実務的にも心情的にも倫理的にもシフトチェンジが難しいのです。このまま細々と生き残っていくのか、それとも大きく変わるべきなのか、今年は決断の1年になりそうです。いずれにしても、ケアカレらしさを失わないようにしなければいけませんね。

生徒さんのひとりからハンカチをいただきました。ケアカレカラーのオレンジが入っていて、さすがですね。ありがとうございます!
2025年
3月
05日
水
「ロストケア」

厳密に言うと、昨年の映画ですが、僕にとっては今年観たナンバーワン映画になりそうです。ちなみに、昨年のナンバーワンは「夜明けのすべて」か「僕が生きてる、ふたつの世界」のどちらかです(どちらも素晴らしかった)。私が介護・福祉系の映画しか観ていないわけではなく、むしろそれ以外のジャンルの方が好みではあるのですが、昨年から今年にかけて、介護・福祉にまつわる日本映画の良作が続出していると思います。決して24時間テレビ的な感動ポルノではなく、現実の問題や課題に沿った考えさせられるテーマを扱いつつ、魅せる作品としても完璧に仕上がっています。映像や演技、脚本など、どれを取っても申し分ない映画なのです。
「ロストケア」は家族介護の苛酷さと尊厳死、そして家族を救うために高齢者を大量殺人した介護士に正義はあるのかをテーマとしています。かつて父親を介護していた犯人が「穴に落ちてしまった」と表現する、親の介護で経済的にも精神的にも身動きが取れなくなってしまった状態には、誰もが陥る可能性があるのです。現に犯人を裁く立場であった検察官さえも、認知症の母がいて、父を孤独死で亡くしています。もし自分が穴に落ちてしまったとき、僕たちは外の世界で生きていたときと同じことを言い、行動できるでしょうか。2013年が初版の小説をもとにしているにもかかわらず、今も現実味を持って私たちの前に立ち現れてくるのは、もしかすると日本の高齢社会にとっての永遠の課題なのかもしれません。
現代世界における倫理的、もしくは法的には、加害者が絶対的に悪であることは間違いありません。そこを前提に考えても、犯人の独白が進むにつれて彼にも一理ある、いや共感すら生まれてしまうのです。物ごとを裏と表から見たときに、これほど見え方が違うということでもあります。彼が正しかったのかどうかを裁くことが私たちに求められているわけではなく、自分はどう考えるのかが問われているのです。そのとき鍵となるのは、映画の冒頭に登場する「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」というキリストの黄金律です。犯人は自らの家族介護の経験に基づき、何とか家族介護の呪縛から解き放たれたいという家族や迷惑をかけたくないという高齢者の気持ちを汲んで、人にしてもらいたいと思うことは何でもしてあげたのです。だからこそ、法廷で彼は、殺したのではなく「救った」と言い放ったのです。
構図的には、2016年に起こったやまゆり園の殺傷事件に似ていますが、似て非なる点としては、自分自身が家族を介護していたこと、そして父親から殺してほしいと言われた経験があることです。犯人は相手(高齢者)には生きる価値がない、生きていても仕方がないと自分勝手に決めつけたわけではなく、自分は苛酷な家族介護の穴に落ちた者の代弁者であり、父の願いを叶える代理人でもあったのです。もちろん、人それぞれ、その時々で思うことは違えど、同じ穴に落ちた彼にとっては、そのときの家族や介護を受ける本人は誰かに救ってもらいたいとしか思えなかったのです。社会が救ってくれないならば、自分が命をかけて救うしかなかったのです。
2025年
2月
27日
木
4月より「かいザニア」がオープンします!

「かいザニア」は、介護の国。そこでは介護・福祉の職場体験をしたり、学びのイベントに参加することができます。現在、介護の仕事をしている人も、興味はあるけど今はしていない人も、「かいザニア」に来国して、あなたの世界を広げてみませんか?職業体験と講演イベントがあるので、皆で遊びに来るザニア!
→「かいザニア」の詳細はこちら
2025年
2月
18日
火
「全身性障害者ガイドヘルパー養成研修」の募集を開始します!(2025年度)

2025年度も「全身性障害者ガイドヘルパー養成研修」を開催します!ガイドヘルパーは障害のある方の外出の支援をする仕事です。在宅や施設が「屋内」だとすれば、ガイドヘルプは「屋外」における介護。利用者さんの行きたい場所を聞きながらプランを立て、外出し、必要な支援を行いつつ、色々な話をしながら、一緒に楽しむお仕事です。行きたい場所や好きなところに行けることは、利用者さんにとって希望や生きがいとなり、外出先での思い出は、日常を生きる活力ややりがいにもつながります。もちろん高齢の方にも同じことが言えますよね。そして何よりも、この仕事は私たちも楽しい!そんな外出支援のお仕事ができるようになってみませんか?
→介護・福祉についてさらに深く学びたくなった。
→利用者さんの外出を支援するお仕事に興味がある。
→障害のある方々や子どもたちの支援について学びたい。
→屋外にて車椅子を安全に操作する技術や知識を得たい。
という方は、ぜひご受講ください。
ガイドヘルパーの仕事に合わせた、実践的なオリジナルコンテンツ
1、 芹が谷公園での演習
芹が谷公園まで車いすで行き、車いす介助の演習をします。公園内にある段差、砂利道、坂道など、外出時における様々な状況を想定しながら、車いすを押す技術を何度も練習して身につけます。普段は屋内でしか車いすを押していないという方にとっては、また違った介助であり、技術が身につくはず。自然の緑に溢れる広い公園ですので、ぶつかったりする心配もなく、安心して練習ができます。



2、計画を立てる
利用者さんが10人いれば、行きたい場所やしたいことは10通りあるはず。利用者さんの行きたい、楽しみたいという気持ちを大切に、安全・安心を確保しつつ、また時間どおりに戻って来られるように、2人1組のペアになって具体的に計画を立てます。目的地にたどり着くまでにどのような障害があるのか、どの道を通って行けば安全なのか?エレベーターの場所は?電車はどの車両から乗るべき?準備をしておくべき物ごとは何か?などなど。普段とは違った視点で話し合うことで、ガイドヘルパーの仕事に必要なことが見えてくるはずです。



3、 フリー行動(町田ルート&相模大野ルート)
自分たちでつくったオリジナルの計画に沿って、町田駅周辺を散策するルートと、相模大野駅まで電車に乗って行くルートのいずれも体験していただきます。いち利用者とガイドヘルパーとして、車いすに乗りながら(または押しながら)、限りなく実際のガイドヘルプの仕事に近い内容の研修になります。街中を車いすで進んだり、踏み切りを渡ったり、切符を買って改札を通ったり、エレベーターに乗ったり、電車に乗ったり降りたりと、ほとんどの方々にとっては初めての経験となるのではないでしょうか。計画通りに行くこともあれば、行かないこともあるはずです。それでも利用者とのコミュニケーションを楽しみながら、安心・安全な外出をサポートすることが大切です。



4、振り返り
教室に戻って来てから、実地研修で学んだことや気づいたことをグループで共有します。プランニングと実際のガイドヘルプでは違っていたこと。車いすに乗って、障害者として外出してみて感じたこと。街中の人々の対応やバリアフリーについて。成功したことや失敗したこと、困ったことなど。グループワークを通して、体験を学びに変えていきます。

タイムテーブル(当日の状況によって変更があることをご了承ください)
講義(実習含む) |
8:00~9:00 |
ガイドヘルパーの制度と業務 |
9:05~11:05 |
全身性障害者の疾病・障害の理解 |
|
11:10~14:20 *10分休憩含む |
移動支援の基礎知識(芹が谷公園にて) |
|
演習 |
14:25~15:25 |
基礎的な介護技術 |
15:30~19:00 |
移動支援の方法 (町田周辺、相模大野まで外出します) |
*昼食はガイドヘルパーの演習の流れの中で召し上がっていただきます。
*雨天決行になりますので、雨の場合は雨がっぱ等をご用意いただきます。

修了証明書
研修終了後には、「全身性障害者ガイドヘルパー養成研修」修了の資格が手に入ります。この資格を持っていないと仕事に従事できなくなってきており(市区町村によって異なります)、実際に役立てていただける場面も多く、もちろん履歴書にも「「全身性障害者ガイドヘルパー養成研修修了」と書いていただけます。
講師紹介
湘南ケアカレッジの講師は、介護福祉士や社会福祉士の資格を持ち、現場経験や知識が豊富なだけではなく、教えることに対しても技術と情熱を持っています。分かりやすく丁寧に教えさせていただき、介護の世界の素晴らしさをひとりでも多くの人々に伝えたい、と願っております。

小野寺祐

阿波加春美

橘川知子

奥玲子
受講料
13,000円(税込、テキスト代込)
定員:30名限定
教室の外に出るという内容の関係上、人数を限定させていただくことをご理解ください。
受講資格:介護職員初任者研修課程修了者(修了予定者を含む)、ホームヘルパー2級課程修了者、介護福祉士並びに東京都居宅介護職員初任者研修課程及び東京都障害者居宅介護従業者基礎研修課程修了者、東京都障害者(児)居宅介護従業者養成研修1級課程、2級課程及び3級課程の修了者、介護保険法上の訪問介護員、実務者研修修了者、介護職員基礎研修課程修了者。
研修日程(令和7年度)
第1回 |
第2回 |
4月6日(日) |
11月30日(日) |
*全身性障害者ガイドヘルパー養成研修は全1日で修了する研修になります。
*上記の日程の中から、お好きな1日を選び、ご受講ください。
お申込みの流れ
①以下の申し込みフォームよりご入力、もしくはお電話(042-710-8656)にて直接お申込みください。
※いずれの場合も、ご希望のクラスが定員になりますと受付できませんのでご了承ください。
②受講確認書をお受け取りください。
ご自宅に「受講確認書」と「受講料お振込みのご案内」が届きます。
③受講料をお振込みください。
「受講確認書」が到着後、1週間以内に受講料をお振込みください。お振込みは、銀行ATM やネットバンキングからでも可能です。
※手数料は各自でご負担ください。また、お振込みは案内をよくご確認の上、お願いいたします。
④研修当日
申し込みクラスの日時をご確認の上、教室までお越しください。当日、テキストをお渡しします。
*当日、本人様確認を行いますので、身分証明書(健康保険証または運転免許証等)をご持参ください。
生徒さんたちの声

実際外に出て、自分で体験できた
普段の仕事では室内の車いす介助なので、実際外に出て、自分で体験できて良かったです。少しの段差でも気を遣い、踏み切りや電車の乗降はとても難しかったです。少しでも困っていると周りの方が助けてくださり、本当にありがたかったです。1月からデイサービスの仕事に移るので今日の研修を生かせればと思います。(A.Aさん)
元気をもらえました
とても楽しく面白くしっかりと学ぶことができて充実した研修でした。不安もありましたが、先生たちがいつも励ましてくれ信じてサポートしてくださることが自信につながります。先生たちに久しぶりにお会いできて元気をもらえました。ありがとうございます。また学びに来たいです!(大塚さん)

車イスの操作のむずかしさ
車イスの操作のむずかしさを改めて実感しました。2段階の段差、踏み切り横断で特に感じ、普段施設内移動では味わえない貴重な勉強をさせていただき、今日研修に来て良かったと思いました。久しぶりにケアカレの先生方の優しさに触れて楽しい1日でした。(M.Iさん)
新しい発見がありました
すでにガイドヘルプの仕事を行っていましたが、新しい発見がたくさんありました。特に車いすに乗らせていただくことはないので、自分の身体の自由が利かない中で、この気分はどうだろうと改めて思いました。また準備の大切さもとても感じました。心地よい疲れをありがとうございました。(Y.Oさん)

基本から知ることができた
車イスに乗ってみて、いろんなことが違って感じた。人込みの怖さ、薬局に入って、棚の商品(上の段)が全く見えないこと、親切な人やそうでない人、車いすを押すのも手だけではなく身体ごと使って段差を乗り切ること、坂路での下り方、基本から知ることができたのでとても良かった。(奥田さん)
とても新鮮でした
貴重な体験ができて、とても有意義な1日でした。いつもと違う視線、視点で見ることができ、とても新鮮でした。想像以上に段差が多くて大変でしたが、想像以上に町を行く人は親切でした。この経験をこれから活かして何かできたらいいなと思っています。(M.Aさん)

街の人たちが優しかった
いちばん感じたことは、街の人たちがとても優しかったことです。エレベーターのボタンをずっと押してくれていたり、道に迷っていたら道案内をしてついてきてくれたり、本当に感謝しています。今まで気がつかなかった視点で観ることができる、とても良い機会になりました。(金子さん)

誇りと希望が持てます
本当に実際に車いすに乗って危険や不便さをたくさん感じました。いかに健常者優先の環境になっているか、身に沁みました。商品が目に飛び込んでくるようなダイナミックな視線や大きな溝より分かりづらい穴とかの方が危険なこと、いろいろ思いましたが、結局それでも外出したいと思うのがいちばんの感想だったので、この仕事は誇りと希望が持てます。(座間さん)

研修の風景(動画)をご覧ください。
お申込みはこちら
2025年
2月
15日
土
誕生日ケーキの話

実務者研修のちょうどその日に誕生日の生徒さんがいて、いつものように小田急デパートの地下に入っている高野フルーツパーラーにケーキを買いにいきました。私が好きであり、またケーキらしいケーキということで、いつもイチゴののったショートケーキを買うことにしています。「Happy Birthday!」と記されたチョコレートでできた小さなプレートに、生徒さんの名前を入れてもらって、添えることにしています。湘南ケアカレッジには、先生方と生徒さんたちの誕生日を祝うというイベントがあり、学校に来ている期間中にたまたま誕生日が当たった場合、バースデーソングを歌ってもらい、誕生日ケーキを贈られ、クラス全員から祝福してもらいます。湘南ケアカレッジに来て良かったと、先生方や生徒さんたちの思い出に少しでも残してもらえるように考えたイベントです。そのための小道具としてのショートケーキです。
今回、驚かされたのはショートケーキの値段です(笑)なんと税込みで890円もしました!1個のショートケーキが、あとひと声で1000円に届こうとしているのです。誕生日イベントは湘南ケアカレッジが開校した2013年からずっと行ってきましたので、かれこれ10年以上、私は高野フルーツパーラーでショートケーキを買い続けていることになります。今でも覚えていますが、10年前はショートケーキ1個が500円台でした。ところが最近の値上げブームもあって、いつの間にか700円台となり、ついに800円台、いやもう900円と言っても良い価格まで上がってきたのです。うすうす感じてはいたのですが、890円になっていよいよ高い!と感じてしまいました。誕生日にケアカレに来てくれてありがとう!という気持ちを伝えるために、ほんの気持ちとして買っていたショートケーキが今はもう1000円する時代に変わったのです。
この誕生日のお祝いのイベントは、私がかつて関わっていた子どもの教育現場での出来事がきっかけとなっています。そこでは生徒さんの誕生日にカードを書いて渡すということを行っていたのですが、最初はあまり大したことと私は考えておらず、そうすると決められているからやるという気持ちでした。正直に言うと、授業の内容を見直すとか生徒を集めるために営業するとか、他にもっとやるべきことあるんじゃないのと思っていました。
ある中学校2年生の女子生徒の誕生日がやってきました。仕事のひとつとしてメッセージを書き、カードを渡し、おめでとうと伝えたところ、「こんなことしてくれるなんて嬉しい!すごくいい学校だね!」と思いのほか喜んでくれたのでした。普段はあまり感情を表に出さず、何を考えているのか分かりにくいタイプの女の子でしたので、彼女が満面の笑みで素直に嬉しいと言ってくれたことに私は驚きました。誕生日を祝ってもらうということは、これほどに嬉しいことなのだと。人の気持ちを想像することさえできなかった自分の底の浅さを思い知らされたのでした。
それ以来、どんな場所にいても、誕生日を祝うというイベントを自ら積極的に行うようになりました。大手の資格スクールにいたとき、先生たちの誕生日を祝うのはいいけど人数が増えるとできなくなるよ、カード代は誰が払うの?生徒さんの誕生日を祝うなんてもっての外だと反対されましたが、先生方の誕生日にカードを送ることは押し切って始めました。そんなことしてどうすると言う人に、中学2年生の彼女の笑顔と感情をいくら伝えても完全に理解してもらうことは難しいのですが、世の中にはお金や効率よりも大切なものはたくさんあると思うのです。それは誰かに喜んでもらうことであったりするはずです。
バースデーソングを歌って、ショートケーキを渡したときの生徒さんの嬉しそうな笑顔を見たとき、1000円なんて安いものだなと思いました。決して強がりではなく(笑)、こういうことにお金を使うべきなのだと思うのです。誰かに喜んでもらったり、誰かを助けたりするためにこそ、お金は使われるべきです。お金を奪い合うことでもお金は回りますが、それは悪循環にすぎません。それよりもお金を良い形で使うことで経済を回して、好循環をつくっていきたいものです。理想論かも知れませんが、せっかく自分で介護の学校を立ち上げて、誰かにお伺いを立てることなくショートケーキを贈ることができるようになったのですから、せめて湘南ケアカレッジの中だけでは良い形で経済を回していきたい、そう改めて思わせてもらいました。
2025年
2月
04日
火
外国人のための実務者研修スタート!

特定技能制度を利用して日本の介護現場で働いている外国人の方を対象とした、実務者研修のオリエンテーションを開催しました。スクーリングが始まるのはまだ先の話ですが、通信添削のテキスト&問題集を渡し、少しでも早めから取り組んでもらうための顔合わせです。正直に言うと、湘南ケアカレッジとしては初めての外国人専用クラスであり、彼ら彼女たちがどれぐらいの日本語レベルなのか分からない面があり、あらゆることが手探りの状態です。日本語での意思疎通にそれほど問題が生じないのであれば、他の実務者研修のクラス同様に進めることもできますし、問題がありそうであれば、授業内容自体に変更を加える必要があるかもしれません。この日、参加してくれたのはインドネシア、ベトナム、ミャンマー、モンゴル出身の8名の生徒さんでした。
最初にあいさつと他己紹介から始めました。いきなり実務者研修の説明や通信添削課題に取り組むよりも、まずは湘南ケアカレッジに慣れてもらい、実務者研修を受けても大丈夫そうと思ってもらえることが大切です。前後に座った2人でペアを組んでもらい、相手の名前や出身国、どこで働いているか、そして趣味や好きなことなどをヒアリングして、それをのちほど皆の前で発表してもらう形の他己紹介です。
自己紹介ではなく他己紹介というスタイルに最初は戸惑っていたようですが、互いに話しをしているうちに打ち解けてきたようで、その後、たどたどしいながらもしっかりと相手のことを皆の前で紹介してくれました。この時点で、他己紹介の主旨が伝わり、それをスムーズに実行してくれたことに私は驚かされました。日本人のクラスでも、他己紹介の意図が伝わらずに、自己紹介を始めてしまったり、相手のことをアセスメントできない人もいるからです(笑)。どこまで細かい言葉やニュアンスが伝わっているのかまでは分かりませんが、彼ら彼女たちの表情を見る限り、意思疎通は私の想像以上に十分でした。
せっかく教室に来てもらったので、通信添削課題の進め方をお伝えしながら、皆で一緒に取り組んでみることにしました。テキストを参照しながら、問題を解いていくという実際にやってみることで、外国人の人たちがどこに困るのか知っておきたかったですし、どの程度の読み書きができるのかも把握しておくべきだったからです。いきなりテキストがボンと家の届いて、文字だけの説明で、あとはやって提出してくださいでは、外国の人たちにとっては不親切だと思ったからでもあります。今まで外国人の方が申込みをしてきた際はそうせざるを得なかったのですが、今回は外国人専用のクラスということもあり、集まってもらえたからこそできることでもあります。
まずは自分で問題を解いてもらい、分からなければ質問してもらったり、周りの生徒さんに教えたり、教えてもらったりしながら進めるスタイルを取りました。そうしていく中で、ほとんど問題なく自分で進められる生徒さんもいれば、ひとりでは詰まってしまう生徒さんもいることが分かり、それぞれの日本語の読み書き力を把握することもできました。話すことは上手くても読み書きが少し苦手という生徒さんもいれば、話すことよりも問題を解く方がスムーズという生徒さんもいました。思っていたよりもできる生徒さんが多いという嬉しい感触を掴みつつ、それぞれの語学力が千差万別だなという難しさも感じました。やはり一人ひとりを見ていかなければならないという、当たり前の結論に至ります。
残りは自分たちで取り組んで頑張らなければならないのですが、さわりの部分だけ一緒に進めてみたことで、彼ら彼女たちも気が楽になったのではないでしょうか。自分でもできるかもと自信を得てくれたなら幸いです。私自身、今回のオリエンテーションに携わってみて、彼ら彼女たちを無事に修了させることができるかもという手応えと自信を得ました。そして何よりも、彼ら彼女たちと触れ合ったことで、頑張る人たちを応援したいという気持ちが強まりました。何が書いてあるかほとんど分からないであろうテキストと問題集を使って進める中、泣き言ひとつ言わずに自分なりに一生懸命に取り組む姿を見て、心が洗われました。自分ができることばかりやっていては成長がないのです。彼ら彼女たちから私たちが教えられることもまた多いはずです。スクーリング開講が楽しみです。
2025年
1月
28日
火
メロンパン

かなり前にブログで書いたつもりでしたが、探しても出てきませんので、10年ぶりぐらいにもう一度、訪問介護の実習の思い出話をさせてください。私がホームヘルパー2級講座を受けたのは今から25年ぐらい前のこと。通学日数こそ8日間でしたが、実習が4日間ありました。特別養護老人ホームや老健などの施設実習が2日間、デイサービスが1日間、そして訪問介護が1日間です。3種類の介護サービスを全て体験し、その中から自分に合った働き方を選んで就職することができたのです。
施設とデイサービスの実習は、あまり記憶に残っていません。どこに行って何をしたのか、四半世紀も前のことですから当然かもしれませんが、まったく覚えていないのです。ところが、訪問介護の実習だけは、今でも鮮明に思い出すことができます。訪問介護の実習として、ヘルパーさんに同行させてもらって2軒のお宅に伺いました。そのうちの1軒は生活保護を受けている男性のご自宅でした。
居室に上がらせてもらい、世間話をしながら何気なく床を見ると、何かが動いているではないですか。ノミ?シラミ?ウジ虫?昆虫に詳しくない私には識別できませんでしたが、とにかく見たことのない虫が大量発生していたのです。さすがにギョッとしましたが、そこは僕もヘルパーの資格を取ろうとしている人間ですから、つとめて冷静を装いました。
「それじゃあ、掃除から始めますね」とヘルパーさんは何事もないかのように明るい声を発し、我に返った私はほうきで虫とゴミを掃きながら綺麗にしていきました。その他、私にできることは限られているので、ヘルパーさんがテキパキと料理をつくったりしている間、私はその男性の利用者さんとコミュニケーションを取りつつ楽しく過ごしました。

サービスが終わり、私たちが帰ろうとすると、彼が「これあげるよ」と言って、メロンパンを私に手渡そうとしました。ホームヘルパー2級講座の中で、利用者さんから何かをいただいてはいけないと教えてもらったことを覚えていたので、丁重に断ろうとしたのですが、彼の真剣なまなざしと気持ちを考えるとできませんでした。おそらくこのメロンパンは彼にとっては1食分にあたるメロンパンであり、ただのメロンパンではない。それでも、楽しいひと時を過ごせたお礼として何かをプレゼントしたいと思ったとき、これしかなかったのではないでしょうか。そんな大切な意味の込められたメロンパンを私は断れなかったのです。「ありがとうございます!」と言って私はメロンパンを受け取りました。帰り道にあった公園のベンチに座り、ヘルパー失格だなと思いながら、メロンパンを食べた記憶があります。
今から思えば、実習生と利用者の間における好意のやり取りとして、メロンパンを受け取っておいて良かった、むしろ杓子定規に断っていたらあとで後悔していたかもしれませんし、利用者さんの気持ちも満たされなかったかもしれません。たった1軒の実習でしたが、驚きと葛藤に満ちていて、訪問介護って面白そう!と思ったものです。
2013年にヘルパー2級講座から介護職員初任者研修に名称が変更され、それを機に実習がなくなってしまいました。学校の運営的には、実習の手配がないのはとてもありがたいのですが、生徒さん的には現場を知る機会が失われました。特に訪問介護を体験するきっかけが全くないまま介護の世界に入るため、ほとんどの生徒さんたちは施設やデイサービスで働くイメージを持っていて、訪問介護をやろうという人が激減してしまいました。在宅介護に力を入れるという国の方針とは裏腹に、このままだと訪問介護で働く人たちはますます高齢化し、減っていくことでしょう。そんな高齢社会の課題を解決するために、まずは町田市から訪問介護の職場体験をスタートさせたいと考えています。
2025年
1月
13日
月
延長線上で何かをしない年に

「あけましておめでとうございます」は松の内(門松などのお飾りを飾っておく元旦から1月15日までの期間)までとされていますが、地域によって異なる場合もあるそうです。関東は1月7日までという説もありますので、もうあけましてではないのですね。さて、新年が明けて、今年の抱負や目標を立てましたので、書ける範囲で書いてみたいと思います。個人的なものもあれば、湘南ケアカレッジとしてのものもありますが、今回は後者としての抱負や目標を記しておきますね。
大きなテーマとしては、湘南ケアカレッジを復活させる、言葉を換えると再建するということです。いきなり大きく変わることはないので、少しずつ上向きにしていくしかありません。初任者研修に関しては、この先、生徒さんを増やしていくには、受講料を大幅に下げるしかないかもしれません、そうすると介護・福祉教育だけでは先生方にお給料が払えなくなりますので、他の学校と同じように紹介業を積極的に推し進めるしかありません。ずっと時代の流れに抗い続けてきましたが、そろそろ限界が来ているのかもしれません。実務者研修に関しては、生徒さんが参加しやすい火曜日クラスを増やして、土曜日クラスを減らしつつ、外国人専用のクラスも実験的に開講してみます。
ボディメカニクス講座を全国に発信していくために、初級をつくって、動画で学べるようにします。3級や2級を受けた生徒さんたちが、復習として観てもらうこともできるはずです。それに加えて、いよいよ1級をつくって、3級を教えられる人たちを養成したいと思います。基本的なボディメカニクス講座の内容を、自分の施設に戻って他のスタッフたちに教えられるように、また身近な人たちに教えられるようになるための1級です。人に教えるためには、自分が100%理解していなければいけませんので、基本をしっかりと身に着けていただき、それを教える方法をお伝えします。
その他、ミニジョブといって、副業の支援もしていきたいと考えています。たとえば、現在、介護施設で働いている人が、お休みの時間を使って訪問介護をやってみるとか、高齢者の介護の仕事をしている人が、週1で障害者の外出支援(ガイドヘルパー)をやってみるとかです。お金を稼ぐという意味もありますが、ミニジョブをすることによって、自分の世界が広がり、知識や経験、引き出しを増やすことで本業にもプラスになり、さらに自分の人生も豊かになるのではないでしょうか。特に訪問介護の人材不足は顕著ですから、在宅で介護を受けたいという方々のためにも、何とか町田・相模原の訪問介護事業所を人材面でサポートしたいという想いもあります。
コストカットも考えていかなければいけません。細々とした経費を減らすよりも、何か新しいことをして大きく稼ぐ方が良いのは分かっていますが、そんなことも言っていられません。こういう時こそ、余計な経費がかかっていないかを見直すタイミングであるとも言えます。たとえば、わざわざ送料をかけて送っていたものをメールで済ますことができるのではないか、取引先や先生方のお給料などを振り込む際の振込手数料が年間で数十万円かかっていますが、そこを減らすことはできないのか。効果のない広告費をカットしたり、税理士に丸投げしていた領収書の打ち込み業務などを自分で行ったりなど、あくまでも効果と経費削減のバランスを考えてですが、一つひとつ見直してみるべきです。
昨年はやりたかったのに上手くできなかったYouTubeチャンネルも、今年こそは継続的に発信できるようにしたいですね。大がかりな形で始めるのは難しいことが分かりましたし、姿かたちを出すことに積極的ではない先生も中にはいるので、やはり自分で始められることから小さくスタートしてゆくことが大切なのかもしれません。実はYouTubeはかなりの宣伝広告効果があるのは分かっているのですが、どこの学校も上手く使えていないのは、それなりの理由があるのです。とはいえ、YouTubeで発信して学校の存在を知ってもらわないと、学校自体が存続できない時代になってきていますので、協力してもらいながら進めていくしかありません。
その他、新しい講座もひとつは始めてみても良いですね。たとえば、喀痰吸引研修の3号とか福祉用具専門相談員とか、ケアマネジャー養成講座などがパッと思いつくところです。どれも介護職員初任者研修や実務者研修のようなメインを張れる研修にはなり得ないのですが、学校と先生方の学びや成長のため、そして卒業生さんに対する機会提供のためにチャレンジしてみたいと思います。そういえば、ケアカレナイト的な学びの場も提供したいですね。湘南ケアカレッジのコアな部分は残していかなければいけませんが、これまでの延長線上で何かをするのではなく、新しいことや変化を作り出していく年にしたいと願います。
2025年
1月
04日
土
つながりをつくる

明けましておめでとうございます。新年の抱負を語りたいところですが、昨年末の話をさせてください。最後の実務者研修(8月木曜クラス)が無事に終わり、このクラスは11名でスタートし、2人が途中でリタイアしてしまったこともあり、最後は9名のクラスになってしまいました。これだけ人数が少ないと、やはり盛り上がりには欠けるため、静かな雰囲気になってしまいます。それでも皆さん一生懸命に取り組んでくださって、医療的ケアの授業もつつがなく修了しました。そして最後の挨拶のとき、特に藤田先生が「今日は飲み会がないし、連絡先も交換していないみたいだけど、最後にみんなでLINEを交換して帰ってよね。1億数千万人のうちの9名がこうして同じクラスで出会ったんだから、つながりを大事にしてほしいな」と気障なことを言いながらけしかけてくれました。
修了証明書を渡したあと、皆が帰り支度を始め、それでも連絡先を交換しようとしないのを見て、私はやきもきしていました(笑)。せっかく藤田先生があれだけ言ってくれたのに…と思いつつ、別に強制することではないので静観していると、しばらくしてひとりが近くのひとりとLINEを交換するような仕草を見せると、他のクラスメイトさんたちも寄ってきて、最後は全員で楽しそうにグループをつくっていました。それを見て安心したと同時に、やっぱり言ってみるもんなんだなと感じました。むしろ言わないと始まらなかったのではないでしょうか。LINEを交換したからつながるとは限りませんが、交換していなければ連絡の取りようもなく、もう2度と会わない同士になっていたはずです。大人なんだから自分たちの意志と責任で、と任せてしまうだけでは生まれなかったつながりを私は目にしたのです。
湘南ケアカレッジのクラスメイト同士が何らかの形でつながることは、学校にとっても他の何にも代えがたい価値を持ちます。湘南ケアカレッジという場をきっかけとして出会った仲間がつながっている以上、その思い出の中には湘南ケアカレッジが残り続けるからです。一昨年の8月日曜日クラスの卒業生さんたちは、今でも月1ぐらいのペースで(お昼に)飲み会をしたり、クラスメイトのひとりがウクレレを演奏していて、そのイベントを手伝ったりして集まっています。もちろんどのクラスもそうではなく、つながりが自然消滅してしまったクラスも多いでしょうし、個人同士ではつながっているけどグループLINEは動いていないというクラスもあるでしょう。それでも話を聞く限りは、私たちが思っている以上につながりは残っていて、特に実務者研修は働いている人たちがほとんどであるがゆえに、互いの気持ちが分かったり、情報共有としてもつながりを深めているクラスが多いようです。
卒業生さんたちの集まりに参加するたびにそう感じますし、町田でランチしてそのあとケアカレに立ち寄ってくださる卒業生さんたちと話すたびにつながりの価値を確信します。それは懐かしいとかまた来てくれて嬉しいとかそういう情緒的な意味だけではなく、実際に卒業生さんたちのつながりは学校の利益にも大きく貢献してくれるのです。たとえ介護職員初任者と実務者研修等を取り終わって、もうケアカレに来る機会がなかったとしても、卒業生同士がつながっていることでケアカレは消えないのです。記憶から消えないことは大事で、完全に忘れられてしまうと何か新しいことをしたときにも反応してくれなくなってしまいます。
湘南ケアカレッジの理念は「世界観が変わる福祉教育を提供する」ことですが、その先にはその世界観を共有する卒業生のつながりを作って、深めていくというミッションがあるはずです。そうした利他的な行為は自分たちのためでもあるということですね。来年はそのあたりも意識して、学校と卒業生のつながり、卒業生さん同士のつながりを積極的につくる働きかけをしていきたいと考えています。今年も1年、よろしくお願いします!
2024年
12月
27日
金
今年を振り返って

歳を取るごとに、時が経つスピードは速くなると言いますが、まさに今年はあっという間に終わってしまった気がして驚いています。思い返してみるといろいろあったのですが、状況に流されるばかりで、自らはほとんど何もできていませんでした。自ら何かに取り組んで、成し遂げた達成感がないから、あっという間に1年が終わってしまったように感じるのかもしれません。
というのも、私は毎年、1年のはじめに、今年の計画を手帳に書き出すのですが、2024年は書いたことの半分ぐらいしか実現できていないからです。湘南ケアカレッジに関しては、「湘南ケアカレッジを成長させる」をテーマにしていたにもかかわらず、売り上げて的には衰退の一途をたどっています(苦笑)。あまり振り返りたくないのですが、自分への戒めのためにもあえて公表しておきます。


2020~21年をピークに、介護職員初任者研修も実務者研修も受講生数が右肩下がりになっています。特に今年度は厳しい状況です。2018年と2019年は初任者研修の生徒数が少なくなってきたところを実務者研修でカバーできていたのですが、今年は初任者も実務者も大幅に落ち込んでしまいました。景気が回復してきたことで、介護業界に入ってくる人が少なくなってきたことに加え、紹介料で利益を得るビジネスモデルが業界全体を占めてしまい、教育コンテンツでは商売にならなくなってきている流れが加速しています。今のところ、この先も受講生数の増加の見通しは立ちません。売り上げの2本の柱を失いつつある現状ですが、だからこそ新しい挑戦もしやすいですし、自分たちを変えていけるチャンスだと考えて、あがいてみなければいけませんね。
今年、手帳に記したものの、成し遂げられなかった計画のひとつに、ボディメカニクス講座の1級があります。結局、来年に持ち越しになりました。初級(3級の前の動画編)と1級を来春には同時にスタートさせたいと思います。もうひとつは、すきま時間を使った介護の仕事のマッチングサービスでした。来年こそは、今働いている人たちが別の場所でも仕事をして、新たな経験や学び、収入を得られるようにして、人材を流通させようと考えています。ケアカレのYouTubeチャンネルも充実させたかったのですが、今いちコンテンツとしての面白味と継続性に欠ける気がして、卒業生さんに戻ってきてもらうためにはケアカレナイト的なイベントが必要かなと考えたりもしています。良いアイデアあれば教えてください。
だらだらと書いてしまいましたが、いよいよ年末になって、やれていなかったことに着手し始めても遅かったということです。結局、来年に持ち越しになってしまったことが多いですね。これまで長い間ぬるま湯に浸からせてもらっていたのですが、さすがにこのままでは厳しいので、来年は年頭からするべきことに集中して実現したいと思います。私の所信表明になってしまいましたが、毎年、変わることなく素晴らしい授業をしてくださって、生徒さんたち一人ひとりを褒め・認め、親身に関わってくださっている先生方には感謝の気持ちで一杯です。ありがとうございます。ケアカレが100年続くように頑張ってみますので、来年もよろしくお願いします。
2024年
12月
17日
火
「どうすればよかったか?」

2024年最後の映画としては、重すぎました。救いもなく、絶望しかない地獄のような映画です。普通の映画であれば、どこかに救いようがあったり、希望の光が見えたりするのですが、この作品に関しては全くそれがないのです。そんな映画は私にとっても初めて。観ているだけで、身体は鉛のように重くなり、身動きが取れなくなるような感覚に襲われます(観たい人は覚悟して観てください)。タイトルである「どうすれば良かったか?」に対する鑑賞者としての私なりの答えは、「どうしようもなかった」です。これほどまでに救いも希望もない作品をつくることのできた、当事者の家族であり、監督でもある藤野知明氏には拍手を送りたいと思います。
小さい頃は優しくて面倒見の良かった姉が、おかしな言動を取るようになったのは、医学部に入学してからのこと。明らかに様子がおかしく、統合失調症が疑われたにもかかわらず、医師で研究者でもある両親はそれを認めようとせず、むしろ精神医から娘を遠ざけるようになりました。そこから長きにわたる両親と娘の重苦しい生活が始まりました。ほとんど外に出ることはなく、姉の病状は悪くなる一方。にもかかわらず、母は娘を家に閉じ込め、外の世界から切り離し、父は責任を負おうとせず、弟もその状況を打開することはついにできませんでした。残ったのは記録(映像)のみ。
どこか既視感があるのは私だけではなかったはずです。どこか噛み合わない両親と息子のやりとりは、私の両親と私のそれであり、間違った方向に進んでいると分かっていつつも、我が子を甘やかす母親とそれを見て見ぬふりをして放ったらかしにしてしまう父親はまるで我が家のようです。子どもは親の鏡というように、子どもの問題は親の問題でもあります。子どもを変えようとする前に、親が変わらなければ変わらないのに、つい私たちは自分ではなく対象を見てしまいます。不登校で社会性も身につかないでいる私の息子は、私たち両親の弱さから生まれてきたのですから。
子どもは親の鏡であるがゆえに、家族の問題を自分たちで解決するのが難しいのだと思います。同じ穴の狢(むじな)というか、表面的にどう現れるかの違いだけで、抱えている根本的な弱さや課題は同じだからです。まずは自分に矢印を向けて、自分から変わろうとするのがひとつ、完全な他者に介入してもらうことがもうひとつの解決方法ではないでしょうか。それは藤野家がそうであったように、言葉で言うのは簡単で実行するのは難しく、だからこそほとんどの家族の問題は最後に「どうすればよかったか?」「どうしようもなかった」と堂々巡りしてしまうのです。
2024年
12月
04日
水
私たちはいつも小さいことで悩んでる

8月からスタートした日曜日クラスが無事に終了しました。高校生の生徒さんも多く、年齢の幅の広いクラスでした。性別や年齢の違いを超えて、一緒に同じことを学んでいくのが介護職員初任者研修の楽しさのひとつだと思います。高校生のひとりは、「最初は同年代の生徒がいるか心配したけど、いざ始まってみると、自分の親やさらに祖父母と同じような年代の人たちと一緒に話せて楽しかった!」と言っていました。その逆も然りで、自分の子どもや孫のような同級生と共に学ぶことも刺激的です。自分たちにはない知識や発想、経験、そして感性を互いに感じながら、同じ時間と場所を共有することなんてこと、長い人生において、これまでもこの先もほとんどないはずです。
授業が終わった後、高校生の生徒さんのひとりが、今の悩みをクラスメイトに打ち明けていました。文化祭が近づいてきているのに、先生も周りの友だちも人任せで、このままだと上手く行かないのではと心配しているとのこと。文化祭でお店を出すようですが、材料の仕入れやそれにかかる経費などを考えれば考えるほど、その生徒さんは不安が募っていくのですが、周りは真剣に取り組んでくれず、自分ひとりが責任を負わなければならないのではないかと不安になるそうです。周りの大人の生徒さんたちは、その話を聞いて、「あなただけに押し付けるなんてかわいそうに」と共感したり、「先生にもう一度相談してみようよ」とアドバイスをしたりしている光景を見て、何かいいなと感じました。
少し冷静な目で見ると、そのときだからこその悩みや不安があって、たとえそれは親やそれ以上の年齢の大人にとっては取るに足らない(何とでもなるような)ことであっても、当事者にとっては苦しくて泣いてしまうような大問題なのです。私たちは誰もがそういう苦悩や不安を何とか乗り越えて(通り過ぎて)大きくなってきたのです。だからこそ、「そんなこと大したことじゃないよ」とか「適当にやればいいんだよ」などと受け流してしまうことをせず、その高校生の身になって一緒に考えてあげることができるのでしょう。それが大人になるということでもあるはずです。
ただ、よく考えてみると、大人になった私たちにとっても、今ぶち当たっている問題は、さらに年齢を重ねたときには大したことではないと思えるのではないでしょうか。どう考えてもにっちもさっちも行かないと行き詰ったり、もうこれ以上生きていられないと感じるような難題であっても、入れ子の構造のように、もう少し先の自分から見たら、小さな問題になっている可能性は十分にあるはずです。つまり、100年という長い人生を遠くから見たとき、私たちはいつも小さいことで悩んでいるのです。

2024年
11月
26日
火
セカンドライフ

ここ最近、セカンドライフについて話を聞くことが増えてきました。ここでいうセカンドライフとは、第二の人生、つまり、今まで続けてきた仕事を辞め、違う業界や仕事に移り、新しいことにチャレンジすることを意味します。やりたいと思っていたけれどできなかったことをやりたい、これまではパソコンと向き合う仕事ばかりだったけれど、次は人と向き合う仕事がしたいなど。定年になるまでに、まだ自分に体力と気力があるうちに、少し早めに介護の世界へ一歩を踏み出そうとする方が多いようです。年齢的にも、自分の親に介護が必要になって介護の世界と接点ができたり、介護が身近に感じられるようになってきたことも大きいのではないでしょうか。
先日の説明会にいらっしゃった男性は、救命救急士の資格を持って働く公務員でした。セカンドライフとして民間救急の介護タクシーを開業しようと考えているそうです。救命救急士は緊急度が高い仕事が入ってくることが多く、何かあったときに(たとえ自らに非がなかったとしても)怒りや批判の矛先が救命救急士に向くことも増えており、精神的ストレスが高くなってきているとのこと。また、ボディメカニクス等を知らずに移動・移乗を続けていたことで、身体(特に腰)を痛めてしまったりする救命救急士も多いそうです。そうした中、このまま定年まで仕事を続けられるのかという不安やその後の長い人生を考えると、早めにセカンドライフに移行した方が良いと判断したとおっしゃいます。
どこかに所属して働きたい人にとっても、介護の世界はセカンドライフに適していると思います。第一に門戸が広い。他の業界ですと、年齢で弾かれてしまうことが多いのですが、介護業界は慢性的な人手不足もあり、たとえ50代であっても正社員としての採用が当たり前です。介護職として3年経験を積めば、国家資格試験を受けることができ、あっという間に介護福祉士になれます。入りやすく、キャリアップもしやすい業界です。そして気がつくとベテランと呼ばれるようになっています(笑)。
懸念材料としては、前職よりも給与が下がってしまうことでしょうか。介護職員初任者研修を持っていたとしても未経験の場合は、年収が300~360万円あたりからのスタートになりますので、収入が減ってしまうケースがほとんど。中には半減してしまうという方もいるかもしれません。それは新しい世界に踏み入れる際はある程度仕方ないことですが、これも長い目で見るとそう悲観することでもありません。
というのは、介護の世界は自身が健康であれば定年がありませんので、70歳を越えても働き続けることができます。今の仕事の方が定年までは給与は良いかもしれませんが、定年になった途端に仕事がなくなるか再雇用という形で給与は半減し、しかもいつまでその仕事を続けられるか分からない状態になります。そう考えると、介護の仕事は稼げる期間が長くなる分、生涯全体としての収入は大して減らないというか、むしろ増える可能性さえあるのです(と卒業生さんが教えてくれました)。年金と介護の仕事による収入の両方を得ながら生きていける方が安心ですし、健康的なのではないでしょうか。
私はこれから50歳を迎えようとしています。まだ差し迫ってセカンドライフを考えているわけではありませんが、いずれ訪れるステージとして、先輩方の意見や考えを知っておくことは大切だと感じています。かつては他人事だと思っていた老眼の話(小さい文字が見えないなど)や夜の早い時間から眠くなる(遅くまで起きていられない)などの問題も最近は自分ごととして体験するようになりました。私たちの人生は常に前に向かって進み、誰にとっても平等に老いや死はやってくると悟らざるを得ません。私たちの前を行く先達が何を考え、どう生きるのかを知っておくことは、自分の未来をどう考え、どう生きるのかにつながるのです。介護の仕事も同じではないでしょうか。私たちは先輩方を介護することを通し、自分のセカンドライフの一部をいち早く見て知って、ある意味において体験させてもらっているのです。
2024年
11月
14日
木
「聴こえない母に訊きにいく」

映画「ぼくが生きてる、ふたつの世界」を見て、原作を読み、さらに著者の五十嵐大さんの他の著書に興味を持ちました。映画や原作の中にも少し登場した「優生保護法」について、「聴こえない母に訊きに行く」では詳しく書かれています。「優生保護法」は障害者が生まれることを防止し、女性の出産を管理しようとした悪法ですが、聞いたことはあっても、その具体的な内容や成り立ちについてはほとんど知りませんでした。映画をきっかけとして、「優生保護法」について学べて良かったと思いますし、ぜひ介護・福祉にたずさわる方々には知っておいてもらいたい歴史です。
本書は、聴こえない親を持つ、聴こえる子どもであるコーダ(CODA:Children Of Deaf Adult)の著者が、母親にこれまでの人生をインタービューするために会いに行くという形で描かれています。耳の聞こえない母は、どのような子ども時代を過ごし、どのようにして著者を産み育て、どのような幸せや喜びを感じ、どのような差別や偏見を味わってきたのか。息子として、ときには第三者として話を聞き、書き進める視線が斬新です。さらに母の家族や関係者にも取材する中で、「優生保護法」に直面せざるをえず、もしかすると自分は生まれてこなかったかもしれないと思い知らされるのです。
「優生保護法」とは1948年に議員立法によって制定され、第一条には「この法律は、優生上の見地から不良な子孫の出生を防止するとともに、母性の生命健康を保護することを目的とする」と書かれていました。つまり、遺伝する恐れのある病気を持つ者や障害者が出産することを防ぐために、不妊手術や人工妊娠中絶を行う条件、避妊具の販売や指導について定めた法律です。遺伝性疾患、ハンセン病、精神障害、身体障害などが対象になり、さらには戦争で家や行き場を失ったホームレスの人たちさえも、不妊手術を実施しようとしたのです。医学的根拠も法的根拠も曖昧なままに、拡大解釈や恣意的な運用がなされて、多くの人たちに取り返しのつかない被害を及ぼしたのです。
耳が聴こえないという理由だけで、不妊手術を強いられた時代があったということです。あり得ないと思われるでしょうが、今からわずか80年ほど前の出来事であり、30年前まで適用されていた法律です。最近のコロナ騒動でも、誰が誰にうつしたとか、県境をまたぐなとか、マスクをしていない人は非国民だとか、ワクチンを打たないと飛行機に乗れないとか、同じような現象が起こったことを考えると、私たちは歴史から何も学んでいないことが分かりますし、無知であることを出発点として、差別や偏見はあっという間に広がり、取り返しのつかないところまで行き着く悲劇はいつの世も繰り返されるのですね。
五十嵐さんの母は同じろう者である父との結婚を反対されて、駆け落ちしたことがあると言います。もちろん、子どもを産むことも心配されました。五十嵐さんの両親が育った宮城県で強制不妊治療を受けたのは1406人、なんと9歳の子どもが手術を受けた例もあると言います。他の県は1950年後半から手術の件数を減らしていますが、宮城県はなぜか1960年になっても、むしろ1963年から1965年をピークに増加傾向にありました。それには県内で盛んであった「愛の十万人運動」が関係しているそうです。今となっては実に皮肉な名称ですが、その運動の趣意書には「遺伝性の場合は、その両親と子ども、後天性の場合はその精神薄弱の子どもに対して、子どもが生まれないような優生手術をする必要があります。それが、その親と子どものしあわせです」なんて述べられているんのですからおぞましい。
当時を知る人たちはこう振り返ります。
「被害を受けた人と免れた人、その差はタイミングだったのだと思います。当時はいまよりも情報がありませんでしたから、ろうのコミュニティのなかで力を持つ人―たとえばろう学校の教師などから手術を勧められ、判断もつかないまま受けてしまう、というケースもあったのでしょう。それを免れられたのは、本当に運やタイミングが違っただけなんだと思います」
五十嵐さんの母は運が良かったのでしょうし、タイミングが少し違えば五十嵐さんは生まれてこなかったのです。その当時はおかしいと思われなくても、どう考えてもおかしいことはあります。いや、当時の人たちもおかしいと思いながらも、国がこう言っているからとか、医師がこう言っているからとか、テレビや新聞もそう言っているからと言って、疑うことをせずに信じてしまったのではないしょうか。そういう無責任で無知な大衆も加害者のひとりなのです。その根底には、“心配”という善意の体を装った、優生思想が横たわっています。技術的にもより自然な形で命の選別が可能になっている今、私たちは歴史を知っておかなければまた同じことを繰り返すのです。
2024年
11月
06日
水
どう対応すれば良かったのか?

先日、某ファミリーレストランで夕食を食べて帰りました。野菜たっぷりの甘酢あんかけ丼を注文し、出てくるまでの間に本を読んでいると、隣の席に老夫婦がやってきました。学生さんのようなウエイトレスさんがオーダーを取りに来て、老夫婦もいくつか食事を注文し、最後に思いついたように旦那様が「ノンアルコールビールを1つ。グラスは2つ。分かった?」と追加しました。いくら孫世代のような若いウエイトレスさんとはいえ、ずいぶん偉そうな口調だなと私は心の中で悪態をつきながら、その様子に耳を傾けていました。「分かりました」とウエイトレスさんは言い、その場を去りました。
私の甘酢あんかけ丼が出てきて、美味しく食べていると、隣から何やら不穏な空気が漂ってきました。例のノンアルコールビールに対して、店長さんを呼び出してクレームを入れているようです。
旦那「ノンアルコールビールを頼んだらこれが出てきたんだけど」
店長「これがノンアルコールビールです」
旦那「全然ビールの味がしないんだけど」
店長「ノンアルコールビールはそういうものです」
旦那「そうなの?でもこれはビールじゃないな」
店長「そう言われましても…。それではオーダーをキャンセルしておきます。(少し怒り気味に)でもこれがノンアルコールビールなんです。覚えておいてください」
旦那「(逆切れ気味に)そうだとしても、せめて出すときに『こちらがノンアルコールビールです』と言わないと分からないし、このグラスにはビールのマークもついてないよね」
店長「(あきらめたように)分かりました。キャンセルしておきますね」
出だしのウエイトレスさんとのやり取りで少し嫌悪感を抱いていた私は、店長さんにどうしても肩入れしてしまいます。自分でノンアルコールビールを頼んでおいて、これはノンアルコールビールではないと言われても困るし、何でこんな理不尽なクレームに下手に出て対応しなければならないのか可哀そうに。店長さんがイラついてしまうのも無理はない、と最初は素直に思いました。ノンアルコールビールは捨てられることになり、オーダーを取り消せば店の売り上げは失われ、隣の老夫婦のテーブルには気まずい雰囲気が流れています。誰も得しない最悪の結果です。
ところが、しばらくして、もっと良い対応の仕方があったのではと、ふと考えてみました。十中八九、良くないのは旦那さんです。注文したものが出てきたのに、訳の分からないクレームを入れているのは理不尽なこと極まりありません。それは百も承知で、あえてもう少し上手いやり方はなかったのかと自問してみました。オーダーをキャンセルすることなく、旦那さんにも納得してもらえる妥協点はなかったのかと。食後のコーヒーを飲みながら考えましたが、その場では答えは出ませんでした。皆さんなら、どう対応しますか?もしかすると、同じようなことは介護の現場でも起こっているのではないでしょうか。
自宅に戻って、もう一度、ゆっくりと考えてみました。偏見を抱かないように、ウエイトレスさんに偉そうに注文していたことは一旦忘れ、旦那さんの立場になって気持ちを想像してみました。まず、ノンアルコールビールを飲んだ時、初めてだったこともあり、これはいつも飲んでいるビールじゃないと感じたのだと思います。気の抜けたコーラを飲んで、これはコーラじゃないと感じるのと同じです。そこで旦那さんは、ウエイトレスが間違って違うドリンクを持ってきたのだと思ってしまったのです。そこで店長らしき人を呼び出し、これはノンアルコールビールではないのではと言ったら、それはノンアルコールビールだという答えが返ってきて、そこから水掛け論に発展しました。
店長さんの言っていることは正しく、ある意味、論破してしまったのですが、会話のどこかで旦那さんも、しまったこれがノンアルコールビールなのか、自分が間違ったと気づいた瞬間があったはずです。そこで論点をすり替えて、ウエイトレスのせいにしてみたり、グラスのせいにしてみたりして押し通したのです。この心の流れが分かれば、妥協点はひとつです。アサヒとかキリンとかのマークがついたグラスを店内から探してきて、それに中身を移し替え、「こちらがノンアルコールビールになります」とひと声かけて出すことで、旦那さんはビールが出てきたような気になって納得してくれるのではないでしょうか。
目の前にある液体がノンアルコールビールかどうか、またはウエイトレスが「ノンアルコールビールです」と言うかどうかで争っても仕方ないのです。「たしかにおっしゃるとおりですね。このグラスですとビールとは思えませんよね。失礼しました。今すぐ、ビールらしいグラスに注いで持ってきます」と言えば良いのです。おそらく旦那さんは「これだよこれ。これだったらノンアルコールビールでもビールって分かるから」と言って飲んでくれるのではないでしょうか。
こうした対応が即興でできる人は素晴らしいと思いますが、私にはできません。でも、相手の立場になって、気持ちを想像し、心の動きを掴むことができれば、もう少し上手いやり方を思いつくこともあります。実際にそれが正解かどうかは分かりませんが、あの対応で良かったのかと、常に自分や他人の言動を振り返る習慣を忘れてはいけませんね。
2024年
10月
30日
水
卒業生さんの未来

5年前に卒業した実務者研修の生徒さんから、お手紙をもらいました。初任者研修から実務者研修と通ってくれると、計22日間、共に時間を過ごすことになりますので、さすがに顔と名前が一致しますし、お互いにその人となりも分かってきます。そうした中で、卒業した後もやり取りが生まれたり、何らかの形でお付き合いさせてもらったりという関係ができることもあります。卒業したらそこではい終了ではなく、せっかく袖が触れ合ったのですから、たとえ細くても縁がつながっていくことは嬉しいものです。むしろそうした人と人の心のつながりこそが、学校にとっても先生方にとっても、最終的には最も価値あるものではないでしょうか。
前置きが長くなりましたが、お手紙をいただいた卒業生さんは、実は実務者研修しか通っていません。その当時は横須賀にお住まいだったので、初任者研修は遠すぎて通えなかったのかもしれません。実務者研修のわずか7日間だけで仲良くなれるのは滅多にないことですから、(良い意味で)珍しい関係として私の中で捉えています。彼女は実務者研修を修了したあと介護福祉士を取得し、その後、結婚を経て、旦那様の実家がある広島の呉に引っ越してしまいました。引っ越しのメールをいただいたとき、私もかつて仕事で広島に住んでいたことがあり、広島話で盛り上がりました。
一昨年、こちら(東京)に出てくる用事があり、その足でケアカレに立ち寄ってくださったことがあります。彼女は普段、着物で生活しているらしく、かなり寒い時期だったにもかかわらず、着物を重ねて現れたのには驚かされました。「寒くないのですか?」と声をかけると、「意外と温かいのです」と彼女は答え、「そして夏は涼しいですよ」と付け加えました。もしかすると、日本の気候に着物は合っているのかもしれないとふと思いました。私たちは生まれたときから洋服を着て育ってきたので、(特に男性は)着物を着て生活したことがほとんどありませんが、いざ着てみると快適なのかもしれませんね。彼女に着物は似合っていて、何よりも周りに流されることなく、自然体で自分が着たいものを着るという凛とした意志が素敵だと感じました。私たちは着ている物からすでに誰かに押し付けられていて、周りの目ばかりを気にして生きていることに気づかされました。せっかく広島から来てくださったので、近くのお魚が美味しい定食屋でご馳走させてもらいながら、卒業後の数年間に起こったことや、呉での生活について遅くまで聞かせてもらいました。
彼女は今、子どもが生まれ、新しい土地に移って生活しているそうです。子育てをしながら、介護の仕事(デイサービス)をしています。通所介護計画を作成していると、実務者研修の中で学んだ介護過程の作成を思い出すそうです。作成に行き詰まると、クラスメイトたちと交換したそれぞれのプリントを見返し、こういう視点から長期、短期目標を立ててみようと気づく、お守りのようになっている、と嬉しいことを書いてくれました。
職場にときどきお子さんを連れていくと、デイサービスの91歳の利用者さんが、「この子は毎日1つずつできることが増えていくけれど、私たちはできないことが一つずつ増えていく。だからできることをできるだけ減らさないよう、週1でここにくるのが楽しみ」とおっしゃったそうです。育児の息抜きに始めたのが、今は介護の仕事が楽しいと思えるそうです。
彼女の視点や考え方はとても純粋で新鮮で、生徒さんたちが卒業後にどのような想いで仕事をしているのかを代弁してくれている気がします。私たちが思い描いていた卒業生さんの未来が彼女を通して見えてきました。これからも彼女の人生が幸せであることを、遠く離れていても心から願っています。

実務者研修の7月火曜日クラスからメッセージボードをいただきました。初任者研修のときにも中心になって作ってくれた生徒さんが、今回も手掛けてくれました。可愛いですよね!
2024年
10月
20日
日
僕が生きてる、ふたつの世界

映画「ぼくが生きてる、ふたつの世界」を観に行ってきました(実は2回観ました)。耳が聞こえない両親に育てられた著者が書いた「ろうの両親から生まれたぼくが聴こえる世界と聴こえない世界を行き来して考えた30のこと」(タイトル長い…笑)を原作として制作された作品です。ふたつの世界とは、耳が聞こえる健常者の世界と聞こえない障害者の世界があるということです。同じ世界に生きつつも、耳が聞こえないことで、他者とコミュニケーションを取ることが難しく、コミュニケーションが取れるのは手話ができる人の間だけという、断絶された世界に生きざるをえないのです。
原作者であり、主人公でもある五十嵐大さん(役者は吉沢亮)は、耳が聞こえない両親に生み育てられ、自身は耳が聞こえるコーダ(日本国内にコーダは2万人以上いるそうです)。家庭で両親とは手話で話し、外に出ると言葉(口語)でコミュニケーションを取ります。小さい頃はそんな生活を当たり前に感じていたのですが、社会に出ていくにつれ、家庭と外の世界が上手く交わらないことに気づき始めます。
たとえば、耳が聞こえないために変な話し方になる母親(忍足亜希子さんの演技力は際立っていました)のことを友だちに指摘され、授業参観に呼びたくなかったり、どうせ聞こえなくて話にならないからといって三者面談では先生と二人で話したりなど。次第に母のことを避けるようになっていくのでした。
わずか2時間の映画の中に、いくつも論点が埋め込まれているのですが、「優生保護法」については深くて長くなりそうなので避け、「対等とは?」について少し書きます。手話サークルで知り合った聴覚障害者の女性に誘われて、聴覚障害者だけのグループで食事に行ったときの話が出てきます。主人公は気を利かせたつもりで、細かい注文のやり取りを店員さんとの間に入り、自分が手話を使って通訳をこなしたつもりでしたが、あとから彼女に「私たちの代わりにいろいろやってくれてありがとう。でもね、私たちから“できること”を取り上げないでほしいの」と言われます。
この出来事をきっかけに、主人公は母を守ってあげたいと思っていたが、それは違うのではと考えるようになり、また、かつて母がスーパーのレジのバイトをしたいと言ったときに反対して止めたことを思い出して反省します。良かれと思ってやったことが、相手を傷つけてしまうことにつながるという難しさです。
助けてあげようという気持ちが強ければ強いほど、相手から自由を奪い、相手を下に見ることになり、気がつくと上下関係が生まれ、対等ではなくなっていくという矛盾。主人公は、「守る」のではなく、「共に生きていく」を選択しますが、これは(あえて分けるとすれば)健常者と障害者の間にある永遠のテーマなのかもしれません。
どこまで配慮すべきかは人それぞれですし、状況や場面によっても違ってくるので、その都度考えて、上手く行ったり失敗したり、傷つけたり傷つけられたりしながらやっていくのが対等な関係性なのではないかと私は思います。お互いに完璧を求めようとすると苦しくなるのではないでしょうか。
ひとつだけ印象に残ったシーンを挙げるとすれば、やはり最後の駅のホームのそれです。紆余曲折がありつつも成長し、少し大人になった主人公が、電車の中で母親と楽しく手話で話した後のことでした。電車を降りてから「皆の前で手話で話してくれて、ありがとう」と母親は言いました。その言葉を聞いたとき、これまでどれほど母が孤独であったか、息子と普通に話したいのに話せず悲しい思いをしていたか、それでもあきらめずに愛情を注ぎ続けてくれたかを思い知ったのでした。気づくのに時間はかかったけれど、そのとき初めて、主人公にとっても母にとっても、聞こえる世界と聞こえない世界がつながり、ひとつになったのです。
映画のできばえとしては、素晴らしいものでした。私の中では、今年のナンバーワンかツーです。当ブログでも以前に紹介したことのある「夜明けのすべて」と比べ、どちらが良いかと問われると、どちらか1つを選ぶのは難しいほどです。同じようなテイストの作品ですが、どちらの脚本も役者も映像もクオリティが高い。映画が大好きで、大学を辞めて映画専門学校に入学しようかと真剣に悩んだこともあった私は、こうした作品を観るとあのときの情熱が少し蘇ってきて、映画を撮りたくなってしまいます。介護・福祉関連の仕事をしている方にはぜひ観てもらいたいですし、単純に映像作品として楽しんでもらいたい映画です。
2024年
10月
10日
木
老舗として

先日、町田のデパートを歩いていると、「村山さん!」と声を掛けられました。ふと見ると、もう10年近く前の卒業生Aさんでした。初任者研修と実務者研修のどちらも来てくれていますし、その後、知り合いを紹介してくださったり、さらにはちょうど今月(9月)からスタートした短期クラスにもひとり、Aさんのご友人が参加してくださっている絶好のタイミングでの出会いでした。Aさんはめったに町田に来ることはないのに、現実にこうしてバッタリと出会ってしまうのですから、縁とは面白いものだと感じました。私たちはこうした縁やつながり、出会いに恵まれて生きているのかもしれません。
Aさんと話している中で、友人が介護の勉強をしようと、いくつかの学校を見学に行ったときの感想を聞かせてもらいました。湘南ケアカレッジについては、「受講料が一番高くて、古いイメージだったけど、内容が良さそうだったのでここにしようと思っている」と言っていたそうです。それを聞いたAさんは「そこだよ、そこが私の母校だよ」と返してくれて、無事に友人はケアカレに来ることになりました。来てくれて良かったのですが、僕の中でひとつ引っ掛かった点があります。それは「古いイメージ」という言葉でした。
受講料に関しては、2013年に湘南ケアカレッジが開校したときは最も安くて心配されたのですが、今では1番高いと言われるようになりました。時代の移り変わりには感慨深いものがあります。この10年間で、ほとんどの学校は教育ではなく有料職業紹介によって利益を出すモデルに様変わりし、受講料は無料でもいいから仕事の紹介が成立すればよいと考えるようになりました。
湘南ケアカレッジは「世界観が変わる福祉教育を」届けたい学校ですから、そうした職業紹介偏重(教育軽視)の流れに抗おうとして、教育サービスに対する対価として受講料はいただきたいと頑張ってきました。そして、気がつくと受講料が最も高い学校になっていたのです。ケアカレが高くなったのではなく、他校が安くなった(教育ではない部分で利益を出すようになった)ということです。良し悪しは別にして、この流れは止められません。
それよりも、古いイメージと言われたのは初めてでした。他の大手介護スクールと比べて、湘南ケアカレッジは新しく(2013年に)創設されていますので、私の中では新しい学校のつもりでした。なぜ古いと思われたのか?それはどういう意味なのか?いくつものクエスチョンマークが頭の中をよぎりました。ホームページが古く思えたのか(シンプルで凝っていないのはたしか)、それとも学校が入っているビルが古く見えたのか(たしかに築50年近い古い建物です)、またはカーテンの染みが目に入ったのか?Aさんの友人に聞いてみないと真相は分かりませんが、こうして生の声を聞き、第三者からの目線で改めて自分たちを見てみることも大切ですね。
良く考えてみると、湘南ケアカレッジは驚くほど変わっていないのです。先生方も10年前からほとんど変わっていませんし、受講料も変わっていません。教えている内容は少しずつ変化しているとはいえ、本質的な部分は変わっていません。もちろん、介護・福祉教育に対する熱い気持ちも変わっていません。
変わらないことをモットーにしてきたわけではありません。先生方が次々と辞めては入るを繰り返したり、キャンペーンなどと言って受講料を上げ下げしたり、本業よりも儲かりそうな事業に乗り移っていないだけです。大切な人たちに、大切な人たちと、大切に想うことを提供し続けた結果、ほとんど変わらずにここまでやってこられました。正直に言うと、この先も変わらずにいられるか分かりません。生き残るためには変わらなければならないかもしれませんし、変わらなければならないならば私たちの存在意義はないのかもしれません。この頑固なまでの変わらなさが、古いと思われる原因なのかもしれませんね(笑)。
あくまでも個人的な意見や考えですが、私たちは変わろうとし過ぎなのです。私たちというのは、企業や経営という観点から言っています。時代の変化に合わせて、強迫観念のように変わらなければならないと思っている企業や経営者がほとんどではないでしょうか。「何世紀も前の恐竜を例にとって、強い者が生き残ったわけではなく、環境に適応できなかった者が滅びたのだ」という言説が好まれるのは、そういう理由です。
私たちはどこか今の自分に自信がなくて、このままだと将来は明るくないと感じているようです。だからこそ、自ら変わらなければ時代に乗り遅れてしまうと思うのですが、どこまで行ってもその考え方は後追いに過ぎません。私たちが目指すべきは、ずっと変わらずそこにいることです。老舗と呼ばれるお店や企業はそうしてきたはずです。もし変わらないことで絶滅してしまうなら、それは運命と思ってあきらめるしかありません。古いと思われようと構いません。湘南ケアカレッジは介護スクールの老舗として、最高の福祉教育をいつまでも届け続けたいと思います。
2024年
9月
21日
土
認知症の日

9月21日は認知症の日でした。「世界アルツハイマーデー」とも呼ばれているそうです。認知症に関する理解を深め、患者やその家族に対する援助や希望を提供するために設立された国際的な1日です。さっそく私も、介護職員初任者研修の説明会にて、今日が認知症の日であることを伝え、その後、認知症に関する映画「エターナルメモリー」を吉祥寺まで観に行ってきました。今年はまさに認知症の日に相応しい1日を過ごせたと思います。ポッキーの日にポッキーを食べようとは思いませんが(11月11日は介護の日でもあります)、せっかく介護の世界にいるのですから、認知症の日をきっかけにして何らかの言動を起こせると良いですね。
映画「エターナルメモリー」は、作品としてはありきたりのものでした。認知症のドキュメンタリーは数多くありますし、描き方もセリフも取り立てて特別なものはありません。あくまでもチリで有名なジャーナリストがアルツハイマー型認知症を発症し、女優の妻が献身的に支えるという話です。ありきたりだから悪いということではなく、どこにでもある飾り気のない普通の話だからこそ、そこに私たちの人生の真実が垣間見えてくるのです。唯一、特別だと思えるのは、ジャーナリストと女優という職業柄、ふたりの昔の映像が残っていることです。それらが差しはさまれることによって、人間が当たり前に老いてゆくことが分かるし、何といっても、ふたりがどれだけ長い時間を経て愛し合ってきたかが伝わってくるのです。

主人公のアウグストは、アルツハイマー型認知症を発症して以来、ゆっくりと確実に記憶を失っていきます。かつては本を数多く読み、何冊も執筆して出版したほどのインテリジェンスを持ち合わせていましたが、病気には勝てません。少しずつ記憶を失ってゆく中、最後まで残るのは妻パウリナや家族、友人との思い出です。しかし、時として、そうした思い出や妻のことすらも忘れてしまう瞬間が訪れます。そして自分のことも忘れて、鏡に映る自分に向かって他人と話すように話しかけるのです。そうしたときも、パウリナはあきらめずに話しかけ、愛情を持って接することで、ふとアウグストは思い出を取り戻します。その様子を見ていると、妻との思い出は妻との関係性の間に存在することが分かります。
たとえば、どこかの場所に行ったとき、見覚えのある場所だと思い出したり、昔の記憶が蘇ってきたりすることがあるはずです。それは場所との関係性の間にあった記憶が呼び起されるからです。頭の中にあっても、その場所に行かないと取り出せない記憶なのです。同じことは人との記憶にも当てはまり、その人がいるからこそ記憶も存在するのです。それを私たちは思い出と言うのでしょう。逆に言うと、相手が目の前からいなくなってしまえば、その思い出は急激に色あせてしまったり、失われてしまったりするのかもしれません。記憶はアイデンティティです。だからこそ私たちは孤独を恐れるのです。アウグストはアルツハイマー型認知症になっても、最愛の妻パウリナがずっとそばにいることで、自分自身のアイデンティティを失わずに生きていられました。人生の最期に記憶を失ってしまっても、アイデンティティを失っていないアウグストがうらやましく思えました。
2024年
9月
11日
水
生かされて生きる

前回のクラスの生徒さんから、「ロートレック展に行ってきたのですね!ブログを読みましたよ」と声をかけてもらいました。できるだけ介護や福祉と関連性のある話を書きたいと考えていますが、たまには違った話題もと思ってブッコんだところ(笑)、反応があって嬉しいです。その生徒さんはかつて絵を描いていたりしたので、アートや絵画に興味があるそうです。介護の現場でも、介護とはつながりのない共通点が利用者さんとあったり、全く関係ない話題で盛り上がれると、その関係性には深みが増しますよ。こんな話は誰も興味がないだろうと勝手に決めつけずに、自ら発信してみることは大切ですね。
今回は調子に乗って、東山魁夷展に行ってきた話を書きます。正確に言うと、恵比寿から15分ほど歩いて、山種美術館に特別展「東山魁夷と日本の夏」を見に行ってきました。東山魁夷は私が20代の頃から好きな日本画家です。最初に感銘を受けたのは、「道」という一本道が目の前に広がっている作品でした。当時は、自分にはこれしかない!と思い込んでいる道があって、その心境と絵が見事にマッチしたのだと思います。東山魁夷の「道」を見るたびに、励まされた記憶があります。それ以来、画集などで数々の他の作品を見るにつれて、作品自体の素晴らしさとその背景にある「私たち人間は生かされている」という思想に惹かれてファンになりました。好きな画家はと問われると、今でも迷いなく「東山魁夷さんです」と答えます。
私の祖父が10年ほど前に亡くなり、しばらくしてから実家の応接間に東山魁夷の絵画(レプリカ)が飾られていることに気づきました。それまでも飾られていることは知っていたのですが、あまり気にしていなかったというか、意識を素通りしていました。祖父が亡くなってから初めて、祖父も東山魁夷を好きだったことに気づいたのです。今思うと、私が見て見ぬふり(知って知らぬふり)をしていたのは、もしかすると自分が東山魁夷を好きなのは、祖父の影響があったことから目を背けていたからかもしれません。自分のセンスで東山魁夷を好きになったつもりでいましたが、物心つく前の小さい頃に(祖父に見せられたり、連れられて展覧会に行ったりして)どこかで東山魁夷と接点があったのかもしれません(祖父と私の関係性はここでは詳しく書きませんのでご想像にお任せします)。私たちは自分で考えて、自分で決めて、自分で選んで、自分の力で生きてきたと思っていても、実は知っているところでも知らないところでも、他者の影響を大きく受けて今の自分がいるのです。

「東山魁夷と日本の夏」における東山魁夷さんの絵は、50代になろうとしている私にとっても素晴らしいものでした。20代の時に見ても、50代になっても変わらず良いものって、なかなかありませんよね。特に春夏秋冬をそれぞれに描いた4枚の絵画は、東山魁夷の全てを凝縮させたような、息を飲むほどに凄い絵画です。これらの作品を描いたのは東山魁夷が60代になってから、という事実にも励まされます。まだまだ人生これからですね。生かされている人生を大切に楽しみたいと思います。
2024年
8月
29日
木
学び直す

実務者研修の最終日、医療的ケアの授業の最後に「救命蘇生法」が登場します。呼吸の確認、胸骨圧迫、軌道の確保から人工呼吸の流れを練習します。実務者研修に参加する生徒さんのほとんどは、現場で一度は講習を受けたことがあると言いますが、やり方を忘れてしまっているようです。まるで初めてのように、新鮮な気持ちで取り組んでくれている姿を見ると、やはり定期的に学び直すことは大切だなと感じます。
来年度は、ケアカレでも学び直しの講座を展開していきたいと考えています。小野寺先生にリスキリングが流行っているという話を教えてもらい、ケアカレも取り入れてみようと思いました。たとえば、介護職員初任者研修の食事の授業を、(本来は6時間なのですが)3時間ぐらいに凝縮して、主に卒業生さんに再受講しに来てもらうのです。3時間で3000円ぐらいの受講料をいただけば、先生方にもお礼ができるはずです。たとえば、4月は午前中に「認知症」、午後に「こころとからだ」、5月は午前中に「整容」、午後に「移動」などと、午前午後に分けて、学び直したい科目だけ受けに来てもらうのです。あくまでも来年度の案としていかがでしょうか?
それはさておき、「救命蘇生法」のパートを教えてくれる村井先生が、医療的ケアの授業のしめくくりに、「私たちは瞬間、瞬間を生きているのです」と生徒さんに伝えています。ほとんど毎回どの授業でもそう話しているので、今を生きる的な自己啓発として聞き流してしまっていたこともあったのですが(笑)、最近、村井先生に言葉の真意が分かりました。村井先生が言いたかったのは、心臓が拍動して血液を送り出しているからこそ、私たちの体は動いている。心臓が止まってしまえば、私たちは死ぬ。もしかすると、次の心臓の拍動が止まり、私たちは生きていられないかもしれない。私たちはまさに心臓がドクッドクッと動いて止まるその瞬間、瞬間を生きている、ということが言いたかったのですね。
私も来年で50歳を迎えて、昔と比べて死生観も少しずつ変わってきました。何が起こっても不思議ではない年齢だと思いますし、来年はどうなっているか分からないなと考えたりもします。それでもさすがに、今この瞬間とまでは思いもよりませんでしたが、私たちの心臓の機能を考えると、私たちが瞬間瞬間を生きているというのはまさにそのとおりなのです。救命救急にたずさわっている村井先生の真意が、私だけに伝わっていなかったのか、それとも生徒さんたちも同じなのか分かりませんが、もう何十回も聞いて初めて私は理解できたのです。同じことでも何度も聞くとようやくその真意が分かることもありますね。学び直すことで、新たな発見や学びもあるはずです。
2024年
8月
13日
火
ロートレック展に行ってきた

今年は湘南ケアカレッジもきれいにお盆休みが取れたので、新宿のSOMPO美術館で開催されている「ロートレック展―時をつかむ線」に行ってきました。先日、訪れた「マティス展」のマティスは切り絵で有名なのに対し、副題の「時をつかむ線」からも分かるとおり、ロートレックは線の巧みさで人物を描いた画家です。素描作品から出版物、ポスターなど、どの作品を取って見ても、ロートレックは独自の線で世界が切り取られています。今回の展覧会には240点のロートレック作品が展示されていました。ロートレックは36歳で若くして亡くなるまでに、1日1点のペースで描き続けたそうです。描き続けたことが彼の才能であり、その情熱を支えていたのは、彼に障害があったからだと考えると何とも言えない気持ちになります。

ロートレックは19世紀末を代表するフランスの画家です。ロートレック家は伯爵家であり、普通に育っていれば優雅な生活をして人生を謳歌していたはずですが、ロートレックは13歳のときに左の大腿骨を骨折し、14歳のときは右の大腿骨を骨折します。その影響で両足の発育が止まり、成人したときの身長は152cmしかなかったそうです。近親婚による骨粗しょう症が原因と言われています。その姿に愛想を尽かした父親はロートレックを疎むようになり、不遇で孤独な青春時代を送ることになります。そうした心の屈折がロートレックを一心不乱に絵画の世界に向かわせ、自らの障害で差別を受けていたことが娼婦や踊り子といった夜の世界の住人たちへの強い共感につながったのは確かです。

ロートレックは自分の姿かたちを嫌悪していたのか、自画像は一枚も見当たりませんでした。写真はあっても、自ら筆を取って自分の姿を描くことはしなかったのでしょう。しかし、ロートレックの描く夜の世界の人物たちは実に個性的で、当時のムーランルージュなどの歓楽街の熱気が伝わってくるようです。彼の絵からは、伯爵家の出身であるようなスノッブさも感じませんし、かといって差別された障害者のルサンチマンも見えず、絵(スケッチ)を描くことが大好きでそれを続けてきたら、こんなに素敵な作品が描けるようになったというような、爽やかさやさっぱりした美しさが現れているのが不思議です。

「人間は醜い、されど人生は美しい」
ロートレックが母にあてた手紙に書いた言葉です。ここでいう人間とは、自分の姿かたちを示しているのでしょうし、その自分を疎んだ父親や差別した人たちのことも表しているはずです。それでも一人ひとりが生きている姿は美しく、そんな人間が集まって織りなす人生もまた美しい。また、「醜さの中に必ず美しいものが隠されている。誰も見つけていないところにその美しさを見つけるのは実に感動的だ」と彼は言うのです。自らの醜さだけではなく人間の醜さと向き合いつづけ、その中に美しいものを見つけて描き続けたのがロートレックという画家なのです。
2024年
8月
07日
水
文化の違いを楽しむ

4月日曜日クラスは、1クラスに10名の外国人の生徒さんがいました。中国の方が7名、フィリピンの方が3名です。これまでも1クラスに外国人の生徒さんが1、2名いるのは普通でしたが、まさか3分の1以上を占めるとは…。今回のクラスはやや特別だと思いますが、今後、外国人の生徒さんが増えてくるのは間違いありません。特に中国から日本に移り住んでいる人々の数は年々増加していますので、介護職員初任者研修に来てくれる人も増えるはずです。そのような状況の中、彼ら彼女たちと共生してゆくためには、互いの文化や思想の違いを知らなければいけません。
中国人と日本人は見た目こそほとんど変わらないのですが、文化や思想の違いは少なくありません。文化が異なると、思想(考え方)も違ってくる、その逆も然りと言えます。たとえば、中国人と日本人では肖像権(プライバシー)に対する考え方が全く違います。肖像権(プライバシー)に関して、中国の人は比較的無頓着である一方、日本の人は神経質に思えるほど敏感です。中国人にとって、日常の風景をスマートフォンで写真や動画を撮影して、そのままSNSにアップすることは当たり前。たとえ自分が映っていても、他人が映っていても気にすることはありません。日本人からすると不思議に思えるでしょうが、それが当たり前の感覚として共有しているのです。
なぜ肖像権(プライバシー)に関して無頓着(良く言えばおおらか)か、中国人の知り合いに聞いてみたところ、中国はそもそも監視社会であり、日常生活の至るところにカメラが設置されていて、元から肖像権(プライバシー)など存在しないからだと思う、と答えてくれました。ご存じのとおり、中国では全国民が番号で管理され、全ての行動は追跡・把握されているので、今さら肖像権(プライバシー)を気にしても仕方ないのだという意味です。素っ裸で歩いている人にとって、これ以上隠すものがないと表現すれば分かりやすいでしょうか(笑)。
もちろん、郷に入っては郷に従えと言われるように、日本では日本人がマジョリティを占めていますので、日本の文化や考え方にある程度は合わせてもらう必要はあります。ただ、受け入れる側も、相手側の文化や思想について知っておくだけで、なぜそのような行動を取るのか、少しは理解できて、歩み寄れるのだと思います。一方的にこちらのルールを押し付けるのではなく、互いに理解しようとした上で、向こうには妥協してもらう、こちらは受け入れるという気持ちのやり取りが大切ですね。
この発想は、アンガーマネジメントにおける「自分のべきを拡げる」と似ています。どういうことかというと、私たちは常に自分の考えを持っていて(それはそれで良いのですが)、どうしても自分と同じ考えであれば共感するけれど、自分と違う考えについては、ぎりぎり許容できたり、または許容できなかったりするはずです。円グラフを見てもらうとイメージしやすいのですが、怒りという感情が沸き起こるのは、自分とは違って許容できないゾーンに相手がいるときです。簡単に言うと、自分がこうあるべきという幅が小さく、許容できる幅が狭ければ、怒りは生じやすいのです。

自分ごととして考えてみると、私たち教育にたずさわる人たちは(真面目なので)、とかく自分のべきが狭かったりしますが、それを押し広げていく努力や意識が必要だということです。自分のべきは他の人から見れば全くべきではないこともありますし、時代が変わればべきは異なるのです。自分のべきや許容できる範囲を拡げるためには、まずは自分のべきを一度疑ってみて、他人の立場を経験してみたり、また本を読んだりして様々な人々の意見を取り入れて教養を深めることだと思います。そうすることで懐の深い教育者になれるはずですし、そのような教育者がいる学校に湘南ケアカレッジはなりたいと願います。
2024年
7月
28日
日
我慢のとき

6月短期と7月短期クラスが無事に終了しました。人数が少ないながらも、それぞれが学ぶ意欲を持って積極的に参加してくださる生徒さんたちでした。おかげでクラスの盛り上がりも十分で、一人ひとりが濃く結びついてくれたのではないかと思っています。ある生徒さんが、「これぐらいの人数で良かった。先生方に密に関わってもらえるから」とおっしゃっていたように、たしかに人数が少ない方が密度は高まるのはたしかです。私たちとしては、クラスの人数が多い方が盛り上がるし、より多くの生徒さんたちとつながりが生まれるので良いと考えていますが、実際の生徒さんが満足してくださったならそれは嬉しいことです。クラスの人数が多くても少なくても、大きな満足を得て卒業してもらえる研修にこれからもしていきたいですね。
どれぐらい人数が少なかったかというと、どちらも10名に満たないクラスでした。湘南ケアカレッジの歴史を振り返ってみても、もしかすると最も人数が少ないクラスのひとつかもしれません。昨年から少しずつ感じていたのですが、今年に入ってから、生徒さんたちが激減しています。要因はいくつも考えられるのですが、もっとも大きなそれとしては、昨年から世の中の動きが活発になり(景気が良くなり)、観光や飲食を筆頭とした雇用が爆発的に増え始めているからです。そうなると、介護・福祉の仕事をこれから始めようと思う人は減り、むしろ今まで介護・福祉の仕事をしていた人たちが他の職種に流れてしまうことが起こります。分かりやすくいうと、世の中の景気が良いときは介護・福祉業界は下火になり、景気が悪くなると上向くという相関関係があります。残念なことですが、それは数十年前からずっと変わりません。
全体的に見ると、やはり現実的に介護・福祉の仕事は他に仕事がないから仕方なく(もしくは何となく)始める仕事ということです。仕方なく(もしくは何となく)始めた仕事であっても、やっているうちに楽しくなってきたり、自分に合うなと思ったりすることはたくさんあるはずです。私はそうでした。友人に誘われて、大手の介護スクールのベッドの搬送を手伝い、その流れで仕事をするようになり、介護・福祉教育の素晴らしさに気づきました。ただ、介護・福祉の仕事について知らない人たちにとっては、他の仕事を差し置いても積極的にやりたいと思う仕事ではないということです。ひと昔前に比べると、介護・福祉の仕事に対する世の中の見かたは少しずつ変わってきている気はしますが、それでもまだまだなのです。
私たちにできることは、介護・福祉の仕事の素晴らしさを伝えることです。介護・福祉の現場で働いている人たちにできることは、良い仕事をして、目の前の利用者だけではなく、その周りの家族の方々にも幸せになってもらうことです。そういう小さな積み重ねが、介護・福祉の仕事に対するリスペクトや長い目で見れば賃金の上昇につながっていくはずです。現実的には、また景気が悪化するような事態になり、介護・福祉の世界に人が入ってきてもらうのを待つしかないのですが、そんな我慢の時においても、できることをコツコツとやっていくしかないのです。介護・福祉は決して華やかな世界ではなく、世の中の流れに大きく左右されながら、それでも耐えて粛々と続けてゆく仕事なのだと思います。いつだって我慢の時なのです。

6月短期クラスの皆さまから暖かいメッセージ入りの色紙をいただきました!
2024年
7月
19日
金
うな誠 江戸前鰻

相模原を中心に介護施設を運営する株式会社リープスさんが、鰻のお店「うな誠」を市ヶ谷にオープンするとのことで、プレオープンイベントに招待していただきました。市ヶ谷駅から2分と近く、迷うことなく「うな誠」に辿り着きました。今回、生まれて初めて開店祝いのお花を贈らせてもらったので、店内に入る前に、ちゃんと出ているのか思わず確認してしまいました(笑)。オープン前のイベントということもあってか、当校の卒業生さんも接客スタッフとして駆り出されており、懐かしい面々とも会えて嬉しかったです。肝心の鰻の味といえば、めちゃくちゃ美味しかったです。

私はうな重御膳を注文しました。うな重プラス一品料理が籠に入れられて出てきます。ここでオープン前らしいアクシデントがあり、いきなりうな重が出てきてしまいました。前菜を食べて、そのあとにメインのうな重だと思いますが、順番が逆になってしまったようです。せっかく出してもらったので、温かいままうな重から食べることにしました。とにかく、日本産のうなぎを1匹そのまま使っていますので、ボリュームがすごい。ご飯が足りないと思わせるほどにうなぎがたっぷり。うな重(上)だけですと3300円ですから、お値段以上というか、満足感が半端ないです。味付けは甘さが僕の好みでした。箸休めのおつけものは塩味が強く、味のメリハリがはっきりしているのも素晴らしいですね。
褒めちぎってしまいましたが、実は僕は大のうなぎ好きです。最後の晩餐に何を食べたいのかと問われたら、うなぎと答えるほどです。なぜうなぎかと聞かれても明確な答えはありません。いつのまにか鰻がいちばん好きな食べ物になったのです。昔はステーキだったりしましたが、今は断然うなぎです。それじゃあ、どこのうなぎかと問われると、私の実家がある岡山県津山にあるうな重も好きですし、六本木にある生け作りのうなぎのお店も好きですし、浅草にあるひつまぶしの店のうなぎも好きです。もちろん「うな誠」のうなぎも好きですね。どれかひとつを選べと言われたら迷いますね。それだけうな重が好きということです。
この先、うな重を含めて、どれだけ記憶に残るような美味しい食べ物に巡り合うことができるのでしょうか。人生最後のご馳走として、もう一度食べてみたいと思い出すような食に巡り合うことは幸せだと思います。食べることは生きることであり、美味しいと思える食べ物を食べることは、より良く生きることです。いくつになっても美味しいと感動できる人生でありたいですし、また誰にとっても食事そのものが素晴らしい体験であり続けてもらいたいと願います。ということで、介護と食を無理矢理に結び付けて、今回の出張は美食のために行ったのではないことをアピールして終わります。
★うな誠 江戸前鰻のHPはこちら
2024年
7月
13日
土
ささやかな願いを立てる

梅雨はどこに行ってしまったのかと思いながら、猛暑が続く日々を過ごしていると、いつの間にか七夕がやってきました。あわてて前日に準備をするために、町田駅にある花屋さんに行くと、笹が1本だけ残っていました。胸を撫でおろして、ふと見ると、花屋さんにも願いの書かれた短冊がたくさん下がっている笹が飾られています。その中に、誰のものか分かりませんが、「トロント大学に合格できますように」という短冊が見えました。高校生の願いでしょうか。大きな夢があっていいなと素直に思いました。
ちなみに、僕の小さい頃の夢はいつも「野球選手になれますように」でした。小学校から野球を始め、中学高校と続け、プロ野球に入れるほどの才能も肉体もないことは分かっていたのですが、それでも野球選手になりたかったのです。将来の夢と聞かれて、野球選手ぐらいしか思いつかなかったこともありますし、叶わないとしても言うのはタダぐらいの軽い気持ちでした。いずれにしても、今思えば、夢が大きいことは素晴らしいですね。
大人になるにつれて、夢は失われてしまった気がします。20代や30代ぐらいまでは、欲のようなものはありましたが、少年の頃に抱いた大きな夢ではありませんでした。その代わりに、具体的な目標を設定したり、手が届きそうな小さい願いを立てたりするようになりました。それはそれで楽しかったのですが、最近は虚しさを感じるようになっていました。そんなところに、トロント大学の短冊を目にして、大きな夢を抱くことは生きていく上でとても大切なことなのではと実感したのです。
7月7日当日、生徒さんたちに願いごとを短冊に書いて飾ってもらいました。思いのほか、多くの生徒さんたちが協力してくれたと思います。外国人の方も多いクラスなので、何を願ったのか分からないものもありました。「介護職員初任者研修を無事に修了できますように」とか「最後のテストに合格できますように」というのは毎年ある願いですし、私も毎年「湘南ケアカレッジが100年続きますように」と書くようにしています。トロント大学に比べると夢が小さいなあと思いつつ、ふと願いがあるだけでも十分なのではと思ったのです。
私たちは歳を取るにつれて、夢を語れなくなるばかりか、願いすらも立てられなくなります。目先の仕事や雑事、スマホやテレビ、メールやLINEを返すことばかりに時間を奪われてしまい、自分のやりたいことや気持ちに鈍感になってしまっているのではないでしょうか。いざ願いごとを書こうと思っても、自分の夢ばかりか、願いすらも分からなくなってしまっているのです。自分は何がしたいのか?自分の存在意義や使命は?自分は何が好きで、どこに行きたいのか?などなど。自分の心の声を素直に聞いてみる1年に1度のチャンスを、七夕の短冊は与えてくれているのかもしれませんね。
2024年
7月
02日
火
大きくなるほど

実務者研修を受けに来てくださっている生徒さんたちの学ぼうとする姿勢やリアクションペーパー(その日の学びや感想を書いてもらうアンケートのようなもの)からは、良い介護をしたいという気持ちが伝わってきます。ただ単にお金を稼ぐための仕事ではなく、利用者さんに対してこういう介護をしたいという想いが確実にあるのです。にもかかわらず、実際に現場で仕事をしてみると、様々なしがらみやルールに縛られて、思ったような介護ができないという忸怩たる気持ちで一杯なよう。これだけ介護に対する熱い気持ちを持っている人たちが実はたくさんいるのに、現場では皆、縮こまって仕事をせざるをえないのはもったいないと思うのです。彼ら彼女たちの想いや力を存分に生かすことができれば、介護の現場はもっと明るく素敵なものになるはずです。
なぜ介護の現場において、こうあるべきという理想の介護ができないのでしょうか。それは時間の問題であったり、人材不足の問題であったり、様々な原因が挙げられるでしょう。ベテラン職員や役職が上の力を持っている人たちが、これまでのやり方を変えたくないので、新しい提案を取り入れようとしないといった新旧対立の問題もあるかもしれません。介護の技術や知識、考え方は10年前とは大きく変わっているのですが、現場レベルでは遅々として変わることがないのは人のマインドは変わりにくいから。そのような問題に輪をかけるのは、組織の問題だと思います。組織が大きくなればなるほど、均一化する力が働きますので、どうしても理想からはかけ離れてしまうのです。
極端な例を挙げるとすれば、一緒に働く人が3人しかいないとすると、それぞれがこういう介護をしたいという理想の介護を提供しつつ、その中で足りない部分を互いに補い合うことができるはずです。私たち一人ひとりは完全ではなく、強みもあれば弱みもあり、正しいこともあれば間違っていることもある凸凹な存在です。人数が少なければ、その凸凹をパズルのピースのように組み合わせながら、何となく形をつくることができます。ところが、30人が一緒に働くとすると、互いの凸凹を組み合わせるのが難しくなります。そこで何が起こるかというと、統一という名の均一化です。凸凹の部分を切り取って、皆同じ形にすることで(本来の形よりも小さくなりますが)、誰がやっても同じ介護を提供できるようにしたくなるのです。
同じようなことは、介護・福祉教育の世界にもあります。私がかつて大手の介護スクールで働いていたとき、ある先生が「こういうことを授業でやってみたい」と提案があっても、「他の教室で同じことができないのでダメです」とお断りせざるを得ませんでした。それが素晴らしい提案であっても、全ての教室で全ての先生ができなければ学校として提供できないということです。教室をいくつも抱える大手スクールとして、その考えには一理あるのですが、そうして生まれるのはマニュアルであり、誰にでもできるクオリティの教育の提供です。そして、こうしたいという先生方の想いは次第に失われていきます。均一化、マニュアル化をしようとすると、どうしてもレベルや熱量を下げざるを得ないのです。
もし理想的な介護を提供したいならば、多少のバラバラは受け入れて均一なものを提供することをあきらめる、もしくは有志が独立して小さい集団で提供するかのいずれかです。前者はなかなか難しいと思いますので、目指すべきは後者ではないでしょうか。想いのある介護者は自分(たち)の手で介護を提供すれば良いのです。簡単ではないかもしれませんが、そうした小さな集団がたくさんできて、地域の介護を支えていくのが理想です。大きな施設(組織)をドンとつくるのではなく、理想的な介護を追い求める小さな介護集団をたくさん生み出すことが、介護業界の未来にとっては大きなプラスになるはずです。
湘南ケアカレッジも町田にしかない小さい学校であるメリットを生かして、こうしたいという先生方の想いを生かしつつ、この先も理想を追い求めていきたいと思います。
2024年
6月
13日
木
卒業生さんたちとの関わり

先日、卒業生さんがDVDを取りに来てくれて、ケアカレの社食であるネパール料理を一緒に食べに行きました。彼女は昨年の3月の卒業生さんで、その後、訪問介護等を経験し、今は町田市の人材センターで一般市民向けの研修部門を担当しているそうです。数年前から、町田市が開催している「介護の入門研修」のひとコマを、佐々木先生が教えさせていただいていたのですが、その研修部門をケアカレの卒業生さんが担当することになるとは思いも寄りませんでした。不思議な縁を感じると共に、介護の世界は狭いなあと思いました。湘南ケアカレッジが開校して今年で12年目になり、数多くの卒業生さんたちが介護の世界を様々な形で支えてくれていると思うと、何か見えない力に守られているような気がします。
「ケアカレで印象に残ったことはたくさんありますが、その中でも小野寺先生が言っていた『常にベストな選択をする』は今でも心に残っています」と彼女は話してくれました。そういえば、寄せ書きの色紙にもそう書いてあったなと思い出しました。どのような文脈で小野寺先生が「常にベストな選択をする」と言ったのか分かりませんが、常にどの選択肢が今の状況においてベストなのか考え、妥協することなく選択するということだと私は解釈します。たとえそれが間違っていたとしても、そのとき自分がベストだと思った選択をすることは大切ですね。彼女は運営や企画力を伸ばしたくて町田市の人材センターに入ったと言いますが、その選択がベストだったと信じて、目の前の仕事に取り組んでもらいたいと思います。
そういえば、彼女と会った前日、近くのスーパーに買い物に行った際、卒業生さんとバッタリ会って声をかけてもらいました。「おかげさまで、介護福祉士に合格しました」と嬉しそうに話す彼は今年73歳になったそうです。「今までのケアカレの歴史の中で最高齢での介護福祉士合格ですよ」と伝えると、何をどれぐらい勉強したかを誇らしげに話してくれました。「絶対出るという問題集をやりましたが、1問も出ませんでしたよ」というので笑ってしまいましたが、介護福祉士の試験はそういうものです。過去問をやっても同じ問題は二度と出ず、形を変えて同じような問題が出るものです。学びに近道はありません。その卒業生さんはたくさん勉強したからこそ、どんな問題が出てもその場でベストな選択ができたのだと思います。
卒業生さんたちとの関わりは貴重です。生徒さんたちが湘南ケアカレッジにいる期間は、短ければ1か月、長くても4カ月ぐらいですから、その後、彼ら彼女たちがどのような道を歩んでいるのか分かりません。それが久しぶりに話ができることで、点と点がつながって線になります。そして、卒業生さんがおっしゃってくれるのは、「あのときケアカレで学べて良かった。あの時間あるから今がある」ということです。お世辞半分かもしれませんが、私たちは卒業生さんたちの人生に影響を与える大きな点となっていることを誇りに思います。
2024年
6月
02日
日
ハワイアンミュージック

卒業生の丸山嘉久さんのライブを聴きに、成瀬北口にあるライブ喫茶イマジンに行ってきました。当日は授業後にテストがあったため、約1時間遅れての到着となってしまいましたが、ちょうど第2部が始まる前に会場入りすることができました。丸山さんと同じクラスだった卒業生さんに顔もチラホラ見えて安心しましたし、何よりも丸山さんのライブの暖かい雰囲気に一気に溶け込むことができました。丸山さんはハワイで過ごしていたこともあり、ウクレレやギターでハワイアンミュージックを奏でていきます。そこに女性たちのフラダンスが加わり、開放的なハワイの雰囲気で一杯でした。
これまでも卒業生さんの中に音楽をやっている方はたくさんいて、ライブ等に誘われたらできる限り足を運んできました。バンドをやっている人もいましたし、演歌歌手もいましたし、サックス奏者もいましたし、今回はハワイアンミュージックです。機会があれば断らずに行くことで、私の普段の生活の中にはないものに触れることができるのです。ジム・キャリー主演の「イエスマン」という映画がありましが、あそこまで大げさではなくとも、目の前にある機会にイエスと言って行動するか、できない理由を挙げてノーと言うかで人生は大きく変わってくるのです。たとえ変わらなかったとしても、前者の方が圧倒的に楽しい人生でしょう。
曲と曲の間のMCで、丸山さんがこんな話をしていました。「ハワイから日本に帰るときの送別会にて、Yoshiは自分の思うように演奏したらいい」というようなことを言われた。ハワイの音楽は同じ曲を演奏していることが多く、たとえ同じ曲でもAさんが演奏する曲、Bさんが演奏する曲は違うのだから良いとのこと。その話を聞いたとき、路上でライブをしている若者が有名な曲のカバーを歌っているのを聴いて、自分で作詞・作曲した曲を歌えばいいのに思っていた考えを改めなければならないなと感じました。たしかにオリジナリティは大切ですが、それ以上に、同じ曲を歌っても人が違えば違う曲になるのですね。誰もが人と違った個性を求められる世の中はかえって息苦しいかもしれません。

終幕が近づく頃、「ハワイアンソウル」という曲が演奏され、聴衆もフラダンスの手を真似て踊るようにうながされました。両手で雑巾をかけるように円を描いて動かすのですが、普段は使わない筋肉を動かすので、意外と手の良い運動になるのです。それ以外にも、フラダンスの動きは激しすぎず、筋肉を大きく使うものが多いため、デイサービスなどで取り入れてみても面白いのではと思いました。音楽に合わせながら、良い運動になりますし、何よりも心が開放的になるはずです。ハワイアンミュージック×フラダンスの組み合わせをぜひデイサービスに呼んでみてください(笑)。
ライブが終わって、ライブ喫茶の出口のところで、卒業生さんに「保護猫の活動をやっています!」と言われてチラシを渡されました。保護犬は良く聞きますが、保護猫をメインにして活動している団体のようです。猫ちゃんが好きな方はこちらも見てください!
2024年
5月
16日
木
一つひとつの動作や声掛けの意味

変えることと変えないこと、さらには変わることと変わらないことのバランスが難しいと思います。同じことばかり繰り返して成長がないのも良くありませんし、変えたことで上手く行かなくなることもあります。また、私たちは常に同じではいられませんのでどうしても変わってしまうこともありますし、どうしても変えてしまってはいけないこともあるはずです。ややこしい話はこのあたりにして、つい最近、気づかないうちに変わってしまったことで不具合が起こったケースを紹介したいと思います。
介護職員初任者研修のオリエンテーションにて、通信添削課題に取り組む際は、「参照ページ一覧」を参考にしながら問題を解いてくださいと話します。湘南ケアカレッジは優しいので「参照ページ一覧」をお渡ししていることを付け加えつつ(笑)、これがないとどこのページに答えが載っているかを探すだけで時間がかかってしまうので大変ですよとお伝えします。実際に、この「参照ページ一覧」を見ながら解くのと見ないで解くのとでは、1冊終わらせるのに2~3時間ぐらいの違いは出てくるはずです。
ところが、稀に初日のオリエンテーションに参加できない生徒さんがいて、その方にはお昼休みを使ってダイジェストで説明することにします。後日、オリエンテーションには出てもらうのですが、当面をスムーズに過ごしてもらうために手短にオリエンテーションをするということです。私はいつもどおり伝えていたつもりでしたし、何かを変えたつもりもありませんでしたが、ある生徒さんから、研修も終わりに近づいた頃、「最初の頃は参照ページ一覧を知らなかったので、通信添削課題を終わらせるのが大変でしたよ」とサラっと言われました。私はアレっと思い、初日のオリエンテーションを聞いていなかったのかなと思いましたが、良く考えてみると、その生徒さんはダイジェストでオリエンテーションをした方でした。
いつの間にか、私が「参照ページ一覧」について触れるのを省いてしまっていたのです。初日のオリエンテーションでは確実にお伝えしているのですが、ダイジェストのオリエンテーションにおいては、手短にしようとしすぎて無意識のうちにカットしていました。そっか、「参照ページ」の存在について伝えないだけで、生徒さんは通信添削課題を解くのに余計な時間がかかってしまうことを改めて認識しました。その生徒さんは、私を責めるつもりで言ったのではないのですが、ポロっと出たひと言に気づかされたのです。わずかなことでも、変えて(変わって)しまうことにより、相手(他者)には大きな影響をもたらすこともあるということを。
同じ仕事をずっと続けていると、ルーティンになっている動作や声掛けの一つひとつに意味があることを忘れがちになります。そうすると、ついうっかり1つの動作や声掛けを省いてしまったことで、歯車が大きく狂うことになりかねません。私のように、不具合が起こったことで改めて気づかされることもあるはずですが、できればそうなる前に一つひとつの動作や声掛けの意味を再認識しておきたいものですね。
2024年
4月
28日
日
ブラッシュアップライフ

4月12日の開校記念日をもって、湘南ケアカレッジは12年目を迎えました。2013年にスタートしてから、あっという間に11年間が過ぎたということです。先生方のおかげで、介護職員初任者研修はおよそ4000名、実務者研修は約2800名の生徒さんたちに、世界観が変わる福祉教育を提供して来ました。ありがとうございます!12年目の今年も、今までどおりに、目の前にいる生徒さん一人ひとりと向き合って、介護の世界の素晴らしさを伝えていけたらと願います。
最近観て良かったドラマに「ブラッシュアップライフ」があります。
ひょんなことから30代で死んでしまった女性が、来世はオオアリクイだと言われ、懇願してもう一度、自分の人生をやり直すというストーリーです。2周目の人生で徳を積まないと来世もまた人間になれないと言われ、問題を解決したりして、今までと同じ人生ではありつつも少しずつ改善していきます。それでも、不慮の事故で2周目も死んでしまい、次はサバだと言われ、人生3周目、4周目と、何度もやり直すことになります。やり直すにつれて、人生はブラッシュアップされて(磨かれて)いき、最終的には航空事故で亡くなった友人たちの命を救うためにパイロットになって壮大な使命を果たすことに。とにかく面白くて、かつ人生を考えさせられるドラマでした。
私も人生をやり直せるとしたら、あそこはああした方が良かったなとか、ここはこう言うべきだったなど、反省すべきことは山ほどあります。最近で言うと、ちょうど1年ほど前にケアカレの下の階段で足をひねって骨折してしまいましたが、人生2周目であれば、もう少し慎重に足元を見ながらそっと階段を下りるようにしますね。ただ難しいのは、過去をいじってしまうと未来も変わってしまうことです。あの人と会っていたら、この人とは会えていなかったということが起こるのです。さすがに足を骨折しなくても人生は何も変わらないと思うので、骨折は避けたいと思いますが。そう考えると、人生って連続性の中で成り立っているので、自ら大きく変えるのは難しいのですよね。
外からの力によって大きく変わることはあります。講師会で話したことがあると思いますが、湘南ケアカレッジはもともと湘南ゼミナールのいち部門としてスタートする予定でした。ひょんなことから事業計画が白紙になり、私が独立して始めるしか選択肢はなくなってしまい、あれから12年が経ち、現在に至ります。あのとき予定どおりにスタートしていたら、おそらく今ごろは東京に10教室、神奈川に10教室を立ち上げて、そろそろ来年は千葉か埼玉に進出しようかなんてことになっていたはずです。先生方とは会えていたと思いますが、20教室を展開する中では先生方との関わりは20分の1ぐらいになっていたはずです。同じことは生徒さんたちにも当てはまります。私は本心から、あのときひょんなことから自分でケアカレを立ち上げることになって良かったと思っています。人生って、なるべくしてそうなっているのでしょうね。
もう一度、自分の人生をやり直すかそれともオオアリクイかサバに生まれ変わるかと問われたら、私はオオアリクイやサバをやってみたいなと思います(笑)。オオアリクイやサバの人生もまた新しい体験ができて面白そうですよね。人間はもう十分だという気持ちもありますし、それほどの後悔はないからですし、何といっても、自分の人生はそう大きくは変わらないだろうと思うからです。少しずつしか変わらないけれど、少しでも良く生きたいと願って頑張っているのです。ほとんどの人がそう感じているのではないかと思います。これからも一期一会や偶然の出来事を、先生方や生徒さんたちと一緒に楽しんでいけたらと願います。11年間ありがとうございました!

3月短期クラスから色紙をいただきました!イラストが上手ですね。
2024年
4月
15日
月
目の前の利用者さんは将来の自分

今年も株式会社リープス様の入社式に呼んでいただきました。昨年同様、招待状に祝辞をお願いしますと書いてありましたので、どんな話をしようかと思って考えていきました。新入社員の方々は違っても、その他の社員の方々は同じメンバーもいますので、さすがに昨年と同じ話をするわけにはいきません。これから介護の世界に入る人たちを対象に、あまり堅苦しくならず、介護の学校の人間として相応しい内容にしたいと思いました。そこで思いついたテーマは、自分が提供している介護はいずれ自分に返ってくるというものです。私の経験談を元に話そうと台本らしきものを書いて行きました。
ところが、私が頼まれて壇上に上がったのは乾杯のタイミングであり、さすがに長々と話すわけにはいかず、「乾杯!」とだけ言って終わりました。せっかくメモを残していましたので、この場を借りて共有させていただきます(笑)。未発表のスピーチということですね。
ご入職おめでとうございます。そしてこのような会にお呼びいただき、ありがとうございます。私は湘南ケアカレッジという介護の学校を運営しています、村山敬之と申します。リープスさんとはもう7、8年ほどお付き合いさせていただいて、多くの卒業生さんたちがこちらで働かれています。お会いしたことがある方もいますし、これからお会いする方もいると思います。よろしくお願いします。
昨年の入社式では私のひいばあちゃんの話をしたので、今年はおばあちゃんの話をします。僕のおばあちゃんは怒ったのをみたことがないとても優しい人でしたし、また僕にとっては命の恩人でした。そんな大げさな話ではなく、私がひとり暮らしをしていたとき、たくさん仕送りをしてくれて助けてもらいました。お金の管理が下手くそな私はいつも月末になるとサトウのご飯に納豆をかけて食べる生活が続くのですが、おばあちゃんから段ボールが届くと嬉しかったです。食べ物や時にはお金も入れてくれて、おばあちゃんありがとうって祈っていました。
ただひとつだけ、困ったこともありました。私が小さい頃に田舎で食べたひじきが美味しいと言ったことをずっと覚えていてくれて、毎回ひじきを炊いて送ってくれたのですが、さすがに私も大きくなってひじきそれほど好まなくなったので、いつもまたひじきかと思っていました(笑)。今でもひじきを見るとおばあちゃんのことを思い出します。
そんなおばあちゃんとの思い出のひとつに、小さい頃、私が田舎に帰省して1週間ほどでまた帰っていくのですが、毎回別れのたびに私の手を握りしめておいおい泣くのですね。幼ごころにはまた次の半年後の休みになったら会えるから、そんなに泣かなくてもと思っていました。ところが最近、私の妹に小さな女の子姉妹がいて、彼女たちと田舎に帰ったとき1週間ほど一緒に過ごすと、最後の別れのとき寂しくて涙が出そうになるのですね。私も年を取ったのでしょうね。またいつ会えるか分からないし、もう2度と会えないかもしれない。そんな感情ですかね。
40年ぐらい経ってようやくおばあちゃんの気持ちが少し分かるようになりました。何が言いたいかというと、私も皆さんも必ずいつかそうなるのです。皆さんの目の前には利用者さんがいると思いますが、皆さんもいつかそうなるのです。ですから、今皆さんがする介護はそのまま将来の自分がされる介護だと思ってください。良い介護をすれば自分にも返ってくるはずです。いろいろ大変なこともあると思いますが、目の前の利用者さんを将来の自分だと思って頑張ってください。ありがとうございました。
2024年
4月
04日
木
卒業生さんの挑戦

最近、何気なくYouTubeを見ていたところ、卒業生の高木真備さんがニュースで取り上げられていました。ご存じない先生もいるかもしれないので説明しておくと、彼女は競輪(ガールズ競輪)の元選手であり、2021年には賞金女王になったほどの選手です。私は競輪については詳しくありませんので、彼女が生徒さんとして初任者研修に参加されていたときは有名な選手だとは露知らず(おそらく周りの生徒さんたちもそうだったと思います)、最後のテストを受けた日に彼女からQUOカードをもらって初めて分かったというぐらいです。賞金女王ということは、競馬で言うところの年度代表馬であり(余計に分かりにくいですかね)、凄い選手だったということです。
そんな彼女が、卒業するときに、犬猫の保護活動をしていること、そして障害者のグループホームをつくりたいと話してくれました。正直に言うと、犬猫の保護活動と障害者のグループホームが上手く結びつかず、どのような形になるのか期待と心配が半々でしたが、あれからおよそ2年の歳月をかけて、彼女は自分の夢を実現したようです。犬や猫がいることで、施設内のコミュニケーションが円滑になったり、利用者さんやスタッフが癒されたり、自分の役割を見つけたりすることが増えるはずです。その上で、ひとつの施設に数匹の保護犬、保護猫を飼うことができれば、施設を増やしていくごとに救える命も増えるということになります。
経営的にも良いと思いました。犬猫の保護活動はそれ単体では儲からない(利益が出ない)ため、(補助金でも引っ張ってこられない限り)持ちだしの多いボランティアになってしまいがちです。それでは長く続かないですよね。障害者のグループホームはニーズがあり、スタッフをきちんと確保することができれば、確実に利益は出る構造になっています。これらの2つを結び付けて、きちんと利益を出しながら、犬猫の保護活動を継続していくという仕組みですね。まずは高木さん自身がスタッフとして現場に入っているのも素晴らしいと思いましたし、何と言っても、利用者さんと犬猫が幸せに暮らすことができそうです。
こうして卒業生さんが新しいことに挑戦しているのを知ると嬉しいですね。介護タクシーを始めましたと教えてくださる卒業生さんもいますし、どこどこで今は管理者をやっていますという方も増えてきました。先生方のおかげで、介護職員初任者研修だけでも卒業生さんが3000名に達しようとしています。彼ら彼女たちが介護・福祉の現場で輝いて、その挑戦に刺激を受けた人たちがケアカレを勧められて来てくれて、また旅立って挑戦してくれる。そのためにはケアカレや先生方、そして私自身も新しい挑戦をしなければいけませんし、輝き続けていかなければいけませんね。


初任者研修2月短期クラスと実務者研修12月火曜クラスから色紙をいただきました!
2024年
3月
24日
日
ボディメカニクス実践編(移乗介助)

先月スタートしたケアカレチャンネルの第2弾になります。前回のボディメカニクスの原則に続き、今回はボディメカニクス実践編(移乗介助)になります。身体の大きな松澤さんにモデルになってもらい、言い訳のできない状況での移乗技術を小野寺先生が披露してくれています。ぜひご覧ください。
2024年
3月
16日
土
障害者と障がい者

実務者研修の通信添削課題には質問用紙がついています。テキストを読めば(見れば)答えはそこに書いてあるので、ほとんどの生徒さんは質問用紙を使うことはありませんが、たまにふとした疑問を書いてくれる生徒さんがいます。先日いただいた中で、「テキストによって、障害者と記されていたり、障がい者となっていたりしますが、何か違いはあるのですか?」という質問がありました。質問用紙のスペースだけでは十分に説明できそうもありませんし、とても良い質問なので、本人様だけにお答えするよりも共有した方が良いと思い、この場を借りて返答させていただきますね。
結論から申しますと、「障害者」と記すべきであって、「障がい者」とはすべきではないということです。「障害者」が正しく、「障がい者」は正しくありません。
あれっと思われた方もいるかもしれませんので、順を追って説明していくと、「障がい者」という言葉を使う人の理解としては、障害の害は、害虫とか害獣のように、人間にとって害をもたらす存在という意味に使われるもので、障害者は害ではなく、害という漢字を使うのは相応しくないというものだと思います。この説明だけを聞くと、そうだよね、障害者は害じゃないし、せめて漢字を開いてひらがなにすれば一見問題がなくなるのではと考え、「障がい者」や「障碍者」と記す動きが今から20年近く前にありました。ひらがなにしても意味は同じなのですが、とにかく害という漢字を使わないことで、なめらかな社会を目指そうとしたのでした。
ところが、本当の問題はそこにはありませんでした。「障がい者」や「障碍者」と記していた人たちは、障害の定義を大きく間違っていたのです。我が国の改正障害者基本法には、障害者はこう定義されています。
「障害及び社会的障壁により、継続的に日常生活又は社会生活に相当な制限を受ける状態にあるもの」
分かりやすく説明すると、障害者とは、目の前にある何らかの障害によって生活に制限がある人のことを指すのです。たとえば、昨年、私は足首を骨折しました。数か月は左足をまともに着地してはいけない状態でしたので、湘南ケアカレッジの教室がある4階まで手すりを使いながら、エッチラオッチラとゆっくりと登らなくてはいけない生活を送りました。階段という障害があるばかりに、スムーズに教室に辿り着くことができなかったのです。私自身が障害者なのではなく、階段が障害なのです。また、目の不自由な人が道端に置いてあった自転車にぶつかってしまった場面に遭遇したことがありますが、その方が障害なのではなく、自転車という障害があったということです。つまり、障害者とは、(目の前に)障害のある人なのです。
私たちはどうすればその障害を取り除くことができるのか、もしくは取り除けないとすれば、他にどのような方法や手段で目的を達することができるのかと考えるべきなのです。ケアカレが入っているビルにエレベーターが設置されたら問題は一気に解決するでしょうし(笑)、手すりが付いているだけでも私は助かりました。また、視覚障害者の問題に関しては、たとえ一時でも自転車は道路上に放置しないことが大事ですし、もしされていたら少し動かしてあげても良いでしょう。視覚障害者が歩いていたのに気づいたら、そっと腕を差し出して誘導したり、自転車が前方にあることを伝えても良いかもしれません。
障害者の定義がはっきりすると、目の前の「障害」を「障がい」や「障碍」とすることに意味がないことが分かると思います。むしろ、「障がい」や「障碍」と記す人こそ、心のどこかで障害者自身を障害だと捉えているのではないでしょうか。「障がい」や「障碍」と記すことに対して、強烈な違和感を抱いた人たちの違和感はそこにありました。厳しい言い方かもしれませんが、障害者に対して配慮して、「障がい」や「障碍」としてみたつもりでも、実は自身の偏見や差別心をさらけ出してしまっているのです。物知り顔で「障がい」や「障碍」と書いている、お偉い大学の先生方や法人や公的な機関の代表の方々には、「もう少し勉強してください」と言いたいですし、胸に手を当てて自分の偏見や差別心に気づいてもらいたいと思います。言葉を換えても、私たちの心や考え方が変わらなければ、社会は何も変わりません。大切なことは、誰かの目の前にある障害に私たちが気づくことです。
2024年
3月
08日
金
肩の荷を下ろす

昨日で私もついに49歳となり、誕生日を祝っていただきました。湘南ケアカレッジが開校したときはまだ30代だったのですから、月日が経つのは速いものですね。この12年間、先生方と共に良い学校をつくることだけに集中して頑張ってきたつもりです。そういえば先日、八王子のハローワークに行った卒業生さんが職員の方に湘南ケアカレッジの話をしたところ、「あそこは良い学校らしいですね」と言われて嬉しかったそうです。その話を聞いて、八王子まで評判が広がっていることに、私も嬉しく誇らしく思いました。「世界観が変わる福祉教育を」提供するという理念を軸に、これからも良い学校でありつづけたいと願いますが、50歳までのあと1年、少しずつ肩の荷物を降ろしていけたらと考えています。
具体的なことは決めていませんが、任せる部分は他人に任せたり、自分にしかできないことを減らしていったり、これまでは365日間のうち年末年始と夏休み以外はできるだけ教室をフルに使って授業をしてきましたが、休みの日も入れていくことでしょうか。個人的には、毎朝、教室に来て、先生方や生徒さんたちと会って話をして、事務処理をして、明日以降の準備をして、授業が終わったら掃除をして帰るという日々は好きなのですが、たとえ私が長期間不在でも運営できる仕組みを、ある程度はつくっておかねばならないと思うのです。ちょうど昨年の春、足を骨折して、入院なんか到底できませんでしたし、動かず自宅で安静にすることも難しかったこともありました。その他の病気など、起こるか分からないことを考えすぎても仕方ありませんが、自分自身を取り換え可能な形にはしておくべきだと思いました。

そういえば、誕生日プレゼントとして、ひと目惚れした革のバックを買ってもらいました。とても綺麗な色、形のコンパクトなリュックサック型のバックです。これまで使っていたバックはポケットも多く、サイズも大きかったので、たくさんの荷物や小物を入れることができたのに対し、今回購入した革のバックは全体的に小さく、ポケットも3つしかありません。収納に不安はありましたが、思い切って買ってしまいました。実際に、荷物を入れ替えてみると、これまでは万が一のことを考えて備えておいた小物が入らなかったりと不便なことが出てきました。それでも何とか必要最低限の物品を収め、バックを背負ってみると、ずいぶんと軽く、快適になった感じがしました。
次々と背負い込んで、するべきことが増えていくことで充実する面もありますが、ときには何かを手放したり、取捨選択することで、もう一度、ほんとうに大切なものだけを味わうことも必要なのかもしれません。余白ができたことで、そこに新しい何かが入ってくることもあるでしょう。加えていくことよりも、減らしていくことの方が実は難しいのです。たとえばバックを変えたことで中身を見直さざるを得なかったように、ちょっとしたきっかけやタイミングで私たちは自分の人生の棚卸しをしてみると良いのではないでしょうか。
2024年
2月
26日
月
夜明けのすべて

1月からスタートした実務者研修の初日の他己紹介にて、衝撃の事実が発覚しました。たまたま前後に座った二人の生徒さんたちがペアを組み、他己紹介をするためにお互いのことを話していたところ、なんと相手は自分の家族(親)の訪問介護に入っているヘルパーさんであることが分かったのです!そんなことってある?というのが二人の正直な想いでしょう。自分の家族のケアに入っているヘルパーさんと同じ学校で同じクラス、しかも初日の席が前後に座ってペアを組んで他己紹介するなんてあり得ません。こういうのを天文学的な確率、もしくは奇跡的というのでしょう。
そんな話を聞いて、先日、映画館で観た「夜明けのすべて」を思い出しました。平日の夜だというのに会場は満席。両隣りに知らない人が座って映画を観たのは久しぶり。開演する前から期待のハードルは高かったのですが、それを遥かに超えてくる素晴らしい作品でした。どれぐらい良かったかというと、最初から最後までポップコーンを一度も口に入れることなく観入ってしまったぐらい。冒頭の上白石萌音さんによるナレーションからすでに引き込まれてしまいました。
ストーリーとしては、PMS(月経前症候群)によって月に1度、気分が極端に落ち込んだり、イライラが抑えられなくなって他者に当たってしまったりする症状が出る藤沢さんと、その小さな町工場の同僚である山添くん、そして二人を取り巻く優しい人たちの温かい日常の物語です。山添くんもかつては華やかなコンサルティングの会社で働いていたものの、パニック障害を発症してからは、電車に乗るなどの当たり前にできたことができなくなり、様々なことをあきらめながら生活をしていました。そんな二人は、自分のことはコントロールできないけれど、互いを救い合えることもあることに気づき始めます。
人はそれぞれ自分ではコントロールできない部分を多かれ少なかれ抱えており、それが分かりやすい形であれば障害や病気と名付けられ、生きづらさと共に助け合いながら生きています。誰かのできないことを一緒にしてあげて相手を救えることもあれば、誰かに助けてもらうことを通して実は相手を救っていることもあるのです。映画の中に、昔の人は地球の周りを太陽が回っていると考えていたけれど、太陽からしてみればそれは思い上がりで、実は地球が太陽の周りを回っていたのだという話が登場します。私たちは他者を助けているつもりでも、実はそのことで自分も救われているのかもしれません。藤沢さんと山添くんは互いの周りを回りながら救い合い、さらにその周りにも多くの人たちが関わり合いながら回っているのです。実務者研修で巡り合った二人も、目に見えないところで互いに助け合っていたことが、たまたま他己紹介を通して分かったということですね。
星が放つ光はかなりの時間を経て私たちの元に届くというエピソードも素敵でした。北極星から地球までの距離は431光年と言われており、1光年とは光が1年で進む距離ですから、私たちが今見ている北極星の光は431年前に放たれたものです。それは極端なたとえですが、私たちの言葉や行動が誰かに届くのも時間がかかることがあるということですね。映画の中では、町工場の社長さんの亡くなった弟が残した肉声テープを聞いて、藤沢さんと山添くんが影響を受けるシーンがありました。夜明け前が最も闇が深い、暗闇の中にいるからこそ、星の美しさがはっきりと見えるという弟さんからのメッセージを、時空を超えて藤沢さんと山添くんは受け取ったのでした。
昨年、私が20年以上前に勤めていた大手の介護スクールで一緒に働いていた友人のケアに、卒業生さんが入っていたという奇跡もありましたね。友人は筋ジストロフィーを患っており、訪問介護を利用しているのですが、まさか卒業生さんが行っているとは…。卒業生さんが実務者研修に参加することを聞いた友人が「どこの学校に行くの?」と尋ねたところ、「湘南ケアカレッジです」と返ってきて、「それ村山さんがやっている学校だよ」ということでつながったそうです。卒業生さんが実務者研修に来てくれた際、「よろしくお伝えくださいと言われました」と彼の名前を言ってくれました。それがきっかけとなり、彼とも久しぶりに会って食事をすることができました。私たちが湘南ケアカレッジを通してやってきたことが長い歳月を超えて私の友人に届いたのです。
介護の世界は狭いからこそ、縁やつながりを大事にしなければいけません。目の前の人に全力を尽くすということでもあります。たとえ誰も見ていなくても、未来に向けて、誰かのために仕事をする。そうすると、めぐりめぐって、いつか自分にも返ってくるはずです。それこそ10年単位。私たちはそんな不思議な世界に生きているのです。
2024年
2月
16日
金
他者とのつながりの中に喜びはある

年始からスタートした1月短期クラスが無事に修了しました。どのクラスも年齢層の幅が広くてという表現をしていますが、今回のクラスほど広かったことはありません。下は18歳から、上は80歳まで。見間違えではありませんよ。80です。ケアカレの初任者研修の卒業生さんの最高齢は83歳でしたが、それに次ぐ数字です。15日間の授業を一度も休むことなく、週4日、最後まで通って参加してくれました。ケアカレの唯一の課題である(バリアフリーになっていない)4階の教室まで階段で上がってくるも、ゆっくりとした歩みで登り切ってくださいました。そして、最終日は打ち上げにも参加されて、クラスメイトさんたちとカクテルを飲みながら、ピザを食べながら談笑されていました。「まだ時々車を運転するのよ」と言いながら、真っ赤なヴォルクスワーゲンの写真を私にも見せてくれました。只々、尊敬の念しかありません。
1月短期クラスは、年明けということもあってか、すでに介護の世界で働いている、もしくはこれから働くことが決まっているという生徒さんが多かった印象です。老若男女問わず、それぞれが普段の生活の中では出会うことのない、ケアカレに来ていなければ接点を持つことができなかったはずの人たちと一緒に学んだのです。10代の若い人たちにとって、もしかすると自分の祖父母よりも高齢の人たちと共に学ぶ経験は初めてでしょうし、その逆も然り。お互いにとって刺激になったはずですし、このような交流にこそ介護職員初任者研修の醍醐味が詰まっていると私は思います。そういえば、70代の男性も今回のクラスに参加してくださっていたのですが、「参加する前は自分が絶対に最年長だと思っていたけど、まさか上がいるとは…」とおっしゃっていたのが面白かったです(笑)。
話は大きく逸れますが、高校2年生になるうちの息子が高校を中退し、今はひとり家にいます。学校に行くよりも家で勉強した方が効率が良いから、というのが理由です。せめて塾ぐらいには行けばということで、授業見学をしてみたりもしましたが、「あの先生の教え方は分かりにくかった」とか「往復する時間がもったいないから、やっぱり自分でやるわ」などと理由をつけて、結局行かずじまいです。たしかに高校で1日かけて教えてもらう授業内容ぐらいは、自宅で集中して勉強すれば、午前中で終えられるかもしれません。塾で教えてもらう内容は、参考書や問題集を使えば学べるはずです。コンテンツ(中身)だけを得るのが目的であれば、それ以外の友だちと話したり授業後に遊びに行ったりする時間は無駄ですし、学校や塾に通うのは効率が悪いですよね。私もそういうガリ勉的な傾向はありましたので、若い人たちの気持ちも理解できます。
ただ、と思うのです。今だからはっきり言えるのですが、若い時に効率が良いと思っている生き方は、実は効率が悪いということです。どれだけ効率良く生きているつもりでも、たとえ目的に最短距離で到達したとしても、そこで得たものは社会に出てからほとんど役に立たないのです。むしろ効率の良さを求めて捨ててきたものこそが、その後、役に立つことさえあります。様々な人々との出会いや経験というやつです。役に立たなかったとしても、他者とつながった思い出は人生を彩りますし、他者と生きることの中に喜びや楽しさはあるのです。もちろん悲しさや苦悩もありますが。コンテンツ(中身)だと思って求めていたものは実は空虚なものであり、それ以外の無駄であると思っていたものこそ人生におけるコンテンツ(中身)なのです。このことにどれだけ早く気づけるかが大切です。効率を求めることは否定しませんし、他者と世界を共有することに抵抗があるかもしれませんが、たまには頑張って自分の世界を拡げてみるといいでしょう。うちの息子も早く気づいてくれるといいな。
2024年
2月
07日
水
ケアカレチャンネル始めます!

湘南ケアカレッジのYouTube番組「ケアカレチャンネル」を始めます。
・卒業生さんを元気にする
・介護の現場で働く人たちの役に立てる
そんなチャンネルにしていきたいと願っています。
これまでも初任者研修のイメージ動画やボディメカニクスの実技動画をアップしていましたが、今後は定期的に(1か月に1本ぐらいかな)更新していきたいと思います。チャンネル登録&いいね!を押してサポートしてください。
第1弾は小野寺先生による「ボディメカニクス8つの原則」です。
2024年
1月
31日
水
分かりやすい授業とは?

湘南ケアカレッジに高校生が授業見学に来てくれました。将来は先生になりたくて、教えることについて学んでいるそうです。研究のテーマは「分かりやすい授業とは?」。学校の外に行って授業を受けてみるという課外研究の一環として来てくれました。生徒さんたちに協力して書いていただいたアンケート(高校生が自分たちで準備したもの)を授業後に回収し、ざっと見させてもらったところ、分かりやすい傾向がありました。
・テキストを読むだけの授業は分かりにくい
→当たり前ですが、テキストをなぞって行くだけの授業はつまらないということです。生徒さんからすれば、読めば分かりますということです。それよりも、自分の経験や体験談などを話してくれる方が興味深いし、心に響きます。全てを体験談で語るわけには行かないと思いますが、バランスには気を付けてください。
・グループワークはあった方が良い。
→いろいろな人の様々な意見を聞けるからという声が多かったです。ただ、最近のクラスで意見が分かれてしまったことで仲が悪くなったり、他の生徒さんの言葉に傷ついたりしてしまった生徒さんがいたケースもありましたので、グループワークをする際はやらせっぱなしではなく、何がどのように話し合われているのか少し耳を傾けてあげる必要もあると思います。
・テキスト(プリント)中心か、パソコン(パワーポイントや映像)中心の授業のどちらが分かりやすいかは意見が分かれる。
→基本的には、分かりやすければどちらでもOKという人は多いと思います。生徒さんにはこだわりはありませんので、テキストやプリントを使うべきところはテキストやプリントを、パワーポイントや映像の方が分かりやすい内容のところはパワーポイントや映像を使うべきということすね。臨機応変に。
最後に私もアンケートを書かせてもらって、記憶を辿ると、「分かりやすい先生とは?」の質問に対してこう書いたと思います。
「簡潔である」
→教える側は何としても伝えたいので、同じことを違う言い回しで繰り返してしまいがちですが、あまりにも何度も同じことを言いすぎると、相手は嫌気がさしてしまったり、余計にこんがらがってしまったりすることがあります。シンプルにズバッと伝えることも、分かりやすさのひとつです。
「親しみがある」
→これは生徒さんとの距離感の問題です。教育において最も大事なのは先生と生徒さんとの距離であると言っても過言ではなく、多くの場合、距離が遠くて伝わりません。同じことを言っていたとしても、上から物を言ってくる先生の言葉は心をすり抜けますが、親しみのある先生の言うことは素直に受け入れられます。つまり、教える前にすでに分かりやすいかどうか(伝わるかどうか)は決まっていて、距離感をしっかりとつくってから教えるとお互いにとって良い授業となります。
「尊敬できる」
→前述の親しみやすさや距離感と似ている問題ですが、少し異なります。尊敬できるとは、この人の言うことは正しい(方向性が間違っていない)と思ってもらえる、信頼があるということです。親しみがありつつ、尊敬もなければいけないというバランスが難しいところです。私たちが友だちや親の言うことは聞く耳を持たず、第三者の言うことに影響を受けやすいのは、親しみがありすぎても教えるー教わるという関係においてはバランスを崩してしまうということです。生徒さんから信頼されるには、見た目や言葉遣い、態度など全人的な要素が問われますので、やはり先生は自分磨きをやめてはいけないということですね。
最後に、「理想的な先生や良い先生とは?」という質問に対しては、「人前に立つとき、テンションを上げたり、多少の演技力は必要ですが、自分と違う人間にはなれないので、自分のキャラを思い切って出すしかない」という話もしました。ちゃぶ台を返すようですが、誰もが明るくて、朗らかで、丁寧で、親しみやすくて、尊敬できる理想的な先生である必要はないということです。湘南ケアカレッジの個性的な先生方を見てもらえば分かりますが、それぞれに得意なところと苦手なところがあって、お互いに凸凹が上手く結びついて、皆でひとつの円になっているのです。授業に立つときは先生はひとりですが、研修全体を通して生徒さんたちは私たちを見ていますので、私たちはチームなのです。だからこそ、むしろ凸凹があった方が良くて、全員が〇だったら結びつきようがありませんし、凸凹がしっかりとあるからこそ、それぞれの形も際立ちつつ、最終的には〇になれるのです。

2024年
1月
16日
火
ボディメカニクスを身につけよう

小野寺先生とボディメカニクス講座を立ち上げたのが、令和1年(2019年)のことでした。教室が空いている日を使って、1年間に数回ずつ、3級(基礎編)と2級(応用編)をこつこつと開催してきました。たくさんの生徒さんたちが参加してくださり、3級は250名、2級は200名を超える修了生を誕生させることができました。この講座に来てくださる生徒さんたちは、介護の仕事が好きで、介護の現場の最前線で活躍しているからこそ、移動・移乗で困る場面に多く遭遇していることが伝わってきました。そんな生徒さんたちの困りごとを解消するために、今年もボディメカニクス講座を開催していきます!
私が百万言を費やすよりも、実際に受講した生徒さんたちの生の声を聞いてもらった方が、ボディメカニクス講座の楽しさや意義を分かってもらいやすいと思います。講座の最後に書いていただいているアンケートの一部を、コメントを付ける形で以下に掲載させてもらいますね。

そう、信じられないぐらい簡単に人は動かせるのです。

動作の一つひとつに理論があるからこそのボディメカニクスです。

利用者さんの自立にもつながりますよね。

動画で見るよりも実際にやってみる方が100倍身につきます!

技術の有無の違いを体感できて良かったです!

楽しく学べるのが最高です。

個別の相談にも応えられるところがボディメカ講座の良いところです。

20年も経つと、介護の技術も大きく変わっていますよね。

介護は楽しい!という想いが皆さまに伝われば幸いです。

明日から実践できることは大切ですよね。

笑い合って学べる、これ以上のことはありません。

できるようになると、ボディメカはもっと楽しくなります。

楽にできることは何よりも大切です。

小野寺先生の講義は面白いですよね!

引き出しが増えることは良いことです。小野寺先生に個別に質問できるチャンスです。
2024年
1月
03日
水
できると思うから自ら学び出す

明けましておめでとうございます!
新年早々、いきなり質問です。学習心理に関する問題です。
AとBと正しいと思う方に〇をつけてください。
A、できないから、頑張って勉強して、できるようになりたいと思う
B、できることだから、頑張って勉強して、もっとできるようになりたいと思う
答えはBです。引っかけのような問題でしたが、ほとんどの先生は正解されたと思います。そうなんです。私たちはできると思うからこそ、頑張って取り組めるということです。できないことだからこそ、頑張って勉強して、できるようにするのが学習だと思い勝ちですが、実際のところはそうではないのです。人間はできないと思ったら、そのことについて学びをあきらめてしまうというか、頑張って取り組んでみようという気持ちを失ってしまうものなのです。
私がそのことに気づいたのは、塾で子どもたちを教えていた30代の頃でした。中学生や高校生は中間テスト、期末テストと年間で5~6回の試験があり、その都度、点数という分かりやすい形で結果が出ます。子どもたちは過程よりも結果に影響を受けやすく、どれだけ頑張って勉強したとしても、結果が悪ければ自分はダメだったと思います。それだけならまだしも、点数が悪かった科目については、やってもできないと思ってしまって、次からはあまり一生懸命に取り組まなくなります。その逆も然りで、結果が良かった科目については、やればできると思って、次からも頑張って取り組むようになるのです。そういうことが積み重なって、できる科目はどんどん伸び、できない科目は全くできなくなっていくという仕組みです。
私たちには得意不得意があるので、できることを伸ばしていくことは大切ですし、できないことはあきらめることも必要かもしれません。だた、それ以前の問題として、私たち人間にはできると思ったことは頑張れて、できないと思ったことは頑張れないという深層心理があることは知っておいた方が良いです。たとえば、英語を学び始めたばかりの生徒さんがいたとして、できることから始めて、できたことを「できた!」と認識してもらい、自分は英語が「できるかも」と思ってもらった場合と、いきなり難しいことから始めて、できなかったことを責め、自分は英語ができないかもしれないと思ってしまった場合とでは、同じ能力を持っていたとしても未来が大きく変わってくるはずです。たとえ思い込みであったとしても、できると思わせることがまずは重要なのです。
自分の過去を振り返ってみても、なるほどと思うことはあります。僕は高校に入ってから数学が苦手になったのですが、高校1年生のときの有山先生(今でも名前を覚えています)の授業について行けなくなったことがきっかけでした。サイン、コサイン、タンジェントあたりから分かりづらくなり、友だちに教えてもらったりして何とか乗り切ったのですが、あの頃から自分は数学ができない、理系ではないと思ってしまい、文系の道を進みました。あれから30年近い歳月が流れ、村山家は文系の家系だと信じていたのですが、うちの息子が今、数学が得意で理系の道に進もうとしています。あれっ、もしかすると、僕も数学できたのでは?という疑問がふつふつと湧いてきているところです(笑)。そもそも中学生までは数学は苦手ではなく、どちらかというと得意だったのですから。有山先生の教え方が悪かったとは言いませんが、血統的な問題かと思っていたらそうではなく、私が勝手に高校の頃に数学ができないと思い込んでしまい、それ以降、熱心に取り組もうとしなかっただけなのでしょう。あの頃、自分は数学ができるかもと思えた体験が何かあれば、頑張って取り組めて、できるようになったかもしれません。
何が言いたいかというと、私たち教える立場にいる者たちにとって、最も大切なのは、生徒さんたちに「できる」「できた」と思ってもらうことです。「できる」と思わせるのが教師の仕事だと言っても過言ではありません。生徒さんたちは、できると思えば、その後は自ら頑張って取り組んで、勝手にできるようになってゆくのです。だからこそ、まずは褒めて・認めることから始めるべきです。本当にできているかどうかなんて大した問題ではなく、私たちが褒めて、認めることで、生徒さんたちは自分もできると思い(込んで)、よりできるようになりたいと自ら学び出すのです。知識や技術を教えるのはそれからで十分です。最終的にできる生徒さんを生み出すために、私たちがしなければならないことは褒めて、認めることなのです。
2023年
12月
24日
日
途中から入っても

11月からスタートした介護職員初任者研修が無事に修了しました。今年最後を締めくくるクラスに相応しい、素晴らしい生徒さんばかりが集まった、賑やかで楽しいクラスでした。男性も多かったですし、10代から60代までと年齢も幅広く、外国から来た方もいました。初任者研修のクラスは介護現場の縮図でもあり、このメンバーと楽しくやっていけるとすれば、現場でも上手くやっていけるはずです。たとえ仕事が忙しくなったり、先輩や上司からのプレッシャーがあったとしても、ほんとうは皆さん良い人たちであり、お互いに助け合う気持ちを忘れずに、感謝の言葉をかけ合いながら仕事をしてもらいたいと思います。最終日には、皆さんで手作りのメッセージボードをいただきました。皆でこころを一つにしてつくった作品を大切に飾らせていただきますね。
湘南ケアカレッジは、どのクラスにも振り替えでやってくる生徒さんや途中から参加する生徒さんがいます。違うクラスに振り替えする生徒さんも、クラスの途中から参加される生徒さんも、最初は上手く馴染めるのか心配でやってきます。ところが、どのクラスに振り替えしても、途中から参加しても、皆が普通に受け入れてくれるので安心したと言います。「ケアカレの生徒さんたちの受け入れ体制は素晴らしいですよね」と、他の学校でも教えたことのある小野寺先生もおっしゃいます。私はそれが当たり前だと思っていたのですが、意外と当たり前でもないようです。
なぜケアカレは知らない(初めての)生徒さんが入ってきても、自然と仲間の輪に入っていけるのか考えてみると、まずは教室の雰囲気があると思います。見知らぬクラスに入って、シーンとしていたり、誰もコミュニケーションを取っていなかったりすると、こちらからは話しかけづらいはずです。周りが賑やかで互いに話をしているからこそ、自然な形で話しかけたり、話しかけられたりするのではないでしょうか。見知らぬ人が入ってきたからといって、よそよそしくしてしまったり、話しかけなかったりすることないので、自然と輪の中に入っていくことができるのでしょう。
また、グループワークを授業の中に多く取り入れていることも理由のひとつだと思います。授業の中で、それぞれの生徒さんたちが顔を合わせて話をする機会がありますので、お互いのことを知ることができるのです。前を向いて、先生の話を聞いているだけの授業であれば、たとえ隣に座っていても、互いに話す機会はありません。顔を見ることもないのではないでしょうか。休み時間などのフリータイムに知らない人と話すのは苦手という生徒さんでも、授業のグループワークの中で話し合いを(せざるをえず)しているうちに、少しずつ打ち解けて、それ以外の時間でも話すきっかけになるという仕組みです。
今回のクラスでも、途中から参加された生徒さんや振替で修了された生徒さんがいました。最後のアンケートやメッセージにて、彼女たちは「このクラスに入れてもらえて良かったです!」、「このクラスで修了できて良かったです!」と書いてくれていました。介護の現場でも同じようにあってもらいたいなと思います。介護の仕事はほとんどの人たちが中途入社という形になります。新しい施設の立ち上げでもない限り、途中から私たちは現場の輪の中に入っていくのです。そのとき、周りのスタッフさんやリーダーの受け入れる力や気持ち、雰囲気が問われます。もちろん新しい環境に入っていく人の姿勢も大切ですが、やはり受け入れ側の態勢や仕組みの方が重要です。普段から誰もがコミュニケーションを取っているリラックスした雰囲気があること、そしてコミュニケーションを取る機会が設けられていることが、新しい人たちを自然と受け入れることにつながってくるのではないでしょうか。
2023年
12月
15日
金
自然に生きよう

ありとあらゆる人工的なものに囲まれて私たちは生きています。スマートフォンやパソコンなどの文明の利器はもちろん、ガス(火)も水道も電気も当たり前のように手に入り、少し暑くなれば冷房を入れて、寒くなれば暖房のスイッチを押します。私たちは人工物と切っては切り離せない関係にあるのです。100年前と比べて、現代人は実に快適で安楽な生活を送れるようになったのは人類の進歩だとたしかに思うのですが、時として私たちは行き過ぎてしまっているのではないかと感じることがあります。人間が本来生まれ持っている自然な感覚が失われつつあるのではないでしょうか。
たとえば、夏に冷房を入れるのは良しとしても、寒くしすぎなのです。夏は暑いのが自然なのですが、できるだけそれに沿うようにするのではなく、逆に行きすぎなのです。電車の中は涼しいを通りこして寒さすら感じることがありますし、冷蔵庫のようにキンキンに冷えた商業施設ばかりです。最も暑いと感じる人たちに合わせてしまうからでしょうか。夏なのですから、うっすら汗をかくぐらいで良いと私は思うのですが、なぜか寒いぐらい冷房を入れてしまうのです。ちょうど良いという感覚や自然に沿うという思考が失われて、全てが行き過ぎなのです。そもそも夏になると毎年、鼻から喉の風邪を引く人が増えるのは冷房をつけすぎて身体を冷やしすぎるからです。冬も同じで、すぐに暖房をつけるから空気が乾燥して、粘膜のバリア機能が低下したり、ウイルスが空気中に増殖したりするのです。
哲学者の森岡正博氏は「無痛化」という言葉を使って、このことを説明します。私たちはテクノロジーを用いることによって、痛みや苦しみから逃れる続けることができます。先回りして、予防的に痛みや苦しみから逃れることもできるようにもなりました。その結果、私たちは喜びも奪われてしまったのです。痛みや苦しみを体験することで、新しい喜びを発見する、新しい世界に至るという可能性を失ってしまったというのです。森岡氏はそれを自己家畜化ともいいます。家畜工場の中にいる鶏は、人工的に快適な環境にいて、外敵からも守られていますが、果たしてそこに喜びや幸せはあるのでしょうか。つまり、文明の無痛化は、家畜に対して行ってきたことを人間自身に対してもするようになった、ということなのですね。
無痛化や自己家畜化の流れは誰にも止められません。森岡氏も指摘しているように、私たちは無自覚的に本能的に痛みや苦しみを回避し、快楽や快適を求めているからです。子どもたちは特にそうであり、ゲームとYouTubeとスマホがあれば、快適な自宅から一歩も外に出ることなく楽しく過ごせます。簡単には逃れられないのです。そのような流れの中でも、私たちにできることは、それは本当に必要なのか?と問うことではないでしょうか。もしくは、行き過ぎているのではないかと考え、調整し、バランスを取ることではないでしょうか。ちょっと寒くなってきたからと言ってすぐに暖房をつける必要はありますか?家に帰ってすぐにテレビのリモコンを探していませんか?自分の身体や心と向き合ってみませんか。自分を感じるということです。私たちは自然の中に生きているちっぽけな存在であることを知ることです。その先に本当の喜びや幸せは待っているはずです。
2023年
12月
06日
水
様々なつながりの中で

8月からスタートした日曜日クラスが無事に修了しました。うだるような暑さの中始まったのに、終わる頃には底冷えがしているのですから、日本の四季はなんと移ろいやすいものでしょうか。とても賑やかで楽しいクラスでした。打ち上げもFRIDAYSの一室を貸し切って盛大に行われていました。私も先生方の代表として参加させてもらい、素敵な時間を過ごすことができました。ありがとうございます。教室の外で(しかも研修が終わった後に)卒業生さんからの生の声を聞けることは、私の喜びのひとつです。また、教室では見られないような生徒さんたちの顔も見られて、単純に楽しかったです。「まちだ介護チャレンジ事業」を通して受講し、現場ですでに働いている方も多かったので、ぜひこの縁をつなげていってもらいたいと思います。
生徒さんたちと話していると、様々なつながりの中でケアカレに来てくださっていることが分かります。ある生徒さんからは「●●さんって知っていますか?」と聞かれたので、「もちろんです。とても個性的な方ですよね(笑)」とお答えすると、「今、●●さんと同じ職場で働いているのです」と返してくれました。●●さんに湘南ケアカレッジに行くことを伝えると、「それ私の学校だよ!」と言われたそうです。正確に言うと●●さんの学校ではないのですが、その言い方が彼女らしく、互いに笑ってしまいました。
ある生徒さんは藤田先生がアルバイトをしている施設で相談員になることが決まって、湘南ケアカレッジに来ることにしたそうです。相談員をしていた人がケアマネジャーになり、相談員の枠が空いたので抜擢されたそうです。さすがに資格を何も持っていない、介護の知識がないのはどうかと思って、まずは介護職員初任者研修を受けにくることにしました。そのことをケアマネジャーになった人に言ったところ、「私もその学校出身だよ。とても良い学校だったよ」と楽しそうに思い出を語ってくれるそうです。その方の名前を聞いたところ、僕も良く覚えている卒業生さんでした。今から7、8年前の卒業生さんですが、ケアマネジャーになっていることを知って嬉しく思いました。
卒業生さんが施設長として頑張っているグループホームから来てくださった生徒さんもいました。彼女はこうした研修に参加することを今まで避けてきたのですが、施設長の導きがあったからこそケアカレに来てくれたのです。また、卒業生さんがたくさん働いている施設から来てくれた生徒さんも2名いました。卒業生さんが先輩となり、現場で一緒に働いている姿を想像するだけで嬉しくなります。
つながりとは全く関係なしに、ケアカレのホームページを見て、参加を決意して来てくれた男性の生徒さんもいました。彼は電気関係の仕事をしていますが、家族のことや将来のことを考えて介護の世界に興味を持ったそうです。どこの学校が良いのか調べているうちに、ケアカレのホームページに辿り着き、書いてあることが良いなと感じたとのこと。そうした期待が半分、でも半分は学校を良く見せるための大げさな宣伝文句なのかもしれないと疑いつつ来てくれたようですが、研修が終わってみると期待をはるかに超えてきたと言ってくださいました。私の宣伝文は先生方の授業の感動には及ばないようです(笑)。
そして、どの生徒さんたちも口を揃えて言うのは、「ケアカレで良かった」ということです。他の学校と比べてみてそう言っているのではなく、一度しか受けることのできない介護職員初任者研修ですが、自分が受けた体感として絶対的にケアカレで良かったと言ってくれているのです。ほんとうに良いものは比較する必要がないということです。そういった声を生で聞くことができて最高に嬉しかったです。
私たちは学校という場所を通して、私たちが思うよりも何倍も幅広く豊富なつながりを生み出してきているのだと感じます。人々の記憶に残る形で。「先生方がとても愛に溢れていた」とある卒業生さんがおっしゃっていたように、それは先生方の力や想いによるところが大きいのだと思います。もちろんまだまだ改善する余地は残っているのですが、湘南ケアカレッジがこの10年間でやってきたことは間違いではなかったのです。これから先も、様々なつながりの中で私たちも生かされていることを忘れずに、「ケアカレで良かった!」と言ってもらえるような学校を続けていきたいと願います。8月日曜クラスの生徒さんたちから、最終日にメッセージ入りのボードをいただきました。ありがとうございます!
2023年
11月
30日
木
小さな声にも耳を澄ます

介護職員初任者研修でも実務者研修でも、アンケートやリアクションペーパーという形で、生徒さんたちから声をいただいています。もう10年以上にわたって、全ての生徒さんたちから様々な感想や意見等をもらっていますので、慣れてきたというか、おおよその感じは想像できます。「先生方がとても優しくて熱くて、楽しい研修でした」、「素晴らしい仲間たちと出会えてよかったです」、「介護に対する考え方が180度変わりました」などなど。ほとんどは嬉しい声ばかりです。それでも、たまに違う角度からの感想や鋭い意見もあって驚かされたり、また改善点や批判的な声をいただいた場合は真摯に受け止め、この先に生かしていこうと考えるようにしています。
10月短期クラスのアンケートを見ていて、驚いたというか、疑問に思った声がありました。生とさんからの感想の中に、こう書いてあったのです。

いつ誰からかかってきた電話でも、できるだけ丁寧、親切かつフレンドリーに対応しているつもりでしたので、不安に思わせてしまったのが不思議でした。自分では丁寧に対応しているつもりでも、10年以上電話を受けてきて、どこかで慣れが出てきてしまい、雑な対応をしてしまったのかなと反省しました。心当たりは全くないのですが、相手がそう感じたのであれば、良くない対応だったのだと思います。声のトーンや話し方、電話は相手が見えないだけに余計に難しく、もう一度、自分の電話対応を見直さなければならないと考えました。
ちょうど研修が終わった当日に打ち上げに誘われましたので、飲みの場ではありますが、思い切ってその生徒さんに聞いてみることにしました。本人から直接、どのへんが不安にさせる対応だったのか教えてもらうのが手っ取り早いですし、もしかすると誤解があれば解けると思ったからです。クレームを上げてきた本人に直接そのことを尋ねるのは少々気が引けましたが、せっかくのチャンスだと思い、彼女の隣に座って、「さっき書いてくれたアンケートに電話対応で不安になったと書いてくれていましたけど、何か変なこと言ってしまいましたかね?」とドキドキしながら切り出してみました。
彼女は一瞬戸惑ったような顔を見せ、「えっ、そんなこと書いていました?あの電話に出てくださったの、村山さんですよね?私は電話で話したことで不安がなくなって、安心して学校に来れたという意味で書いたのです。問い合わせの電話をするのも勇気が必要で、かけようとして電話を置いてを何度繰り返したことか(笑)。勇気を振り絞って電話したところ、とても丁寧にフレンドリーに教えてくださって、『何か心配なことありますか?』とも聞いてくださって、事務的な対応かと思っていたのでびっくりしたのです」と答えてくれました。
私もあまりの展開に驚いてしまい、「えっ、そういうことなのですか?電話対応で不安になったようなニュアンスで書かれていたので、どうしたのかなと思って聞いてみたのです」と返すことしかできませんでした。
あとで教室に戻って、もう一度アンケートを読んでみると、たしかに彼女のおっしゃったような意味にも取れます(むしろ私が勝手に勘違いしていたようです)。日本語って難しいですね(笑)。全く逆の意味に伝わってしまうこともあるようです。まあ、今回の件は問題なかったということでひと安心でしたが、慣れてきて事務的な対応にならないように、これからも心掛けなければいけないと気を引き締めさせてもらう良い機会になりました。電話は生徒さんとのファーストコンタクトになりますので、そこの対応の良し悪しがケアカレに来てくれるかどうかを決めると言っても過言ではありませんからね。
私と彼女が噛み合わない会話をしていたところ、その隣にいた生徒さんも話に入ってきて、「私も初任者研修のパンフレットを請求したのですが、営業の電話がたくさんかかってきて本当に嫌でした。ここ(湘南ケアカレッジ)だけは電話がかかってこなかったので、ここに決めました」と面白いことを言ってくれました。彼女も「そうそう、すごい電話かかってきて困りました」と相槌を打っています。なるほど、ケアカレ以外のほとんどの学校は資料請求者に対して電話営業をしていること、それをほとんどの資料請求者は嫌がっているということが分かりました。それでも断り切れずに、見学や説明会に連れ込まれ、申し込んでしまったりする人の方が多いから、どこの学校も電話営業をするのでしょうね。営業電話がかかってこなかったからケアカレに決めたという生徒さんは珍しいタイプだと思います。
ケアカレは生まれてこのかた電話営業は一度もしたことはありませんし、これからもするつもりはありません。人の時間を奪って嫌な思いをさせてまで、10人か20人に一人の当たりを連れ込むような真似はしたくないのです。自分たちさえ良ければそれで良いわけではありません。皆が正しくないことをしているからうちもやって良い(やらなければ負けてしまう)ではなく、うちは正しくないことはしないと目先の損を取ってでも行動できる人の方が最終的には上手く行くと私は考えています。
話がずいぶんと脱線しましたが、生徒さんたちの声を聞いてみることは大切です。どんな声であってもスルーしてしまうのではなく、なぜ生徒さんはこのようなことを書いたのか、生徒さんの立場に立って想像してみるべきです。生徒さんの声を真に受けすぎて感情的に傷ついてしまう必要はありませんが、冷静に受け止めて分析してみると、自分では気づかなかった改善点が見えてくるはずです。
私も先生方も、もうこの年になると、他者が良くないところを指摘してくれることは少なくなってきていますし、ケアカレも10年以上続いてきてベテランの域に達していますから、この先、言ってもらえることはますます貴重になってくるはずです。悪いことや批判などは、生徒さんたちも勇気を振り絞って書いてくれていると思います。その勇気に応えるためにも、私たちは小さな声にも耳を澄ますべきですね。
2023年
11月
19日
日
介護福祉士「模試試験・直前対策講座」

来年の介護福祉士筆記試験に向けて、1月4日(木)または1月9日(火)に「模試試験・直前対策講座」を行います!本試験に近い形で模擬試験を行い、その後、解答・解説を聞くことで、全ての範囲を網羅しながら、実戦形式で学ぶことができます。本番の試験に臨むにあたっての、総復習であり総まとめとしてご受講いただければ幸いです。
以下の方はご受講をお勧めします。
⇒最後の仕上げとして、総復習してから本番に臨みたい
⇒ひとりで勉強しているので不安が残る
⇒本番の試験のような形(模試)で力試しをしてみたい
⇒当日の緊張感や時間配分に慣れておきたい
2023年
11月
16日
木
掃除の大切さ

湘南ケアカレッジは毎日掃除をします。授業が終わった後、生徒さんたちに手伝ってもらって掃除をして、それから皆さんが帰った後、もう一度掃除機をかけたり、机を整えたり、ホワイトボードを拭いたりします。今日も無事に授業が終わったことに対する感謝の気持ちを込めて、明日の授業に向けての準備として、ある意味、儀式のように行っています。1日ぐらい掃除しなくても、何の問題もないし誰も気づかないと思いますが、それでも開校してから毎日欠かさずに掃除してきました。ところがある時から、このルーティーンが生徒さんたちや先生方の健康を守るために大きな意味があるのではと考えるようになりました。
それは空気の良さです。これだけ空気の悪い都会(世界から見ると町田も都会です)にある学校が何を言っているのかと思われるかもしれませんが、それでもホコリまみれの空気とそうでない空気は違うのです。開校当初は、「他の学校で講義をすると喉が痛くなって咳が出るけど、ケアカレはそんなことがない」と先生方がおっしゃるのを聞いて、2台置いている空気清浄機のおかげだと思っていました。数年経ってみて、空気清浄機のパワーも落ちてきて(今となっては気休めのようなものだと思っています)、大切なのは毎日こまめに掃除することだと体感するようになりました。毎日、掃除機やサッサでホコリを取り除くだけで、次の日の空気の良さはだいぶ違うのです。
実技の授業後に掃除を手伝ってくださって、サッサをかけたことがある生徒さんは分かると思いますが、1日だけでもかなりの量のホコリが出ます。ホコリは人間について運ばれますので、たくさんの人々が集まればそれだけホコリが出るものです。さらに実技の授業で人々に動きが出るとホコリが舞います。その日にホコリが出て舞うのは介護の学校という形態上、避けられません。だからこそ、毎日、生徒さんたちが帰ったあとにもう一度隅から隅まで掃除機をかける必要があるのです。特にケアカレの教室の床はピータイルになっていますので、ホコリが目立ちますから掃除しやすいです。カーペットになっているとホコリが見えにくくて誤魔化しやすい分、掃除しにくくホコリが舞いやすいです。ピータイルの床を毎日掃除するのが一番清潔ですね。
当たり前のことを書いているだけじゃやないかと言われるかもしれませんが、普通の介護の学校ではそうではありません。教室と事務所が同じ場所にあり、スタッフが常駐していているからこそ、毎日掃除できるのです。私がかつて働いていた大手の介護スクールでは、ほとんど掃除をした記憶がありません。先生方は授業をしたら帰ってしまうので(契約上、掃除は先生方の仕事ではありません)、スタッフがしなければ誰も本格的に掃除をする人はいないのです。他校をディスっているわけではなく、たくさん教室がある学校は遠隔操作をしなければならない以上、毎日掃除なんてできないのです。目には見えないことですが、ホコリやチリも積もれば山となるのです。生徒さんたちと先生方が少しでも良い空気の中で研修できるよう、これからもコツコツと掃除を続けていきたいと思います。
2023年
11月
10日
金
タイムループから抜け出すために

今年もあっという間に終わろうとしています。この時期になると、昨年もしたことをしたり、昨年も行った場所に行ったりすることが多く、もうあれから1年経ってしまったのだと切実に感じることがあります。次年度のシフトをつくったのが1年前とは思えないとか、昨年も同じ時期に北海道に行ってあれからもう1年経ったのかとか、などなど。まるで昨年も今年も同じことを繰り返している、いわゆる「タイムループ」しているような気になることもあります。

「タイムループ」とは、直訳そのまま時間が繰り返すことです。「アバウトタイム」や「恋はデジャブ」、「夏への扉」、「MONDAYS」など、映画や小説でもタイムループものはたくさんあって、物語の主人公が同じ期間を何度も繰り返します。作品の中では、そのあり得ない設定を楽しむことができますが、いざ現実世界に戻ってみても、私たちは毎日同じような言動を繰り返しながら生きているのではないかと、ふと思うことがあるのです。

毎朝、同じような時間に起きて、身なりを整え、朝食を食べて、自転車に乗って同じ道を通って駅まで行き、その途中で同じ人とすれ違って、職場に着いたら窓を開けて、…など。私だけではなく、他者の言動を見ても、毎日毎週ほとんど同じような言動を行って過ごしているのではないでしょうか。毎年同じ時期になると、必ず電話がかかってきたり、会いに来るなんて人もいるはずです。つまり、私たちはある意味、タイムループしているのではないでしょうか。
そのことに気づいたのは、他者を観察してからです。たとえばAさんは会社に来ると、大体決まった行動をして席に着きます。左右を見まわして、コピー機の横にある不要紙を手に取りながら、冷房が24度の強に設定されているかを確認し、違っていればその設定に直します。そして、ごみ箱の位置がズレていれば手で戻し、椅子を引いて、必要以上に勢いをつけてグシャっと座り、ひとつため息をつく。そもそも、入り口のドアの開け方から同じなのです。Aさんは扉の取っ手を静かに引いて、スルリと入り、音がしないように手を添えつつ扉を戻すのに対し、Bさんは思いっきりドアを開けてそのまま入って来るので、扉は戻って「ゴン!」と音を立てます。AさんとBさんのドアの開け方は全く違うのに、Aさんは毎日同じ開け方で、Bさんも毎日同じように入ってくるから不思議です。
行動だけではなく、話す言葉や内容も同じです。言葉や会話はその人が頭で考えている内容とほぼ一致しますので、よほど意識していないと、考え方が現れてしまいます。ああ言えばこう言うではありませんが、このような問いかけに対して、Aさんはこのように返してくる、Bさんはあのように反応するというのがある程度読めるのです。AさんとBさんがこの状況で話をすると、このような会話をしているということが大体把握できるということでもあります。あくまでも客観性を装って他者について書いているように見えますが、実は自分自身も同じです。癖と言ってしまえばその通りですが、客観的に観れば、私たちは同じような言動をして毎日を送っているのです。
そのことに気づいたとき、私は軽い絶望に駆られました。同じような日々を繰り返して生きていることに、その中でも歳だけは重ねてしまっていることに、そしてそのタイムループから抜け出すことは簡単ではないことに、押しつぶされそうになったのです。余程のことをしないと、私たちはタイムループからは抜け出せないのです。今の仕事を辞めて海外に移住したり、家族を捨てて飲み歩いたりするぐらいの逸脱をしなければ、私たちは毎日同じようなことを繰り返してしまうのです。そんなことはほとんどの人々にとって難しいはずですから、ある程度のタイムループを私たちは受け入れなければいけません。同じような毎日毎週毎年を繰り返しながら、私たちは死に近づいていくのです。
そんな中でも唯一の希望としては、いつもとは違う場所に行くこと、会ったことのない人や滅多に会わない人に会うことで、タイムループからわずかでも逃れることができることです。自分がタイムループから抜け出すということは、他者にとってもタイムループから逃れていることになります。そこが大事です。ひとりの言動の違いによって影響を受ける他者のタイムループまで変わってしまうのです。それは小さなことでも良いのです。いつもと違う席に座ったり、いつもと違う言葉をかけたり、いつもと違う道を歩いたりするだけで、バタフライ効果のように、周りの人たちのタイムループも少し変わるはずです。劇的には変わらなくても、意識して少しずつ変わることで、長い目で見ると実は大きく変わるということにならないでしょうか。良く考えると、私たちはひと月ごとに全く違う生徒さんたちと出会って、かかわりを持っているからこそ、タイムループからは抜け出しやすいかもしれませんね。
2023年
11月
01日
水
大人数のクラス、少人数のクラス

2つの実務者研修が無事に修了を迎えました。ひとつは26名を超える大人数のクラス、もうひとつは10数名しかいない少人数のクラスです。なぜこれほどまでに人数の差が生まれてしまったのか、正直なところ私もよく分かりませんが、今年は特に土曜日のクラスの集まりが悪かった気がします。現場の人手不足が深刻化しており、そのため正社員(常勤)の人たちが(アルバイト・パートのスタッフが休みがちな)土曜日、日曜日に出勤しなければならず、土曜日のクラスは通いづらいのかもしれません。反面、(毎週通う)火曜日のクラスは毎回ほぼ満席であり、もしかすると隔週よりも早く終わる毎週の方が良いのかもしれないなどとも考えたりします。来年度への課題ですね。
これだけひとクラスの人数の違いがあると、やはり雰囲気もまた異なります。分かりやすく言うと、大人数の方が全体的な活気がありますし(当たり前か)、賑やかに盛り上がります。対して、少人数のクラスは、どうしても静かというか、全体的には反応が薄く感じてしまいます。湘南ケアカレッジはもともと36名設定のクラスとしてスタートし、開校当初からたくさんの生徒さんたちが通ってくださったおかげで、大人数でワイワイと楽しく研修を行うのが基準となっていました。ところが、景気のアップダウンやコロナ騒動の影響により、生徒さんが集まりにくい時期もあったり、人数を制限して行わなければならなくなったりと変化もありました。
そんなこんなで、時には少人数になることもあり、少人数の良さもあることが分かりました。少人数のクラスは、生徒さん同士の接触機会が増えることによって、一人ひとりの結びつきが深まるということです。単純に考えて、たとえば10人しかいないクラスであれば、ペアになって実技をしたり、4人1組でグループワークをしたりで共に学ぶ機会は、自分以外の9人とはそれぞれ複数回訪れるはずです。30名のクラスであれば、もしかするとペアになる機会がない人もいるでしょうし、グループワークで一度も一緒にならなかったという人も出てくるはずです。大人数少人数の方がよりたくさんの人と接点は持てるものの、一人ひとりの関係性という意味においては、少人数の方が濃いということです。
どちらが良いということではなく、どちらにも良い面があって、トレードオフというか、良い面だけを両立させることはできないということです。学校としては、それぞれのクラスの雰囲気の良さを楽しみつつ、生徒さんにとっては、自分が属したクラスの良さを堪能していただくのが良いということですね。実際、先日修了した少人数のクラスは一人ひとりがしっかりとつながって、お互いのことを良く知れて仲良くなれたみたいですし、大人数のクラスは活気があって、終わったあとに打ち上げも開催されたようです。どちらのクラスからも、最終日に色紙とメッセージ入りのお菓子(ハロウィンも近いからかな?)をいただきました!実務者研修は現場で働いている人たちが多いので、ぜひこの先も良い関係でつながっていってもらえたらと心から願っています。

2023年
10月
25日
水
オールジャパンケアコンテストに行ってきた

第13回オールジャパンケアコンテストに行ってきました。町田から小田急線で新宿、山手線に乗り換えて巣鴨まで行き、都営三田線で板橋区役所前にて下車、そこから10分ほど歩いたところにあるスポーツセンターで行われました。小野寺先生が一昨年ぐらいからアドバイザー(審査員)を務めていて、コンテストについては聞いていましたが、実際に会場に足を運んだのは初めてです。百聞は一見に如かずというように、想像していたよりも真剣かつ和やかな雰囲気に包まれていました。こういう大会がもっと盛り上がって、さらに多くの介護職の方々が参加して競うようになると良いですね。


会場に入ると、「食事」、「排泄」、「認知症」、「入浴」、「口腔ケア」、「看取り」、「外国人介護士」などのブースに分かれ、それぞれでコンテストが行われていました。各ブースには事例が貼ってあり、観客にもどのような状況でケアが行われているのか、分かるようになっています。観客とアドバイザー(審査員)に見守られながら、参加者の介護士は緊張した面持ちで介護を披露します。実技が終わるごとに拍手が起こります。ひとりが終わると、次の人が呼び出され、次々とブースごとに実技が進んでいきます。

実技をしている人の声が観客席からは聞こえないため(もしかすると審査員にも聞こえていないかも)、声掛けの内容が不明なのは残念でしたが、全体的な流れや動作はしっかりと見ることができます。同じ空間で各ブース一斉に行うと声が交錯してしまって分かりにくくなるのかもしれませんが、実技をする人だけはマイクをつけるなどして、何を言っているのかはっきりと分かるようにした方が良いと思いました。

小野寺先生も今年はアドバイザー(審査員)のリーダーを任せられたようで、一人ひとりの実技に対してマイクで講評をしていました。良いところを見つけて褒め・認めることはケアカレでも10年以上にわたってやってきていますし、小野寺先生の得意とするところですから、手慣れたものです。介護職員初任者研修や実務者研修の総合演習で私は見慣れた光景ですが、小野寺先生がスーツを着ていたのもあってか、ずいぶんよそ行きというか立派に見えました(笑)。

このような大会は参加者が増えることでレベルが上がり、価値が増します。内輪だけで行うのではなく、全国から我こそはという介護士がこぞって集まってくるような大会になると良いですね。そのためには賞金をつけたり(優勝者50万円ぐらい)、話題性を提供してメディアに取り上げてもらう、募集案内や大会の結果報告を全国の介護施設に送るなどの地道な工夫が必要になります。そうして少しずつ定着していくと、オールジャパンケアコンテストで優勝したなんてすごい!、来年は私も挑戦してみようかなと思ってくれる介護士が増えてくるはずです。いつの間にか会場には人が溢れ、もっと大きな場所でなければ開催できなくなり、最終的には地方で予選を行い、決勝戦は東京ドームなんていう道筋ができると最高です。そうした大きな目標があれば、介護職の毎日の仕事にもやりがいと張り合いが出るのではないでしょうか。
2023年
10月
15日
日
褒め・認めを仕組化する

「誕生日のお祝いをしてくださって、最高に嬉しかったです。人生で初めての体験でした」とおっしゃってくださいました。そう、Sさんは研修初日が誕生日でした。誰もが緊張している中、授業の最後にハッピーバースデーの歌を歌ってお祝いをしたことで、皆の緊張もほぐれ、とても良い雰囲気に包まれたのを覚えています。湘南ケアカレッジが開校してから10年以上にわたり、スクーリング当日が誕生日の生徒さんや先生方にはケーキ等を贈ってお祝いをしてきましたので、私たちにとってはもはや日常の風景になってしまっていますが、こんなにも喜んでもらえて、続けてきて良かったと改めて思えます。
誕生日祝いはケアカレを開校するまでずっとやりたかったことでした。私が新卒で入社した塾にて、その日が誕生日の生徒さんにカードを渡してお祝いしたとき、「この塾、良い塾なんだね!」と言われたことがきっかけです。当時の私にとっては、これぐらいのことで喜んでくれるのかと不思議に思いつつ、生徒さんが見せた普段とは違った表情を見て、何かを感じたのもたしかです。
それ以降、大手の介護スクールや学習塾でも誕生日祝いを提案しましたが、コストや公平性の問題で実現しませんでした。この頃から、自分で学校をやるときには、誕生日祝いをやろうと心に決めていました。実際にやってみるとコストなんて知れていますし、それ以上の価値を提供できています。私は祝ってもらえなかったなんて文句を言う人はいませんし、むしろ誰かが祝ってもらっているのを見て、周りのクラスメイトさんたちも幸せな気持ちになれるはずです。
誕生日祝いの文化は、湘南ケアカレッジが大切にしている褒め・認めでいうところの認めに当たります。認めるというと少し上から目線にも思えるかもしれませんが、相手のことを人として見るということです。私たちの社会は、仕事をする中で、意外と利用者さんやお客さんを人として見ていない気がします。効率よく業務を進めるためには仕方ない面もありますが、それが行き過ぎると問題です。
その逆も然りで、利用者さんやお客さんもスタッフや職員のことを人として見ておらず、サービスを提供する機械のように扱われてしまうこともあるはずです。お互いさまなのですが、それは実に寂しい関係ですよね。相手のことを認めるためには、まずは相手に興味を持ち、相手のことを知らなければいけません。そこから人と人との関係が始まるのです。
前回の手紙にも書いたように、私たちは慣れてくると、次第に褒め・認めを忘れがちです。自分の子どもを褒め、認めるのが難しいのは、お互いの関係性が近すぎるため、相手のことが客観的に見えなくなっているからでもあります。そういった場合、どうすれば良いのかと考えると、やはり「仕組化」することが大切だと思います。たとえば、ケアカレでは誕生日を祝ったり、通信添削で最高点を取った生徒さんを表彰したり、総合演習の実技テストが終わると先生からのみならず、周りの生徒さんたちで互いに良かったことを伝え合う「仕組み」になっています。
忙しい日常の中では、私たちはつい相手のことを人として見ることを忘れ、褒め・認めが失われてしまいがちですが、「仕組み」があることで我に返ることができます。当たり前のことを当たり前に続けるには、ある程度の「仕組化」が必要なのではないでしょうか。全てを仕組化することはできませんが、できる限りは仕組みにすることで永続化することができるのです。もちろん仕組みはあくまでも仕組みであって、理想は無意識のうちに褒め・認めができているという状態です。褒め・認めは人間関係の潤滑油でもあり、ぜひこれからも人が人として向き合い、喜び合える瞬間を先生方と一緒にケアカレでたくさんつくっていきたいと思います。
2023年
10月
02日
月
「おはよう21」にて連載スタート!

「おはよう21」にて、小野寺先生の連載が始まりました。内容はボディメカニクスを使った介護技術です。3回に分けての連載となりますが、今回はボディメカニクスの8つの原則について説明しています。イラストや写真付きでとても分かりやすく、シンプルに書かれていますので、ぜひ手に取って読んでみてください。「おはよう21」を定期購読している各施設や事業所等は多いので職場に置いてあるかもしれませんし、また大きな書店であれば介護のコーナーに置いてあるはずです。10月から12月にかけて動画コンテンツも配信されるようで楽しみですね。
湘南ケアカレッジで介護職員初任者研修がスタートした10年以上前から、小野寺先生といえばボディメカニクス、ボディメカニクスといえば小野寺先生ということでやってきました。もちろん、他の先生方も授業の中でボディメカニクスを教えてくださって、介護職員初任者研修全体を通して生徒さんたちにはその大切さが伝わっているはずです。それでもやはり小野寺先生といえばボディメカニクスを思い出す卒業生さんが多いはずです。それぐらい長い年月をかけて、情熱を込めて、ボディメカニクスを定着させてきたのです。
実務者研修に来てくれる他校の卒業生さんたちが言うのは、介護職員初任者研修でボディメカニクスという言葉は聞いて習ったけど、あまり印象に残っていないということです。カリキュラムの中で示されていますので、ボディメカニクスについて教えてくれてはいるはずですが、生徒さんたちには伝わっていないのです。それはなぜかというと、いくつか理由が考えられます。ひとつは説明だけで終わっていて、体験として身体で学んでいないということ。もうひとつは、1回教えて終わりになってしまっていて、繰り返し教えていないこと。さらには、上手くできたという成功体験がないので心に響いていないこと、などでしょうか。ケアカレではしつこいぐらいにボディメカニクスの大切さを説き、何度も繰り返しボディメカニクスを使えるところまで練習しますので、頭だけではなく身体で覚えているのです。
余談ですが、ボディメカニクスの大切さは学んでくれていても、言葉はあいまいに覚えている生徒さんもいます。ボディメカニズムやボディメカニックはなどなど、微妙に間違って覚えている人がいるのでご注意ください。私たちが研修の中で、ボディメカと略してしまうからでしょうね。ボディメカという言葉が独り歩きして、正式名称が分からなくなってしまっているようです(笑)。
湘南ケアカレッジではボディメカニクス講座(3級と2級)をほぼ毎月開催していますが、先々の日程も埋まってしまうほどの人気講座となっています。介護現場で働いている人たちにとって、利用者さんの移動や移乗が喫緊の課題となっていて、働く人たちにとっては大きな悩みになっているということですね。ボディメカニクスの考え方や技術を身に付けることができれば、このような状況においてはどのように移動・移乗すると変に力を使わず、安全で安楽かと自分で考えられるようになるはずです。来年はいよいよボディメカニクス講座1級をつくって、ボディメカニクスを教えられる人を養成していきたいと思います。そうすることで、ボディメカニクスが介護の現場に根付いて、ひとりでも多くの現場の職員の方々が安心して介護ができる世界をつくっていきたいと願っています。
2023年
9月
21日
木
月の満ち欠けのように

湘南ケアカレッジを立ち上げるまでの10年間と立ち上げてからの5年間、いわゆるビジネス本というものを読み漁っていました。マーケティングから経営戦略、チーム論、コーチング、自己啓発などなど、あらゆるジャンルのビジネス書を真剣に読みました。ほとんどの本は何の役にも立ちませんでしたが、中には素晴らしい内容のものがあり、私の考え方を大きく変えてくれたものもあります。自分ごととして本を読むと楽しいですし、知ることで世界は変わっていきますし、何と言っても自由になれます。
ところが、数年前から(厳密に言うと2020年ぐらいから)、ビジネス書にほとんど興味が湧かなくなりました。湘南ケアカレッジがある程度ビジネスとして完成されてきたという理由もあると思いますが、やはり書いてあることで目新しいことがなくなったというのが最大の理由だと思います。新しい本も結局、昔の本と同じようなことを手を変え品を変えて書かれているだけで、既視感があるのです。細かいところで学ぶべきはまだあるのでしょうが、大枠は分かったということです。

そんなこともあって、最近は小説を読んでいます。学生の頃は小説ばかりを読んでいたので、昔に戻ったということですかね。今読んでいるのは「月の満ち欠け」という佐藤正午さんによって書かれた、人間の生まれ変わりにまつわる不思議な物語です。実は「月の満ち欠け」は映画化されており、そちらを先に観ました。人は生まれ変わるのかとか、前世があるのかと考え始めたらきりがありませんし、そんなことはあり得ないと頭で考えてしまうと楽しめない内容ですが、頭を柔らかくして観ると素敵な作品でした。「月の満ち欠け」とは、月が満ちたり欠けたりするように、人は姿を消したり現れたり、亡くなったり生まれ変わったりするというテーマの比喩ですね。
そもそも生まれ変わりってあるのでしょうか。日本ではあまり馴染のない前世という考え方も私には興味深かったです。少し昔の私であれば、そんなことはあり得ない、人は土に還るだけと割り切ったはずです。物理的にはそうであったとしても、精神的や思想的にはどうでしょうか。たとえば、私の甥っ子が僧侶になるためにタイに修行に行ったときの話を聞かせてくれた中で、タイの人たちは心の底から生まれ変わりを信じているので、もし何らかの事故や病気で死んでしまっても、生まれ変わるからと考えて、それほど深く受け止めないというのです。生と死の境界線があいまいなのです。そうすることで死の苦しみや痛みを受け流している面もあるのだと思いますが、考え方として私は共感できるところがあります。
評論家の小林秀雄が「魂はあるのかないのか?」という学生の質問に対して、「あるに決まっているじゃないか」と即答したのは有名な話です。小林秀雄の母が亡くなった数日後、悲嘆に暮れていた小林は妙な経験をしました。小林の家の前の道に沿って小川が流れていて、夕暮れに門を出ると、行く手に蛍が一匹飛んでいるのが見えました。その年に初めて見る蛍であり、今までに見たこともないような大きな蛍で見事に光っていました。おっかさん(小林は母のことをこう呼んだ)は、今は蛍になっている。小林はそう思ったそうです。蛍の跳ぶ後ろを歩きながら、その考えから逃れることができなかったといいます。
前世はあるかもしれない、生まれ変わりもあるかもしれない、魂はあるかもしれない、と考えることができる方が豊かなのではないかと私は思います。私たちには分かっていないことの方が多く、分からないことの方が多いのです。分からないことは想像するしかありません。どんな仕事でも基本的な技術や考え方があり、それを身に付けることは大切ですが、そこから先は想像力が問われるのです。できるだけ豊かな想像力を持って臨みたいですね。
2023年
9月
11日
月
見え方が変わるはず

夏休み期間中に行われた、介護職員初任者研修の8月短期クラスが無事に修了しました。今年から久しぶりに学生さんたちも戻ってきて、夏の短期クラスらしい賑やかで華やかな雰囲気のクラスでした。10代から60代まで年齢の幅も様々です。学生さんたちにとっては、幅広い年齢層の大人たちと一緒に過ごした貴重な機会や体験になったと思いますし、大人たちにとっても若い学生さんたちと共に学ぶことで、大きな刺激を受けたのではないでしょうか。年齢や性別、国籍を超えて共に時と場所を楽しく共有できることが、介護職員初任者研修の最大の魅力ですね。
介護職員初任者研修が終わると、学生さんたちはすぐに2学期が待っており、社会人である大人たちは9月1日から働き始めるという方が多かったです。1日ぐらい休んでもらいたい気持ちは山々ですが、「このままの勢いで仕事した方が良いと思います」とおっしゃっていた生徒さんもいました。たしかに、休んで気が抜けて職場に行きたくなくなってしまうよりも、熱い気持ちのまま介護の仕事をスタートした方が良いかもしれません。
別の翌日から仕事を始める生徒さんは、「介護の仕事を始める前に介護職員初任者研修を受けておいて良かったです。考え方も大きく変わりましたし、感謝しています」と言ってくれました。湘南ケアカレッジの理念である「世界観が変わる福祉教育を提供する」ことができて嬉しく思うのと同時に、現場に入って現実と理想のギャップは必ずあるでしょうから、そんなときはいつでもケアカレに遊びにきてくださいと伝えました。
教育とは理想を伝えることでもあります。もちろん、先生方も自身の失敗談や現場の現実も語っていますが、あるべき姿を伝えるの教育です。こうあるべきという理想を伝えない教育には何の意味もありません。だからこそ、理想と現実のギャップが生じてしまうこともあるはずです。そのギャップがあることを意識できることが大切ですし、少しずつ埋めていこうとすることも大事ですね。
もうひとつ、介護職員初任者研修を受けたことで、物の見方が変わることに大きな意味があります。つまり、同じ物ごとを見たとしても、考え方が違えば、その見え方は違ってくるのです。たとえば、認知症について知らなければ、ただの理解不能な言動をしているおかしな人と見えてしまうかもしれませんが、認知症のある利用者さんの言葉や行動に意味を見出すことができるかもしれません。同じ人や物ごとを見ても、考え方が違えば、見え方も違ってくるのです。同じ仕事をしていても、考え方が違うだけで、全く違う世界が見えているのです。できることならば、素晴らしき介護の世界を見たいですよね。
2023年
8月
28日
月
初心に戻る

お盆休み中に、卒業生のYさんがケアカレをたずねてくれました。5年前に介護職員初任者研修を受けてくれた時、岡山県に住んでいましたが、実家の大和から通っていた生徒さんです。なぜそこまでしてくれたかと言うと、お母さんがケアカレの卒業生だからです。その後、岡山に戻って、今はデイサービスで働いているそうです。ケアカレナイトのイメージイラストを描いてもらったり、私の田舎の岡山県津山市と彼女の住んでいる新見市が近かったりすることもあり、縁があるのか、離れていても何度かメールのやり取りをしていました。お盆休みや年末年始など、ちょうと私が岡山に帰省するとき、彼女はこちらに帰ってきて、私がこちらに戻ってくると彼女は岡山に帰ってゆく、そんな行き違いが生じるのですが、今年のお盆休みは台風が直撃するとのことで1日早く戻ってきたこともあり、こちらで一緒に食事をすることができました。
絵を描くことも好きなのですが、彼女はモノづくりも好きで、デイサービスではその特技を生かして、利用者さんたちとレクレーションで工作をしているそうです。彼女が考案したのは、飲んだ後のヤクルトの容器を使って、そこにカラフルな糸を巻き付け、手足や目鼻をつけて、人形をつくるレクです。たとえば、カエルだったり、地蔵さんだったり、白クマだったり、季節ものとしてはハロウィンやトナカイ、雪だるま、ひな祭りの人形だったりをつくるのです。本来は捨てるはずだったヤクルトの容器を再利用するところも面白いと思いましたし、材料費もほとんどかからず、しかも認知症の利用者さんも、介護度が高い利用者さんでも、意外と誰もが参加できるのも良いですね。背景なども工夫して作り、完成した後は、利用者さんの目の高さに合わせて飾っておくそうです。
利用者さんにお願いをしたり、上手くできたときの声掛けなども大切だと話されていました。その話を聞いたとき、ふと、ケアカレの原点でもある、「褒める・認める」のことを思い出しました。講師会をしばらく開催していないこともあり、私たちの理念や大切にしたいことを直接、先生方に伝えることを休んでしまっている気もします。もちろん、生徒さんたちのアンケートや卒業生さんたちの声からも、湘南ケアカレッジが始まったときの熱い想いを失うことなく、ここまでやって来られていることは分かっています。それでもやはり、こうして形にして伝えたり、改めて見直してみることは大切だと思うのです。
実は、うちの息子ももう高校1年生になりました。小さい頃は、ちょっとしたことでも褒めたり、認めたりしていましたが、高校生にもなると、むしろできるのにやっていないことばかりが目に付くようになります。お菓子の袋や飲み終わりのペットボトル容器を片付けないでそのまま置きっぱなしにしてあったり、自分で食べた食器を洗わずに流しに放置してあったり、などなど、何度言っても習慣にならず、言われるまでやらないことばかり。大人として見るようになったと言えば聞こえは良いのですが、褒め・認めができなくなったと言われたらそのとおりです。褒め・認めがなければ、人の心を動かすことはできないにもかかわらず、どうしてもできていないことから入ってしまいます。

初心に戻ることの大切さは、変わっていないようで変わってしまっている自分の変化に気づき、大事なことだけは変わらないように気をつけ、取り戻すことにあります。湘南ケアカレッジの教え方のサイクルは、できていること・できていないことを見分ける→できていることを褒める・認める→できていないことを教え、やってみせる→やってもらう→褒める・認める、になります。ひとつのサイクルの中に、褒める・認めるが2回も出てくるのです。このサイクルのどこか1つでも欠けてしまうと、教えたいことは上手く伝わらなくなってしまいます。私たちは教える立場にある者として、時として、自分はこのサイクルを回せているかどうかを自己点検してみるべきですね。
岡山から帰ってきてくれたYさんと話していて、そんなことを思いました。彼女はこのモノづくりレクを多くの人たちに広めたいと願い、レパートリーを増やしつつ、いつか湘南ケアカレッジの教室でワークショップを開催したいと言ってくれました。5年の歳月が流れても、住んでいる場所が離れていても、変わらずケアカレに遊びに来て、頼ってくれて嬉しい限りです。来年こそぜひワークショップをやりましょう!と意気込みを確認して、彼女は私と入れ替わりで岡山に帰って行きました。
2023年
8月
18日
金
優しい人たち

春からスタートした日曜日クラスが修了しました。全体の印象としては、とても優しいクラスでした。私が足首を骨折したときに、優しく声をかけてくださる生徒さんが平日のクラスよりも多かったですし、障害者の就労支援で豆腐をつくっていることに興味があると話したら、「売れない豆腐ですけど、食べてみてください」と言って持ってきてくれた生徒さんもいました。また、最終日にはクラスメイト全員のメッセージ入りの色紙もいただきました。ケアカレカラーのオレンジをベースにデザインされたこの色紙は、卒業生さんたちを見守る太陽をイメージしているそうです。ありがとうございます。
優しいクラスであったので、何ごともなく終わったのかと思っていましたが、最後のアンケートを見て、そうではなかったと反省する部分もありました。実はこのクラスには中国人の生徒さんが複数名いらっしゃったのですが、彼女たちが授業中に話すのが気になったと書いてくれた生徒さんがいました。おそらく一度や二度ではなく、そういうシーンが目立ったからこそ、アンケートを通して教えてくれたのだと思います。改善点を包み隠さず伝えてくれるのは優しさです。冷たい人は何も言わないのです。ケアカレにもっと良くなってもらいたいから、わざわざ書いてくれたのです。
ケアカレとしてできることは、頻繁すぎるおしゃべりに対しては、今はやめてもらいたいと伝えることです。おそらく外国語で話しているので、授業に関係した大事なことを話しているのかそうではないのか内容が分からず、先生方も注意をしにくかったのではないかと想像します。また、先生たちも順番に入れ替わりますので、今回の授業は私語が多いなと感じるぐらいであっても、生徒さんたちは毎週同じようなおしゃべりを聞かされていれば頻繁に思えるはずです。生徒さん同士で注意をするのは難しいので、こういった状況は学校側が察して、「大丈夫ですか?」、「何か分からないところがありますか?」など、どこかの段階で声をかけるべきなのです。
さらに「ほんとうにそうなの?」と踏み込んで考えることも大切です。今回のケースについては、80%ぐらいは学校側として注意してもらいたかったというのが答えだと思いますが、もしかすると中国人の生徒さんたちのおしゃべりが気になったのは、あまり交流ができていなかったからではないかと考えることもできます。中国人の生徒さんたちだけで固まってしまい、他の日本人の生徒さんたちと関わる機会が少なかったのではないでしょうか。たとえば、グループワークや実技演習でも国籍を問わず一緒に混じってできていれば、私語はそれほど気にならなくなりますし、気になったらそっと伝えられるぐらいの間柄になっていたかもしれません。そうならなかったのは、最後まで中国人の生徒さんたちを固めてしまった学校側の仕組みの問題とも捉えることはできるのではないでしょうか。
問題に対して表面的な解決は誰でも思いつきますが、「ほんとうにそうなの?」と自問して深く掘っていくと、本質的な解決策に行き着くこともあります。世の中の問題のほとんどが解決されることなく、より悪くなっていってしまうのは、実は「ほんとうにそうなの?」と考えることなく、表面的に解決した気になって終わってしまうからでもあります。介護の現場でも毎日たくさん問題は起こるはずです。そんなとき、「ほんとうにそうなの?」と自分や相手に問うてみることで、あっと驚く真実に気づき、本質的な問題解決につながるはずです。
2023年
8月
07日
月
他者を知ること

7月短期クラスにビルマから来た生徒さんがいました。年齢がバレてしまいそうですが、私の中でのビルマは映画「ビルマの竪琴」で主人公の水島上等兵がオレンジの袈裟を着て、竪琴を奏でるシーンしか思い浮かびません。どんな国だっけ?と調べてみると、現在はミャンマーと呼ばれている国でした。旧ビルマというのが正確なところです。本人に改めて聞いてみると、「お年寄りはビルマと言うけど、若い人たちはミャンマーと言っています」とのこと。興味を持って調べ進めてみると、ミャンマー(旧ビルマ)はタイの左隣に位置し、中国やバングラデシュ、ブータン、マレーシアなどと国境を接しています。古い寺院等の建築物と山々の調和が美しい国でした。

しかし、ミャンマーでは昨年の2月に軍部がクーデターを起こしました。アウンサンスーチー氏を拘束し、市民による抗議デモを武力で弾圧しているそうです。国民軍が武力で対抗して、血みどろの争いが繰り広げられているのが現状とのこと。ウクライナとロシアとの間の戦争のように、日本の報道はどうしても一面的になりがちですから、善悪を決めつけると本質を見誤ると思いますが、いずれにしても国民たちは巻き込まれてしまっているのです。本人の口からは「大変な状況になっている」としか聞いていませんが、若者たちを筆頭に、ミャンマーのそうした状況に愛想を尽かし、国外に移住する国民も増えてきているようです。
今回はたまたまビルマの生徒さんがいて、ビルマの国のことを少し知れたように、他者を通じてこそ世界を知ることができるのです。他者を知ろうとすることで、その背景にある世界を知れるという感じでしょうか。それは大げさなことでなくても良いのです。他者が好きなことや大切にしていることを教えてもらうだけで、私たちの世界も広がります。対人援助職である私たちは、他者を理解しようとして傾聴をすることになりますが、それは自分の世界を広げていることにもつながるのです。自分だけでは広がらなかった世界を、他者を知ることで広げてもらうということです。
そう考えると、人との出会いがいかに大切か分かりますね。私自身も、節目節目で出会った人たちに、良くも悪くも大きな影響を受けて、ここまで生きてきたのだと思います。福祉教育の世界に入ったもの、小学校時代の知り合いが大手の介護スクールで働いていて、当時ひきこもりをやっていた私にアルバイトしてみないと声をかけてくれたことがきっかけでした。最初から介護の世界に興味があったわけではなく、むしろ全く知らなかった世界です。それがたまたま知り合いをつうじて、この世界に触れたことで、今こうして介護の学校に20年近くたずさわることになりました。自分の興味だけを追い求めていたら、決して辿り着かない世界でした。人の出会いとは不思議なものですし、その出会いを生かすのはやはり他者を知ろうとする興味や好奇心だと思うのです。
2023年
7月
28日
金
時空を超えて

7月からスタートした実務者研修の土曜日クラスには、初日が誕生日の生徒さんがいました。皆でお祝いをして、ハッピーな雰囲気で幸先良くスタートを切れました。さすがの湘南ケアカレッジでも、初日はお互いにどうしても緊張感がありますが、こうした授業とは関係ない出来ごとが起こると、生徒さんたちは一気に和み、学校や先生方との距離感が近くなるはずです。
開校当初から誕生日祝いは行ってきて、もう200名を超えるであろう生徒さんたちにバースデーソング&ケーキをプレゼントしてきました。「誕生日祝いをしていて、あのとき良い学校だなあと思いました」と卒業生さんから言われることもあり、ずっと続けてきて良かったなと思います。
授業が終わったあと、誕生祝いをさせてもらった生徒さんが私の元に来てくれました。御礼を言われるのかと思っていたら、「Kさんってご存じですか?」と聞かれました。Kさんと言われても卒業生さんにたくさんいますので、「下の名前って分かりますか?」と聞き返したところ、「K山〇〇さんです」と返ってきました。私はピンときました。ケアカレの卒業生かと思っていたのですが、実は昔、大手の介護スクールで一緒に働いていた仲間のひとりでした。
「もちろん知ってるよ。で、なんでKさんのこと知ってるの?」と尋ねてみると、「今、僕、ケアに入っているのです。『明日学校に行くんです』と言ったら、『どこの学校?』と聞かれたので『湘南ケアカレッジです』と答えたら、Kさんが『そこの学校、知っている人がいるよ』という話になりました」と教えてくれました。
Kさんは筋ジストロフィーを患っています。今からちょうど20年前、大手の介護スクールで働いていたとき、私とほぼ同年代ですから、彼も25歳ぐらいでした。彼は残っている筋肉と杖を使って立派に歩くのですが、一度転倒してしまうと自分ひとりで立つのに苦労します。突然、ドスンと大きな音が響いたと思ったら、彼が転んでいたなんてこともよくありました。
当時の事務所が入っていたビルは、23時になると1階の玄関の扉が閉まってしまう設定になっており、それ以降に帰社する際は一旦、地下1階までエレベーターで降りて、そこから階段を登って、1階の裏口から退出することになっていました。健常者であれば何てことないのですが、Kさんは階段を登ることができないので、23時を超えてしまうと大変な事態になります。それでも、たまに仕事が忙しすぎて23時を超えても誰も気づかないことがあって、皆で協力して彼をおぶって階段を上がって帰るなんてこともありました。今となっては懐かしい思い出ですが、彼はおそらく100kg近い体重があったので、若かった私たちでも背負うのは大変でした(笑)
彼はもちろん力仕事や階段しかない教室・実習先回りなどはできません。そんな彼が、苛酷な環境(当時は月500時間労働)で、果たしてどこまで持つのか、私たちは疑問と不安を感じていました。いや、正直に言うと、彼のことまで考えてあげる余裕など、時間的にも心理的にも、私たちにはなかった気がします。
そんな私たちの心配をよそに、彼は自分にできることを見つけ、それを精一杯にやりました。彼にしかできないこともありました。複雑なパソコンの操作や激務の中での丁寧な電話応対。そして、何よりも、彼がスタッフに加わってからというもの、私たちの職場の空気は少しずつ変わっていったのです。一緒に働くスタッフたちが、彼のことはもちろん、お互いに助け合ったり、声を掛け合って気遣ったりするようになったのです。
ともすると、私たちはできないことばかりに目が行ってしまいがちですが、他人のために自分には何ができるかを皆が考えるようになったのです。彼の人柄の素晴らしさと、懸命に働き、生きる姿が、私たちを大きく動かしたのです。それは私たちにとって、利用者とスタッフという関係ではなく、一緒に働く仲間として、共に生きるという貴重な体験でもあったのです。
その後、私は広島に転勤となり、彼は転職しましたが、年賀状のやりとりは続いていました。しばらくして町田で介護の学校を始めたことも伝えました。今、彼は横浜に住んでいるようです。一度、学校に遊びに来てよと言いながらも、あっという間に10年が経ってしまいました。音信不通ではないものの、結局のところ、彼とは大手の介護スクールの横浜支社で一緒に働いて以来、20年間会うことはありませんでした。
そんな彼のケアに湘南ケアカレッジの卒業生さんが入っていると聞き、私は感慨深いものがありました。上手く伝えわらないかもしれませんが、20年の歳月を経て、つながったという達成感を覚えたのです。湘南ケアカレッジの生徒さんが、私の20年来の仲間であるKさんのケアに入る確率はどれぐらいでしょうか。また、そのことが卒業生さんから私に伝わる可能性はどれほどでしょうか。それは奇跡に近い、恐ろしく低い確率だと思います。
なぜそのようなことが起こったのか、現実的に考えてみると、先生方が一人ひとり丁寧に向き合って教えてくれた生徒さんが、初任者研修と実務者研修を合わせると5000人を超え、神奈川と町田の地域で活躍しているからだと思います。ただ研修を受けた人数が多いということではなく、人間同士として縁のあった生徒さんが5000人を超えたということです。縁や和や関係性を10年かけてコツコツと積み上げてきたからこそ、今回こうして遠いところまでつながったのです。

「オーロラの彼方へ」という昔の映画を最近観ました。30年前に生きていた父親と無線がつながるという感動のストーリーです。爆発事故で亡くなってしまった消防士の父と時空を超えて語り合うことで、問題を解決し、未来が変わるというタイムトラベル的な内容。ありえない話かもしれませんが、今は亡き誰かと時空を超えて話してみたいという気持ちは分かります。あのときには伝えられなかったことを今なら伝えられそうですし、あのときは気づかなかったことに今ならば気づけるかもしれません。彼らの無線は太陽フレアの活性化による異常気象が原因で、次元が歪んだことでつながったのですが、私とKさんもそれぐらい奇跡的に、20年の歳月を経て、時空を超えてつながったように感じました。
この体験を通して、私は湘南ケアカレッジの第1ステージが終わったのだと何となく思いました。巡り巡って、ひとつの到達点に達したと思えたのです。町田にあるひとつの小さな学校として、ひとまずできることはやり切った気がします。一段落ついたあと、何をどうすべきなのか、今は答えやビジョンは全く持ち合わせていませんが、来年からは先生方と一緒にそろそろ次のステージに進まなければいけないと考えています。
2023年
7月
14日
金
「パリタクシー」

92歳のマダムとタクシー運転手との間にパリで生まれた人生の物語。自宅を売り払い、老人ホームへと向かうマドレーヌからの依頼を受けたのは、1年間で地球を3周するほどタクシーの仕事をせざるを得ない、金なし、時間なし、免停寸前の中年男シャルル。最初はパリの反対側まで行くのを面倒くさく思ったり、途中で思い出の場所に寄ったりするのを渋っていたシャルルですが、マドレーヌの若かりし頃の波乱万丈の人生を聞くうちに、興味を持ち始めます。次第に自分の話もするようになり、ふたりは打ち解けていきます。パリの美しい街並みを背景に、タクシーの中で繰り広げられる会話と回想シーンが見事に織りなされ、私たちはそれぞれに忘れられない思い出があり、それが人生を形づくっていることを知るのです。この映画はたまたまパリを舞台にしているから「パリタクシー」ですが、「介護タクシー」だとしても十分にあり得るストーリーなのではないでしょうか。
冒頭にて、シャルルが横入りしてきた車の運転手に対してクラクションを鳴らし、罵声を浴びせるシーンがあります。まさに私が2019年にパリを旅したときと同じ光景で臨場感が高まりました。パリというと、文化的で、物音ひとつしない静かな街という勝手なイメージを抱いていましたが、実際のパリは車のクラクションやパトカーのサイレン等が鳴り響いている騒がしい街でした。今から思えば、パリで暮らす人たちの余裕のなさ(経済的にも時間的にも)を象徴していたのです。
シャルルも例にもれず余裕のないタクシー運転手でしたが、寄り道をしながらマドレーヌの人生の物語に浸っていくうちに、少しずつ心境に変化が訪れます。途中でマドレーヌが中華料理店でトイレを借りるシーンがあります。タクシーを道端に少し止めただけなのですが、後ろの車たちが通れず詰まってしまい、クラクションを鳴らされます。普段のシャルルなら慌てて急かしたかもしれませんが、ゆっくりとマドレーヌを車に乗せ、落ち着いて発車したのでした。自分のおよそ倍にあたる人生を歩んできたマドレーヌと話したことで、自分の人生を俯瞰的に見る余裕が持てるようになったのです。人生も旅もいろいろあって面白いのだけれど、終わってみると「すべてが一瞬だった」と思えるのでしょう。

最近は、湘南ケアカレッジの卒業生さんたちの中でも介護タクシーを始める方が増えています。どこか遠くへと旅行したいという利用者の願いに応えたいと思って開業しても、自宅から病院への通院が多いのが現状かもしれません。それでも、短い時間でも少しの会話はできるはずです。自分とは生きた時代が違う人たちと話すことは刺激的ですね。今となっては当たり前のことが、当時はそうでなかったり、その逆もまた然り。50年も経てば、時代は大きく変わります。私たちはたまたま今の時代に生きているだけで、今の常識や価値観しか知らないのです。そしてもし私たちが歳を取って、自分たちの半分ぐらいの年齢の人たちに話をする機会があれば、それは彼ら彼女たちにとって興味深く、学びも多いのだと思って話をしてあげましょう。それが彼ら彼女たちの人生を大きく変えることもあるはずです。
2023年
7月
10日
月
介護福祉士筆記試験対策講座の募集を開始します!

介護福祉士試験は、介護や福祉について体系的に学ぶ最後のチャンスです。せっかく受験するならば、この機会にしっかりと勉強し、皆さん全員が合格することを心から願っています。来春3月には、介護福祉士になって、お祝いをしましょう!
→何をどのようにどれぐらい勉強すれば合格できるのか分からない
→毎日が忙しくて、勉強をする時間をつくるのが難しい
→基礎から学び直し、本物の知識を持った介護福祉士になりたい
という方はぜひご受講ください。
→講座の詳細はこちら
2023年
7月
05日
水
なぜオンラインにしないのか?

先月、職業紹介責任者の講習をオンラインで受けました。今回は5年前に取得したものの更新となります。オンラインとオフライン(通学)がありましたが、丸1日の講習であったこともあり、朝から通学するよりは、ケアカレで生徒さんたちを朝出迎えてからでも受講できるオンライン講習の方を選びました。6時間のオンライン講習は初めてであり、ひとつの経験としても受けてみようと思ったのです。
受けてみた感想としては、時間の無駄だったという想いしかありません(笑)。普段も大して時間を有効に使って生きているわけではないのですが、興味のない内容に関しての動画をパソコンの画面で見させられることは拷問のようでした。見終わったあと、何とも言いがたい徒労感と、少し大げさかもしれませんが、人生の時間を奪われた怒りに近い感情さえ抱きました。受講料(1万円)以上に、時間を無駄に費やしたことの悔しさが大きかったです。お金だけ払うから、中身のない研修を受けさせて体面だけを保つのはやめてほしいと思いました。
私が抱いたこの感情や気持ちは、ほとんど全てのオンライン研修に通ずると思います。オンライン研修に関しては、遠隔地や違う国々の人たちが一堂に会せるという利点を除けば、デメリットばかりです。まず、zoomなどはオンライン会議用であり、研修には向いていません。さらに言うと、私がそうであったように、オンラインの研修に参加する人たちは最初からモチベーションが低い状態です。好きなことや興味あることなら、できるだけ現地に行って生で雰囲気を味わいたいと思うはずです。興味がない、できることなら受けたくないからこそ、オンラインで済まそうとするのです。オンラインで研修を開催すると、そういうモチベーションのない人を集めてしまうことになります。
モチベーションがないからこそ、講師(伝える側)の言っていることも右から左へと聞き流しますし(どうやって内職をするかばかり考えています)、素直に聞くことができません(むしろ反発したくなります)。そして、オンラインではどうしても一方的に講師が発信することになるため、講師と生徒の関係性をつくるのは難しくなります。関係は良くなることはなく、時間が経つにつれて、お前の顔なんか見たくない早く終われと思うようになります(笑)。このような状態では、どれだけ良い内容を情熱的に話しても伝わりにくいのです。
オンライン研修の致命的なところは、生徒さん同士のつながりが生まれないことです。ケアカレを10年以上続けてきて分かったことは、研修は横のつながりが最も大事であるということ。良い仲間に恵まれるからこそ、研修全体も楽しく思えるし、学びも大きくなるものです。学校というのは本来そういうものだったのです。学校の機能を正しい情報を伝達することだと捉えるのは大間違いです。先生方と生徒さんの関係性、そして生徒さん同士のつながりが8割で。授業の内容はあとからついてくるのです。そうした大切な出会いがない、つながりも生まれないのであれば、学校として研修を行う意味がないと言っても過言ではありません。YouTubeで検索すれば知りたいことは大体知れるはずです。そうではなく、先生方や生徒さん同士の直接的なやり取りの中にこそ、本来の学びはあるのです。
ということで、湘南ケアカレッジは今後もオンライン研修をすることはありません。それぐらい対面の授業にはこだわっていきますが、逆に言うと、教室に集まってもらう以上は、ケアカレに来て良かったと言ってもらえないといけません。オンラインでも良かったと思われるような授業や研修ではダメだということです。
そのためには、単なる情報伝達だけではなく、一人ひとりの生徒さんたちをひとりの人間として見て、人として関わることが求められます。声掛けをしたり、話を聞いたり、表彰や褒め・認めなど、対面だからこそ実際にできることです。さらには生徒さんたち同士ができるだけ多く関われるような仕組みをつくることも大切ですね。席替えやグループワークなど、私たちが良かれと思ってやってきたことは理にかなっているとも言えるでしょう。生徒さんたちが研修に満足してくれたからこそ、口コミや紹介の輪が広がってきたのです。
オンラインの講習を受けてみて、学校とはどうあるべきかを改めて学ばせてもらいました。この3年間、介護職員初任者研修も実務者研修もオンラインで行われる学校が出てきて、たしかに学校側にとっては経済的メリット(賃料がかからない、人数制限がない、電気代もかからない、などなど)はあるのですが、安きに流れずにいて良かったなと思います。学校の存在価値をお金に換えずにここまでやって来られたのは、対面の研修の良さを理解して、楽しんで教えてくださっている先生方のおかげです。ありがとうございます。
2023年
6月
23日
金
周りの人たちは自分の鏡

4月からスタートした実務者研修の土曜日クラスが、無事に修了しました。初任者研修の卒業生さんがそれほど多くはないクラスでしたが、それぞれが仲良くなり、とても良い雰囲気のクラスでした。看護師の先生方が最後にコメントしていたように、「誰一人として雑な人がいない、丁寧なケアをするクラス」でした。そのような生徒さんたちが集まったからこそ、毎回の授業終了時に書いていただいているリアクションペーパー(その日に学んだことを記す用紙)の内容も素晴らしいものでした。
「教室の雰囲気も良く、毎週来ることが楽しかったです」
「もっともっと先生方や仲間と学びたかったと思います」
「本当に楽しい2カ月でした。ありがとうございました」
「優しくも、厳しくもある先生たちには感謝をしています」
「湘南ケアカレッジで学べて良かった」
「ここに通うことで根拠が分かり、理由が分かり、自信を持って行動できるようになりました」
「ご利用者との向き合い方、自分のあり方というものが少し分かってきたように思います」
「卒業生の方にこちらをすすめられてきて良かったです」
「利用者の親子さんたちに、ここに入居させて良かった。表情が明るくなったなど、家族から暖かい言葉を言ってもらえることが増えた気がしています」
「受け身だった仕事に対する姿勢が、提案するなど、積極的に取り組めるようになりました」
などなど。
私は初回のオリエンテーションの際に、「皆さんにとって実務者研修が大きな分岐点になると思います。研修が終わった後、今まで介護の仕事をやってきて良かった、これからも頑張って続けていきたいと思ってもらえると嬉しいです」と話しています。湘南ケアカレッジの実務者研修に参加してくださったことで、自信がついたり、仕事に前向きに積極的になれたり、その生徒さんにとっての未来が開けると良いなと願っています。そこまで行かなくても、つまらないと思っていた研修が受けてみると楽しくて、仲間との出会いもあり、やっぱり介護の仕事をもっと頑張ってみようと思えるだけで十分です。
「初任者研修のときのクラスも良かったですし、今回のクラスもとても良い人たちばかりでした」と言ってくれた生徒さんもいました。初任者研修のときから彼女のことを知っている私から見れば、彼女自身が素晴らしい人だからこそ、そう思えるのだろうなと感じました。素晴らしい人たちの周りにはそのような人たちが集まります。また、どのような環境であっても、周りをどう見るかはあなた次第です。周りの人たちは自分自身の鏡でもあるのです。そのように思える人たちが集まったからこそ、特別な雰囲気での7日間の研修が名残惜しく感じたのでしょう。
2023年
6月
16日
金
好きな香り

介護職員初任者研修の生徒さんが、最終日にアロマ(ルームフレグランス)をプレゼントしてくれました。彼女は香りに興味を持っていて、自分でアロマを調合してつくっているそうです。ケアカレの初任者研修を受けて、「介護に対する意識の変化」、「楽しさ」、「自信」など、感じたことを香りに落とし込んでみましたとのこと。私にとっての香りは、良い香りと悪い匂いぐらいしか区別がありませんが、ひとつ一つの香りに意味やメッセージがあることを教えてもらいました。さすがに教室は広すぎて生き届きませんので、ちょうど良い大きさの事務所のルームフレグランスとして使わせてもらっています。ありがとうございます。
彼女が調合してくれたアロマには、ブレンドノートが添えられていました。ブレンドした精油やフラワーエッセンス、その隣には効能とメッセージが記されています。このブルーの瓶の中に、レモン(意識を変える)、オレンジスイート(人生の岐路、楽しさ、心を温める)、ローレル(知識や技術に基づく自信)、ブラックスプルース(次のステージに進むためのエネルギーチャージ)、ユーカリ・ラディアタ(視野を広くする)、ラビンツァラ(人と関わり大きく成長する)、シダー(周りに影響されすぎず、自分の軸を強化する)といった意味が込められていることに驚きます。それぞれの香りを感じながら、彼女からのメッセージに想いを馳せてみると、たしかにそう思えてくるから不思議ですね。
私の好きな香りをあえて挙げるとすれば、白檀(サンダルウッド)です。たまにお香として焚いたりしてみると、帰ってきた妻からは「お寺に来たみたい」と言われます。そう、私の父方の祖父はお寺をやっていましたし、小さい頃から田舎に帰るとお線香をあげていましたので、白檀(サンダルウッド)の香りとなじみが深いのでしょう。効能やメッセージを調べてみると、精神面へ穏やかに作用し、不安感や緊張を和らげて心をリラックスさせる効果があるとされています。死を通して生きることをみつめる、というテーマがあるなんて書かれているサイトもありました。そこまで大げさではないと思いますが、たしかにリラックス効果を求めているときにお香を焚いている気がします。
こうして香りについて思いを馳せていると、そういえば香りは記憶と深くつながっていると感じられます。女性の香水であったり、雨上がりの雨の香りであったり、旅先で早起きしたときの木々の香りといった、良い思い出と結びついているものもあれば、下水の匂いであったり、昔、足に鉄アレイを落としたときに感じた鉄の匂いなど、嫌な思い出とつながっているものもあります。たとえば同じ香りであったとしても、私は競馬が好きなので厩舎の馬糞の匂いがすると安心感を抱きますが、単に臭いと感じる人もいるでしょう。香りは私たちの人生を彩っているのですね。
2023年
6月
09日
金
マスクの着脱は自由です

5月短期クラスが修了しました。20名足らずと人数こそ少なかったものの、あらゆる年齢層の方々が集まり、とてもオープンマインドな明るいクラスでした。何と言っても、マスクを外す生徒さんたちが多く(特に女性から)、久しぶりに笑顔にあふれる素敵な雰囲気で授業が行われました。屋外、屋内問わず、マスクの着用は個人の判断という政府からの号令が発せられたことや5類に下げられたことの影響もあるのかもしれませんが、少しずつ当たり前の日常が戻ってきている気がします。それ以前からずっと、当校ではマスクの着脱は自由です。外したい人は外しても結構ですし、着けたい人は着けても問題ありません。あくまでも生徒さん個人の判断にお任せしています。それは先生方も同じです。
実は、5月のクラスにはマスクを着けられない生徒さんがいました。4月から申し込んでいた他の学校では、教室にさえ入れてもらえず、当校に来ることになりました。正直に言うと、ケアカレではマスクは自由であったにもかかわらず、ほとんど全ての生徒さんたちはマスクを着用されていたので、その生徒さんが浮いてしまうのではないかと心配していました。これまでは感染対策のためだけではなく、周りの目があるからマスクを外せないという問題もあったはずです。自分ひとりだけって怖いですもんね。いくらマスクの着脱は自由とはいえ、マスクを着けられない生徒さんが窮屈な思いをしないか不安があったのです。
ところが、5月短期クラスがスタートすると、誰がそのマスクを着けられない生徒さんか分からないぐらい、幾人かの生徒さんたちが素顔で教室に来てくれたのです(笑)。ひとりだけなのか、何人かいるのかでは全く状況が違います。私は胸をなでおろしました。さらに素晴らしいなと思ったのは、その様子を見た何人かの生徒さんたちもマスクを外すようになって、最終的には半分ぐらいの生徒さんたちが素顔で授業に参加してくれたことです。
自由や個人の判断に任せるということは、こういうことですね。同調圧力のようなものが働いているとどちらかに偏ってしまうのですが、個人が判断した結果が半々になるぐらいが選択の自由ということです。まあ、この先、暑さが増していきますので、暑いのにセーターを着たり、雨が降っていないのに傘を差したりしないように、マスクを外して生活する人たちがほとんどになるのが普通だとは思いますが、果たして。
介護の仕事にたずさわっている以上、マスクは自由ではないという意見もあるかもしれません。カンセンショウタイサクやマスクの効果についてここで論じることはしませんが、それではいつまで介護職員はマスクをし続けなければならないのでしょうか。ウイルスは決してなくなりませんし、私たちの体の中にも外にも常に存在します。今回のきっかけを逃してしまうと、介護の仕事にたずさわる人たちは、どこでも、いつでも、一生マスクになりかねません。そのような仕事に就きたいと思う人が増えるとは、私には思えないのです。そして、利用者さんたちは、今のような生活を望んでいるのでしょうか。もし私が将来、利用者として施設に入るようになったとして、マスクに囲まれて生活するのは嫌ですね。私たちは何か大切なものを失ってしまっているのではないでしょうか。せめて健康な人たちが集まって生活している中では普通に過ごしませんか。
2023年
6月
03日
土
同じ目的やビジョンを共有する

先日遅ればせながら、映画『THE FIRST SLAM DUNK』を観に行ってきました。面白いとは聞いていたのですが、私は微妙に『スラムダンク』世代から外れています(漫画を読まなくなった時期と『スラムダンク』の連載が始まった時期がほぼ同じ)。今回映画を観て、初めて『スラムダンク』の世界を知り、CGを使った映像と音楽の完成度の高さに驚かされつつ、その中身の素晴らしさを知りました。何かにつけて、『スラムダンク』の名場面や名セリフを使ってたとえたがる人の気持ちが、ようやく理解できました(笑)。

『スラムダンク』の中で最も有名なセリフのひとつとして、安西先生の「あきらめたらそこで試合終了ですよ」があります。説明不要のセリフですが、言葉だけを取るとありきたりというか、やはり文脈があってこその深い意味があるのだと思います。文脈といえば、全国大会の山王戦(日本一のチームとの戦い)において、終盤、キャプテンの赤木(ゴリと呼ばれている)が試合中にもかかわらず、涙を流すシーンがあります。

弱小チームだった頃から、赤木がずっと「全国制覇」を掲げるも、周りのチームメイトは誰ひとりついて来てくれませんでした。揶揄されながらも1人孤独に練習をしてきた中で、桜木、流川、宮城、三井といった面々が入ってきます。そして、自分と同じかそれ以上の熱量で勝とうとしている背中を見て、嬉しさがこみ上げてきたという長い長い文脈があるのです。彼らはそれぞれに個性が強く、決して仲良しこよしではないのですが、バスケが上手くなりたい、負けたくないという想いは誰よりも一致して、共有しているのです。
湘南ケアカレッジの先生方も同じだなと思いました。湘南ケアカレッジは、「世界観が変わる福祉教育を」という理念でスタートし(今から思えば少し大げさですが)、研修が終わった後、生徒さんたちの介護に対する考え方や見かたが大きく変わるような授業を提供したいと思ってずっとやってきました。そのためには、素晴らしい授業をすることも大切ですが、先生方の目指す介護の方向性が同じであること、生徒さん一人ひとりを向き合うこと、生徒さん同士の横のつながりも大切であることなどを学びました。一人ひとりは凸凹ながらも、同じ目的やビジョンを共有して、生徒さんたちが喜んで満足してくれることが嬉しいとどの先生方も思っているからこそ、ここまでブレることなくやって来られたのだと思います。ありがとうございます。
先日、介護職員初任者研修を修了したSくん(彼女も実務者研修に通ってくれています)は学校が嫌いで、ケアカレも最初の頃は通いたくなくて開始ギリギリに来たりしていましたが、「途中から楽しくなった。皆もそう言っていました」と最後は言ってくれました。最初は挨拶もまともにしてくれなかったのが、次第に目を見てくれるようになり、笑顔も出るようになったのです。短い期間で変わってゆく生徒さんの姿を見て、先生方がどの授業でも一人ひとりにしっかり声掛けをして、向き合ってくれているのだなと嬉しく感じます。彼はこれから訪問介護の仕事をするそうで、たくさんの壁にぶつかると思いますが、あの笑顔があれば乗り越えてくれるはずです。
2023年
5月
27日
土
必要な時間

湘南ケアカレッジの卒業生でもあるジェントル山本さんが主催した、ジャズライブに行ってきました。場所は町田のおしゃれなワインバー「アン•プティ•プ」。芹が谷公園に行く途中で何度か外から見て、入ってみたいと思っていたお店ですので、ライブも聴けて一挙両得です。この日はワインかソフトドリンクと別におつまみも用意されており、私は残念ながらお酒が飲めないのでワインを楽しめなかったのですが、おつまみが美味しくてお代わりしてしまいました。もちろん、ジェントル山本さんたちのライブは素晴らしく、山本さんのサックスはまさにジェントルな音を奏で、これぞジャズという演奏でした。素敵な時間を過ごせて幸せでした。

山本さんとはケアカレ在学中も少し音楽の話をして、サックスを吹いていると聞いていましたので、卒業後に教室に来て、お誘いのチラシを渡していただいたとき、ぜひ聴きに行きたいと思いました。こうして卒業生さんの別の面を見られるのは嬉しいです。ケアカレの初任者研修に来てくださる生徒さんたちは、介護の世界では初心者であっても、別の世界では様々な経験や活躍をされています。私たちの知らない世界を知っているということです。卒業生さんを通して、私も違った世界を教えてもらうことができるのです。
実は私が昔からやりたかったことのひとつに、サックスの演奏があります。今から20年以上前に、ジョシュア・レッドマンというサックスプレイヤーの演奏を横浜の「モーション・ブルー」で聴いて、カッコ良くて、自分も演奏してみたいと思ったことがきっかけです。一時期はサックスと室内練習用の防音カバーのようなものを買おうと考えたこともありましたが、実現していないのは、まだそれほど本気ではないからかもしれません。ただ、楽器を演奏するならサックスという想いは、青白い炎のように心の奥底で消えてはいません。
今回、山本さんにとっては3年ぶりのライブであり、今年は精力的に活動していきたいと宣言していました。不要不急とされ、このコロナ騒動の3年間で最も虐げられてきたのは音楽家ではなかったかと私は思います。介護職員初任者研修にも何人かプロの音楽家が来てくれたので分かります。彼らには飲食店やライブハウスなどのような補助金はほとんどなく、仕事のない期間が3年も続いたのです。オンライン配信などで稼げたのは一部のメジャーアーティストだけで、それ以外の業界を支えていた人たちは廃業を余儀なくされることもありました。介護の世界に新しい人たちが入ってきてくれるのは嬉しいのですが、やりたいことをあきらめてまで来てほしくはないというのが私の本音です。彼らにはこの3年間をギャップイヤーとして、これからの音楽人生を羽ばたいてもらいたいです。

介護施設への出張ジャズ生演奏もされています。興味のある方はジェントル山本さんに問い合わせてみてください!
2023年
5月
19日
金
不自由な生活

先月、左足を骨折してしまいました。湘南ケアカレッジが入っているビルを出たところで、足をひねってしまったのです。転ぶ形になれば良かったのですが、全体重が左足の甲にかかった状態で耐えてしまったことで、腱に引っ張られて骨が割れてしまいました。パキっ!と音がしたので、すぐにやってしまった…と分かったほどです。過去に同じ場所で何度かつまずいて、足をひねったこともあったのですが、今回は最悪のひねり方でした。それにしても、若い頃であればここまでの怪我にならなかったので、私も年を取ったということですね。骨折は生まれて初めての経験なので驚いています。
翌日、整形外科に行ってレントゲンを撮ってもらったところ、やはり骨が折れていました。手術をしてボルトで骨をくっつけるか、それとも安静にして骨がくっつくのを待つ保存療法にするのか選択を迫られましたので、後者を選びました。さすがに入院して手術をするほどではないと思ったからです。そこで石膏のようなものと包帯で足を固めてもらい、松葉づえの使い方を指導されて、不自由な生活が始まりました。
たしか6、7年前にも同じく足をひねって、リスフラン靱帯を損傷したことがあり、その時以来の普通に歩けない生活です。ゆっくりとしか歩けない生活をしてみると、自分が邪魔になっていることに気づきます。自分が歩くのが遅すぎて、追い越してくれたらまだ良いのですが、後ろから来る人々が私の後ろで詰まっているのが分かります。申し訳ない気持ちを抱えながらも、自分のペースでしか歩けないことに情けなさを覚えます。階段を登るときは手すりのありがたさを感じ、降りるときは患側の脚から1段ずつしか降りられず、降りる方が登るよりも難しいことを身をもって知るのです。
また、ズボンや靴下を脱ぐときには、脱健着患(健康な方から脱いで、怪我をしている方から着る)が理にかなっていることが分かります。順番を逆にしてしまうと、上手く行かなかったり、痛かったりします。普段は何も考えることなく行っている動作のひとつ一つにも、意味を持たせることができるのです。それは自分が病気や怪我をしてみないと分からないことですね。
そして、何をするにも時間がかかるので、イライラします。たとえば、教室から町田駅に行くまでに普段の倍ほどの時間を要してしまいます。今までであれば駆け乗れた電車やバスも見送らざるをえませんし、駅の下り階段は後ろから押されないか冷や冷やしながら降りることになります。高齢の方や障害のある方が怒りっぽくなるのは当然のことだと思います。日常生活の中で神経がピリピリする場面が多いのです。
そうはいっても、さすがにここまでくるとあきらめの境地というか、慌てずにゆっくりと過ごそうと思うようになりました。周りの景色を見ながら、一歩一歩、前進していくだけです。この状態が一時的なものと分かっているからこそかもしれませんが、たまには不自由な生活も必要だと思うのです。ゆっくりとしか歩けない高齢者や障害のある方の気持ちも分かりますし、何よりも人の優しさが身に染みるからです。そして、その不自由な生活はいつか確実に自分にもやってくる未来でもあるからです。
2023年
5月
11日
木
当たり前のことを当たり前に

先月、修了した介護職員初任者研修の2つのクラスで打ち上げが行われ、どちらにも参加させていただきました。クラスメイトたちと喜びを共有したい、親交を深めたいという雰囲気がクラス全体にあるからこそ、「打ち上げをしよう!」となるのでしょうし、ようやく私たちの意識がコロナ騒動から少しずつ解放されつつあるのかもしれません。いずれにしても、当たり前の日常に戻っていくのは素晴らしいことですし、こうして教室の外で卒業生さんたちから生の声を聞く機会が戻ってきたことは嬉しい限りです。
打ち上げの席にて、「毎日、授業が始まる前と終わったあとに挨拶してくれて、それだけで良い学校なのだと思った」と話してくれた卒業生さんがいました。良いところを見つけて、褒めてくれて嬉しかったのですが、私としてはもうかれこれ10年間、こうして挨拶をしてきましたので、当たり前というか日常になっていて、そういう風に見てくれている生徒さんもいるのだと新鮮な気持ちになりました。彼女は他の学校にも見学に行ったことがあり、その上で湘南ケアカレッジに来てくださったのですが、「ケアカレを選んで良かったと思います」とおっしゃってくれました。

誰かにとっての当たり前は、誰かにとっては当たり前ではないという話で思い出したのは、先日、北海道に訪れた行きつけのラーメン屋のことです。ここの味噌ラーメンはいつ食べても美味しく、聞くところによると、毎日、必ず店長さんが汁の味付けを確認してから出しているそうです。私の友人はもう子どもの頃からこのラーメン屋に通っており、昔は瘦せていたというその店長は、今見るとものすごくお腹が出ていました。推定100kg。ラーメンを毎日食べるのは体に良くないのだと思いつつ(笑)、30年間、1日も休むことなく自分で味見をしてラーメンを出し続けてきたからこそ、いつでも美味しい人気のラーメン屋になったのであり、私もこうして通ってしまうのだと感心しました。
なぜ毎日授業が始まる前と終わったあとに生徒さんたちの顔を見て挨拶をするのか、と改めて考えてみると、まずは自分がそうしたいからであり、それぐらいしか私にできることがないからです。いざ授業が始まってしまうと、先生方にお任せする以上、私が直接生徒さんたちに関わることはできません。私が接することができるのは、授業の前後のわずかな時間ということです。その中でできるのは、挨拶をしながらも生徒さんたちの人柄や状態を知ることでしょうか。今日は元気がなさそうだなとか、授業が楽しかったのか良い顔して帰って行ったなとか、現場の空気感を少しでも味わいたいのです。
もちろん、先生方や生徒さんと話すのが楽しいのが第一です。三幸福祉カレッジにいた頃は、1~2教室を担当していたときは生徒さんや先生方と話ができて楽しかったのですが、複数の教室や支社全体を管理するようになってからは、生徒さんたちは教室を通り過ぎていくだけの存在であり、先生方が増えるに従って話す機会も少なくなりました。介護の世界で活躍してきた先生方はもちろん、介護の世界に入ろうと思っている生徒さんたちも心優しく、素敵な人たちばかりです。ひとり一人と直接関わりたいから、私は湘南ケアカレッジを立ち上げて、教室を拡大することなく、毎朝夕立ち続けてきたのだと思います。これからもたくさんの生徒さんたちと出会えることを楽しみにしています。
2023年
5月
04日
木
「The Son/息子」

映画「The Son/息子」を観に銀座まで行ってきました。いつも映画はだいたい新宿か新百合ヶ丘で観るのですが、ちょうど良い時間帯でやっていなくて、銀座まで足を伸ばしました。最近は映画の回転が早く、客足が遅ければすぐ次の映画に切り替わってしまうので、観たい映画はチェックしてなるべく早めに観に行かなければなりません。
前置きが長くなりましたが、映画「The Son/息子」はヒュー・ジャックマン主演×フロリアン・ゼレール監督の作品ということで期待していました。ヒュー・ジャックマンは「レミゼラブル」や「グレイテストショーマン」などで好きな俳優ですし、フロリアン・ゼレール監督は認知症を扱った前作「ファーザー」が素晴らしい出来でした。今回は心に病を抱える(急性うつ病)息子と父親を描いたとても重たい話でした。
妻と離婚し、息子は母親の下で生活している中、自身は再婚して妻との間に子どもが生まれたばかりという主人公ピーターをヒュー・ジャックマンが演じます。タイトルからはもちろん息子ニコラスも主人公のひとりであることに間違いはありませんが、ピーターの父も登場することからも、父から子へ、そしてさらにその子へと受け継がれていく、男系特有のマッチョな価値観と繊細な息子の間で揺れ動くピーターこそが物語の中心です。
個人的には、ピーターの父の「どんなことがあっても乗り越えるんだ!」という強さはいつの時代にも必要だと思いつつ、尊敬する父親と愛する母親の間で何者にもなれずに押しつぶされそうになる息子のナイーブさも理解できます。強さと弱さ、または鈍感さと繊細さと両極に分けてしまえれば話は簡単なのですが、誰しもに同居していて、人間はいつどちらに振れるか分からない生き物です。それは最後の最後に描かれたハッピーエンドのパターンを観ても分かります。境界線はあいまいであり、私たちはどちらの世界に足を踏み入れても不思議はないのです。
考えさせられる作品であることはたしかですが、ひとつだけ苦言を呈するとすれば、精神科医のアドバイスを聞かず息子の言うことを信じたことによって最悪の結果になってしまったケースが描かれていますが、それとは逆のケースもたくさんあると思うのです。究極的にはどの選択が正しいかは誰にも分からないものです。特に人間の精神については医学的に解明されていないことが大半ですから、医療サイドの言うことを聞かなかったからこのようなことになったのだというミスリードが生じないことを願います。
私は恥ずかしながら、親になってみて自分の命の尊さが分かりました。最終的に自分の命をどうするかは自分の責任で決めれば良いのですが、親が生きている間はせめて頑張って生きてもらいたいと願うのです。これは親から子、さらにその子どもたちへと受け継がれていく大切な約束なのです。
「ひとつ やくそく」・糸井重里
おやより さきに しんでは いかん
おやより さきに しんでは いかん
ほかには なんにも いらないけれど
それだけ ひとつ やくそくだ
おやより さきに しんではいかん
2023年
4月
27日
木
祝辞

皆さん、入職おめでとうございます!ようこそ、素晴らしき介護の世界へ。
皆さんがこうして介護の世界に入ってこられたのは、それぞれに何らかの理由があると思います。正直に言うと、私は介護の世界に入ったのはたまたまでしたし、何の理由もありませんでした。仕事がなくてふらふらしていたら、友人からベッドを運ぶアルバイトしないと誘われて、手伝っていたら、そこの学校の偉い人から「村山くん、うちで働かない?」と声をかけられて、他にすることもなかったので入りました。入ってみたら、介護の学校だったのです。
入ってから、今は介護職員初任者研修と呼ばれていますが、当時ホームヘルパー2級講座と呼ばれていた研修を受けました。とても楽しかったです。小中高校では教えてくれなかったことをたくさん学んで、介護の世界が面白いと思うようになりました。興味がわきました。それからずっと介護の教育にたずさわっています。
思い出してみると、私は小さい頃、ひいばあちゃん子でした。私の田舎は岡山なのですが、年末年始や夏休みに帰省すると、真っ先にひいばあちゃんの部屋に行って「帰ったよ!」と挨拶をしました。とても喜んでくれました。ひいばあちゃんは目が見えなかったので、「ター坊、大きくなったなあ」と言いながら、私の顔をこうして触るのです。くすぐったくて仕方なくて、じっと我慢しましたが、何か嬉しかったですね。そしてしわしわの手を握りながら話しました。戦時中の話とか。女学生のとき、竹やりで爆弾を落とす訓練をした時の話なんかは、もう100回以上聞いたのでよく覚えています。
ひいばあちゃんは、私が物心ついたころからもうほぼ寝たきりで、1日の大半をラジオを聞いて過ごしていました。食事のときだけは、起きて、リビングまで一緒に歩いて連れてきて皆で食事をしました。私はひいばあちゃんを連れてくる係でした。たまに躓いたりするので、両手を引いて、私は後ろ向きに歩きました。ゆっくりゆっくり歩くのです。
ひいばあちゃんはお小遣いをくれたり、昔話を聞かせてくれたりして、私は外で遊びたい盛りでしたが、ひいばあちゃんといる時間も大好きでした。優しすぎるぐらいに優しいひいばあちゃんでしたが、ある日、一緒に寝ることになって、私はいたずらをしたくなりました。
寝ているひいばあちゃんの足の指の間にティッシュを入れていくのです。ひとつ、ふたつ、みっつと入れていくうちに、ひいばあちゃんは気づかずに寝ていて、私はおかしくて仕方ありませんでした。ところが、突然、「こらっ!いいかげんにしなさい!」ひいばあちゃんが怒ったのです。私はまさかひいばあちゃんが怒るとは思わなくて、驚いて、そのまま寝たふりをしましたが、心臓がバクバクしてなかなか寝られませんでした。子どものイタズラなので、ひいばあちゃんも本気で怒ったのではないと思いますが、心が痛かったですね。あとにも先にもひいばあちゃんから怒られて唯一の思い出です。ひいばあちゃんは97歳まで生きました。今でもひいばあちゃんのぷよぷよのほっぺが思い出されます。
何が言いたかったかとうと、私は何の理由もなくたまたま介護の世界に入ったと思っていたのですが、実はひいおばあちゃんとの楽しい思い出があったのです。私がひいばあちゃんにしていたことは、今思えば、介護といえば介護の一部でした。皆さんも同じだと思います。今思い当たる人もいれば、思い当たらない人もいるかもしれませんが、絶対に何らかの理由があってここにいるはずです。もし思い当たる人はその理由を大切にしてください。思い当たらない人は仕事をとおして、その理由を見つけてください。その理由は皆さんが困ったときや道に迷ったときに必ず救ってくれるはずです。頑張ってください!
★株式会社リープス様の入社式で話した祝辞を文字起こししました。この春から介護の仕事を始める方々に送ります。
2023年
4月
19日
水
パンの家 セルンtheフォレスト

先日、卒業生さんが多く働いている株式会社リープスの入社式に呼んでいただき、そこで食べたクロワッサンと生ドーナツの味が忘れられず、「パンの家 セルンtheフォレスト」に行ってきました。JR相模原駅からバスに乗って20分。田名バスターミナルのバス停で降りると、歩いて30秒ほどで小さなお店が見えてきます。店内に入ると、美味しそうなパンやお菓子が並べられており、お目当てのクロワッサンと生ドーナツ以外にも目を奪われてしまいました。ひとまずはクロワッサンと生ドーナツ(この日はプレーンが売り切れだったのでチョコ)を買って、天気も良いので、屋外のパラソル席で食べることにしました。
実は私はクロワッサンが大好きで、どこのパン屋に行ってもまずはクロワッサンを食べることにしています。クロワッサンを食べるとそのお店の実力が分かるというか、クロワッサンが美味しいパン屋は他のパンも美味しいものです。入社式で「パンの家 セルンtheフォレスト」のパンを食べたとき、正直に言って、これ以上美味しいクロワッサンを食べたことはないと感じました。4年前にフランスに行ったとき、ハイアットリージェンシーの朝食で出てきたクロワッサンが今まで食べた中でいちばん美味しかったのですが、それと同じぐらい美味しいのです。あのときはフランスで食べているという魔法にもかかっていたこともあるので、それを差し引くと、「パンの家 セルンtheフォレスト」のクロワッサンが一番かもしれません。とにかく層が多くて、パターが豊富で味わい深く、中身が詰まっていて食べ応えがあるのです。

お昼頃に行ったのですが、すでに残り2個しか残っていませんでした。
生ドーナツはもちもちして美味しいです。なぜ生ドーナツなのか分かりませんが、おそらく油を使っていないということなのでしょうか。手で持っても油がつくことなく、食べても油っぽさが全くありません。この日はチョコを食べましたが、個人的にはプレーンの方が生ドーナツらしさを最も味わえると思います。

これまで数々の賞を受賞してきた内藤シェフにも話を聞かせてもらいました。人間と話すよりもパンと話す時間の方が長いと言われているパン職人です。彼からおすすめされた品のひとつに、フランスパンのテロワールピュールがあります。フランスパン専用の小麦粉を使って、加水率90%にして長時間発酵することで、従来の食パンとは異なる食感と旨さを引き出しているそうです。せっかく説明してもらったのですが、加水率が高いとなぜ良いのか残念ながら私には理解できませんでした(笑)。ただ、食べてみると、小麦がしっかりと詰まっている味がしました。本格的というか、これがパンの味なのだと感じます。


このお店のもうひとつの特徴として、就労継続支援のB型でもあるということです。さすがにパンはこだわりの工程があるので手伝うのは難しいそうですが、障害のある方々がクッキーやケーキをつくっています。お店の2階はグループホームになっていて、まさに職住接近ということですね。あまりそういう形で売り出すのではなく、おしゃれな店舗で美味しいパンやケーキをつくってそれを買ってもらうことで、障害のある方々の工賃も上げられることを目指しているそうです。そうした取り組みは今のところ成功していると思います。原材料が高騰している中、大変だと思いますが、このまま味を落とすことなく提供を続けていくと、多くのリピーターが生まれるはずです。私の隣の席で食べていた家族も「美味しい!」と声を上げていました。

パン好きな人はもちろん、お近くに住んでいる方はぜひ店舗に足を運んで、パンを買って食べてみてください。私のおすすめはクロワッサンと生ドーナツ(プレーン)、そして少し値が張るのですがクロワッサン食パンです。


ついついこんなに買って帰ってしまいました(笑)
★「パンの家 セルンtheフォレスト」の公式HPはこちら
2023年
4月
09日
日
先生になりたい

昨年度の初任者研修は10数名から20名ぐらいのクラスが多かったです。ケアカレはもともと36名設定の教室で開校し、満席で授業をしていましたので、あの頃の熱気と比べると寂しい感じもありますが、人数が少ないことにも良い点もあると最近は思うようになりました。人数が限定されていることで、それぞれの生徒さん同士のつながりが強くなるということです。実技を一緒にすることも互いに増えますし、グループワークで話す機会もそれぞれに多くなります。人数が少なすぎても、多くの人たちとかかわるチャンスが少なくなるという意味で良くありませんが、ある程度の人数(10名以上)であれば、お互いがより密接に関係性を築けることにつながるのではないでしょうか。
嬉しいことがひとつありました。授業が終わって、その日、花粉症らしき症状で鼻が詰まって仕方なく、いきつけの耳鼻科に直行し、混んでいたので外で待っていたところ、ちょうど帰りがけの生徒さんにばったり会いました。第一声、「ケアカレに来てほんとうに良かったです」、そして「私、いつかケアカレの先生になりたいと思いました」と言ってくれて、嬉しく思いました。彼女はこれから訪問介護の仕事に入るので、いろいろな経験を積んで、介護福祉士を取って、ケアカレに戻ってきて先生になってもらいたいと伝えました。
私の記憶にある限りですと、こうして先生になりたいと言ってくれたのは彼女で3人目です。そのうちの一人は、今、「介護仕事百景」をとおして卒業生さんたちと介護の現場の橋渡しをしてくれている影山さんです。今、影山さんに「先生にはならないの?」と聞くと、先生方の凄さと大変さを見て知っているからか、首を横に振られてしまいますが、当時はそういう気持ちを抱いてくれたのです。介護をするための研修を受けにきて、先生になりたいと思う感性は素晴らしいですし、視野が広いと思います。
そして、何よりも嬉しいのは、生徒さんが「先生になりたい!」と思ってもらえるということは、先生方がそれだけ輝いていたということです。授業を聞いたり、直接話してみて、憧れというか、尊敬を抱けるような存在であったということです。そうでなければ、自分も同じようになりたいとは思わないはずです。湘南ケアカレッジが開校して10年目となり、先生方も10年教えてくださり、その10年目に「先生になりたい!」と言ってもらえたことは嬉しい限りです。それは10年経っても先生方が輝きを失うことなく、なおも輝き続けていることの他者評価であり、最高の褒め言葉なのですから。
2023年
3月
31日
金
優しさは選択できる

昨年の12月からスタートした日曜日クラスの生徒さんたちが修了しました。最初は物静かなクラスだと思っていましたが、およそ4カ月間じっくりと時間をかけて仲良くなって、最後はほぼ全員が打ち上げに参加するまでになりました。私も打ち上げに顔を出させてもらい、皆さまと話してみて、優しい人たちの集まりだったのだなと感じました。来月から新しい年度が始まりますので、それぞれが新しい道に進みながらも、ときにはケアカレで学んだことや楽しかったことを思い出してくれたら幸いです。
介護職員初任者研修は、最終日に筆記のテストがあります。そして、テストを受け終わった後、希望の方は採点結果(テストの合否)をお知らせすることができます。ほとんどの生徒さんは結果を聞いて帰りたいと希望されるので、研修終了後に少し待っていただき、お一人ひとりを教室の後ろにお呼びして合否をお伝えすることになります。合格だと分かると本人も喜んでくれるので、結果が他の生徒さんたちにもなんとなく伝わります。
そのとき、クラスによって少しずつ反応が違って面白いです。「良かったねー!」「おめでとう!」と声を掛け合うクラスや拍手をして出迎えるクラス、あまり騒いではいけないと思うのか比較的静かに待っているクラスなど様々です。自分のことを心配しながらも、他者の合格も一緒になって喜べることは素晴らしいと思います。クラス全員で一緒に合格しようという関係性になっているということでもあります。
ところが、ときとして問題が生じることがあります。それは万が一、合格ラインに達しなかった生徒さんがいた場合にどうするかということです。学校としては、その場で不合格を言い渡すのは心苦しいのですが、本人が希望されたことですから仕方ありません。もう一度勉強して、すぐに再テストを受けに来てくだされば、次は間違いなく合格するのですが。もし誰かが不合格だった場合、本人はチーンとなってしまいますし、周りもシーンとなってしまうのが普通です。
実は、今回もひとり、外国人の方がわずかに点数が及ばず、再テストになってしまいました。そのとき、今回のクラスはそれでも拍手をして迎えてあげたのです。とても珍しい光景でした。「頑張ったね」と声をかけている生徒さんもいました。それで良いと思うのです。外国の言語で授業を受け、一緒に学び、テストに臨んで1回で合格ラインに近づくだけでも本来はすごいことです。合否はたまたま線を引いたものであって、本人の頑張りは十分に称賛に値します。彼は打ち上げにも参加して、楽しんでいて安心しました。
優しさとはそういうことだと私は思います。難しく言うと、世間で決められている成否(良い悪い)というラインに縛られることなく、多様性を認めつつ、相手の立場に立って考えて行動できることです。真面目で潔癖で、こうあるべきという想いの強い人がときとして他者に対して優しくないのは、他者への寛容さを失ってしまうからです。
たとえば、ハンセン(らい)病の人たちを家族から引き離して、消毒し、隔離したのは真面目で潔癖な人たちでした。今となっては、らい菌の人から人への感染性は皆無に等しいことが分かっています(栄養状態の悪さが主たる原因となって発症する病気です)。話がずいぶん逸れてしまいましたが(笑)、つまり、ほんとうに優しくあるためには、周りの空気に飲まれることなく、こうだと決めつけすぎず、思考が柔軟であり、また勇気がなければいけません。優しさは自ら選択することができるのです。そんな優しさを失わずに、卒業生の皆さまにはこれからも頑張ってもらいたいと心から願います。
2023年
3月
24日
金
「すべてうまくいきますように」

安楽死をテーマにしたフランス映画ということで、劇場に観に行ってきました。いかにもフランス映画という淡々としたテンポで進み、途中で睡魔に襲われたりもしましたが(笑)、後半から物語が展開して核心に迫っていくところはさすがでした。こういった題材を扱う映画は、どうしても主義主張というか、どちらが正しくてどちらが正しくないという見方が映し出されてしまいますが、この映画はかなりフラットに描写されています。ただそこで起こったことをそのまま描いているだけで、最終的にどう考えるかは鑑賞者に任せるというスタンスです。それでもあえて言うならば、(ネタバレになりそうですが)安楽死はすべてうまくいったのですが、果たしてそれで良かったのでしょうか?という問題提起だと捉えることができますね。
実はこの映画の原題は、「Everything Went Fine」、そのまま訳すと「すべてはうまくいった」なのですが、日本のタイトルは「すべてうまくいきますように」となっています。似ているようで全く違う意味になってしまうのに、なぜこのような意訳をしてしまったのか考えてみると、おそらくは「すべてはうまくいった」ですと結末が分かってしまう(事実上の安楽死は成功する)からではないでしょうか。タイトルからすでにネタバレになってしまうのを避けたかったのだと思うのですが、この映画の主旨は「うまくいくか」「うまくいかないか」にはないと私は思うのです。個人的には、下手な小細工をせず、「すべてはうまくいった」で良かったのです。
それはさておき、安楽死について考えさせられる映画であったことはたしかです。小説家のエマニュエルの父が脳卒中で倒れ、左半身の自由が利かなくなったことで安楽死を望むようになります。フランスでは安楽死は違法なので、隣国のスイスに渡ってから実行に及ぶことになります。父は左半身は動かず、車いすで生活を強いられているのですが、寝たきりという状態ではなく、話すことも自分で食べることもできます。孫の演奏会を聴きに行ったりすることもできます。ですから、安楽死というよりは、尊厳死に近いのではないでしょうか。父の言葉に何度も出てくる「このような姿では生きていたくない」ということです。
この尊厳死の対極にあるのが、延命だと私は考えます。本来の人間という生物の寿命を超えて、医療や科学の発達によって、命を長らえさせることが延命です。本人の意思があるかないかによって延命の是非は違ってくると思いますが、いずれにしても尊厳死と延命は正反対のベクトルを向いているのです。

私はどちらかというと尊厳死については賛成、本人の意思のない延命については反対の考えでしたが、この映画を観てみるとそんなに単純なことではないことも分かります。日本では選択の自由がないという意味で、尊厳死も認められるべきだとは思いますが、認められたら認められたでより問題は難しくなるでしょうし、実際に尊厳死を選ぶ人は少ないのではないでしょうか。それはこの映画に何度も登場するように、「人生は美しい」からです。

尊厳死でも延命でもない、その中間あたりにあるはずの自然死が理想であると私は思います。中間地点よりも前でも後でも、それは人間のエゴなのです。前は自分のエゴであり、後ろは医療者や介護者、家族のエゴです。自ら命を絶つのではなく、最後まで生きようとして、その中で人生の美しさを味わい、自然な形で死んでいく。それを少しだけサポートするのが、家族であり、介護であり医療なのではないでしょうか。
2023年
3月
15日
水
生徒さんたちの声から

12月からスタートした実務者研修が終わりを迎え、介護職員初任者研修も2月短期クラスが無事に修了しました。2月短期クラスの生徒さんたちからは色紙までいただきました。ありがとうございます!
介護職員初任者研修は最終日にアンケートを書いてもらい、実務者研修は授業ごとにリアクションペーパーという形でフィードバックしてもらっています。どちらにも研修を通して学んだことや感じたことが素直に書かれていて、読んでいて嬉しくなりますし、ときとして感動してしまいます。私でさえそうなのだから、直接教えてくれている先生方はより強く感じるものがあるだろうなと思います。生徒さんたちの声から改めて学んだり、気づかされたり、励まされたりすることも多いのです。
初任者研修の生徒さんたちは、介護について全く知らない白紙の状態で来てくれている方がほとんどですから、良くも悪くも、学校次第で彼ら彼女たちの介護観は変わります。そういう意味でも、湘南ケアカレッジは介護職員初任者研修を最も大切な研修として位置付けていますし、介護の現場に出る全ての人たちに当校の初任者研修を受けてもらいたいと思っています(現実的には難しいことは承知ですが)。初任者研修の卒業生さんが介護に対してどのようなことを感じてくれたのか、イメージがどう変わったのか、私たちはその声を聞くことで安心します。たとえば、こんな声をいただきました。
「介護を通していろいろなことを学ばせてもらいました。特に両親が高齢のため、これからの生活における関わり方、接し方を学び考えさせていただいたことに感謝します。また、久しぶりに学校という環境に身を置くことで、一緒に過ごす仲間との絆を思い出させてくれました。ありがとうございます」
「何年かぶりの学生生活を経験し、通学していた学校よりもケアカレの方が楽しく、集中でき、有意義な内容と素敵な出会いがあった気がします。私が想像していたよりも遥かに奥深く、「究極の接客業」であり、大切な仕事のひとつであり、面白く興味深い「介護」を知ることができました。とても感謝しています」
実務者研修の生徒さんたちは、介護の現場で働きながら学びに来てくれている方がほとんどですから、研修を通して学んだことを今の現場でどう生かすかが大切です。さらに言うと、今まで自分がやってきた介護が正しかったのかどうかを確認し、できていた部分は伸ばし、足りていなかった部分は改善することも目的のひとつです。そして何よりも、今の現場では誰にも褒め、認めてもらえていないけれど、十分に良くできているし、頑張っていることを褒め・認めてもらえて、自信を取り戻す場でもあると思います。学校だからこそ、私たちは素直に良いものは良いとお伝えすることができるのです。
実務者研修の生徒さんからは、こんな声をいただきました。
「全体を通していちばん感じたのは、今までより何倍も介護の仕事にやりがいを感じられるようになったことです。特養では自分の思うようにどうしてもならないことがたくさんあります。その中でも、ここはこうしてあげれば良かったかな、こんな対応をしているけど本来はもっと利用者の意志を尊重してあげるべきだよなと感じていましたが、今回の授業を通して、自分はこれで良かったんだなと再確認することがたくさんあって、以前よりも自信を持てるようになりました」
「初任者研修が1年前とは思えないほど時間の速さを感じています。訪問介護の仕事にも慣れが出てしまった時期でもあったので、今回の実務者研修は良いタイミングで受講できたと思います。昨年11月にケアカレ卒業の方が入社し、今一緒に仕事をしています。「介護は難しいですね」と話しています。実務者研修を通して、「介護は楽しい」と少しでも感じることができました。職場の方々とも「楽しい職場」にしようと話し合えるよう、自分が変わっていきます!」
上の2人はどちらもケアカレの初任者研修の卒業生さんです。ひとりは初任者研修を卒業してから5年以上経ってから実務者研修を受けに来てくれました。もうひとりは1年ぶりです。初任者研修から実務者研修の間が開いてしまっても、そうでなくても、初任者研修で方向性が間違っていないからこそ、実務者研修で自分たちの仕事が正しかったことを再確認することができるのでしょう。介護の世界に一歩を踏み入れた生徒さんたちにも、介護の現場で働く生徒さんたちにも、私たちは同じことをブレずに伝えていければと思います。そんな役割を学校として、また先生として担えることに幸せを感じながら。
2023年
3月
02日
木
「認知症介護の話をしよう」

卒業生の岩佐まりさんによる2冊目の本が出版されました。介護職員初任者研修を修了したその日に、「こんな本を出したので読んでみてください」と言われ、手渡されたのが前著「若年性アルツハイマーの母と生きる」でした。あれから8年の歳月が流れ、彼女が経験したことや考えたこと、学んだこと、取り組んできたことの全てが凝縮されているのが、この「認知症介護の話をしよう」です。在宅介護のノウハウが詰まっていて、今、在宅介護に悩んでいる人はもちろん、これから在宅介護を始めようとしている人たちにも絶対に読んでもらいたい内容です。知っているだけで救われること間違いありません。
本の構成としては、認知症になった家族と生きる10人の介護者たちのケースが紹介され、その後に岩佐さんが的確な解説を添えています。家族や介護者の形は十人十色であり、それぞれの悩みや問題があることが分かりますし、岩佐さんのアドバイスもさすがですね。共倒れにならないように、抱え込まず他人に相談しSOSを出すこと。ケアマネジャーと相性が合わない場合は変更してもらうこと。延命についてどう考えるか。自分の人生を生きること。情報収集をすること。介護者は幸せになるべき、などなど。自身の経験からだけではなく、介護職員初任者研修や社会福祉士になるために学んだことが融合して、実に味わい深く、崇高なメッセージになっています。
介護職員初任者研修のクラスメイトであった村木さんの話も紹介されていて、私も本人から何となくは聞いていましたが、そうだったのかと改めて知った次第です。その中に、岩佐さんと彼女の出会いのきっかけとして、介護職員初任者研修の授業内のことが描写されてありました。
今でもよく覚えているのですが、彼女とはじめて会った介護職員初任者研修の初日に、講師の先生が一人ひとりに「介護のイメージとは?」と聞いたんです。
私は、「愛です」と答えたわけですが、私の次に差されたのが彼女でした。その彼女の答えが実にユニークで、彼女はなんと「汚い」と言ったんですね。
今なら彼女がそう答えた理由は分かりますが、当時の私はびっくりして、彼女に興味を持ちました。それが友人になったきっかけです。(P51)
8年も前のことですが、私もあのクラスのことは今でも新鮮に思い出せるから不思議です。人数が比較的少ないクラスだったのも理由のひとつかもしれませんが、研修が終わった後に飲み会にも参加させてもらって、それぞれの個性的な人生の歩みを教えてもらった楽しい思い出があります。そういえば、あのクラスからいただいたアルバムは壁に飾ることができなくて困ったなあ(笑)。
個人的には、お母さんを背負って生きたことで、彼女は人間として大きく成長したのだと感じました。ケアカレに来た当時はまだ若いところもあったと思いますが、この8年間で私たちの想像のつかないぐらい大きくなったのだと、この本を読んで驚かされました。人間って、こんなにも成長するのですね。全くと言ってよいほど成長していない自分が嫌になるほどです。彼女の場合はたまたまお母さんの介護であっただけで、背負うものは何でも良いのだと思います。仕事でも、子育てでも、趣味でも、自分がこれだと心に決めて、一生懸命に取り組むことで人間は成長するのですね。「認知症介護の話をしよう」はケアカレ図書館にありますので、ぜひ読んでみてください!
2023年
2月
23日
木
小野寺先生出版記念! 「介護技術のキホン講座」を開催します!

小野寺先生が執筆・監修の「介護技術のキホン これだけは押さえたいポイント100」(おはよう21増刊号)が、中央法規出版より3月20日(月)に発売されます!介護と教育の現場において、小野寺先生が20年以上かけて培ってきた技術と知識を盛り込んだ内容になっています。
出版記念として、湘南ケアカレッジにて、「介護技術のキホン講座」を開催します。小野寺先生の著書をテキストとして、排せつ(オムツ)や衣服の着脱、食事、入浴、移動・移乗等を中心として、基本的な介護技術を学び直す、実践的な講座です。実際に体を使って身につけていただきたいと思います。この講座を通して、より楽に、より効率よく介護ができるようになることが狙いです。それによって、私たちの心と時間に余裕が生まれることを願います。

対象者
→現場の最前線で働いていて、仕事が忙しすぎて困っている中堅スタッフ
→自己流になっているので、もう一度、介護技術を基本から学び直したいベテラン職員
→これから介護の仕事をする前に、基本スキルを固めておきたい新人職員
*受講資格は特にありません。どのような経験をお持ちの方に受けていただいても、学びがある内容になっております。
■日程:2023年4月8日(土)もしくは4月15日(土)のいずれか1日
■時間帯:9:30~16:30(お昼休憩1時間含む)
■場所:湘南ケアカレッジ 町田教室
■定員:24名
■受講料:8,000円(税込み・本の代金含む)
*本は当日お配りしますので、事前に購入しないようお願いします!
以下のフォームよりお申込みください。
2023年
2月
14日
火
あれから2年

およそ2年前に介護職員初任者研修を修了した卒業生さんが、お土産をたくさん携えて教室に顔を出してくれました。彼女は今、埼玉県にある施設で働いており、今年ちょうど成人式を迎えるとこのことで、こちらの実家に戻ってきたそうです。彼女がケアカレに来てくれたのは高校3年生のときでした。卒業後は介護の現場に出ることを選択したものの、高齢者介護が良いのか、それとも障害者支援かと悩んでいたので、相談に乗らせてもらったことを覚えています。最終的には、彼女は自分で選択をして高齢者介護の道に進んだのですが、こうして2年間続けてこられたということは、その選択は間違っていなかったということでしょう。先輩たちに優しく見守られて、頑張っているようです。
それでも、「何か悩みはある?」と聞くと、「自分が夜勤のとき、ナースコールが頻回に鳴ったり、認知症の方々が寝られずに動き回ったりして大変です」と返ってきました。先日はついに利用者さんのひとりが転倒してしまって、幸い大事には至らなかったようですが、何もできなかった自分を責める気持ちも出てきているようでした。先輩たちにもそのことを相談してみているようですが、「仕方ないよ」とは言ってくれるものの、具体的な改善には至っていないそうです。夜勤は月に4回とそれほど多くはないようですが、今の彼女にとっては、25名の利用者さんを自分ひとりで見守る夜勤が怖い、というのが正直なところだそうです。
詳しい状況までは分からないのですが、ナースコールが頻回であることと、認知症の方々が徘徊してしまうことの2つは切り分けて考えた方が良いと思いました。自分の夜勤のときだけナースコールが良く鳴るのは、ヒアリングしていくと、彼女は新人であるがゆえに、利用者さんからすると小さいことでも頼みやすい職員のようです。先輩たちが夜勤に入ったときは、ちょっとした仕草で頼みづらいなと思わせたり、後回しにされてしまったりして、ナースコールを鳴らすのを控えるのに対し、彼女が夜勤に入ったときはちょっとしたことでも呼んでしまうのではないでしょうか。だからこそ、先輩が夜勤のときはナースコールはほとんど鳴らないのに、彼女のときは忙しすぎるぐらい鳴るということです。
それ自体は悪いことではないと私は思うのです。私が子どもの教育にたずさわっていたとき、親切で楽しい先生ほど生徒から人気がありますので忙しくなりますが、対応が悪かったり愛想がない先生ほど周りに子どもたちは少なく、仕事も楽になります。対人援助職において忙しいということは、コミュニケーションの量が多いということです。もちろん、ナースコールが鳴る前に先回りして準備しておいたり、ある程度の優先順位をつけて対応したりという工夫は必要ですが、基本的に利用者さんから頼られなくなったら、その仕事は終わりです。頼られているうちが華なのですから。
認知症の方が動き回るのは、あらゆる可能性が考えられるので、もっと客観的に考えてみるべきだと伝えました。自分のときだけ徘徊が多いと思っていること自体が思い込みであるかもしれませんし、自分が夜勤に入るときに動き回って大変な事態になるかもしれないと不安に思えば思うほど、その不安が利用者さんたちに伝わってしまい、利用者さんたちが不穏になり、歩き回ってしまうのかもしれません。また、自分が夜勤に入る前のケアが適切でなければ、お腹が空いていたり、トイレに行きたかったりして夜に寝ないということもあり得ます。目の前の現象に反応するだけでは、何の根本的解決にもならないので、まずは冷静に俯瞰的に問題を見てみることが大事ですよね。
あれから2年が経って、自分の進路に不安を抱えていた彼女から介護の現場の深い話が聞けるようになるとは不思議なものです。念願のひとり暮らしも始めたそうで、彼女の人生は大きく変わったように思えました。最近、自分の人生がほとんど変わらなくて悶々としていましたが、卒業生さんの成長と変化を感じられて、とても嬉しく思いました。来年は介護福祉士に合格して遊びにきてくれることを楽しみにしています。
2023年
2月
03日
金
自己と他者の境界線は消えてゆく

1月短期クラスが修了しました。2023年が明けたと思ったら、もう1つのクラスが終わりを迎えてしまいました。とても仲の良いクラスで、もうこれでお別れになってしまうのは惜しい気持ちで一杯ですが、それぞれの道に進んで頑張ってもらいたいと願います。15日間というわずかな期間とはいえ、年齢も性別も超えて、他者とこれだけの密度と濃度でつながることができるとは、本人たちも思ってはいなかったのではないでしょうか。それこそが介護職員初任者研修の魅力のひとつであり、湘南ケアカレッジの良さでもあります。先生方の素晴らしさを始めとした学校全体の雰囲気がそうさせているのだと思います。
1月短期クラスには、足が不自由な生徒さんがいました。卒業生さんの知り合いでしたので、事前に「受講できますか?」と聞かれましたが、ふたつ返事で「大丈夫ですよ」とお答えしました。かつては左腕を切断してしまった生徒さんや聴覚障害のある生徒さん、ストマをつけながら参加してくれた生徒さんなど、たくさんの障害のある生徒さんたちがいました。それぞれにできることを頑張って取り組んでくれて、周りの生徒さんたちのサポートもありながら、無事に卒業しました。ただひとつ障害があって、当校は教室が4階にあるのにビル自体にエレベーターがないのですが、彼は朝イチで来て、ゆっくり階段を登ってきてくれました。介護の学校として、バリアフリーについて教えながら、バリアフリーになっておらず大変申し訳なく思います。
1月短期クラスのつながりが深かったのは、彼がいたからとも思えます。彼の人間性も素晴らしかったですし、周りのクラスメイトさんたちも素晴らしかった。自分には簡単にできても、他者にとってはできないことがある。自分にとっては当たり前のことでも、相手にとっては当たり前ではないこともある。私たちは障害のある人と共に過ごすことで、できることとできないことがあり、当たり前が当たり前ではないことを知るのです。そして、次第にそのことが当たり前になり、今度は自分にはできなくて、他者はできることがあることに気づき始めます。目に見えて分かりやすいかどうかの差であって、自分にもできないことは実はたくさんあって、周りの人たちが補ったり支えたりしてくれているということです。そうやって凸と凹を組み合わせながら私たちは他者と生きているのであり、それを体感することで自己と他者の境界線は消えてゆくのです。
難しく書いてしまいましたが、私たちは助けているようで助けられている、支えているようで支えられているということです。できることとできないことがあり、それを他者と組み合わせながら生きているのです。自分は何でもできると思ったら大間違いであり、たとえ今はできることの方が多かったとしても、老いていくにつれてできないことの方が多くなったりします。そうなったとき初めて他者と生きることを知る人もいるかもしれませんが、1月短期クラスの生徒さんたちはすでに他者と生きることを学んだのではないでしょうか。凸凹を組み合わせているうちに、自分と他者が融合してひとつになっていく感覚を、彼がいてくれたおかげで学ぶことができたのです。
2023年
1月
22日
日
アラスカへと続く道

卒業生であり、「リタイア、そしてアラスカ」の著者でもある井上さんが、教室に遊びにきてくれました。日本に戻ってきて、介護について学び、残された人生はトラベルヘルパーのような仕事をしてみたいそうです。きっかけは、利用者さんたちを送迎する仕事をしてみて、自分は高齢の方々とお話をするのが好きだと思ったこと、あまり口には出さなくても高齢の人は自分にとっての思い出の場所に行ってみたいという気持ちがあり、それを叶えたいからとのこと。高齢の方々は昔話をするだけでも嬉しそうですが、実際に懐かしい場所を訪れることができれば最高ですよね。
たしかに2019年まではトラベルヘルパー的な業種は盛り上がりを見せていました。介護保険外のサービスとして、ドライバーと介護者が同伴することで、行きたい場所に行くことができる。それは自宅から病院への送り迎えといった日常のニーズ(必要性)ではなく、遠くまで旅をしたいという非日常のニーズです。国際福祉機器展などでも、そうしたニーズに応えるサービスが発表されたりしていました。私もとても面白いサービスであり、この先、広がりを見せるのではと期待したものです。
ところが、コロナ騒動が始まって以来、不要不急のトラベル的なものは影も形もなくなってしまいました。残されたのは自宅から病院への送迎という日常業務のみ。今でこそ全国旅行支援などで観光業は盛り上がっていますが、利用しているのは健康な高齢者のみ。トラベルヘルパーが対象にしていたような、日常生活の中で介護や医療が必要な高齢者はいまだに自宅もしくは施設に閉じ込められているのが現状です。もし旅行なんかして、何かあったらどうするの?家族はそう言って反対するはずです。
もうここまでくると感染症うんぬんの話ではなく、ゼロリスク信仰や死生観の問題ですね。日本は死ななければ良い、ただ生きているだけで良いという社会なのです。以前からそうであったし、コロナ騒動をきっかけに、その傾向は加速したのだと思います。そうした社会に生きるということは、いつか私たちが高齢者になったときにも、私たちもただ生きていることを推奨されるはずです。こうしたいという願いはすべて、危ないからという理由で却下されて、叶えられることはないでしょう。そんな社会に生きたいですか?
私の夢のひとつに、オーロラを見たいというものがあります。アラスカではなくても、オーロラが見られたらどこでも良いのです。20代の頃からオーロラが見たいと思ってもう20年以上が経ってしまいました。卒業生の井上さんも、「あのときアラスカに行っておいて良かった」とおっしゃっていましたが、思ったときが吉日なのです。未来はありそうでないものです。今こうしたいと思うことは今やらなければいけない。井上さんからいただいたアラスカへと続く一本道を見ると、思い煩うことなく、心のままに進めという声が聞こえてくる気がして仕方ありません。井上さんの新しいチャレンジも応援しています!
2023年
1月
13日
金
最も大切なものは自由

日本のマスコミではあまり大きく報じられませんでしたが、昨年11月末から12月頭にかけて、ゼロコロナ政策に対してのデモが中国全土で起こりました。毎日のようにPCR検査をさせられ、ひとりでも陽性者が出るとその区域は即座にロックダウンとなり、下手をするとその時その場にいた人たちと数週間も共同生活を強いられることもざらにあったそうです。自分のマンションの部屋にいれたとしても、外に出られないように外から鍵をかけられたり、入口を封鎖されたりして閉じ込められる。いつ解放されるか分からない中、気を病んだり、絶望してマンションから飛び降りたりする人も多くいました。もうすでにこの3年間にわたり、私たちにはとても想像できないレベルで、国家による市民の軟禁や行動制限が公然と行われてきたのです。
他人事のように思う人もいるかもしれませんが、公衆衛生の名の下に国家が民衆の行動を制限しようとする流れは、どこの国々においても、大小の差こそあれ、形を変えて、コロナ騒動以降ずっとありました。中国は分かりやすい形であり、日本はマイルドなので気づきにくいだけですが、私たちの生活は3年前と比べて大きく変わってしまっているはずです。人込みを避けて遠出をするのを控えたり、友人知人と会わなくなったり、飲み会はもちろん外食もほとんどしなくなった人は意外と多いはずです。ワールドカップは大丈夫なのに、日本国内のスポーツ観戦は屋外にもかかわらずマスクを着用・声出し禁止という行動制限がまかりとおっています。介護の現場においても、なぜか家族は面会ができなくなってしまったり、利用者の外出の機会もほぼ失われてしまいました。まずは社会的弱者から、自由は奪われていくものです。
そうした大きな行動制限から、鈍感に過ごしていると気づかないような小さな制限まで、私たちの自由は少しずつ失われつつあるのです。今だけ、少しの辛抱だと思っている人もいるかもしれませんが、もう4年目を迎えようとしていますよ。小さなところから抵抗しないと、この流れは今後加速していく可能性が高いです。人類の歴史は、自由を獲得するための闘いと言っても過言ではないのですが、ようやく手に入れて、ここ数十年の間、謳歌してきた自由を私たちは手放そうとしているのです。大げさだと思われるかもしれませんが、数年後の日本を見てから思い出してもらえれば、私の伝えたかったことが分かるはずです。
これからの世界で最も大切なものは自由になると思います。お金はたくさん持っていても、自由がないという人も増えるでしょうし、自由がなければ人間らしい生き方はできないことに多くの人が気づき始めるのではないでしょうか。自由を手に入れるのは難しく、手放すのは一瞬であり、気づいたときには時すでに遅し。失って初めて、当たり前にあった自由の大切さに気づくはずです。そして、お金でも名誉でも地位でもなく、人間が人間として生きるためには自由が必要であり、自由を切望するようになります。信教の自由、学問の自由、思想の自由、言論の自由、集会の自由、結社の自由、職業選択の自由、居住・移転の自由など、お金を払っても自由を得られない時代が来るかもしれません。そんな時代に備えて、私たちは自分にとって最低限の自由を得られる準備をしておかなければならないのです。
2023年
1月
06日
金
私の大好きな映画たち

私は学生の頃から映画が好きで、劇場で公開されている映画はほとんど観ていたような時期がありました。社会人になって仕事を始めて忙しくなってからは、音楽はあまり聴かなくなって2000年ぐらいで時が止まっているのですが…、映画だけはあくまでも趣味としてコンスタントに見続けてきました。
ところが最近は、新作映画に面白いものが少なくなり(ネットフリックスにお金や人材が流れている影響もあると思います)、映画館に足を運ぶことがほとんどなくなってしまいました。そこで昔の映画を見返したりしているのですが、改めて観るとその当時は気が付かなかった良いセリフや名場面などがあり、やっぱり映画って素晴らしいなあと感じています。
せっかくなので、アラフィフになり、人生の折り返し地点を迎えた私の大好きな映画を10作品に絞って紹介してみたいと思います(解説欄はYahoo映画より引用)。もし面白そうだなと思った映画があれば、ぜひご覧になってみてください!

■LIFE!/ライフ
人生とは何かを教えてくれた映画です。映画の中に登場する雑誌「TIME」の標語は私のパソコンの壁紙になっています。
解説:凡庸で空想癖のある主人公が未知なる土地への旅を経て変化していくさまを、ベン・スティラー監督・主演で描くヒューマンドラマ。夢を諦め、写真雑誌の写真管理部で働く地味な中年男性が、ひょんなことからニューヨークをたち世界中を巡る旅を繰り広げる様子をファンタジックに映し出す。物語の鍵を握るカメラマン役で『ミルク』などのショーン・ペン、主人公の母親役で『愛と追憶の日々』などのシャーリー・マクレーンが共演。壮大なビジュアルや、主人公のたどる奇跡のような旅と人生に目頭が熱くなる。

■レイニーデイ・イン・ニューヨーク
映画の中ではずっと雨が降っています。この映画を観るまでは雨が嫌いでしたが、今は雨の日も素晴らしいと思えます。
解説:マンハッタンが舞台のロマンチックコメディー。甘いひとときを過ごそうとする若いカップルに、次から次へと思わぬ事態が巻き起こる。監督と脚本を務めるのは『女と男の観覧車』などのウディ・アレン。『君の名前で僕を呼んで』などのティモシー・シャラメ、『マレフィセント』シリーズなどのエル・ファニング、『ゲッタウェイ スーパースネーク』などのセレーナ・ゴメスのほか、ジュード・ロウ、ディエゴ・ルナらが出演する。

■メッセージ
未来を知っていたとしても、あなたはその選択をするのかと問われます。原作は映画よりも面白いです。
解説:テッド・チャンの短編小説「あなたの人生の物語」を基にしたSFドラマ。球体型宇宙船で地球に飛来した知的生命体との対話に挑む、女性言語学者の姿を見つめる。メガホンを取るのは、『ボーダーライン』などのドゥニ・ヴィルヌーヴ。『ザ・マスター』などのエイミー・アダムス、『アベンジャーズ』シリーズなどのジェレミー・レナー、『ラストキング・オブ・スコットランド』などのフォレスト・ウィテカーらが結集する。

■アバウト・タイム ~愛おしい時間について~
かけがえのない今という時間の大切さ、今を楽しむことを教えてくれます。映画の中の全てのシーンが美しく、愛おしいです。
解説:タイムトラベルの能力を持つ家系に生まれた青年が意中の女性との関係を進展させようと奮闘する中で、愛や幸せの本当の意味に気付くヒューマンコメディー。『ラブ・アクチュアリー』などで知られるラブコメに定評のあるリチャード・カーティス監督が、恋人や友人、家族と育む何げない日常の大切さを描く。『ハリー・ポッター』シリーズなどのドーナル・グリーソンを主演に、『きみに読む物語』などのレイチェル・マクアダムス、『ラブ・アクチュアリー』にも出演したビル・ナイらが共演。

■インターステラー
未来から時空を超えて子どもたちを救おうとする主人公に共感します。とにかく世界観が壮大すぎて圧倒されます。
解説:『ダークナイト』シリーズや『インセプション』などのクリストファー・ノーラン監督が放つSFドラマ。食糧不足や環境の変化によって人類滅亡が迫る中、それを回避するミッションに挑む男の姿を見つめていく。主演を務める『ダラス・バイヤーズクラブ』などのマシュー・マコノヒーを筆頭に、『レ・ミゼラブル』などのアン・ハサウェイ、『ゼロ・ダーク・サーティ』などのジェシカ・チャステインら演技派スターが結集する。深遠なテーマをはらんだ物語に加え、最先端VFXで壮大かつリアルに創造された宇宙空間の描写にも圧倒される。

■きっと、うまくいく
面白いインド映画の中でも最も面白かったです。現代社会を生きる若者の苦悩は、どこの国でも同じなのですね。
解説:インドで製作された、真の友情や幸せな生き方や競争社会への風刺を描いたヒューマン・ストーリー。入学したインドのエリート大学で友人たちと青春を謳歌(おうか)していた主人公が突然姿を消した謎と理由を、10年という年月を交錯させながら解き明かしていく。主演は、ボリウッド映画の大スターであるアーミル・カーン。『ラ・ワン』のカリーナー・カプールがヒロインを務める。抱腹絶倒のユーモアとストレートな感動を味わうことができる。

■ラ・ラ・ランド
娯楽作品でありながらも、音楽良し、ストーリー良し、映像良しの3拍子揃った珍しい映画です。最後の結末も心にしみます。
解説:『セッション』などのデイミアン・チャゼルが監督と脚本を務めたラブストーリー。女優の卵とジャズピアニストの恋のてん末を、華麗な音楽とダンスで表現する。『ブルーバレンタイン』などのライアン・ゴズリングと『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』などのエマ・ストーンをはじめ、『セッション』でチャゼル監督とタッグを組んで鬼教師を怪演したJ・K・シモンズが出演。クラシカルかつロマンチックな物語にうっとりする。

■シェフ 三ツ星フードトラック始めました
とにかくワクワクさせてくれる映画。自分も何かやってみようと思えてくるから不思議です。
解説:『アイアンマン』シリーズなどの監督で俳優のジョン・ファヴローがメガホンを取り、究極のサンドイッチを売る旅をする元一流レストランのシェフを演じるドラマ。店を辞め、偶然キューバサンドイッチと出会ったシェフが、フードトラックでサンドイッチを売りながら人生を取り戻していくプロセスを映す。共演には、ダスティン・ホフマン、ロバート・ダウニー・Jr、スカーレット・ヨハンソンといった豪華キャストが集結。人生と料理をテーマにした温かいストーリーに、爽快な感動を味わえる。

■ジョー・ブラックをよろしく
死というテーマを美しく、切なく、ユーモアを散りばめながら表現しています。この頃のブラッド・ピットは最高にかっこいいです。
解説:ブラッド・ピットが地上に降り立ち人間の女性との恋に落ちる死神に扮したロマンティックなファンタジー。事故死した青年の姿を借りて、一人の死神がマンハッタンに現れた。ジョー・ブラックと名乗るその人物は大富豪パリッシュの元を訪れる。彼の死期が近いためであった。だがパリッシュが天命を全うするまでにはまだ少しの時間が残されている。死神ことジョー・ブラックはそれまでの短い間を休暇とし、パリッシュの案内で人間界の見学を始めた。しかしパリッシュの娘スーザンはジョーの姿に驚く。彼の姿は先日出会った魅力的な男性その人であったのだ。そしてジョーもスーザンの好意を気にかけるようになっていく……。

■あん
樹木希林の演技と美しい映像が、物語の残酷さと対照的です。この映画を観て、初めてハンセン病に興味を持ちました。
『殯(もがり)の森』などの河瀬直美が樹木希林を主演に迎え、元ハンセン病患者の老女が尊厳を失わず生きようとする姿を丁寧に紡ぐ人間ドラマ。樹木が演じるおいしい粒あんを作る謎多き女性と、どら焼き店の店主や店を訪れる女子中学生の人間模様が描かれる。原作は、詩人や作家、ミュージシャンとして活動するドリアン助川。映像作品で常に観客を魅了する樹木の円熟した演技に期待が高まる。
2023年
1月
01日
日
自分が引き受けることで

あけましておめでとうございます。昨年中もたくさんの生徒さんたちに来ていただき、先生方も素晴らしい授業をしてくれて、10周年にしてもブレることなく、「世界観が変わる福祉教育」を提供できたと思います。先生方と卒業生さんたちに感謝します。今年も大きなチャレンジはできないかもしれませんが、少しずつ変化しながら、生徒さんたちや先生方といった身近にいる人たちを大切にする学校であり続けたいですね。個人的には、昨年は少しさぼりモードというか楽をしてしまったので、今年は目標を決めて頑張ってみたいと思います。残り少ない人生ですから、今やれることは今やっておきたいものです。
年末年始は3年ぶりに実家の岡山に帰省しました。久しぶりに妹の子どもたち三姉妹に会っておかなければと思ったからです(両親とは祖母の三回忌で10月ぐらいに会っています)。長いこと会っていないと、子どもはあっという間に成長しますし、そもそも彼女たちが何歳なのか分からなくなっていました。直接聞いてみると、上から9歳、7歳、4歳とのこと。長女と次女はあまり大きくなった印象はないのですが、三女と前に会ったときは赤ん坊だったような気がして、その成長に驚かされました。かくれんぼうをしたり、ケーキ屋さんのお客さんをやらされたり、カルタ取りの札読みをやらされたり、たくさん遊びました。
3人も小さい子たちがいると、入れ代わり立ち代わりまとわりついて、自分たちの好きなように相手をしてもらおうとするから大変です。2倍、3倍と大変になるのではなく、2乗、3乗と大変になる感じです。まさに一瞬の隙もなく、自分のことなど何もさせてもらえません。世のお母さんたちの自分の時間がほしいという気持ちが分かります。初日や2日目ぐらいまではそれでも良かったのですが、大晦日に楽しみにしていた格闘技の番組をライブでなかなか観させてもらえず、そのときばかりは、ああ帰ってくるんじゃなかったと本気で思いました(笑)。町田でひとりゆっくりと過ごしたかったと…。
最終日に、僕だけ先に帰るため、父親が最寄りの駅まで車で送ってくれました。その際、「短い間だったけど、敬之が戻ってきてくれて助かったよ。敬之がいると、子どもたちはそっちに引きつけられるから、周りは楽をすることができました。ありがとう」と言ってもらいました。父の言葉を聞き、なるほど、私がまとわりつかれて大変だと思っていた時間は、実は父や母、そして妹にとっては束の間の休息だったのだと知りました。その逆も然りで、私が楽をしているときは、誰かが大変なことを引き受けてくれているのだとも思いました。もちろん、子どもたちと遊ぶことは楽しいですし、幸せな時間ではありますが、大人には自分の時間も必要ですからね。
どのような仕事であれ、些細なことであれ、自分が大変な思いをして引き受けることで、周りの人たちを楽にしていると考えてみても良いのではないでしょうか。傍(はた)を楽(らく)にすることが働くだとも言えます。自分だけが大変だと悲観するよりも、よっぽど建設的ですし、健康的です。大変な状況にいると、私たちはついなぜか自分だけがと視野が狭くなりがちですが、あなたが引き受けていることで周りを楽にしているのです。ずっと引き受け続けるのが難しければ、持ち回りで次は自分が楽をすればよいのです。そのとき、あなたのおかげで私が楽をできてありがとう、とひと言かけ合えると私たちの社会や仕事は幸せに回っていくのではないでしょうか。
2022年
12月
24日
土
まずは間違いを認めることから

卒業生さんがチョコを持って教室に来てくれました。およそ7年前に介護職員初任者研修を受講し、2年前に実務者研修まで修了した彼女は、今年いよいよ介護福祉士の試験に挑戦するとのことで、勉強のやり方を教えてもらいたいと来てくださったのです。実は彼女の息子さんたち2人もケアカレで介護を学んでくれました。今は別の仕事をしたり、学校に通ったりしているようですが、私も彼らのことは知っていて、いわば家族ぐるみのお付き合いということです。介護福祉士筆記試験の勉強法といっても、テキストと問題集を使ってまんべんなく勉強し、間違った問題は何度も繰り返し、それが終わったら過去問を解いてみる。ごくごく一般的な試験に対する勉強法をお伝えしました。
ちょうどお昼どきに来てくださったので、ランチにお誘いしました。「辛いものは好きです」とおっしゃるので、ケアカレの近くにある、社食ともなっているネパール料理屋に安心してお連れしました。ネパールの家庭料理であるダルバートを食べながら、息子さんたちの話や今の介護のお仕事など、いろいろな話題について話ました。その中でも中国についての話は私にとって面白かったので、ここで共有させてもらいたいと思います。
彼女は栄養士の仕事をしていて、中国に進出している日系企業における栄養指導をオンラインで行っています。健康診断の時期になると、さまざまな検査にもとづいてレポートを書いたり、運動指導などを含めた栄養指導をするそうです。忙しい時期とそうではない時期の差が激しく、忙しい時期は大変ですが、今の介護の仕事をやりながら上手く両立できているとのこと。なぜ中国かというと、彼女は以前、中国で暮らしていたことがあり、中国語を話すことができますし、向こうの日系企業とのコネクションがあるからです。中国市場に向けてサプリメントを販売する事業をしていたこともあり(現在は海外からの販売は禁止されているそうです)、中国に明るい、つまり中国や中国人について良く知っています。
日本と中国で仕事をする上で大きく違うのは、日本は最初からきちんとした形で始めようとするのに対し、中国はまずはやってみて、ダメなところがあれば修正していくというスタイルだそうです。彼女が栄養指導の仕事を引き受けるにあたって、いろいろと考えた上で「このような形でどうでしょうか?」と提案したところ、「いいんじゃない。まずはやってみましょう」と返ってきて拍子抜けしたそうです。やってみないと分からないことも多いので、彼女はそれを聞いて肩の荷が下りたとおっしゃっていました。
私はふと、中国の人って、絶対に自分の誤りを認めないんじゃなかったっけ?と疑問に思いました。中国の人は非を認めたら自分の責任になるから絶対に謝らないと、どこかで聞いたことがあるからです。自分の間違いや誤りを認められないとすれば、まずはやってみて、ダメなところがあれば改善していくというスタイルは難しいはずです。彼女に聞いてみると、中国の人は人前で非難されたり、間違いを指摘されたりすることは嫌がるけれど、個人的に話すと分かってくれるし、むしろ間違いや誤りを知っているのになぜ教えてくれないのかと言うそうです。あなたの思っていることを正直に伝えてもらいたい、という気持ちが強いそうです。日本人のように、相手の間違いや誤りを指摘すると相手が嫌な気持ちになったり、相手がそれを認めずに反発したりしてくる摩擦を恐れて、何も言わずにそのままにしてしまうことは良くないと考えているそうです。日本人が一度始めたことを、それが間違っていたとしても、元に戻したり修正したりすることが難しいのは、間違いや誤りを認められない国民性が問題なのかもしれません。私たちこそが、謝ったら死ぬ病にかかっているのですね。
私たちの社会の風通しが良くなり、健全にスムーズに運営されていくには、まずは自分の誤りや間違いを認めるところから始めなければならないのです。そのためには、何が正しくてそうではないのかを認識し、余計なプライドはひとまず横に置いておいて、「すいません」、「ごめんなさい」と言える習慣をつけることです。「ありがとう」と言えることも大切ですが、素直に謝ることができる、つまり、間違っても良いんだよという教育が大事なのではないでしょうか。正解を出せないと頭が悪いと思われるという気持ちにさせる教育のせいで、子どもたちが大人になったとき、謝ったら死ぬ病にかかっているのではないかとさえ思うのです。最初から完璧なんてありえないですし、人間の認識は半分ぐらい間違っています。やってみて間違っていたことがあればまずはそれを認めて、皆で意見を出し合って、少しずつ修正して正しい方向に向かっていけばよいのです。それは介護の現場だけではなく、どの仕事や日常生活においても同じですね。
2022年
12月
14日
水
素晴らしい映画を観たような

11月短期クラスが無事に修了しました。今年最後の介護職員初任者研修になります。女性よりも男性の方が少し多いぐらいのクラスでしたが、男性陣も女性陣も仲が良く、賑やかで楽しいクラスでした。授業にもかなり意欲的に参加してくださって、少数ながらも熱気にあふれた雰囲気でした。特に総合演習(実技テスト)が終わったあと、「これから働く施設の人たちにも紹介します!」、「こういう想いを持った人が施設に増えると良い介護ができそうですね!」「実務者研修も受けたいです!」など、全員が前向きな気持ちをストレートに言葉にして教室を後にしていました。このほくほくの高揚感や満足感をどう表現すれば良いのだろうと考えてみると、良い映画を観たあとのあの感じ。「トップガン マーヴェリック」を観たあとの、「トップガン」も見直してみたいし、次回作が出たらぜひ観たいと思うあの感じです(笑)。
なぜ介護の研修でここまでの満足感や高揚感を生み出せるのでしょうか。理由はひとつではなく、数えきれないほど多くあります。生徒さん同士の仲の良さや、学校や先生と生徒さんたちの距離感、初回から先生方が一貫して同じメッセージを伝え続けてくれて、笑いあり涙あり、優しさあり厳しさありのアップダウンを経て、心をひとつにして実技のテストに向かい、たくさんの練習をしてペアとの信頼関係を築き、テストに臨んで上手くできて、先生や周りの生徒さんたちから褒められ、認められる。これが自信にならないわけがありません。いつもの日常では決して味わえないような素晴らしい体験です。時が経つにつれて薄れていくとは思いますが、おそらく一生忘れることのできない研修になると思います。
また、小野寺先生が「ケアカレの生徒さんたちは、他のクラスから振り替えで来た人を暖かく迎え入れる空気があって良いですね」とおっしゃっていました。たしかにそう言われてみると、振り替えをした生徒さんから、「私は振り替えでしたが、皆が暖かく迎え入れてくれて安心しました」という声を聞くことは多いですね。他のクラスにひとり振り替えることの不安の裏返しだと思いますが、ケアカレの生徒さんたちは変に仲間内で固まるのではなく、授業の中でのグループワークや実技演習を通していつのまにかコミュニケーションを取るうちに仲良くなり、全体としてオープンでフラットな関係性が築けていますのでご安心ください。
こうして考えてみると、湘南ケアカレッジの研修を受けたあとの満足感や高揚感を良い映画を観たあとの感じと表現しましたが、もしかするとそれ以上かもしれませんね。どれだけ良い映画とは言っても、あくまでも観覧者でしかなく、自己投影はしても結局、自分はその作品に参加しているわけではありません。そこが自分たちがいち登場人物として参加することのできる、ケアカレの研修と大きく違うところです。自分たちが身を投じて得た経験や関係性は、必ずや今後のあなたの人生に生きてくるはずです。1本の映画が生きる支えになるように、介護職員初任者研修や実務者研修がそうなることもあるのではないでしょうか。
2022年
12月
01日
木
介護タクシーの始め方(開業する前に知っておくべきこと)

介護職員初任者研修を受講中の生徒さん、または卒業生さんから、「介護タクシーを始めたい」と相談を受けることが多くあります。ここ10年ほどで増えてきた新しい業種ですし、知り合いで介護タクシーをしている人も少なく、なかなか情報が得にくいようです。そこで、介護タクシーを運転している湘南ケアカレッジ卒業生の堀之北さんにお願いして、これから介護タクシーを始めようと考えている卒業生の吉田さんを交え、介護タクシーのいろはを教えてもらいました。
続きは→【介護仕事百景】へ
2022年
11月
28日
月
仕事って何?

卒業生さんが事務所に顔を見せに来てくれました。デイサービスで介護の仕事を始めてまだ数か月ですが、1月のカレンダーづくりを任されたということで、原案のようなものを見せてもらいました。そこには七福神の宝船のイラストがあり、回文が添えられていました。
「長き夜の 遠の眠りの 皆目醒め 波乗り船の 音の良きかな」
(なかきよの とおのねふりの みなめさめ なみのりふねの おとのよきかな)
回文とは上から読んでも下から読んでも同じ読みになる文章のことです。宝船が描かれた絵の横に、この「長き夜の~」の文章が記されたものを枕の下に置いて寝ると、良い初夢が見られるとされてきたそうです。声に出して読んでみると、心地よいリズムがあって、始まりと終わりという概念が消えて、永遠にループしそうな不思議な感覚です。そして、新しい仕事に取り組んでいる卒業生を見て、嬉しく思いました。
仕事って何でしょうか?学生時代を終えて、就職活動をしているとき、または実際に仕事をし始めたとき、私の頭の中でこの問いがずっと巡っていました。これまでは言われたことを言われたとおりにこなしたり、新しい何かを学ぶことで生きてこられたのに、いわゆる社会というものに放り出された途端に、お金を稼ぐために仕事をしなければならなくなります。自分という人間は何も変わっていないのに、急に食べていくためにという名目のもと、仕事をしてお金を得なければならなくなるのが不思議に思えました。その当時は、仕事って何というよりも、なぜ仕事をしなければならないのかと問うていた気がします。もちろん、答えなんて見つかりませんでした。
それでも、十年、二十年と仕事を続けていると、それは永遠のループのように感じられてきます。朝起きて、仕事をして、寝て、朝起きて、仕事をして、寝る。たとえ新しいことに挑戦していても、基本的なループは変わりません。しかも仕事をする時間として、人によって異なりますが、1日24時間のうちの8時間から12時間ぐらいが費やされることになります。1日の3分1から半分の時間を仕事しているということは、つまり人生のそれぐらいの時間を仕事していると考えても良いでしょう。それは貴重な時間です。
だからこそ、好きなことを仕事にして生きていくというキャッチフレーズが流行ったこともありましたし、誰もが嫌なことに人生の大半の時間を使いたくないはずです。好きで楽しい仕事が良いのは当たり前です。ただ、どうしても仕事に好きや楽しさだけを求めてしまうと、行き詰ってしまうことが多いはずです。私は昔、ビリヤードが好きでビリヤード場でバイトをしたことがありますが、あれほど苦痛な仕事はありませんでした。目の前にビリヤード台があるのに、プレイすることはできず、接客やお会計、台の掃除がメインの仕事でした。ビリヤードが好きなことと、ビリヤード場で働くことは全く違ったのです。どれだけ好きな仕事に就けたとしても、楽しい時間は一瞬であり、地味な仕事を積み重ねる時間の方が多いはずです。好きや楽しいは一瞬の感情でしかないのです。
仕事とは、自分にとって意義や意味のあることをすることだと私は思います。これをすることで誰かが喜んでくれる、幸せにすることができる、社会を良くすることができると思えることが一番大事なのではないでしょうか。綺麗ごとではなく、自分の仕事に意義や意味を感じられなければ、延々とループする仕事をずっと続けることは少なくとも私にはできません。先日、全身性障害者ガイドヘルパー養成研修が終わり、1日中外を歩き回って疲れたであろう生徒さんたちが皆笑顔で帰って行ったとき、良い仕事を10年続けられて、私は幸せだなあという感慨が湧いてきたものです。
2022年
11月
17日
木
内も外もない

先日、祖母の3回忌を行うために、田舎の岡山県に帰省しました。一泊二日で戻らざるを得なかったのですが、夜は両親と中華料理を食べながら、久しぶりにゆっくりと話すことができました。思い返してみると、毎年、お盆休みとお正月には家族で帰っていたのですが、コロナ騒動が始まって以来、向こうの世間体などに気を遣ってしまい、一度も帰省していなかったことに気づきました。私たちも含め、孫の顔を見せに実家に帰るという習慣や文化が失われてしまった家族が日本中に多くあるのではないでしょうか。それだけを取っても、今回の騒動は罪が深いと思いますし、まだ手遅れではないので元に戻していきたいと思いました。
両親と語り合う中で、介護施設の話になりました。両親は幸いにも今のところ自立して暮らしていますが、私の母の叔母の夫(ややこしくてすいません)が病気に倒れ、介護が必要になり、相談を受けた私の両親が施設を探して歩いているのです。私の母の叔母の夫は今、介護老人保健施設にいて、そろそろ出て行ってもらいたいと言われているのですが、本人は全く自力で身体を動かすことができません。自立して生活をしたいという想いは強く、リハビリも頑張りたいと思っているのですが、現状として自宅復帰は難しい。特別養護老人ホームを見つけるか、それとも有料老人ホームに入るかという選択肢しかありません。月々にかかる費用もピンキリ。リハビリができる施設はなく、入りたくても入られない入居待ちの施設を希望していることもあり、しばらくは今の老健にいさせてもらうしかないようです。
一番の問題は、いったん施設に入ってしまうと、おそらくもう二度と自宅には戻ってこられないでしょうし、面会もほとんどできないため、会うことさえ叶わなくなってしまうことです。老々介護となるのを分かっていて自宅に戻るか、もしくは今生の別れとなるのか。過疎化しつつある地方に住んでいる高齢者は、究極の二択を迫られているのです。かつてのように、介護施設が外の世界へと開かれていれば、たとえ施設に入ってしまっても、家族ともいつでも会うことができました。好きなときに好きなだけ話をすることができました。ところが、下手をするといまだに家族(外部者)の面会禁止を続けている施設もあり、良くて週に1回とか、1回の面会は15分までとかいう謎ルールを設けている施設がほとんどです。
家族が面会に来なくなり、外部の人たちとの交流がなくなったことで、利用者の状態が分かりやすいぐらいに落ちてしまっていることにスタッフは気づいているはずです。家族との会話や外の世界からの刺激が、どれだけ利用者の支えとなり、生きる動機となっていたか、改めて気づかされたのではないでしょうか。スタッフが話し相手になって差し上げることも解決策のひとつですが、やはり家族や近しい人たちとの交流に優るものはありません。
なぜ私たちは、このようなことになってしまったのでしょうか。職員たちは毎日、外から施設内に通勤し、また外の世界に戻ってを繰り返しているのに、家族は外から入ってはならない理由はありますか。職員は何かから守られていて、家族は穢れているということでしょうか。職員がいないと介護ができないので仕方ないとか、できるだけ外部者を入れないことで感染確率を下げるとか言うかもしれませんが、本当にそうでしょうか?ウイルスは外から持ち込まれているのでしょうか?周りに陽性者が誰もおらず、利用者から(だけが)発症した孤発例など世界中に山ほどありますよ。
もう誰が持ちこんだとか、誰からうつされたとか、そういう幼稚な発想はやめませんか?そもそも私たちの身体の中には3兆個を超えるウイルスがすでに存在しています。他の動物だって同じ。もうすでに自分の身体の中にあらゆるウイルスは存在していて、それが周りの環境が変わることで(寒くなったり、湿度が低くなったり、栄養状態が悪くなったりなど)、免疫バランスが崩れ、平衡状態を保っていたウイルスの中で特定のものだけが増殖し、それに身体の免疫系が反応して発熱したりするだけです。
人から人にウイルスが直接、たとえば飛沫や接触などによって乗り移って発症するなんてことはほとんどなく(ここまでは世界の常識になっています)、普段の生活の中で空気中から取り込んで、もともと自分の中にあるものが表に出てきているのです。家族間や仲間は同じ環境で生活しているため、あたかも近しい人たちの間で症状が伝染しているように見えるだけで、実は外的要因によってそれぞれが自ら発症しているだけの話です。今夏は寝ているときにクーラーの入れすぎで身体が冷えて、同じ寝室に寝ている家族全員が発症したケースも多く見られましたね。
目に見えないだけで、空気中や私たちの周りのあらゆるところにウイルスは存在しています。つまり、ウイルスにとっては、人間の体の中も外もないのです。宿主という生命体の中の方が生存しやすく、増殖もしやすいという性質はありますが、内と外の境界線はないということです。人間が勝手に内と外の境界線を引いているだけにすぎません。いわゆるカンセンショウタイサクのような、外のモノを内に入れないという考え方自体が人間の愚かさを示しているのではないでしょうか。家族との面会を制限することでウイルスを外から持ち込ませないなんて、まさに愚の骨頂です。厳しいことを書きましたが、今私たちが当たり前のように行っているカンセンショウタイサクがいかに人権侵害であり、差別的であり、どれだけの人々のQOLを奪ってしまっているのか、100年後の介護の教科書では語られていることを心から願います。